第四話 セミテリオのこども達 その十三 最終回
(大男君、え〜と大樹君が二階に上がられて、彩香ちゃん、お婆様、お母様と入浴なされて。そうそう、お母様がね、お風呂に入られる前に、冷蔵庫より小さ目の、前に大きな丸い硝子の扉のついた中に脱いだお服を入れられて、また釦あちこち押されて、そうしたらお水が中に入って来て、ユリ、そこまでしか見られなかったんですけれど、どうして前面に扉があってもそこからお水が漏れないのか不思議でした。お皿を洗うのが食器洗い機と言うそうですから、あれは、衣類洗い機なのかしら。お母様がお風呂から出られた時も、まだ中でお水とお服がぐるぐる回っていました。お母様と一緒に、わたくしも就寝いたしました。お父様はテレビジョンで野球をご覧になってました。翌朝、お母様がご起床なさった時には、お父様はもう市場に出られた後で、お母様はお弁当を二つ作られて、朝ご飯を作られて、あっ、パンじゃなくてご飯でした。鯵の干物とお大根のお味噌汁と卵焼きと、冷蔵庫から色々な器に入ったいろいろな佃煮やお総菜を食卓に並べてらっしゃいました。あら、彦さま、また涎たらしそうなお顔)
(だんなさ〜)
(いや、なに、そのご家庭の朝の膳は贅沢だのっ。一汁一菜どころではなさそうだのっ、相伴したいものだのっ)
(だんなさ〜)
(それで、お食事の後、お箸とコップも忘れないでね、行ってらっしゃいの声に送られて、大男君が勝手口から、彩香ちゃんがお店の方から出て行かれて、上でお経を読んでらしたお婆様がゆきちゃんと降りてらして、丁度お父様が市場から帰られて、お母様がゆきちゃんに缶詰を開けてあげて、それから大人三人で食卓を囲んで、一服なさったお父様がお店でお花を籠や筒に移されて、お母様は例の食器洗い機に洗うものを入れて、あちこち釦押されて、その辺りをさっと片付けて、神棚にお参りしてお店に出て行きました。お店の中は色々なお花の甘い香りでむせかえるようでした。でも、お花に囲まれるって幸せですよね。お母様は、ちょっと元気のなくなったお花を別の筒に移されたり、セミテリオ用の菊のお花がたくさん入った花束やしきみの束をいくつも作られたり、お父様は値段が書いてある紙を貼られたり)
(あのぉ、彦様、マサさま、ご存知でしたら教えて頂きたいのですが、しきみって何でしょう)
(ほら、墓に持ってくる花束じゃなくて緑の葉っぱばかりのがあるのっ、カテリーヌさん、あれのことだのっ)
(どうしてお花じゃなくて、葉っぱなのでしょうか)
(わたくし、だんなさ〜がこちらに参ってから最初の頃毎回、お花よりもしきみをたくさん持ってきましたわ。あの葉っぱには毒があるそうです)
(まぁ、ご主人様のお墓に毒の葉っぱをお供えなさってらしたのですか)
(いえね、主人は土葬でしたでしょ。あの葉っぱをお墓の上に置いておくと、虫や動物がつかないらしいのです)
(まぁ、防虫剤なのですね)
(土中で遺体が虫に喰われるのは、当然といえば当然であることながら、生きている身には親しい者の遺体が喰われて行くのを想像するのはとても辛いだろうからのっ)
(でも、火葬も怖かったです。生きている時ですけどね。だって、もし死んでいなくて、生きたまま火葬されたら、とってもとっても怖いですわ)
(然様。墓を掘ってみたら、棺桶に爪で引っ掻いた傷がいくつもあった、などという話しは我輩も屢々耳にいたしましたな。古今東西、死んだと思っていてもまた息を吹き返すということもあったのですな)
(僕は肺病でしたから、ゆっくり、生きている内からゆっくり死んで行った様なものでしたから、あまり生きたまま焼かれるという恐怖はなかったですけどね)
(わたくしも老衰でしたし、ゆっくり死んで行ったわけですわね、ひからびていてさぞ燃えやすいだろうにと思っておりました)
