第九話 セミテリオから何処へ その十
(あちらの世にいた時には、便所に行かねばなりませんでしたからね)
(あら、でも、ご隠居さんは)
(はい、男ですからね。とはいえ、寺育ちですからねぇ、そういうことは人前ですることではないと教えられておりましたからね。で、船でずっと同じ方向に行ったのに元に戻ったから、球だ、ということが証明された話しでしたね)
(あのぉ、ユリ思うんですけど、丸だって三角だって四角だって、ずっと歩いていたら元の場所に戻るでしょ。だから、何とかがまさんが、船で出て行って同じ場所に船で戻れたからって、球ってことにはならない、でしょ)
(ああ、あれは、同じ方向に、ずっと同じ方向に進んだのに元に戻れたというんでしたね。ずっと西に回ったのでしたか、いや、東だったか。ずっと同じ方向に進めたというのは、やはり星でしょうかねぇ)
(でも、もしお星さまが丸のまんなかにあって、ずっと丸のまんなかを見ていて丸の外側をずっと歩いても同じ場所に戻れるでしょ)
(ああ、ユリさんのおっしゃるのは、円の中心を見ながら円周を歩く場合ですねねぇ。たしかに、円の中心は同じ方向に見えることになる、いやまてよ。たしかにずっと左ないしは右に見えるが、方角は変わる。しかしその方角を認識できる能力ないしは技術がなければ、ということにもなるわけで、いやはや、存外難しい。星以外にも何か航海技術があったのか。あぁ、羅針盤というのがありましたっけ。いや、すごいものですねぇ。今から五百年も前の船と技術で、地球が球だと証明したのですからねぇ。教わった時には、元に戻れたのだから球だと証明できたと、それで納得してしまったものですが、ふむ、そんなに簡単なものではないですねぇ)
(それに、球じゃなくたって、同じ方向に進んだって、元に戻れるってのないかしら。お手玉だっておまんじゅうだって、上から下を通って上に戻るのに、まんまるじゃなくたって、戻れます)
(たしかに)
(まんじゅう、食いたいものですのっ)
(わたくしは、練りきりを)
(羊羹もいいですねぇ)
(練りきりにはお抹茶ですわ、ねぇ、マサさま)
(お抹茶......)
(マサさま、そういえば、元々のお話は、お留守の間、どちらにいらしてたかってことでしたわ。琵琶湖をごらんになって、それで、琵琶湖にどんどん近づかれたのでしたっけ)
(まぁ、確かに近づいたには違いないがのっ、近づいたというよりも落ちて行ったのでしたのっ)
(落ちるのは怖いものでしたわ。いくらもう生きていなくとも、もう、落とす命はなくとも。少し前までは、富士のお山を上から眺めるなどという素晴らしい体験をさせていただき、勾玉の池の中に入るのは、これまた素晴らしいことやもなどと思っていたのが嘘のように、恐ろしゅうございました)
(私もでしたのっ。いくら大勢のみなさんと手に手をとってでしても、そりゃぁ、この世に参る時の一人だった時に比べればましやもしれぬとも、やはり、落ちて行くというのは怖いものでしたのっ)
(でございましょう。ねぇ、ご隠居さん、やっぱり、赤信号でも、皆で渡っても怖いものですわよねぇ)
(集団自決というのも、やはり恐ろしいものなのと同じでしょうかね)
(集団自決......恐ろしいですわ)
(それ、なんでしょう)
(ユリさん、わたくしも存知ませんわ)
(私も、見たわけではございませんのよ)
(しかし、あれはいつ頃からでしょうか。戦後だいぶ経ってから、集団自決があったということ、書物にかかれたり、報道されるようになりましたね)
(戦争中のことは、GHQが報道統制していたそうですもの)
(GO HOME QUICKLYですね、あはは)
(えっ、何だか違ったように思いますが)
(あっ、本当は、General Head Quarterですよ。Go Home Quicklyは、吉田茂が隠れて言っていたそうです)
(まぁ、そうだったんですか)
(ユリ、全然わかりません)
(わたくしも)
(私もですのっ)
(わたくしもですわ)
(戦前にこちらの世にいらした方は、まぁ、幸せだったのでしょう)
(えっ)
(早く死んだ方が幸せとは思いかねますのっ)
(いくらこちらの世が過ごし易いとは申せ)
(いくらわたくしがロビンと一緒にいられても)
(ユリだって、お見合いぐらいしたかったですし)
(いやぁ、あの戦争を体験しなくてよかった、ということですよ。そりゃぁ、僕は戦争には行かなかったですし、瑞鏡、僕の長男は寸での所で軍医として出征せずにすみましたが、甥は学徒動員で戦地に赴く途中名古屋で、弟の妻君と出産間近の姪は広島で死にましたしね。運よく生き残ってからも、寺は一時とはいえ米兵にとられ、食糧難もありましたしねぇ。まぁ、あの混乱の時期に、皆が日々の生活に汲々としていて、南洋や大陸から引き上げてきたり兵もどんどん帰還してきましたし、ともかく大混乱、やたらとほこりっぽくて、暑くて、寒くて、貧しくて、まぁ、そんな中で、新しい日本という希望の光りは心の中にはあったのですが、それでも、あの体験はしなくてすむものならしない方がいいですよ)
