第四話 セミテリオのこども達 その十二
(お婆様がお好きだというカレーの西洋風お好み焼きは、薄く切ったじゃがいもや玉葱や薄いお肉が乗っていて、カレーの黄色い色してました。彩香ちゃんが選んだのは、やっぱりじゃがいもや唐黍や緑色の輪っかのものと薄いお肉が乗っていて、白っぽかったです。緑色の、ユリは知らなかったんですけれど、お母様が、彩香、ぴぃまん出しちゃだめよ、食べなさい、っておっしゃってたので、ぴぃまんだってことはわかりました。ロバートさま、英語ですか)
(いえ、仏蘭西語ですわ。このくらいの大きさので、え〜と、日本語では唐辛子です。でも、あれは赤いですわね。辛いからお嫌いなのかしら)
(あっ、緑のは、ししとうだね、あれも辛い)
(あのぉ、ユリも唐辛子とししとう、それに鷹の爪も知ってます。でもどれとも違うと思います。輪切りになっていて、輪がこのくらい。唐辛子もししとうももっと細 いでしょ。それとも、とぅめいとぉの小さいのがあったのですから、もしかしたらししとうの大きいのも今はあるのかしら)
(え〜と、脱線ついでに、我輩も一寸お尋ねしたいことがござるのだが、その異国風お好み焼きに乗っていたのはじゃがいも、でしたな。我輩、長らく疑問に感じておりましたが、芋には薩摩芋というのがござろう。彦衛門殿、マサさま、薩摩では薩摩芋のことを薩摩芋とよぶのですかな)
(否、あれは唐芋。しかし唐からではなく琉球から伝来したものと聞いてますがのっ)
(じゃぁ、僕もついでに、薩摩揚げは、薩摩ではなんて言うんですか)
(付け揚げですわ)
(あ〜、東埔寨から来たからかぼちゃって言うのと一緒なんですね)
(天からぷらっと来たから天ぷら、うふふ、冗談です。カテリーヌさま、本気になさらないでくださいね。お話続けます。お婆様はカレーのを二切れと、じゃがいものと海産物のを彩香ちゃんと半分ずつ、お父様は海産物のと、カレーのをそれぞれ二切れずつとじゃがいものを一切れ、お母様はじゃがいものを二切れと、カレーのと海産物のをそれぞれ一切れ、彩香ちゃんはじゃがいものを一切れ半と、海産物のを一切れ半と、カレーを一切れ召し上がりました。さて残りは何切れでしょう。うふふ、みなさまご不便でしょ。紙も筆も鉛筆もなくて、気の中で計算するのって)
(え〜と、一枚をいくつに切り分けたんだっけ)
(八つです)
(ユリさん、申し訳ないが復誦していただきたいですのっ)
(全部で三枚ありました。それぞれ八つに切り分けました。彩香ちゃんとお婆様は、じゃがいものと海産物のを半分こしました。その他に、彩香ちゃんはじゃがいものとカレーのと海産物のをそれぞれ一切れずつ食べました。お婆様はその他にはカレーのを二切れお召し上がりました。お母様とお父様は三種類それぞれ一切れずつお召し上がりになって、お母様は他にじゃがいものを一切れ、お父様はカレーのと海産物のをもう一切れずつ召し上がりました)
(ユリさん、先ほどとおっしゃり方が違いますな)
(あらロバートさま、同じことを言い方変えただけですわ)
(残ったのはね、何切れだったか、ユリのお話が終わった後もごゆっくりお考えくださいな。ふふふ。それで、残ったのをお皿、ちゃんとした瀬戸物のお皿に移して、お母様は冷蔵庫から取り出した長細い箱の中から目に見えないようで見える透明の薄い布みたいなのを出して、箱の横でねじって切って、その薄くて透明のをお皿にかけてらっしゃいました。お皿の下にまわしたら勝手にくっついてとまるんです。ほこりや虫除けなんだと思います)
(おっ、それは朝子の家にもあったの。なんとかっぷっと言うんだ)
(軍港の名前がついていませんでしたっけ。舞鶴、佐世保、横須賀、呉...)