(それで、お母様はお花の籠を見栄えよく並べたりしてらして、その時、無視してあげるわねって気が送られて来たのでユリ気付いたんですけれど、ふわふわのゆきちゃんがおリボンの棚の上の方にお人形さんみたいにすまして座ってました。お母様は例の計算機の後ろのお椅子に座られて、新聞を折り畳んで読んでらっしゃいました。ユリは、今日こそセミテリオに帰れるかしらと思いながら、お外を眺めてました。セミテリオの方に向かうのは幼稚園に行くお子様とお母様、たまにお父様ばかりで、あっ、隼人君は見つけられませんでしたけれど、何人か、幼稚園でお見かけしたお子たちはユリの前を通っていきました。ほとんどの方が、セミテリオとは逆方向に歩いて行かれるので、あちらが都心なのかしら。あちらに乗り合いバスの停留所か電車の駅があるのかしら。でも、こちらからいらしても、セミテリオにいらっしゃるとは限らない。しきみの束、あの桶にいくつ入っているのかしら、普通二束ずつお供えよね。お花も あら、でも、御仏壇用に買われる方もいらっしゃるでしょうし、 両方合わせて二で割って、その三分の一ぐらいはセミテリオにいらっしゃる方が買われるのかしら。何人ぐらいがここで買われてセミテリオに向かうのかしら。花束をお渡しする時や代金、おつりの受け渡しの時に乗り移らなきゃ。ぼんやりしていられないわ。でも、御仏壇にお供えする方と、セミテリオにいらっしゃる方とどうやって見分けたらいいのかしら。下手に乗り移って、どこか他所の、と言ってもこのご近所の方だと思うけれど、また別のお宅に参ったら、折角お花屋さんに来られたのに、うわぁ、難しい。人通りが増えてきて、お母様はお店の入り口にいらっしゃって、マスターお早うございます。後ほど、カフェ用のをお届けいたします。今日は何色系がよろしいかしら。華やかなのですね。はい承知いたしました。あら、今日はごゆっくりですわね。おはようございます、行ってらっしゃいませ。どちらまで、ちょっとそこまで、お帰りにお寄りくださいませ。近くのお店やご近所の顔なじみさん達と言葉を交わされ、まだどなたもお花を買いにはいらっしゃらなくて、その時お爺様がいらっしゃって、菊ばかりの花束、黄色いのと白いのと紫色のを束ねたのを二つ買われて、この方はどうも御仏壇用みたい、と乗り移るのをやめて、しばらくしたら今度はお婆様、うわぁ、どちらかしら、ためらっている内に乗り移れなくて、セミテリオの方角に去ってらして、あら、乗り移ればよかったかしら、でもあちらにいらっしゃってもご自宅があちらかもしれないし、うわぁ、ほんと難しい。お花屋さんだからって彩香ちゃんに乗り移って、お店にいらっしゃるだろうお母様に乗り移って、そこまではユリも我ながらいい考えだと思っておりましたのに、いざとなると、見極めがつかなくて、決心できなくて、ぐずぐず、うじうじ、疲れておりました。後ろからゆきちゃんが、ほらね、うふふ無理無理って気を送ってくるんです。もう、嫌な猫だわ、無視してくれるんじゃなかったの、意地悪っとユリは気を送ったんですが、それは無視されました。今度は真っ黒い犬を散歩させている母娘が通りかかり、お店の前で止まりました。犬のお散歩だから、ご近所の方に決まってるわ。この方も無理ね。あ〜あ、ため息ついた時でした。ユリさんじゃございませんこと、こちら、ユリさんのご子孫さまのお店なのかしら。いえ、あのぉ、ゆきちゃんの意地悪そうな気を感じながら、ユリ口ごもりました。あのぉ、どなたでしょうか。あら、ごめんあそばせ。ユリさん、マサさまのお友達でございましょ。わたくし、最近と申しましても三年程前にこちらの世界に参りましたのよ。夢でございます。初めまして。