第八話 セミテリオに警察官 その八
(パソコンっしょ)
(そうそう、それ、それ。でも、それを使わずに、岡崎さんは机の引き出しを開けて、中から紙と、え〜と筆記用具で、鉛筆でも万年筆でもなくて、鉛筆みたいな細さで軸が透明で)
(ボールペンのことっしょ。なんかお兄ちゃんの話し聴いていると面白いっす。そんなにお兄ちゃんの頃って何もなかったっすか。その回る椅子っての、職員室に行ったら先生達の椅子みんなそれだし、あっ、校長先生とか教頭先生のはそれに肘掛けもついていたりして)
(いやぁ、武蔵君はいい時代に生まれたんですね。僕の頃は無かった物があふれている)
(あっ、でも、先生達の机の上って、いつもたぁくさん物が乗ってたっすよ。宿題やテストや、時々忘れ物箱とか、それにいろんなプリントが)
(プリントとは何ですかな。印刷関連ですかな)
(えっ、ロバートおじさんがプリント知らないっすか。へぇ〜、プリントもなかったっすか。へぇ〜)
(プリントとは、ちらしのような、要するに印刷物なんですが、一枚や数枚までで、書類とでも申しましょうか)
(あっ、そういうものもなかったですよ。岡崎さんの机の上には。あの時、湯のみ茶碗と例の機械、え〜と)
(パソコン)
(武蔵君、ありがとう)
(武蔵、お爺ちゃんの時代にも、会社にパソコンは無かったからね)
(へぇ〜、そうっすか。俺、生まれた時からあったっすよ。小学校の一年生から、学校で少しずつ使い方教わってたし、中学なんかその授業もあったっす)
(なるほど。後の時代に生まれると、使いこなせねばならない物が増えるわけですな。しかし、あの機械ならば、スイッチを入れるだけでいいように思えますがな)
(あっ、スイッチ入れるだけじゃないっす。そのあと、マウスでクリックするとかダブルクリックするとか、ワープロ立ち上げる方法とか、ワープロ入力方法とかインターネットにつなぐとか、結構ややこしいっす)
(ふむ)
(我輩も少し前でしたら、今の武蔵君の言葉に耳を疑ったでしょうな。日本語の文章とは思えぬ程にカタカナ英語があふれているのですな。幸い、昨今あちらこちらでその機械を目にする機会がございましたゆえ。しかしながら、あれをパソコンと呼ぶことは分かったのですが、パソコンという言葉も英語の様な、中国語のような)
(えっ、英語っしょ、パソコンって。PCっても言うっすよ)
(ああ、ロバートさん、あれは、パーソナルコンピューターと呼んでいたのですよ。長すぎるから短くしてパソコン)
(なるほど。personal computerですか。で、PCね。ほう、計算をする個人用機械ですかな。しかし、文章を作る時に使われているのではなかったかな。タイプライターの如く)
(ロバートおじさん、あれは、パソコンの中のワープロソフトを使うっす)
(そのワープロソフトとは何でござろう。ワープロに柔らかとは何ぞや。いやいや、これまた不明)
(うっそぉ、英語っしょ)
(ワードプロセッサーと言っていましたね。これまた短くしてワープロ)
(日本人は本当に短くするのが好きでござるな。word processorですか。単語を変化させる、その過程、ふむ。なるほど。計算機の中に単語を変化させるものが入っている。タイプライターは文字を打って単語を作る。word processorとは、単語をさらに如何にする。で、それが柔らかい。はてさて)
(わたくし、チンプンカンプンですわ)
(俺、そのチンプンカンプンって方が何語かわかんないっす。日本語ってことは分かるっすよ。意味もわかるっすよ。けど、なんか変っていうか、面白いっす。お経っすか)
(さて、我輩もそれをかつて尋ねたことがあったのだが、その頃まだ存命の江戸の方でもご存知なかったですな)
(あのぉ、この話し、やっぱり彦衛門さんとマサさんがいらっしゃる時にしましょうか)
(あっ、お兄ちゃんごめん)
