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第八話 セミテリオに警察官 その十


(あっ、何か、シンドラーっての、聞いたか見たような気がするっす。難しい映画っしょ。俺、最初しか見てないっす。あっ、ユダヤ人って難民っすか)

(難民とはユダヤ人のことなのですか。まぁ。ジタンではなく)

(じたんとは何でしょう)

(英語ではgypsyですな)

(ああ、ジプシー。あああ、ジプシーって言っちゃいけないっす)

(えっ)

(それも差別語だって、社会の先生が言ってたっす)

(武蔵、言ってたではなくおっしゃっる、だ)

(うっす)

(ジプシーは差別なんでしょうか。では、ジタンもだめなのかしら。あら、でも、それって、日本でのお話しでしょう。仏蘭西でしたら構わないのでしょう)

(俺もよく知らないっす。けど、今、別の呼び方するっすよ。そういうのいっぱいあるっす。エスキモーもだめだって。でも、エスキモーってアイスの名前にあるし、だから、言っちゃだめって方ばかり覚えて、かわりの言葉は覚えられないっす)

(あの、で、義男さん、ユダヤ人のことを難民と言うのですか)

(いや、もし、虎之介さんが難民という言葉を御存知ないのでしたら、もしテレビで見た私の記憶に間違いがなければなのですが、たぶん、虎之介さんご生前の頃だと思うのですが、その、ヨーロッパのどこかの国で日本の外交官をしていた人が、ナチに追われたユダヤ人を助けようと、日本への査証を大量に発行して、それで、助かったユダヤ人が横浜か神戸にあふれてとかいう話しだったんですがね。日独伊の同盟の下でね。それが、シンドラーと似ているということで)

(シンドラー、あら、以前、どなたでしたか、ご隠居さんでしたかしら、お話しなさってらっしゃいませんでしたかしら)

(僕もどこかで耳にしたような名前ですが、ドイツ人でしょうか)

(シンドラーはナチ党員でありながらユダヤ人を救ったそうですよ)

(ほうっ。ヨーロッパではジプシーやユダヤ人が嫌われていますからね。あっ、少なくとも嫌われていました。今はどうなのか存じませんが。一方、我が祖国では、ユダヤ人を嫌っていては建国以来の歴史が成立しませんからな。誰それがユダヤ人であるか、誰それがユダヤ人を擁護したか否か等かまびすしくてね、あまり触れてはいけない話題だとされていたこと自体が、アメリカでも差別があるという証明になりますからな。いや、しかし、法の下では平等でした)

(そうそう、それって、紀元二千六百年の前後の事ですよ)

(ああ、確かに僕の生前ですね。ニッポン号が世界一周した頃でしょうか)

(それは私は存じません)

(ニッポン号って何っすか)

(飛行機だよ。浦高の従兄に一度だけグライダーに乗せてもらってから、飛行機には惹かれていたのでね。昭和十四年八月二十六日に日本を発ってアラスカ、カナダ、ロスアンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、コロンビア、チリ、ブラジル、アフリカ、スペイン、ローマ、ギリシャ、インドなど各地を周り、五十六日で日本に戻ってきたのです。嬉しかったなぁ)

(我輩も祖国の地名の数々、懐かしい響きですな)

(けど、お兄ちゃん、なんかめちゃくちゃっす。町の名前と国の名前がごちゃごちゃっす)

(武蔵君に言われますか。しかしね、町の名前は国の名前より覚え辛い。僕は、カタカナで書かれると余計に訳がわからなくなり、覚えられなくなるんですよ。ですから、今回のお話でも、被告人達の名前はとてもとても。あっ、それで、そちらに話を戻しますと、日本に入って来たのはニッポン号が飛び発った羽田ではなく、以前、こちらでどなたかが話されてた千葉のなんとか空港)

(成田っしょ)

(そうそう、それ。そこ。で、え〜と、武蔵君のお爺ちゃんでしたっけ、あちこち飛行機で旅行なさってたとかおっしゃってらした、そういうのを思い出さなければ、空港から入ってくること自体が、僕の頃には考えられませんでしたからね。日本から出たり入ったりは、軍人でもなければ、普通、船でしたからね。そもそも、なぜタイから日本に来なければいけないのか。それはすぐに文面でわかりましたよ。日本で働く為だったそうです。まぁ、これは、僕の頃にも、大陸や半島から来ていましたから、納得できなくもないのですが、その少し前ならば、逆に日本人が南米や南洋に出稼ぎに行っていたのにね。で、そりゃ文面でわかるといえばわかるのですが、日本で働くために、飛行機に乗ってやってくる。えっ、船ですら運賃は高いものでしょうに、飛行機だともっと高額ではないだろうか。そのような高額の運賃を払うくらいならタイに留まって仕事をしていた方がよいのではないだろうか、などとね)