(彦衛門さま、日が暮れてしまいます)
(舞鶴なんとかっぷ、佐世保なんとかっぷ、横須賀なんとかっぷ、呉なんとかっぷ。いっぷ、ろっぷ、はっぷ、にっぷ、ほっぷ、へっぷ、とっぷ、ちっぷ、りっぷ、ぬっぷ、るっぷ、をっぷ、わっぷ、かっぷ、よっぷ、たっぷ、れっぷ、れっぷ、何か似ている様な。そうだ、らっぷだ。舞鶴らっぷ、佐世保らっぷ、横須賀らっぷ、呉らっぷ、おっほん、呉らっぷ、だったの。思い出せたの)
(それじゃなかったと思います。皿がついていたと思います。そう、皿らっぷ、あら、まだ何か違う様な。名前はどうでもいいです。ともかく、蠅帳に入れればいいのにとユリ思ったんですが、見当たりませんでした。今の蠅帳は皿か呉のらっぷに変ったみたいです。残ったって申してはいけないのかしら。お二回の仏さまにお供えするのに後でお婆様が持って上がるんだと思っていました。お二階には四柱いらっしゃって、気の方々ですからお召し上がりになる量も少ないでしょうから、と申しますか、ねぇ彦衛門さま、私たち、食べられないですものね。ですからお供えは残り物でも、その心だけでいいんですものね。忘れていませんよ、ちゃんと覚えていますよ、ってことだけで、充分ですわよね。ぴざとぽてぃとぉとさらだとコーラでお夕食終えて、洗い物が少なくていいなぁ、コーラを入れた硝子とさらだを入れた器とさらだを食べたお箸を洗うだけですもの、とユリは思っていたんです)
(コーラを入れた硝子、ですか)
(はい、硝子っておっしゃっていました)
(コップじゃないのですか。朝子はコップって言っていました。硝子でできた透明の細長い器、でしょ)
(そうそう、コップって朝子の家ではよんでいたの)
(我輩思うに、コップはカップで、硝子はグラスではなかろうか。しかし、窓の場合に同じ材質をガラスとよぶ)
(ロバートさま、ユリにはちんぷんかんぷん。硝子はビードロとかギヤマンと同じものだとはユリも思っておりましたが)
(カップは器の形のことで、日本語ではコップになった様だ。グラスは材質であり、硝子のことであり、どうも、その彩香さんのご家庭では、硝子のコップをグラスとよんでいるようなのだが。しかし、珈琲店では,我輩が珈琲茶碗と申したら、亜米利加の方が何をおっしゃいます、これはかふぃかっぷですと言われましたな。元の英語が日本語では二つの別の容器になったのですかな。コップは硝子製で取っ手がなく、茶碗は陶器で、カップは陶器で取っ手があって、グラスは硝子製の、おっ、では陶器のコップ状のものは、これもグラスですかな、硝子製ではなくとも)
(コップっていうのは江戸時代以前から使っていた言葉だと、僕は聞いたけれど。葡萄牙や西班牙や阿蘭陀では、あれをコップに似た音で言うらしいよ)
(なんだか、頭の中がごちゃごちゃです。コップと硝子とどう違うのかしら。あっ、それでね、その硝子、ぐらす、ですか、それとお皿などを洗わないんです。いえ、洗うんですけれど、手で洗わないんです)
(手で洗わない...のですか)
(まさか足で洗うわけじゃないだろう)
(あっ、手って言えば、西洋風お好み焼きは、皆様手でお召し上がりになってました)
(握り飯と同じだのっ)
(サンドイッチと同じですな)
(サンドイッチとはなんだのっ)
(だんなさ〜、パンの間に色々挟んで食べるものです)
(ほぅ、どこにでも手で食うものはある、ということだのっ)
(夫が申しておりましたわ。印度ではカレーも手で食べるそうですわ)
(カレーを手で、どうやって。手ですくうのかなぁ)
(虎さま、違う様です。ごはんとこねるそうです。わたくしも見たことはございませんが)