(で、岡崎さんは何か書類に書いてました。万年筆ではなくとも、今の時代でも書類仕事はあるもんなんですね。で、その書類を書き上げて印鑑押して、立ち上がると椅子が勝手に後ろに下がるんですね。ほら、車輪がついているから。で、課長の所に差し出した丁度その時、壁の上の方から何か声がして、すると岡崎さん、私行ってきます、課長が頷いて、岡崎さん部屋を後にしちゃったんですよ。何しろ僕、岡崎さんに乗っているわけですからね、どこに行くんだろう、さっきの声は岡崎さんを呼んでいたようには聞こえなかった筈と思いながら。岡崎さん、さっき上がって来た階段とは別の階段、狭くて灰色の裏階段のような所を小走りに降りていってね、するとそこには制服の警察官や、制服ではないけれどたぶん警察官らしい人が何人もいて、こりゃ何だと思っていたら、ほら、さっきあそこにいた、死人を運び入れた自動車ぐらいのが入ってきて、中から、出て来たんですよ。こう手錠をされて、腰にも紐ゆわかれている三、四十代の男が二人。手錠をはめているのを目にするのは、ちょっとした衝撃でした。なんと申しましょうか、気の毒というのではないんですよ。まぁ、たぶん何か悪い事をした人なんでしょうからね。でも、こう、見てはいけないものを見たような。でも、岡崎さんをはじめ、そこにいた警官達は皆平然と、たぶん、見慣れているのでしょうか。で、岡崎さんの前を通った時に、あっ、乗り換えてみようと、それで手錠をしていた二人目の方に乗り移ったんです。岡崎さんに乗っていた時にはただの傍観者に過ぎなかった僕が、その手錠をした人に乗ったとたん、気分が沈んだんですね。不思議でした。なんだか自分が囚われの身になったような錯覚とでも申しましょうか。手錠で繋がれた手も、紐が巻かれている腰も自分の物ではないのにね。警察官がずらりと両脇に並んだ中を通り、扉をくぐり、さらに床に足形がある所で止まって正面をむかされて覗き窓のある扉を入り、あっ、その時だけでしたよ。その男が顔を上げたのは。後はずっとうつむいてました。で、次に格子の入った扉もくぐり、そこでようやく手錠と腰紐を外されました。僕が外されたわけではないのに、何かほっとしましたよ。で、何だかのし棒を平らにしたような物で体の前後を触られて、暴れたらこれで制裁されるぞと脅かされている様な気分になったのですが、僕が乗っていた人は慣れているのか平然としていました。で、今度は、格子の入った部屋の中に入れられて、そこには一人先客がいて、僕の乗った人、え〜と、名前はその時はわからなくて、五番と呼ばれていたのですが、で、先客の四番に会釈してました。警察署という建物の外扉の中の中扉の中の格子の中の格子の部屋に入れられた訳ですよ。こんなに頑丈な中に入れられるなんて、よっぽど悪い事をしたのだろうか。何をしたんだろう。四番の人は五番の人と一緒で怖くないんだろうか。いや、二人が一緒の格子の中にいるってことは、二人とも人殺しはしていないんだろうなぁ。それとも両方とも人を殺めたから、ここの中で互いに殺し合ったって構わないとでも思われているんだろうか。もしかして僕は殺人犯に乗ってしまったのだろうか。あっ、だからさっき外階段を登った時に警察官がたくさんいて厳重に警備していたのかもしれない。いやぁ、僕は乗る相手を間違えてしまったのかもしれない。いや、まてよ、このまま殺人犯に乗っていると、もしかして死刑の現場にも立ち会うことになるのだろうか。乗っている人が死ぬ時には乗っている僕はどうなるのだろう、それも興味深いものがある。そんな事を考えていたら、外から弁当箱みたいなのを渡されたんですよ。二人ともそれぞれ受け取って、蓋を開けたら、牢屋って麦飯だと思っていたのに、流石、今では白米なんですね。煮付けや漬け物や揚げ物まで入っていて、美味しそうでした。なのに、僕の乗っていた男はご飯と揚げ物だけで、あとは残して。もったいないでしょう。もう一人の方が、もの欲しそうにしていましたが、あげないで、担当さんって呼んでいましたが、外の看守に弁当箱を返していました。あっ、部屋の上の方に格子のついた窓があって、でも開いていなくて、空気は澱んでいて、あっ、上と言えば、岡崎さんのいた部屋と同じで、細長い光がついていまして、結構明るいんですよ)
(あっ、それって、蛍光灯っしょ。お兄ちゃんの頃には蛍光灯もなかったっすか、へぇ〜)
(なかったですね。電気と言えば、電球ぐらいで、電球の根元にスイッチがついているものでした。紐を引けば点灯できるのが最先端でしたよ。え〜と、たしか国民ソケットと呼ぶんでしたっけ)
(電球の根元にスイッチっすか。そんなの見たことないっす。変なの)
