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第八話 セミテリオに警察官 その九

(そのまま五番氏は眠らず、起床時刻。布団をたたんでから点呼があって、朝飯がまた渡され、今度はお茶の他に、お湯の入った椀が渡され、四番氏はその中になにかあけて、すると味噌汁のよい香りが漂ってね。でも、またしても五番氏はお茶と飯だけで。漬け物も佃煮も残していました。もったいないことです。喰えないこちらにしてみれば、娑婆で喰えるのがどれほどいいことか。いや、まぁ、あそこは娑婆ではない、牢屋だったんですがね。朝飯の後、しばらくして、あっ、時計がないんですよ。まぁ、ここと同じですが、時間の感覚はやたら長い印象で。で、四番氏が呼ばれたので、僕、咄嗟に乗り移ったんですよ。どこかに行けそうだと思ってね。すると四番氏、格子の部屋から出され、もう一つの格子の扉を出て、また腰紐と手錠をかけられて、刑事らしき人と一緒に覗き窓の扉を出て、カーテンのかかった扉を入り、手錠を外されて奥の椅子に座らされて、腰紐は椅子の横に結わかれてました。そこが取調室だったようです。やはり長い電気がついていて、岡崎さんの使っていたのと同じ様な机で。じゃぁ取り調べ始めるから、と刑事が言ったとたん、四番氏が、刑事さん、今日は無理、俺、腹痛いから。次医者来るのいつですか。今週はもう来たから、来週だ。腹下してるのは報告されているが、大丈夫だろう。う〜ん、まだ二日目だから。でも調べは無理。なんかね、腹下していると、取り調べはしないと言うのが不思議でしたね)

(どうしてっすか。だって、その部屋に便所ないっしょ)

(それもそうですが、腹下して苦しい時に調べた方が、悪い事したことを言いそうにも思うわけですよ。手を下さなくとも拷問と同じで)

(拷問ですか。今は無いことになっていますよ)

(たしかに、僕が今回見たのでは、拷問は警察署でも検察庁でもなかったですね。信じられませんでしたよ。皆、普通に話しているんですよ。どなったりもせず。でも、被疑者や被告人が黙っているということはなかったですしね。むしろ黙っていたのは牢屋の中。というわけで、結局また来た道戻って。四番氏、無言で会釈して五番氏もどうも、という感じで会釈して。また二人して狭い牢屋で沈黙の行。同じ様に飯が出て、夕方、五番氏が翌日検察調べを告げられて、すると、四番氏がうらやましそうな顔してました。取り調べがうらやましいことなのか不思議だったんですが、四番氏が、今日は雨で運動もなかったしとつぶやいていました。腹を下していても運動したいものでしょうかね。僕なんか、こちらに来る大分前でも、もう教練が苦痛でしたがね。僕はね、五番氏は明日検察庁に行くんだと知って、これは良い体験ができそうと、小躍りしていましたよ。検事か弁護士になりたいと思っていたわけですからね。いい体験ができそう。早速五番氏に乗り移りましたよ。で、四番氏の方は前日と同じように、紙下さい、水お願いしますで同じように過ぎて、翌日、朝食後、五番氏が同じ様に檻と檻と扉三つ出されて、外には、あっ、先ほどここに来ていた、死人を運び出したのと同じくらいの大きさの車に乗り込みました。変な車でね、僕の乗った五番氏が座った席と運転席の間に金網があるんですよ。しかも、五番氏の両脇に警察官が窮屈に乗って。一人は運転席の横にでも座ればぎゅう詰めにならないのにね。金網があるから前は見えにくいし。両脇の窓ガラスから外は見えましたが雨にぬれそぼっていて。東京のどの辺りにいるんだろうと、警察署に行く時には車に乗り馴れていませんでしたからあまり余裕もなかったので、まともに見ていませんでしたから。しばらくして坂を下って、両脇が見えなくなって、それから車から降ろされて。手錠に腰紐の五番氏どうよう、僕も自由に動き回れるわけでもなし、そのまま乗っているしかなくて、で、壁の前に行くと何か釦を押していて、すると壁が開いて、で気付いたわけですよ。エレベーターだったんですね。乗って、降りて、また警察官がたくさんいる部屋の奥の檻の中に入れられて、しばらくすると廊下みたいな所を歩かされ、扉を入ると、今度はきれいな部屋でした。四番氏と入った取調室とは違って、部屋の大きさも数倍、机ももっと大きくて、しかも大きな机の前に細長い机がつけてあって、横には警察署のと似たような灰色の机、手前には茶色い木製の机が二つ並べてあり、あと、警察の狭い取調室にはなかったのに、検事さんの部屋にはいろいろと書物が並んでいました。机の上には例の文字を打つ機械が三台あって。正面の背もたれの大きい椅子に座っている人、検事さんとすぐに分かったんですが、眼鏡の奥から五番氏を見ていました。検事さんの机と直角の右側の机では三十歳ぐらいの女性が電話に応対していて、僕の乗った五番氏の座った細長い机の左横にいた女性は下を向いて帳面に何か書いていました。法の道を目指していた僕としては、なんとも嬉しい見学だったのですが、いかんせん、立場が悪い、僕の乗っているのは悪人なわけですから、できることなら、正面に座っている検事さんに乗り移りたいものだと思っておりました。で、左横のガラスの入っている灰色の金属製の書棚には、僕も名前ぐらいは知っている立派な装丁の大コンメンタールも並んでいて、手に取りたかったですね)