いえ、本当は初対面ではないのですけれど、わたくし留守がちにしておりますので、ご記憶にないのも無理ございませんわ。あっ、夢さま、マサさまのお友達の夢さま。その時、夢さまはとっても素敵な笑顔を浮かべられて、こちらにいらっしゃいな。でも、犬のお散歩みたいなので、ユリはセミテリオに戻りたいんです。大丈夫ですよ、これ、わたくしの娘の愛と孫娘の望ですわ。今からわたくしのお墓に参りますの。お乗りになってとにっこり微笑まれて。でも、犬のお散歩では。いえ、ほら、ユリさんもご存知でしょ。セミテリオは犬が入っても構わないでしょ。それで愛も望もいつもお墓参りにはマックを連れて来るんです。川口から電車で。まぁ、犬が電車に乗れるのですか。ええ、特別な切符がありますよ。この子達に乗るのには特別な切符など不要ですわ。ちゃんとセミテリオ行きですから、どうぞご遠慮なさらずに。あのぉ、本当に構わないんですか、じゃぁお邪魔します。ユリは乗せて頂きました。あら、またお供え用のじゃないお花を買ってる。愛がね、わたくしは菊が好きでないからと、いつも菊以外のを買うんですよ。たしかに棺には菊は入れないで、好きじゃないから、と伝えてあったのに、葬儀屋さんに伝えるのが遅過ぎて、棺は菊だらけでしたの。その罪滅ぼしみたいにお墓には菊は持って行かないんですよ。ゆきちゃんがふんと鼻をならしていました。ユリはあっかんべぇをしたかったんですが、初対面みたいな夢さまの前で気兼ねしてしまいました。夢さまありがとうございます。本当にありがとうございます。ユリ、セミテリオに帰りたくて帰りたくて、どうしたら良いか困っておりました。もう二晩も一人ぼっちだったんです。あら、わたくしなどひと月あまり愛の家におりましたのよ。でもお嬢様のお家でしょ。わたくし、全く見ず知らずの方々のお家でしたの、と四日前からの経緯をかいつまんでお伝えいたしました。愛ちゃん、なんかお婆ちゃん以外の人が乗っていない。かもね、ねぇ、母親に向かって愛ちゃんって言うの、せめて外ではやめなさいよ。夢さま、お嬢様やお孫様、もしかして。えぇ、感じるみたいですよ。ですからお構いなく。わたくしが乗ってるのも二人とも知ってます。あっ、マックも知ってますわ。あぁ、皆様、夢さまのお嬢様の愛さまのお宅のマックは、先ほどご覧になったあの黒い犬ですけれど、あれは、ロバートさまがおっしゃる、どこでしたっけ、え〜と)
(愛蘭語の息子のことですな)
(はい、いえ、その愛蘭語ではなくて、真っ黒だからマックだそうです、夢さまがこちらの世にいらっしゃる少し前までは夢さまが毎日抱いてらした犬だそうです)
(たしかに真っ黒でしたのっ。何処に目があるや、何処に鼻があるや、分かりませんでしたのっ)
(日本の犬のようではなかったですわね)
(なんとかテリアっておっしゃってました。その内、夢さまが教えてくださると思いますわ)
(スコッチテリアでなかろうか。そういう名前の酒がありましたな。蘇格蘭で作る酒の瓶の絵が、たしか先ほどの黒い犬と、もう一匹似た様な白い犬の二匹の絵が書いてあるウヰスキーでしたな)
(犬から酒をつくるんですか)
(ユリさん、怖いことをおっしゃいます)
(薩摩や支那や朝鮮では犬を喰うのっ、犬の酒があってもおかしくはないのっ)
(だんなさ〜、食べるのは赤狗ですから。黒や白や小さいのは頂きません)
(いえ、中身じゃなくて、商標ですな)
(犬の絵が描いてある酒瓶ですか)
(日本にも大礼服の絵の仁丹が)
(あれは、人の胆を使ってるとか)
(虎ちゃん、気持ち悪いです)
(そうかなぁ、動物の肝は漢方薬になってるよ)
(征露丸を買うと露西亜をやっつける大砲の弾作りに寄付すると思っておりました)
(マサさま、それは嘘です)