(あのぉ、それで、ぴざを手でお召し上がりになると、手がべたつくようで、べたべたの手でお箸は持ちたくないでしょ。お婆様も他のみなさまも、彩香ちゃん取って、彩香、てぃっしゅの箱もっと真ん中に置いて、とおっしゃって、それぞれその箱から薄い白い紙を出して手やお口をお拭きになってました。このてぃっしゅってのが、面白いんですっ。ユリにも手があったらやってみたかったです。このくらいの大きさの箱なんですが、上の面の真ん中に楕円の穴が開いていて、そこから紙の端が飛び出しているんです。誰かがそれを引っ張ると、一枚だけ出てきます。そしてあらあら不思議摩訶不思議、次の一枚の頭がまた飛び出しているんです。それをまた誰かがぴっとひっぱると、一枚だけ取れて、またまた不思議摩訶不思議、次の一枚が頭出しているんですね。冷蔵庫の中からお母様が出してらした薄くて透明の布みたいなのと同じで、箱の淵に刃がついているのかしら。それともお手洗いの落とし紙の巻き紙と同じように切れ目がついているのかしら。お手洗いのも冷蔵庫のもユリ試してみたいとは思わなかったのですが、てぃっしゅのは、う〜ん残念、生きていれば、手を出せれば、飽きずにずっとてぃっしゅの箱から引っ張りだしたいなって思っていました)
(ユリさま、おほほ、ねぇ、だんなさ〜、思い出しません、朝子の家の犬のこと)
(わっはっっはっっ、そりゃユリさんに悪い)
(えっ、何がおかしいんですか。ユリに悪いって、何がです)
(あのね、ユリさん、朝子の家で、そのてぃっしゅの箱から飽きもせず引っ張りだしていたのは、アル、犬だったんですよ。犬の手、いえ犬の口の届くところにてぃっしゅの箱をうっかり置いておこうものなら、アルが全部引き出してました。綾子が摩奈の世話するのに、てぃっしゅをよく使っていたんですよ。涎や泪やお乳を拭くのにね。で、適当にその辺りにてぃっしゅの箱を置いておくと、すかさずアルが飛びついて、てぃっしゅの箱を空にするまで、まるで意地になっているみたいに引っ張りだして散らかすんですよ。床に落ちたてぃっしゅを赤ん坊に使うわけにも参りませんでしょ。それで朝子が綾子を叱ると綾子はアルを叱る。そんなことが何度もございました)
(ユリは犬並みなんですか)
(犬が人間より劣っている、と思っているなら辛いだろ、ユリちゃん。でも、犬や他の動物が人間より劣っているって決めているのは人間だけなのかもね。高等学校の授業で聞いた話だけれど、独逸ではね、昔、豚や虫も裁判にかけていたそうな。こういう雑談だけはしっかり覚えているもんだね)
(あのぉ、てぃっしゅのお話じゃなくて、え〜と、ユリがお話ししておりましたのは、あのね、食器を手洗いしないんです)
(じゃぁ、そのてぃっしゅで拭くんだ。手や口と一緒で)
(虎ちゃん残念でした。ユリ、先ほど、洗うって申しました)
(ユリさま、洗うということは、お水をお使いになるのですよね)
(ユリさん、もしかしてお湯ですか)
(あっ、それ、ユリにもわかりません。たぶんお水かお湯だと思います)
(ユリさん、もしや、我が国の女性が発明したあの機械のことだろうか。女中があまりにも皿を割るのを見かねて作った皿洗い機械。いや、その前にも何人か試作していたらしいが、どうも使い物にならなかったそうな。木箱に入れて手動で水を皿に吹き付けるもので、市我古の博覧会に出品したそうだが、何分にも百年以上前のことゆえ、我輩の記憶も定かではないが)
(食器洗い機っておっしゃってました。ですから、ロバートさまのおっしゃってるのと似ているのかもしれません。でも、手動じゃなかったです。電気が繋がっていました。このくらいの大きさで。中に入れてあちこち釦押してました。お婆様が食卓を拭いて、あっ、もちろんこれは手で、布で拭いていらっしゃいました。こんなでしたから、後片付けなんてほとんどなくて、食べてすぐお風呂じゃ体に良くないし、野球中継は嫌だろう、どこのちゃんねるならいい、とお父様がテレビに向かって何かテレビを操作するこれくらいのもの、ほら、カテリーヌさま、隼人君のお家にもございましたでしょ。あれでテレビの画面を変えていたんです。そしたら横から彩香ちゃんが、パパ、たまには一緒にうぃ〜しようよ。あれ、なんだかさぼっているって叱られそうだから嫌だなぁ、いいじゃないママもよがやるわ、グランマはからおけなら一緒にやるわよ、だめ、パパの体重管理しなきゃ、っておしゃって、はい、ユリにはわからない言葉がいっぱい出てきました。ちゃんねる、でしょ。うぃ〜って、彩香ちゃんがお酒飲むわけじゃない、でしょ。からおけはわからないままですし、よがやるって何でしょう。ただね、うぃ〜とよがはすぐに目にしました)