(で、集団自決とはなんのことですかのっ。城を守って討ち死にならわかるがのっ。私の頃にもありましたからのっ。近くは上野のお山でも、戊辰の頃は各地で)
(あ〜、同じ発想なのでしょうか。いや、違う、かなぁ。先の大戦での集団自決は、いや、やはり似ているのかもしれませんが、う〜ん、そういえば会津では女子供も戦ったのでしたっけ。やはり洗脳なのでしょうかねぇ)
(ご隠居さん、お一人で話されて、ユリ、全然わかりません)
(こりゃすみません。考えさせられましてね。沖縄は本土が占領下でなくなった後も米軍による統治が長く続きましたからね、事が表に出て来るまで随分かかったのですが、あれは、戦争中でしたからね、沖縄が米軍に占領される前に集団自決があったわけですよ。よって帝国陸軍の関与とは言えずとも、心を捉えていたのでしょうね。それしか道がないと洗脳されていたのでしょうか。しかし満州の方はポツダム受諾以降ですからね、軍の関与があったかと言うと微妙なわけで。でも、やはり長年、如何に生くべきか、いや、如何に死ぬべきかを教えられていたわけですからね。生きて虜囚の辱を受けずは、軍人勅諭にはなかったのですが、東条英機の戦陣訓にはあったわけで)
(おおっ、私にもわかることが出てきましたのっ。陸海軍軍人に賜はりたる敕諭ですのっ。陛下の。私は軍人ではなかったですのっ。しかし、うむ、あれはすばらしい。とは申せ、私も全部は覚えておりませんがのっ)
(御名御璽)
(まぁ、夢さん)
(あっ、ユリも知ってます。ぎょめいぎょじ)
(まぁ、ユリさんも)
(何でしょう、またオノマトペでしょうか。それとも早口言葉ですか)
(うふふ、カテリーヌさん、五箇条の御誓文の最後のところにあるの。尋常小学校で覚えさせられたから、ああいうのっていつまでも忘れないんです、ねっ夢さん)
(はい、おほほ)
(お子たちが、遊び半分に申すもので、わたくし、よく叱りましたわ。意味を知らないから平気で。畏れ多くも陛下のお名前と印章ですのに。夢さんもそういうお子でしたかしら)
(おほほ)
(彦衛門さん、明治天皇の軍人勅諭には、生きて虜囚の辱を受けずは、無い、無かったですよね)
(うむ、私も全文覚えているわけではないのっ。結構長文でしたのっ。神武天皇から始まって、え〜と、軍人に望むのは、忠節を尽すを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇を尚ぶべし、信義を重んすべし、質素を旨とすべし、でしたかのっ。ははは、大分端折ってますのっ。で最後に明治十五年一月四日御名御璽ですのっ)
(ところがね、彦衛門さん、軍需大臣も兼任した東条英機総理大臣が、陸軍大臣だった時に、生きて虜囚の辱を受けずと訓示したわけですよ。で、その年の暮れに真珠湾攻撃、いよいよ戦争へ突入、まぁ、それ以前から日支事変などでずっと戦争中みたいなものだったのですがね。で、生きて虜囚の辱を受けずは、大分広まったわけですよ。あの頃、軍人や大学生はもちろん、中学校や高等学校でも軍人教練がありましたしね、男なら戦陣訓の手帳を持っていて当然。赤い表紙のこのくらいのがね。僕の所にも数冊ありましたよ。ですから軍人にだけ広まったわけではなく、それに、徴兵ですからねぇ、家庭にも女子供にももちろん広まる。戦地になった沖縄や、関東軍がいた満州などでは、本土以上に街中にも野山にも兵隊が多かったそうですしね。当然、生きて虜囚の辱を受けずは広まるわけですよ。だから、沖縄では摩文仁の丘から次々と女性が身投げしたり、あちこちで手榴弾や刃物で殺し合ったりしたそうですし、満州でもソ連軍からの逃避行の途中で)
(あの頃、鬼畜米英でしたからねぇ。ポツダム宣言受諾後、占領軍が入ってくるまで、戦争が終わってほっとしておりましたが、でも、鬼のような国の軍人が入ってきたら殺されてしまうかもしれないと、大層怖かったですわ)
(夢さん、え〜と、終戦時はおいくつで)
(十八でした)
(まぁ、本当に怖かったでしょう)
(はい。で、数年間モンペをはいていました。本当は、折角自由になったから、少しはおしゃれもしたかったのですが、米兵が街中を闊歩してましたでしょう。それまでは男の人は、お年寄りかご病気やお身体の不自由な方ばかりでしたのに、どっと男性が増えましたものね。帰還兵の方々も怖かったですし。下向いて、でもいつでも逃げられるようにと、緊張して歩いておりましたわ)
お読み頂きありがとうございました。 霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。