第八話 セミテリオに警察官 その三
(ほら、俺、わかんないっすよぉ。英語だけでも頭ぐるぐるっす。フランス語なんて。なんで海が女で橋が男なんて、誰が決めたっすか)
(♪Sur le pont d’Avignon, L’on y danse, l’on y danse♪)
(さぁ、何となくでしょうねぇ。言葉なんて、誰が決めたというよりも、なんとなく使われている内になのではないでしょうか)
(カテリーヌさま、先ほどから、鬼出せ鬼出せと、何を歌ってらっしゃるのかしら)
(あ、これですか、虎之介さんが橋は男とおっしゃったので、思い出したのですわ)
(それ、橋の上でとかいう歌っしょ。聞いたことあるっす)
(あら、ありがとうございます。仏蘭西の歌なんですよ)
(橋の上に鬼が出て来るのでしょうか)
(マサさま、鬼出せではなく、L’on y danse, l’on y danse、踊りましょう、という意味ですわ。鬼が出て来たら怖いです)
(橋の上に出て来るのは弁慶ですよ)
(うわっ、爺ちゃん、その話、だめっす)
(すまない、つい)
(爺ちゃん......)
(おや武蔵君、いかがなされたかな。ああ、なるほど、武蔵坊弁慶ですな)
(えっ、うっす。けど)
(武蔵さん、大丈夫ですか。橋の上には鬼は出て来ませんわ)
(えっ、うっす)
(ああ、そうそう、先ほどの武蔵君の問いなのですが、つまり死んだばかりか、死んでから随分経っているか。日本語ではどちらも死んでいるという状態であり、死んだという経験をしたことになるのですな)
(ふ〜ん、俺、やっぱわからないっす。どっちにしても、ロバートおじさんも俺も死んでるっしょ。ロバートおじさんが死んだのは随分前で、俺が死んだのは二年ぐらい前で、俺の方が死んだのが遅いからって俺は生き返れるってわけないっしょ。僕の死んだのは少し前じゃないっすけど)
(武蔵君、少し前に終わったことを現在完了と言うのですよ)
(だって、お兄ちゃん、少し前っていつっすか。地球が何回まわってからっすか)
(地球が何回って......)
(これこれ武蔵、そんな幼稚な物言いはやめなさい。虎之介さんがお困りだ)
(だって、少し前たって、一秒前のことか、一分前のことか、一時間前のことか、一日前のことか、一ヶ月前のことか、一年前のことか、そんなん、人によって違うっしょ)
(俺も、その春が来たってのは聞いたことあっす。けど、春がいつ来たなんてわかりっこないっしょ。で、その時に春なら、ingってのがあるっしょ)
(ing、進行形ですね)
(そうそう、それっす。けど、春が来たって時には春なのにingは使わないっしょ。わからないっすよ。springingって面白いじゃないっすか。何だか春がピョンピョンしてるみたいっしょ)
(しかし、その一分前か、はたまた一年前かという死亡時期の問題だとすると、私、いや、警察でしたら問題にしますのっ。死んだばかりであるならば、行き倒れなのか、はたまた殺されたのか、しかし、数ヶ月を経てしまうと、なかなか解決できないでしょうしのっ)
(お爺ちゃん、もとい、彦衛門さん、今の警察はそうでもないようですよ。この前、僕が乗って行った時の警察の中には、色々な機械があって、驚きました。写真機ぐらいなら僕も知っていましたが、あの小さな電話も中を見られるそうですし、髪の毛から、え〜と、できたのででD、何かのなでN、あるのかのあでAでDNAと僕が覚えた何かがわかって、それでまたさらに何かがわかるらしいのですよ)
(あの小さな電話はそりゃ分解すれば中は見られるでしょうのっ。鉄砲だって種子島に伝わって以来、分解して似たものをこしらえたくらいの日本人ですからのっ。で、その、出来た何かがあるというのは、拇印かのっ。拇印は、私が生まれるはるか前から江戸の頃から使っておったのっ。掌紋で誰のものか分かったのでしたのっ。何も驚くにあたらないですのっ)
(お兄ちゃん、DNAっしょ、俺、理科で習ったっす。けど、何だかよくわからなかったっす。遺伝子がどうのこうの、同じDNAの人はほとんどいない、とかだけしか覚えていないっす。教科書に鎖みたいな絵があったっす。で、テレビで言ってたっすけど、DNAで死体が誰だかわかるって)