(私はさぼるもわからないがのっ)
(我輩にもわかりませぬ)
(あっ、それ、僕たち使っていました。授業をさぼる、って級友が言ってました。もっとも、もう、さぼっても行く先が無かったですけれどね。先輩の時代にはそれこそ珈琲店とか早々悪所通いとか、あっ、ユリさん、失礼。サボタージュが元の言葉だそうです。労働争議で労働者が抵抗して仕事をしないことだそうです。露西亜語だったかな)
(仏蘭西語ですわ)
(おう、さぼたーじゅ、仏蘭西語で怠けるということですな、なるほど、短くしてさぼるですか。日本人は外国語をそうやってどんどん日本語化しているのですな。からおけもきっとそうなのですかな。ちゃんねるは、水路や海峡、何かの通り道のことだが、はてさて)
(それで、彩香ちゃんが、てれびに向けるのとは別の、これくらいの白くてまわりがふにゃふにゃのを持って来て、それをてれびに向けたら、びっくりしました。てれびには慣れてますから、絵やお写真が動くのも音がするのももう何ともないんですけれど、お婆様とお父様とお母様と彩香ちゃんとゆきちゃんと、あと知らない若い黒髪の男性と黒んぼの女の子と、金髪の男の子が画面にいたんです。似顔絵っていうのかしら、そっくりなんですけれど、お写真じゃなくて、それで彩香ちゃんが手にしてたものをてれびに向けると、しばらくして画面に彩香ちゃんが持っているのと同じものの絵が出て、コント何とかとかブラグとかスト何とかってカタカナが並んでいました。ユリには分からない言葉ばかりでした。それから、一週間以上前に測定しました、って書かれていて、彩香ちゃんが、ほらパパ、一週間以上測っていないじゃないって言って、だから嫌なんだとおっしゃった本物のお父様は食卓の所でぐにゃっとなさってらしたんですけれど、てれびの中のお父様がしゃきっとなさって、そうしたら本物のお父様も立ち上がられて、てれびの前のこのくらいの白い台に乗られて、そうしたらてれびの中でこんばんは、って声がして、おなかひきしまってマスか、って書かれてあって、ほらうるさいんだから、ってお父様がおっしゃって、そのあと、おひさしぶりデス、ココでマメ知識を聞きマセンかワタクシ云々って書かれていたんですけれど、マス、ココ、マメ、マセン、ワタクシ全部カタカナなんです。今の日本は全部カタカナでもなくて、一部だけカタカナで書くようになったんですね。乗ってくださいっててれびに言われて、お父様が白い台に乗られて、しばらくしたら体重が出ていました。七十なんとかで、太り気味ってことでしたけれど、貫や匁じゃないのでユリにはよくわかりませんでした。そのあと、台の上でお父様が体を右や左に動かしたりなさって、バランス年齢ってのが出ました。実年齢とか満年齢とかユリには分かりますけれど、バランス年齢ってなんでしょう。それで、五十二歳って書かれてあって、お母様がほら見なさいさぼっているから、一回りも上じゃないのっておっしゃったから、お父様は本当は四十歳らしいです。その後彩香ちゃんも台に乗って、いいの私は測らなくてって言ってペンギンさんがたくさん出てくるのをなさいました。後ろの方にペンギンさんがたくさんいて、手前の大きい氷の上に顔のところだけ彩香ちゃんのペンギンさんが乗っていて、彩香ちゃんが台の上で右に傾いたり左に傾くとテレビの中のペンギンさんも同じ様に動いて、氷が傾いて、青や黄緑や赤いお魚さんを食べるんです。不思議でしょ。どうして台の上の彩香ちゃんとてれびの中の彩香ちゃんペンギンさんが同じ動きになるのか。次にお母様が体重を測られて、三日ぶりだったようです。