(ユリさん、我輩が申したいのは、つまり、絵と中身は関係ないということでして、まぁ、我が国でも、女性服を売るのに女性がその服を着た絵を配布したところ、女性が買えるものだと思い込んで、男性からの注文が殺到したという嘘のような実話がござるが)
(それじゃぁ、どうしてお酒の瓶に犬の絵を描いたのでしょう)
(さぁ、たぶん、製造者が犬が好きだったとか)
(犬が好きな人が買うからってのもあるんじゃないかな)
(どうする、正門から入る。うううん、こっちからの方が近いわ、そうおっしゃって愛さまと望さんとマック君が左に曲がられてすぐのところに、かふぇじゃるだんわふみゃうとひらがなで書いてあり猫と犬と豚の絵が描いてある硝子の扉がありました)
(まぁわたくしの言葉ですわ。珈琲、庭、わんにゃんとでも訳しましょうか)
(同じことを愛さまもおっしゃってました。望さんが、愛ちゃん、入ろうよ、きっと可愛い犬や猫や、もしかしたらみに豚にも会えるかもしれないじゃない、マックにお友達ができるかもよ。みに豚ってなんでしょう、豚の品種かしら。愛さまが、帰りにマックが嫌がらなかったらね。犬が嫌がるってどうしてかしらとユリが思ってましたら、マックさぁ、いつかは死ぬんだから、それにマックはここじゃなくて、私の部屋に置いといてあげるから、ここじゃ遠いもの、きっと高いし、と望さんがおっしゃって、愛さまは、きっとあちらの世界の犬や猫の霊がたくさんいて、マックは困るんじゃないかなぁ。あなただって、おばあちゃん以外の霊気をたくさん感じたら、嫌というか困る、重いんでしょ。うん、そうかぁ。マックもあちらの世界の霊気の犬さんや猫さんと遊べればいいのにね。あなたねぇ、自分ができないことを犬に要求するわけ。あなたの側に来たり乗ってくる霊気さん達とあなた遊べないでしょ。でも、今日こそ入ってみたい。ぺっとかふぇだからってんじゃなくて、霊園の方、見てみたいじゃない。きっと可愛い犬や猫の写真もたくさんあってお花も飾ってあって素敵なんじゃないかなぁ。マック、入ろうよ。夢さまも入ったことないそうですが、どうもそこは動物を連れて入れる珈琲店で、奥の方には動物の霊園があるらしいと、夢さまが説明してくださいました。ほら、私達のここの霊園には動物は埋葬できないでしょ)
(然様ではないのですのっ。ユリさんご存知なかったのかのっ。この霊園にはちゃんと軍馬や軍犬の墓があるのだのっ。お国の為にご奉公した馬と犬には明治の世から墓がある。私より先にこの霊園に入った馬や犬もいたのだのっ)
(まぁ、わたくし存知ませんでしたわ)
(僕思うんだけれど、またやっかみって言われそうだけれどさ、馬や犬に、お国の為なんて意識、あったんだろうか)
(大事な馬や家族同然の犬を育て、戦の為に訓練し、先陣切って敵に殺されあっぱれ戦死した犬や馬の墓をつくる主人の気持ちは、馬や犬にも伝わったと思うがのっ)
(愛さまと望さんがお話ししていました。この喫茶店とペット霊園ね、お母さんが小さい時にはなかったのよ。この辺一帯、お茶屋さんだった。お茶屋さんって何、喫茶店もお茶屋さんでしょ。え〜と、お茶を売る所じゃなくって、お母さんもよく知らないんだけれど、お婆ちゃん、あっ、あなたのお婆ちゃんじゃなくて、私のお婆ちゃんが生きてた頃にはね、つまりお母さんが大学の頃にはね、まだこの辺りお茶屋さん、茶店、ちゃみせよ、さてんじゃなくて、がいっぱいあって、それぞれ霊園のお墓の所有者から委託されて、ってのかなぁ、面倒見ていたのよ。何々家って書いた桶、墓石を洗う水を入れる桶ね、それからお花とかお線香とか用意していて、納骨の前にそこで桶やお花やお線香を買ったりして、納骨の後には列席者がお茶屋さんでお清めのお食事をしたり、一見さんもふらっと立ち寄って霊園の行き帰りに一休みする所ってのかなぁ。へぇ、それじゃれすとらんみたいなの。でもそこでは料理は作っていないみたいで、仕出しをたのんで、お茶屋さんはお茶とお菓子を出すくらいかなぁ。だからこの辺りには仕出し屋さんも数件あったはず)