(虎之介殿、我が祖国にも、欧州から大量の移民が入ってきてましたが、みな、三等旅客とはいえ、家族共々運賃を払って、それでも我が祖国まで移民していましたな。仕事を求めて、あるいは新天地を求めて)

(そういうものなのでしょうか。しかし、その五番氏は、単身で、両親も妻も子達も残して、日本に働きに来たのですよ)

(ふむ)

(で、日本に働きに来たら捕まるっすか)

(どうもそうらしいのですよ。いえ、ちゃんと旅券も持っていたのですが、査証は切れていて、それでも日本に残り続けていたということらしいのです。十年以上)

(旅券とか査証ってなんっすか)

(旅券とは、その国の国民であるという証明、査証とはある国に入ってもよいという許可証のことですな)

(武蔵、パスポートとビザのことだよ)

(パスポートは分かるっす。で、よその国に行くにはクレカもいるっすか。あっ、なきゃ、何も買えないっすね。ビザって、ヒッヒッフー、三井住友ビザカードのビザっしょ)

(まぁ、それ何でしょう)

(クレカのCM)

(クレカとは何ですかな。我輩もわかりませぬ)

(えっ、クレカって、クレジットカードのことっすよ。英語っしょ。もしかしてロバート叔父さんの頃はなかったっすか)

(存じませぬな)

(へぇ〜。あれってアメリカで始まったと思ってたっす)

(我輩がこちらの世に参って後のことであろう)

(ふ〜ん)

(あのぉ、ヒッヒッフーは、何でしょう)

(えっ、あれっ、俺も知らないっす。けど、ビザのCM、広告のことっすよ。そこで、言ってたっす)

(ひぃふぅみぃよぉ、ではないのですか)

(ああ、なるほど)

(えっ、それって何っすか)

(えっ、武蔵さんがご存知ないのですか)

(知らないっす)

(へぇ、武蔵君が知らないとはね。驚きですね)

(で、何っすか)

(武蔵、ひいふうみぃよぉって、一つ二つ三つ四つってことだよ)

(一つ二つ三っつ四つってのは知ってるっすよ、けど、そのひぃふぅってのは知らないっす)

(ふむ、また死語になってしまわれたのですな)

(それでその、ひぃふぅとは違う、確かにビザとも検事さんが言ってましたが、査証が切れた後も労働目的で日本に滞在し続けた。そもそもその査証が観光用だったらしくて)

(観光で行った所で、いいなぁと思って働いたらいけない、ってことっすか)

(日本人が日本の中でなら、問題はないのでしょうな。我輩も外交官査証で日本に参りましたが、他国には移動したくなくなり外交官を辞任して日本に居続けましたが、まぁ、あの時代は、その辺りはおおらかでしたがね)

(へぇっ、ロバートおじさん、どうして日本にいたかったっすか)

(日本がとても好きになったんですよ。自然も、人情も、落語も、まぁ、色々とね)

(ふ〜ん)