体重が出た時にはお母様てれびの前にいらっしゃって画面を見えなくしてました。彩香ちゃんが、ずるいとおっしゃってました。あっ、バランス年齢の時にも画面を隠してらして。お母様はヨガをなさいました。ヨガはカタカナでした。体操みたいでしたよ。画面にはお母様じゃなくて、体にぴったりした短い服の若い女性が出てらして、両手を上に上げてとか、息を吐きながらとかおっしゃって、それに合わせてお母様が動かれて、最後に九十六点って出て、うふふ、いいでしょっておっしゃって、お婆様も体重測ってからバランス年齢が出て六十歳です、っててれびに言われて、おほほ、若いわよと喜んでらっしゃいました。あのぉ、皆様、ご質問やご意見、ないのでしょうか。珍しいことですわ)
(いや、あまりに信じられなくてのっ。てれびは見たことありますぞ。何回も。てれびだとて、初めて目にした時には肝をつぶさんばかりに驚きましたのっ。家にいて弁士付きの活動写真がいつまでもいつまでも続くわ、丸いのを廻すと何種類も見られるわ、その内、総天然色にはなるわ、ユリさんのお話しを聞いていると、そのてれびも今では薄くなっているわ、こういうのをてれびに向けると勝手に点いたり消えたり他の放送局のにかえられるらしいわ、あげくの果てに、今度は家人と文字や音で会話もするわ、もう、想像の域を超えすぎておっての、言葉もなかったのっ。こりゃ是非実物を目の当たりにしてみなくてはと、私もまた旅に出たくなったのっ)
(僕だって同じさ。ラヂオだけでも凄まじいことと思っていたんですから。僕がこちらに参ってから、もう六十年以上経っているとはいえ、映画が家で見られるだけでも驚きなのに、そこにもってきて、人間と話すてれびなど、もう見てみなくては信じられない、いや、ユリちゃん、ユリ様かな、のお話を信じられないというのではなくて、はぁ〜)
(左様でございますわね。薩摩におりました頃にはラヂオとて無く、だんなさ〜はラヂオもご存知なかったですものね)
(わたくし、どうしてペンギンさんのお顔が彩香ちゃんになるのか、とても不思議なんですが。今のてれびは、そういうこともできるんですね)
(ペンギンさんだけじゃないんです。彩香ちゃんだけでもないんです。綱渡りってのがあって、お婆様がなさる時にはお婆様のお顔に、お母様がなさる時にはお母様のお顔になるんです。それに体の形も同じなんです)
(そりゃそうだろうのっ。顔がそっくりならば体もそっくりになるわけだの)
(髪型や髪の色もですよ。お婆様は白髪まじりになってましたし、お父様の少しぽっちゃりなさったところも、みんな。あっ、お服の色だけ違っていました。それで、高い建物の間に渡された綱を渡るのですが、怖いですよぉ。ユリ見ているだけで怖かったです。てれびの外のお父様は綱の上にいらっしゃるわけではないのに、ふらふらなさると、てれびの中のお父様もふらふらなさって、落ちちゃうんです。やっぱりこれはパパには向いていないな、しゃわー浴びてくるわ、とお部屋を出ていかれました。浴びてとおっしゃってましたから、しゃわーってのは、行水かひと風呂という意味だと思うのですが)
(ユリさん、正しいです。まぁ、ひと風呂という場合には浴槽につかる、のだとしたら、しゃわーはつかりませんが。行水というのは、盥につかることですかな。これもやや異なりますかな。しゃわーと申すのは、おっと、英語だとしてですが、水ないしは湯がたくさん穴のあいた先から出てくることですな。おお、如雨露、あのような)
(ほうっ、如雨露を片手で持ち、あいた手で洗うのですかのっ)
(いや、如雨露の様なものは固定されておりまして)
(如雨露に水を入れるのはたいへんですのっ。すぐ空になってしまう。厠の外の手洗い水と同じですのっ)