(そうでしたわ。今は、茶屋がそんなに減ってしまったのでしょうか。だんなさ〜が亡くなった日にはすぐに茶屋に連絡を、と思いましたのに、何しろ日が日)
(マサ、すまんのっ、然し乍ら、私とて、死ぬ日を選べはせなんだ)
(あぁあっ、墓石に書いてありますね)
(おっ、我輩にも見えますな)
(あらぁ、ほんと、日本では大層大事な日ですわね)
(うわっ、これじゃ、大変でしたね)
(めでたい日というかめでたくない日というか、あはは、いや、笑っちゃいけない、おじいちゃんごめんなさい)
(人騒がせでございましょ。ほんと、大変でしたのよ)
(日本中がお祝いしている時に、葬儀の手配をしなければならない。作ったおせち料理を食べていいものか迷いますし、家は神道でしたが、神主さんもお忙しい日でございましょ。三が日はどうしようもなく)
(寒いとはいえ、三日になりますと、もうお線香もうもうにいたしまして臭い消し)
(弔問にいらっしゃる方々も、複雑なお顔で、あちらこちらお訪ねなさっておめでとうございますの口癖が抜けぬご様子で、そりゃ、どちらも羽織袴紋付で構わないのですから一石二鳥なのかもしれませんが)
(何が辛いと申しまして、まぁ、亡くなった時はそれなりに多忙で気も紛れますでしょ。それから毎年お正月が命日というのは、お節料理を作るのは気が引けますし、でも新年のご挨拶にいらっしゃる方々に振る舞いできませんのもね、で、神棚にはお花、お正月のお花なのかだんなさ〜へのお供えのお花なのか、なんともね)
(すまん。しかしながら、先ほども申したがのっ、自分で死ぬ日は選べぬものでのっ。私にしてみれば、マサがお節料理を準備している時にせめてつまみぐいしておれば、とこちらの世に参ってからも後悔しきりだったのっ)
(あら、また、すみません。わたくし達の話をしてしまいました。たしかに、昔は、セミテリオの周囲にはお茶屋さんがたくさん並んでおりました)
(愛さまが、たしか、ほら、裏通り、商店街の方にすーぱーがあるでしょ。あそこは仕出し屋さんだったと思う。でも、今、いちいちお茶屋さんに寄らなくてもお線香やお花は簡単に買えるし、喫茶店だってれすとらんだってどこにでもあるでしょ。水だって霊園の中に水道あるし、家みたいにマックのお水兼用でぺっとぼとるに家から入れていけるし)
(ぼとるは、英語の瓶のことだと我輩思うのだが、ぺっと、すなはち愛玩動物に飲ませる水を運ぶ容器をぺっとぼとると、今の世ではよぶのですかな)
(愛玩動物専用水筒といったところかのっ。それにしても動物が大切にされている時代なのですのっ)
(お墓の場所がわからなきゃ管理棟で訊けばいいし。お墓参りも減っただろうし。だからお茶屋さんは減っちゃったのね、きっと。それで皆商売替えたり、売ったり。お墓参り、減ったのかなぁ。減るでしょ。後継ぎ生まれないとお墓も継いでもらえないし。管理料払えなきゃお墓そのものが無くなっちゃうらしいし。これ聞いて、ユリ、ぞっとしました)
(お墓が無くなるのですか)
(らしいですわね。でもどうして。永代供養料って、ずっと未来永劫供養していただける、ってことじゃないのでしょうか)
(言葉の綾なのだろうのっ。墓石が欠けてもろくなってとか木の墓標だと腐るだろうし、確かに古い墓は消えて行くのっ)
(どこに消えていくのかなぁ。時々、そういえば掘ったり、墓石がどかされている)
(でも、無くなるんですか。だんなさ〜が生存中にここを買われた折、お安くはありませんでしたでしょ。永代供養ということでしたから、ずっとずうぅっと、と思っておりましたのに)