(へぇ〜、僕も理科は得意な方ではなかったのですが、そういうことも中学校で学ぶのですか。一応高等学校にいた身としては、僕の知らないことを武蔵君が知っているというのはいささか面目ない、いやまったくもって面白くない)
(いやいや、虎之介殿、世の中はそんなものでござる)
(出来たか出来ない何かがあるというもので、死体が誰だかわかるというのですかのっ。ふむ、それはたいへんですのっ)
(だんなさ〜、どなたかがわかると、どうしてたいへんなんでしょう)
(マサ、考えてもごらん。戊辰や西南の時、全ての死人の身元が判明したわけではないですのっ。それに、ほら、あの頃、大阪や方々で出水で死人は多かったですのっ。その出来の悪い何かがあるで調べられるとすると、調べている間に死人を預からねばなりませんのっ。土葬にするまで如何に保つか)
(だんなさ〜、わたくしの頃は火葬でござました)
(とはいえ、火葬まで死人を預からねばならぬのっ、腐りますのっ)
(冷蔵庫あるっしょ)
(ああ、あのため息学生の長屋にあったものですのっ。しかしあれは小さい。死人を入れておくわけには参りませぬのっ)
(今は冷凍で保存するそうですよ)
(おっと、武蔵君のご祖父殿、然様でござるか)
(ええ、昨今では。私の葬儀は夏でしたが、死んでから通夜まで中二日、その後、日が悪いとかで、死んでから火葬まで五日もありましたが、その間、冷凍庫ではないのですが、保冷剤を使って、腐りもしなければ臭くもならなかったわけです)
(ほれいざいとは何ですかのっ)
(冷たい状態を保つものです。でついでに冷凍庫というのは、カチンカチンの氷のようにできる入れ物です)
(死人はカチンカチンになってから、だらんとしてくるのですのっ。だらんとし始めたら臭くなる一歩手前。カチンカチンにしたままということですのっ。蝦夷や富士の高嶺に参らずとも。進歩とは興味深いものですのっ)
(ですから、保冷剤や冷凍庫を使えば死体はカチンカチンのまま)
(その、出来の悪い何かがあるので調べられるということは、例えば、明治の世に、桶狭間の戦の死者が掘り出されると、いや、それは古すぎるとしても、いや、やはり古くとも頭髪は割と残るものですしのっ、頭髪があればこれすなはち氏素性がわかるということですのっ。江戸の世になる前は、やまとの国はあちらこちらで戦がありましたからのっ。大変ですのっ)
(髪の毛だけではないのだそうですよ。骨でもわかるそうです)
(おっ、それはそれはなおさら大変なことになりますのっ)
(だんなさ〜、なぜですの)
(つまり、マサのように火葬にされても骨は残りますからのっ。その骨で誰かがわかるということは、おおおおおっ。それが警察の仕事であるなら、警察はたいへん忙しくなりますのっ。あちこちの墓で)
(だんなさ〜、わたくしはわたくしがどこの誰女かわかっておりましたから、このお墓におりますのよ。セミテリオにいらっしゃる方は、ふつうはどなたなのかわかってらっしゃるってことですわ)
(いやいや、マサ、この世、いや、あちらの世に、素性のわからぬ死人は山ほどありましたのっ。そういう死人が毎年毎年、今は何年ですかのっ。どんどん殖えていくわけですからのっ。それを、調べられることになると、調べなければ調べない警察が責められましょうのっ。いやはや。今のあちらの世にいなくてよかった、よかった。ふむふむ。それであちらでは今、あの死人が何処の何の誰兵衛なのか探ろうと、死んだ理由を探ろうと警察官がやってきたのですのっ。なるほど、これから調べるわけですのっ、大変ですのっ。いや、私としては乗って見て参りたいですのっ)
(へぇ〜、お爺ちゃん、ああいうの好きなんだ。どっちかっていうと、お爺ちゃん、俺の爺ちゃんと一緒で出不精だと思ってたっす)
(これこれ武蔵、失礼な)
(いや、たしかに私は出不精ですのっ。しかし警察となれば、見て参りたいものですのっ。その色々な道具というものも、この目で見たいものですのっ。拷問道具もあるのですかのっ)
(拷問はしないようですよ。敬語こそ使っていませんでしたが、捕まえた人にもていねいに語っていましたしね。驚きましたよ。お爺ちゃん、もとい、彦衛門様、あの時僕と一緒に乗っていればいろいろ見られましたよ)
お読み頂きありがとうございました。
霊園セミテリオの気の世界を、お楽しみ頂けましたなら幸いです。
お読みになられたあなたと、書き手の私が共に生きておりましたら、来週水曜日に再会いたしませう。