(彦さま、わたくしがユリさまとご一緒でした時、隼人君がお母様とお風呂に入られた時に使われたのが、たぶんそのしゃわーなんです。このくらいの如雨露みたいな形のものが、長い柔らかい管の先についておりまして、その管は壁の辺りで、こう、螺子の大きいのに繋がっておりましたので、壁の中からお湯が出てくるようでした。彦さまも一度ご覧になるとお分かりになると思います。摩奈ちゃんがお生まれになった時にはございませんでしたか)
(マサ、覚えているかのっ)
(いえ、あそこのお風呂は昔のとはあまり変らなかったと思いますわ。木の桶で、風呂場の外側から、と申しましても全くのお外ではなく、お台所のたたきの辺りから燐寸で火をつけてましたでしょ。薪ではなかったですわね。時折、ボッと外にまで炎が出て来て、前髪がちりちり、瓦斯だったのかしら。戦後すぐ建てられたあの官舎は古うございましたと申しますよりも、おんぼろ)
(とはいえ、私の頃には、瓦斯で風呂を沸かすなど贅沢極まりなかったがのっ、燐寸とて、まだまだ珍しいものだったがのっ。あれは、幕府崩壊後の士族の活計だったのっ)
(燐寸は、箱の模様が面白かったですよね。収集しているのが、仲間にいました)
(それで、お父様が出て行かれて、彩香ちゃんが次はどれにする、ママ、一緒にやろうよ。う〜ん、じゃぁ自転車なら。で彩香ちゃんとお母様が自転車をなさいました。あっ、こぐんじゃなくて、てれびの外の彩香ちゃんが両手に持った白いものを上下にゆするとてれびの中の彩香ちゃんが進んで、曲がる時には両手をその向きに曲がらせると、てれびの中の彩香ちゃんが曲がるんです。てれびの中で競争していて、お母様と彩香ちゃんが抜きつ抜かれつしてらして、その時にお父様が、お〜い、ぱんつ持って来るの忘れたってお風呂場から大声出されて、たおる巻いてくればいいじゃない、いやぁ彩香もそろそろ年頃だしと会話がございましたから、ぱんつは下着のことで、たおるは手ぬぐいかしらとユリも一瞬思ったんですが、競争が面白くて目が離せませんでした。お母様がお婆様に、ちょっと替わってと白いのを二つ手渡されて、結局下着をお持ちになったようでした。お婆様は自転車初めてなさったらしくて、交代してしばらく彩香ちゃんにどんどん離されていらしたのですが、最後にはかなり接戦になりました。その頃にはお母様は戻られていたのですが、お婆様が、彩香、もう一回やろうって。それでお婆様と彩香ちゃんがもう一度。どうも、振り方の調子が乱れたり早すぎるとてれびの中の自転車が止まってしまうらしいんです。お婆様に負けてたまるかと、彩香ちゃんがむきになると、自転車がとまってしまって。二度目は彩香ちゃんが負けたんです。もう彩香ちゃんは悔しくて、もう一度。どうして急にそんなに上手になるのよ。おほほ、まらかすだと思えばいいって分かったのよねぇ。あっ、ずるい、ぐらんま空桶で鍛えてるから。空桶が分からないユリにはまらかすも分かりませんでした。たぶん空の桶の中で手に持って調子良く振るものなんでしょうね。三度目は接戦になって、でもお婆様がまた勝たれて、疲れたよぉ、まま交代って、あっ、上手くしたらお母様に乗り移れるわと思って待ち構えていたので、ユリはお母様に乗れました。お母様も、最初はお婆様がお強いなどと思ってらっしゃらなかった様なんですが、てれびの中のお婆様はとても速くて、お母様は引き離されてしまって、彩香ちゃんはお母様を応援なさって、何度も続けてらっしゃいました。漸くお母様がお婆様を抜かれて、ゴールが見えて来て、あっ、ゴールってユリも何度も目にしましたから、あの、最後の所です。白い紐をちぎる所。お婆様がしゃにむに手を上下に降られて自転車をこいで、お母様が抜かれそうって時に、バサッて音がして強い風が吹いてきて、ユリはてれびの中の風かと思ったら、いきなり六尺三寸ぐらいの大男がぬっと入って来て、ユリはすわ強盗かと思ってとっても怖かったです。だってもう九時過ぎていてお外は真っ暗だったんですよぉ。お婆様が、大樹、いきなり開けないでよ。びっくりしてママに負けちゃったじゃない、お母様は、あらおかえりなさい、もうそんな時間なの、あっ、鍵かけといてね。