(神主も僧侶も、ただじゃ供養はしてくれぬ、というわけですのっ。世知辛い世の中と申すか、なるほど、坊主丸儲けというのはこういうことかのっ。常に人は死ぬ。死人を常に永劫供養するから喰いっぱぐれ無用の心配)
(子孫がいればいいわけだよね。後継ぎ、というか墓を継いでくれる人がいればいいわけだ。あっ、戦前の多産の時代、墓を継ぐ子孫がいなくなるなんて誰も思わなかったのかなぁ)
(まだだんなさ〜もわたくしも安泰ですわね。幸いにも長男の長男のと玄孫まで生まれておりますものね)
(だがのっ、直系は、もはや誰一人として江戸、否、東京には住んでおらぬのっ。どんどん郊外、郊外へと。墓は継いでくれても、墓参りには滅多に来やせぬ)
(あら、わたくしどうしましょう。英吉利か仏蘭西から、わたくしの夫や子やその子孫がこのわたくしのお墓の管理料を払ってくださってるのかしら)
(我輩の場合は、亜米利加合衆国がそれ相当の対応をしたと思うが、よって、カテリーヌさんの場合も同様ではなかろうか。貴女の仏蘭西国ないしは夫君の英吉利国が)
(愛さまと望さんのお話が続いていました。ぺっとかふぇ兼ぺっと霊園は、まだお茶屋さん、茶店関連の業種みたいなものでしょ。そこの床屋さんは完全に商売替えだわね、ここもたしかお茶屋さんだったから、とおっしゃった愛さまが指したのは、かふぇなんとかの並びの、お隣なんですけれど、かふぇなんとかが)
(ユリさま、かふぇじゃるだんわふみゃうです)
(先ほどまでは、お話する為に覚えておりましたの。カテリーヌさまがお国の言葉だとおっしゃったので、カテリーヌさまにおまかせすることにして、もうユリ忘れてしまいました。でもね、ユリ、よく先ほどまで覚えていられたって、自分では感心してます。だって、カテリーヌさまと離れてから二晩以上前のことから、ユリずっとお話ししてるんですものね。あら、でも、かふぇなんとか)
(かふぇじゃるだんわふみゃう、ですわ)
(はい、ありがとうございます。その、かふぇじゃるだんわふみゃうの前を通り過ぎたのは今朝、ほんの少し前なんですわね、嫌だわ、ユリったら。あっ、それで、そのかふぇじゃるだんわふみゃうはとっても広く道に面していて、腰から上ぐらいが全部硝子で、中が見えるんですけれど、中には猫がいて、硝子の中からマックの横を歩いて追っていました。黒と灰色の間くらいの短い毛で日本の猫ではなくて、その時望さんが、ほら、マック、中からしゃむ猫が挨拶してるよ、とおっしゃったので、あっ、これが珈琲店のしゃむさんね、しゃむ君かしら、例のゆきちゃんをいじめるしゃむね、と思ったのです。でも、ゆきちゃん意地悪だし。それで、その長く続くかふぇじゃるだんわふみゃうの硝子が途切れたお隣の、これまた硝子戸に、バーバー次郎って書いてあったんです。うわっ、これだわ、彩香ちゃんのお婆さまがお話なさってらした婆婆次郎って。ユリ、その時にはまだバーバーってのが何だか知らなかったんですけれど、バーバー次郎がここだってことはわかったんです。まだその時には婆婆次郎さんが、お婆さまなのかお爺さまなのかわからなかったんです。でも、ここに、ゆきちゃんをシャム猫から守ってくれる次郎さんのお兄さん太郎さんがいらっしゃる、と思った時、望さんが、太郎君、太郎君って声出すんです。うわっ、どうして望さんが太郎さんのお名前をご存知なのかしら、どうして太郎君なんて君呼ばわりするのかしら。ここまで敬語はなくなったのかしら。あっ、そういえばお墓参りにこの道何度か通られてるのね。だからご存知なのね、でも、よその方を君呼ばわりなさるなんて、今時の若い女性はすさまじいのね、ユリはこういうこと考えている時、口に出していたわけじゃないんですけれど、夢さまが吹き出されて、太郎さんって、犬の名前なんですよ。