(大根メンタムって何っすか。大根でつくった薬っすか)

(武蔵にはメンタムなんだね。お爺ちゃんの頃はメンソレタームと呼んでいた。で、お爺ちゃんは伸ばす場所を間違えて、メンソレタームと言うのが正しかったんだが、私はメンソレータムとおぼえてしまってね。メンタムならどこをのばすか悩まずにすむ。しかし、あれは大根で作るものではなかろう)

(それは、我が祖国のMentholatumのことではなかろうか。看護婦の服装の少女の左横顔。so cute。数ヶ月遅れで読める雑誌の広告を覚えておりますな。万能薬。大根は、我が祖国では、今は存じませんが、当時はなかったと思いますな)

(ロバートさん、でも、たぶんそれですよ。傷薬。蓋の看護婦は右横顔ではなかったですか。メンソレータムはひりひりする、でオロナインはその匂いがしない)

(オロナインというのは、我輩は存じませぬ。ところで、左横顔だったように記憶していますが)

(そうですか。右だったような。ああ、オロナインはもしかしたら、戦後ですかね。何か、随分前からあったようにも感じます)

(うっす。俺も、オロナインの方が古くさく感じるし。それと、右でも左でもいいっす。それに右横顔ってのは左向いてるってことっしょ。左横顔ってのは右向いているってことっしょ。ややこしいっす)

(僕もそのオロナインというのは存じませんが、あのぉ、メンソレータムの話しではなくて、検事さんの部屋の書棚に並んでいたのは書物でして、メンソレータムでも大根でもなく、大コンメンタールとは、法律の専門書物でして)

(ふ〜ん)

(で、五番氏、警察官に手錠を外されてポケットに手錠を入れて、椅子に座ると、五番氏につながった腰紐を持った警察官が後ろに座りました。やっぱり手錠を外すと逃げられるからなのでしょうかね。四番氏と一寸だけ入った警察の取調室よりかなり広く感じましたが、警察署では僕を除けば、二人だけでしたから、今度はちょっと驚きましたよ。何しろ、正面に検事さん、両横に女性、僕の乗っている被疑者の後ろに警察官でしょう。なんでこんなに人がいるんだ、と思いましたよ。手錠は外されたんですが、それに僕が手錠をされていたわけでもないのですが、なんとなく恥ずかしい様な、僕までとっても悪い事をしてしまったような気分になりました。でも、五番氏は慣れていたらしくて、おはようございますなんて挨拶して、落ち着いていましたよ。正面の検事さんが、じゃあ始めます。この前と同じで、黙秘権があるから、言いたくない事は言わなくてよい)

(ひっ、言いたくない事は言わなくていいなんて言われたら、俺だったら何も言わないっす)

(僕もそう思ったんですよ。へぇ〜って。それじゃぁ、反省している人はともかくも、処罰されるのが嫌だったら、絶対に自分の悪事など話す訳がない、とね。でも僕が驚いたのは、その内容よりも、そう検事さんが告げたすぐ後に、左横に座っていた女の人が、鳥のさえずりみたいな音を出し始めたんです。えっ、何、これって。そこで驚いていたのは、五番氏に乗っていた僕だけで。検事さんも右横の女の人も、後ろの警官も、皆、何も驚いている様子がないんですよ。で、五番氏はうなづくだけで。その後も検事さんが何か言うとその鳥のさえずりがあって、また五番氏はうなづく。その内、今度は検事さんが何か言うと、右横の女の人が例の機械にむかって文章を書いていたらしくて、検事さんの左横の大きな四角い箱が音を出して、そこから紙が出て来て、検事さんは紙を手にしてさっと読むと、五番氏の前に置いたんです。左にいた女の人が五番氏のすぐ隣に移動して、五番氏の目前の紙を指さしながら、また鳥のさえずり。今度はね、五番氏の目の前に紙があったので、僕も読めましたから、理解できました。あっ、書いてあることが理解できたのは当然でしたが、僕だけが驚いていたことの状況が理解できた、ってことです。でも驚きましたよ。だって、僕前日の昼前から五番氏に乗っていたんですよ。なのに、全然、気付きませんでしたからね)