(変とは失敬な。スイッチがついているだけましだった、いや、電球が各部屋にあることが豊かさの象徴だったのです。電気が球体ではなく円管になったのですねぇ。観察しようと思ったのですが、まぶしくてね。で、また視線を下に戻すと、窓の下辺りに衝立があって、その奥には何があるのだろうと思った途端に、四番さんが、格子の外に向かって、紙お願いしますと言ったのですよ。すると警察官の服装の人がやってきて、このくらいの紙を格子の隙間から渡してきたんです。へぇ〜、この時代でも牢屋の中は昔みたいに巻き紙で手紙を書くのか。それにしても薄いというか丈の短い。これに筆や万年筆で書こうものなら破れてしまいそう。おっと、人を殺めるような者に字は書けるのだろうか。すると四番さん、紙を受け取るとすぐに衝立の向こうに行ってしまい、その内、臭気が漂ってきて、これは紛う事無き排便臭。それになんだかうなってましてね。 喰えば出る。あっ、これじゃぁお爺ちゃんになっちゃいますね。やめにしましょう。 で、今度は四番氏、水お願いしますと言うと、衝立の向こうで水が流れる音がしまして。ふむ、牢屋の中も水洗便所になっているのだと、納得しまして、見てみたいもの、まぁその内、僕の乗っている五番氏も便所に行くだろうからその時に見てみよう。それにしても、麦飯ではないわ、便所は水洗だわ、光は明るいわ、牢屋の中もしっかりモダンになっているものだと関心いたしました。ああ、お爺ちゃんがいらしたら、僕なんかよりもっと驚かれるでしょうに。で、窓が閉まっていますからね、いくら水洗とはいえ、臭気はしばらく漂っていましたね。五番氏が臭い野郎だなどと言って喧嘩になて四番氏を殺めたりせねばよいが、などと思っておりましたが、五番氏も四番氏も無言。二人とも膝をかかえて座っていて。あっ、床は地面ではありませんでした。そりゃそうですね。建物の中の二階が土の床な訳ないですからね。でも畳でもなく、何て言うのでしょう。ケットのような)
(ケットって何っすか)
(ブランケットですよ。毛布)
(あ〜、毛布。えっ、毛布が敷いてあるっすか)
(毛布のような)
(絨毯でしょう)
(いえ、絨毯などそんな高級なものではなく)
(へっ、絨毯って高級っすか、高いっすか。学校の図書室や市の図書館の床も絨毯っすよ)
(武蔵や、昔は絨毯は高いものだったのだよ。かつては手織りばかりだったからね。今のカーペットは機械で作るし、化学繊維も使用しているから安くなったが)
(あのぉ、絨毯とカーペットは同じものではないのでしょうか)
(カテリーヌさん、最近、そうですねぇ、昭和の終わり頃から、自然繊維の手織りの高級品を絨毯と呼び、庶民が普通に使うものはカーペットと呼んで分けるようです)
(そうなんですか。似た様なものを外国語を使って区別なさるわけですね)
(うっす。それなら俺も分かるっす。ソルベとかジェラートって言うから何のことかと思ったらアイスクリームっすよ。あっ、あれ、アイスクリームじゃなくて、え〜と、何だっけ、母ちゃんなんかはシャーベットって言うんだっけ)
(氷菓とも言いますしね)
(わたくしの頃は日本語でアイスクリンでしたわ)
(英語のcreamがクリンですな)
(アイスキャンデー、とも言ってませんでしたか)
(うへっ、お兄ちゃん、アイスキャンデーっすか。何か古くさい。それにあれ、キャンデーじゃなくてキャンディっしょ)
(おっ、武蔵君、dyがデーではなくディと、なかなか英語らしい発音ですな)
(えっ、そんなん常識っしょ。俺、保育園の頃から言ってたし)
(僕の頃には、candyがキャンディと知っていても、キャンデーと言うものでした。ディなどと言おうものならアメリカかぶれとのそしりを受けかねなかった。いや、まぁ、そもそもそういう甘いものは街中から消えかかってましたがね。で、話しを元に戻しますと、それにしても狭い部屋だと感じておりました。隅の棚にはきちんと折り畳まれた布団。狭い部屋に折角二人いるんだから何かしゃべればいいものを、二人ともむっつり黙っているんで、僕はそろそろ退屈し始めていました。間違ったかな、あのまま岡崎さんに乗っていた方がよかったかな、などと思っている内に、僕の方がうとうとしてしまいました。次に目覚めたのは、またしても、紙お願いしますの四番氏の声でした。で、水の流れる音。どうも、四番氏は腹を下してたらしいのですね。もうその時は夜更け。電気は天井で小さい橙色のがついていましたが、看守の部屋から、もれる、というよりまともに光を浴びていて、暗くないんですよ。このセミテリオの夜の方が、これでも大分暗いくらいでした。で、夜明けにやっと僕の乗っていた五番氏が便所に立ち、といっても紙は必要ではなかったらしく。まぁ水は流してもらっていましたが)
(毎回水を流す看守も手たいへんですねぇ)
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。