ほら、そこの硝子戸の横に犬小屋があるでしょ。小屋というには大きすぎる家でしたけれど、屋根が青赤白の三色に塗られていました。その犬小屋じゃない犬大家の屋根の下に何か薄茶色のものが動いていました。よくいる柴犬みたいな色を濃くした毛の色で、でも柴犬の犬小屋にしては大きくて、あっ、秋田犬かしらと思ってました。でも女性か男性か分からない次郎さんのお兄様が太郎君ならば、次郎さんも犬なのかしら。夢さまが、ユリの思考を読んでらっしゃって、からころ笑うんです。望、他所の子を構うんじゃないの。マックが焼きもちやくから。マックが犬大家の近くで鼻を鳴らしたら、中からのそっと出て来たんです。犬じゃなくて、お獅子。うわぁ夢さま、犬じゃなくてこれはお獅子です、って申し上げましたら、夢さまがくすくすからころからんころんお笑いになって、むせられて、でも犬なんですよ、よくご覧になってくださいな、都内で獅子など飼えませんわ、動物園でもあるまいし。で、ユリじっと見ていたんですけれど、やっぱりたてがみがありますし、尻尾も先だけ毛がありますし。でも、ばふって吠えたんです。がぉぉおっじゃなくて。目つきも優しいんです。でもお獅子の格好なんです。愛さまが、可愛そうよね、いくら床屋さんだからって、犬をライオンカットするなんて。あぁ、今はユリ分かりますよ。ロバートさまがおっしゃってらしたから、お獅子みたいに切るって意味ですよね。ユリ、そのライオンカット、お獅子格好みましたから。望さんが、たぶん寒いんじゃないかなぁ、剃ってる所が。ちゃうちゃうもこうなっちゃ哀れだわ。ユリが疑問を感じた途端に夢さまが教えてくださいました。ちゃうちゃうってのは犬の種類のことで、中国原産だと。ユリが、支那ですね、と申しますと、支那は今では中国って言うんですよ、とも。お詳しいですのね、と申しますと、望は獣医志望なんですよ。わたくしの生前から動物の話はたくさん聞かされているんです、とおっしゃって、女の子が獣医さんじゃ大変ですわね、象さんやきりんさんや馬さんや牛さんを診るのでしょう。本人は動物園の獣医さんになりたいそうですけれど、近頃は犬猫相手の獣医さんがたくさんいるんですよ、と。それで、太郎さんがお獅子恰好の犬なら、次郎さんも犬なのでしょうか、とユリがお尋ねいたしましたら、またまた夢さまころころ笑われて。ユリね、その時納得したんです。ゆきちゃんが太郎さんを怖がるのは、太郎さんが大きな犬で、しかもお獅子の恰好だからなんだって。先ほど太郎さんのことをお話した時には、ユリが後で分かったことは申し上げませんでした。だって、あそこで太郎さんが犬だってことお話してしまったら、ユリが不思議に思ったことも、皆様には不思議でも面白くもなくなるでしょ、ごめんあそばせ。あっ、それでね、ゆきちゃんを守ってくれるという太郎さんは恰好は恐ろしくても優しそうな犬さんで、マック君とも顔なじみらしくて、ちょんと鼻先で挨拶していました。マック君が、僕知ってるからって、それまで愛さまと望さんの間を歩いていたのに、先頭に立ってそこから五分ぐらい歩いたら、もう霊園でした。やっとセミテリオに戻れて、ユリはほっとしました。ユリのお話、カテリーヌさまとご一緒の一泊とユリ一人だけの二泊、とってもとっても長かったです。おしまい。ご静聴ありがとうございました)
(お疲れさま、ユリさま、本当にごめんなさいね。琴音ちゃんやお子達、また遊びに来てくれるかしら)
(ユリちゃん、ゆっくり休んでね)
(虎ちゃんに優しい言葉をかけられると、後が怖くなります)
(僕は、根は優しいんだよ)
(根はですかな、あはは)
(気疲れは気が薄くなりますから、ごゆるりと気を養ってくださいませ)