(何に気付かれなかったのでしょう)

(五番氏、日本人ではなかったのですよ)

(まぁ)

(そりゃね、僕があちらの世にいた頃、周りに中国や朝鮮の人はいっぱいいましたよ。でも、身なりや、ましてや口を開けば言葉が違ったじゃありませんか。五番氏、たしかに警察の牢屋で四番氏とほとんど口をきかなかったとはいえ、でも、警察の人や検事の言う事、分かってたわけでしょう。手錠をはめるとかはずす時にもちゃんとわかっていたみたいでしたし。でも、目の前の供述調書と書かれた紙の国籍の部分にタイ王国ってありましたからね)

(へえっ、タイって王国っすか。王様いるっすか)

(王様と私、でしたっけ、映画がありましたね。ユルブリンナーが頭を剃ったのはあの映画でしたっけ)

(変わったお名前ですこと。どこのお国の方かしら)

(さぁ、アメリカではないのですか)

(我が祖国は移民の多い国ですからな)

(僕は一瞬とまどいましたよ。タイ王国、どこでしたっけ。で、思い出したのですよ。こちらの世に参る少し前に、シャムをタイと名前をかえたのだとね)

(えっ、タイってシャムって言ってたっすか。じゃぁ、シャム猫ってタイ猫って言わなきゃいけないっすか。あれっ、望さんの所の猫、シャム猫、あっ、あれはペルシャだったけ。ペルシャも歴史でしか知らないし)

(武蔵君、後ほど、そのペルシャも出てくるんですよ。あっ、僕が話し続けてもよいならですが)

(タイがシャムでペルシャもっすか。訳わかんないっす)

(ですわねぇ)

(で、その調書は僕が読めるわけで日本語で書いてある。その調書を日本語が読めない五番氏の為に左の人がタイ語に訳している。つまり、左の女の人は通訳さんで、その鳥のさえずりはタイ語だったんですね。あっ、五番氏というのは警察の牢屋での番号で、当然ですが、ちゃんと名前がありました。チャーとかティーとかパやポが多くてやたら長い名前がカタカナで書いてあったのですが、舌をかみそうで覚えきれませんでしたし、五番氏のままにしておきましょう。で、その五番氏、僕は警察ではもしや殺人犯とも思っていたのですが、全然悪いことしていない、と僕には思えてしまったんですよ。いえ、法律には触れているのですが、道義的に人道的に悪いとは言い切れない。いやしかし、それでも法に触れている以上処罰の対象になるのは当然とね)

(俺、わかんないっす)

(私にもわかりかねますが。経済犯でしょうか)

(えっ、経済犯というのは僕がわかりません。商法に触れるということでしょうか。違うと思いますよ。人を殺したわけでも、傷つけたわけでも、人から盗んだわけでも、人をごまかしたわけでもなくて、あっ、ごまかすは少し近いのでしょうか。でも、詐欺などではないですしね)

(まぁ、政治犯でしょうか。恐ろしい)

(カテリーヌさん、政治犯を恐ろしいと思わされるのは、僕の時代もそうでしたが、たぶん、今、あの頃を思い出すと、僕は、政治犯というものをつくる世の中が恐ろしいのだと思います。以前、僕、遠戚に特高が来てという話、ここでいたしましたが、覚えてらっしゃいますか。考え方が違うから逮捕されるというのは、あまりに恐ろしい。そういう考え方をしなければいいじゃないか、あの頃はそういう世の中でしたがね。あっ、それで、その政治犯でもないのですよ。その五番氏)

(あと、何があるでしょう)

(出入国管理及び難民だったかな、その違反のようです)

(出入国って、日本に出入りすることっすか。あっ、密入国っすか)

(密入国ですか。なるほど)

(いえ、密入国ではないようでした。ちゃんとどこどこの空港からなんとか航空でやってきてと書いてありましたから。僕はその時点で、もう不明のことばかりでしたよ。難民とは何でしょう)

(我輩も存じませぬ)

(あっ、もしかしたら新しい言葉なんでしょうか。戦前にはなかったのでしょうか。いつぞやテレビで見たのですが、第二次世界大戦が始まったか始まっていなかったかの頃、日本の外交官がヨーロッパのどこかの国で、ユダヤ人にどんどんビザを発行して、日本のシンドラーと呼ばれている人がいたそうで)


お読み頂きありがとうございました。

霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。

お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。


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