ユリはそんな所にお勝手口があるなんて知りませんでした。大男君が食卓の椅子にどかっと座って、大きな鞄を二つどさっと床に置いて、おっ、美味そうなものがある、頂き、とさっと手を伸ばそうとした途端に、彩香ちゃんが、お兄ちゃん手も洗ってないでしょ。お母様が、さっさとシャワー浴びてらっしゃい、大体、ぶかつの前と塾の前とお弁当食べたでしょ、これは夜食、一日五食もなんだから。うわぁすごい、だからこんなにでかいんだぁ。あれっ、ご先祖様へのお供えじゃなかったんだわ。ってことは、お供えなさらないんだ。そりゃ、ご先祖様、お食事なされないだろうけれど。塾で頭使ったんだから腹ペコなんだよ。このままシャワー浴びたら死んじゃう。だめ、先にシャワー浴びてらっしゃい。すごすごと大男君は鞄二つ持って二階に上がって行きました。ところで、ぶかつって何でしょう)
(さぁ〜。午後の授業がぶかつなら、その前に食べるのは昼食。しかしそれだと五食というのがどうなるのか)
(ぶかつって、科目の名前なのでしょうか)
(生活科に加えてぶかつ科というのもあるのかのっ)
(あのぉ)
(あら、カテリーヌさま、ぶかつって仏蘭西語なのでしょうか)
(いえ、ぶかつが何だかは、わたくしも分かりませんが、ただ今のユリさまのお話、面白かったのですよ。オノマトペがたくさん)
(小野間飛べとはなんぞや)
(おぅ、擬音語擬態語のことでござるな)
(擬音語、擬態語も私にはわからぬが)
(彦殿、物の音や動作を表す言葉でござる)
(カテリーヌさんにはそのようなものが珍しいのですかのっ)
(はい、仏蘭西語にはあまりないのです。動物の鳴き声ぐらいかしら)
(然様、英語にも少ないですな)
(まぁ、そうなんでございますか。日本語ではあまり斯様な言葉を多様いたしますのは士族では下品と思われるのですわ。ですから先ほどのユリさんのお話用を伺っておりまして、ユリさんは近代的なお嬢様なのですねと思っておりました)
(そうなんですか、バサッ、ぬっと、どさっ、どたっ、って、ユリ、そう感じたものですから)
(とてもわかりやすいですわ。わたくしは面白く感じておりました)
(私には、腹ペコも分からぬが。空腹だという意味だろうとは思うが、カテリーヌさん、ロバート殿、ご存知であろうかのっ)
(紅茶の等級にオレンジペコーというのがござるが)
(ロバートさま、あれは、英語と支那語が混じったものと夫が申しておりましたわ)
(オレンジは英語であるから、ということはペコーは支那語ということですかな。併し乍ら、空のオレンジでは意味を成さぬ)
(僕たちもう使っていたよ。腹ペコって言葉)
(虎さんがお使いになってた、ということは敵性言語ではなかった、ということですかな。ということは日本語、流行語だったのですかな)
(ぶかつの後に塾に通うのかのっ。何の塾であろう。四書五経ということはなかろうのっ)
(算盤、書道ってこともございませんでしょ)
(仏蘭西語の塾も英語の塾も、わたくしの頃にはございましたわ)
(あっ、それは、ユリ、今からお話するつもりでした。大男君、いえ、大樹君は、着替えのお服と、あっ、もちろんお洋服でした、と、お弁当箱二つ持って降りてらして、お弁当箱を流しに出して、すかさずお母様が、水に浸けてよ、うん、で浴室に向かいました。その後、お婆様が、大変ねぇ、いつまでぶかつ続くのとお母様にお尋ねになって、中学最後の公式戦は夏休みに入る直前だったかしら、それまではお弁当二つ作らないと。その後も、夏期講習に入るから、夏休みは無いも同然。受験はやっぱり大変ね。彩香は、いっそのこと中学受験する方がいいかしらね。嫌だよぉ、今から学習塾なんて。あら、中学受験なら来年、三年生でも塾に通うのは早くはないのかも。お兄ちゃんは私立じゃひ弱になるかと思って中学受験は考えもしなかったけれど、それにしても、あの子背が高いしれぎゅらぁだし、公式戦終わるまではやめられないみたいよ。体作るにはいいのかしらね。独活の大木じゃないだけよかったのかしら。パパが大樹なんて名前つけるから、あんなに大きくなっちゃって。百八十ぐらいで止まると思っていたのにね。私、あんなに大きくなりたくない。私はぶかつ合唱がいいから身長関係ないし。彩香はまだ小学校のくらぶにも入っていないのに。でももう合唱って決めてるの。お兄ちゃんは入学前から目をつけられていたものね。ばれぇとばすけに。で、ばすけを選んだけれど、などとお話が続いてました。つまり、塾とは学習塾で、学習するってことは、高等学校に受かる為のお勉強らしいです)