(いや、ちょっと待ってくだされ。昨日夕方に猫のユリさんが)
(彦さま、違います。ユリは私、猫はゆきちゃんですっ)
(すまん。それで、そのゆきちゃんが上がって来た時に太郎さん、否、犬の太郎君は花屋に一人で、否、一匹で参ったということかのっ)
(まさか。太郎君がお金を持ってお花を買いに来たというのですか)
(いや、利口な犬ならそういうこともあろうのっ)
(あっ、ユリ、そういう風に考えませんでした。婆婆次郎さんが太郎さんと一緒にいらしたんだと、勝手に思ってました)
(それでも、その男か女かわからない婆婆次郎さんが太郎さんと一緒に来たわけだろうのっ)
(うふふ、わはは、彦さま、お分かりになってらっしゃらない)
(わたくしもわかりませんわ)
(婆婆次郎さんは、それで男だったのだろうかの、それとも女だったのだろうかの、興味津々)
(ロバート様がおっしゃってらしたでしょ。次郎床屋って。つまり、次郎さんは床屋さんなんです)
(犬が床屋さんをしている世の中になったんですかっ。そりゃ♪ちょっきん、ちょっきん、ちょっきんなぁ♪では蟹が床屋さんでしたが)
(マサさまも、まだお分かりになってらっしゃらないっ)
(はい、まだ後を思い出せませんわ)
(いえ、歌ではなくて)
(ですが、太郎さん、否、太郎君が犬なのですから、婆婆次郎さん、床屋の次郎さんも犬ですわね。まさか猫ですか)
(いえ、ですから、次郎さんは人間で、床屋さんで、太郎君は犬で、次郎床屋さんの看板犬なんです。床屋の次郎さんが、ご自分の腕をふるって、犬の太郎君をお獅子恰好に切った、ってことなんです)
(なんでまた。次郎は太郎の次に来るものだろうが)
(左様でございますわ。人間の次郎さんの飼い犬が太郎さんなどと、おぞましい)
(あら、ユリは面白いと思いましたのに。人間と犬のどちらが上でも下でも構いませんでしょ)
(おうおう、この世は、否、あちらの世は、下克上が人間と犬の間で起きているのだのっ。その内、こちらの世も動物ばかりになるかもしれないのっ)
(彦様、それでは、かふぇ、え〜となんでしたっけ)
(かふぇじゃるだんわふみゃうです)
(カテリーヌさまありがとうございます。いくらひらがなで書かれていても、日本語でないものは覚え辛くて。彦様、そのかふぇじゃるだんわふみゃうなんですが、珈琲店でも、動物用の珈琲店だそうですけれど、もっと驚かれますかしら)
(なんとっ、言葉もないわ。人間が、いや、もしかしたら動物が動物に珈琲を出す所なのかのっ)
(もしかして、動物が珈琲店の中で煙草を吸ったり新聞読んだりしているのでしょうか)
(字が読めるかどうかはユリも存じませんし、愛さまと望さんがかふぇじゃるだんわふみゃうの前を通られた時は準備中の札がかかっていましたから、でも、犬が珈琲を飲んだら変かしら。犬って人間と同じで何でも食べますよね)
(つまり、そのかふぇなんとかは、動物の霊園兼お茶屋、なのかのっ)
(そうかもしれませんわね。愛さまと望さんが夢さまのお墓から帰られる時に、彦様とマサさま、お乗りになられては。あら、今日はもう帰られたみたいですわね。ユリのお話、長かったですもの。夢さまにお声かけなされば、次回夢様がお嬢様のお家にいらっしゃる時にでも、もしかしたらマック君に先導されて皆様でかふぇじゃるだんわふみゃうに入れるかもしれませんわ)
(う〜む...)
クワ〜コルネイユ〜クロウ〜クワ〜
第四話終わり
長い長い第四話をお読み頂きありがとうございました。
お読み頂きありがとうございました。
お楽しみ頂けましたなら幸いです。
毎週水曜日午後にアップしています。
気の世界にまたのお越しをお待ちいたします。
次回は10月13日番外編伊の童話
第五話は二週間後10月20日にアップの予定です。