(ロバートさん、わかりました。僕が感じた、これが違法なのか、とはそこだったんですね。日本に来て、日本がよくて働いて、人情が厚くて、で、ご近所のお婆ちゃん達と毎週公園を掃除していたり、人を殺めたわけでも、盗みをしたわけでもなく、ただただ日本で働いて妻子に送金して、それが十年以上経ったから、捕まったってすぐには国に帰れず、何か釈然としなかったわけですよ。つまり、おおらかではない、という点なのですね。日本人が大陸や半島や南洋や北南米で仕事をしたい、それを受け入れてくれるおおらかな国々、そう思っておりましたからね。あの頃の僕達は、大陸や南洋や半島の人たちに文化のすばらしさを教えたい、新しい農業技術を教えたいという意気込みがありました。そういう意味では、僕達はおごっていたわけですが、タイ人は、ただただ日本で働きたかっただけでしょう。ハワイやカリフォルニアに移住して行った日本人と同じ。僕がこちらに来る前に、既にアメリカでは日本人排斥運動が盛んでしたから、僕はそれを知った時なんとなく嫌な気分でしたよ。アメリカという国では日本人は嫌われるのだとね。で、今、その五番氏が日本で査証が切れても働き続けたからと捕まるのは、同じ様なものではないのかと。まぁ、そういう法律があって、その法律に触れているのである以上、いたしかたないとも思いはするものの。で、その五番氏、起訴されるそうで、裁判にかけられるそうで、それまでしばらく拘置所に移るそうで、というのは、検事さんと通訳さん達の話しからわかったのですが。あっ、僕、五番氏から検事さんに乗り移りたかったわけですよ。それで、ここに署名してと検事さんが言った時に手が紙の上に来たので乗り移ろうと思ったのですが、失敗して、で、ここでいいですか、と五番氏が尋ねた時に、女通訳が被疑者の側に出した手につい乗り移ったのですが、それが通訳の女性の手だったんです。で、その後、五番氏はまた手錠されて出て行って、通訳さんも検事室から出て行った訳で、僕、検事さんに乗れなかったんですね。で、通訳さんはど行くのだろう。どこであれ、このまま暫く乗っていようと思っていたわけです。通訳さん、検事室よりもっと大きい部屋で長椅子も並んでいる所に入って、傘を手にすると、じゃぁまた、お先に失礼します、って言うんですよ。えっ、このまま検察庁を出てしまう、それでは検事さんに乗る夢を果たせない、あせって、傍を通った男性に乗り移ったんです。その男性、また通訳だったんですよ。どうも、僕が入った部屋は通訳の待機する部屋だったらしくてね。で、その男性に乗って、運良く、また検事室に入れました。なんと、検事が女だったんです。四十台前半ぐらいでしょうか。飾りの多い服装でね。僕の頃には考えられなかったですね。驚きでした。高等試験は男にしか受験資格が無かった筈。この年なら家庭があるのでは、こどももいるだろうに。それとも検事一筋で独り身を貫き通しているのかなど、心配もしました。心配すると同時に、是非そこを確かめたい。乗り移りたい、しかし検事とはいえ、女に乗り移るか、とためらいも感じていました)

(たしか、最初に検事になった女性の家で、兄弟で殺し合いがあったんじゃなかったでしょうか。戦後、東京オリンピックの頃でしたか。随分話題になったことがありましたよ。どうも、家族をそっちのけで仕事に励んでたとか)

(そういうことが起きたんですか。やっぱり、女だてらに検事などなるもんじゃないんですよ。それに、だいたい、悪辣な犯罪者に向き合ったら、非力な女じゃ危なっかしい。こんな華やかな服来て、外人の被疑者の前に出るなんてね。恥知らず。女はやはり男に守られてしかるべき存在。家を護り、子を育て、主人を立てるべきなんですよ。柔和な表情の検事が正面にいるのを見た時、僕はそう思わされましたね。こんな弱そうな検事に取り調べができるものかって。通訳氏、日本人じゃないらしくて、香辛料の香りがしていました。でも、日本語は東京の日本語ではなかったものの、普通でしたしね。まぁ、日本人にしては色が黒いとは思ったのですが。で、通訳氏。今度は正面向かって右側に座りました。で、犯罪者、いえ、被疑者、あっ、もう起訴されていたから被告人が連れてこられる前に、その女検事さん、通訳と話していたんですが、もう顔なじみらしくて、状況の説明をしていました。ここから話やややこしくなるのですが、何しろ登場人物が多い上に国も多数出て来るんですよ。僕が理解したのは、朝一ですでに取り調べしたイラン人というのが黙秘していて、その黙秘しているイラン人の通訳もその通訳氏がしたらしくて、で、その時はペルシャ語で、今度はベンガル語で、イラン人の犯罪行為を立件するためにベンガル語とウルドゥ語の被告人二人の協力を得るために、ということらしくて。もう、呼ばれている二人は既に起訴されているので、協力は本人達次第で義務でもないし、強制もできないとのことでした。で、日時や状況の細かな部分での確認と協力依頼なので、いつもの取り調べよりは手短にお昼前には終わらせるようにします、と女検事さんが言ってました。つまり、僕はペルシャ語の後に休憩していた通訳氏に乗ったということだったようです)

(女通訳より男通訳の方がお兄ちゃん、楽っしょ)

(ただねぇ、香辛料の匂いがね)


お読み頂きありがとうございました。

霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。


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