(それにしても、中学生にしては遅い帰宅ですわね)
(いつの時代も受験は大変なんですのっ。私の頃は、士族なら藩校には入れましたがのっ。ところで、倶楽部とは、小学校に倶楽部があるのかのっ。記者倶楽部かのっ)
(だんなさ〜、記者と合唱は話しが食い違いますわ。たぶん、同好会のようなものかと。曾孫の綾子が中学校で手芸くらぶに入ってた時のお話しをいつかなさってましたでしょ)
(あぁ、あれかな、玄孫が生まれる前に作った何かがその時に教わったやり方だとか)
(ユリには、れぎゅらぁもばすけもばれぇもわかりませんでした)
(れぎゅらぁは、英語でなら一般のという意味だが、それとばすけは篭、ばれぇは、ほら、西洋の舞踊のことですな)
(えぇ、バレー、こう白いふわふわのをつけて、つま先で踊る)
(あっ、ユリ、あぁ、バレーならわかります。でも、バレーって背が高くなきゃいけないのかしら。たしか、小柄な方がいいって聞いたことあります。女学校に行ったお友達でバレーを習っていた方いらっしゃいました。大男君が浴室から出てらして、上で食べるよ。あっ、野菜庫にコーラがあるわ。わかったと返事されて、洋風お好み焼きのお皿を片手に、出したコーラのふにゃにゃの容器を上に投げる真似をなさって、お母様が、ぼぅるじゃないんだから、コーラ吹き出すわよ)
(ぼぅる、とおっしゃったのですかな)
(はい)
(我輩、分かりかけて参ったように思います。バスケッボール、バレーボールのことではなかろうか)
(うん、おじさん、僕も気付きました。バスケットボールもバレーボールも、確かに背が高い方が有利ですね)
(共に我が祖国亜米利加で考案されたものですな。ボール、すなはち球をバレーは相手の陣地に返す、バスケッは相手の網に入れる球技でござる)
(おう、玄孫が生まれた頃にてれびで見たあれがそうなのかのっ。我輩、せっかく網に入れたのに網の下から球が出て来るのが解せんでのっ。何度も球を入れるとだんだん網がもろくなって、網を買い替える金がないのか、まだまだ世の中貧しいのっ)
(おじいちゃん、違いますよ。網に入る度に網から出すのは大変でしょ。だから網の下から球が出るようにしてあるんですよ)
(そうかのっ、それでは、じっくり見ていないと、入ったのかかすめたのかわからないだろうに。ところで、先ほどの異国風お好み焼きの残りは、私の計算によれば、八切れなのだが、五食目にして、八切れ食べたのだろうかのっ)
(だんなさ〜)
(彦さま、大正解ですっ。八切れでした。びっくり仰天でしょ。八切れって一枚ですから。一枚って、こんなに大きいんですよぉ。それも五食目だというのに)
(うらやましいのぉ、それにしても五食目というのも、どう数えるのか)
(え〜と、順番に、朝ご飯、部活の前のお弁当、塾の前のお弁当、洋風お好み焼きですわ。あら、一食足りない...)
(だのっ。先ほど私はこの疑問を呈したのだがのっ、どなたも気にもとめなんだのっ)
(だんなさ〜、こちらに参りますとね、食べ物には、皆様こだわらなくなるんですわ)
(うむ。寂しいことだのっ)
(だんなさ〜、食べられないのに食べる事気にしておりましても仕方ありませんわ)
(うむ)
*
続く
お読み頂きありがとうございました。
お楽しみ頂けましたなら幸いです。
毎週水曜日午後にアップしております。
またのお越しをお待ちいたします。
来週その十三で第四話完結いたします。