第四話 セミテリオのこども達 その七
(あら、ユリまで脱線してしまいました。元に戻します。そういえば、忘れてました。床がね、お教室の中も廊下も、木じゃないんです。なんかすべすべしていて。ですから、昼食の後のお昼休みの後のお掃除の時にもね、ほうきじゃなくて、長い棒の先にひらひらの毛虫みたいなのがいっぱいついたのでこすっておしまい。お雑巾で拭かないのよ。で、話を元にもどして、えっと三時間目は体育でした。そうそう、校庭の地面も、地面って言っていいのかしら。土じゃないの。なんだか緑色っぽい、ふわふわみたいな変なの。そこに線が引いてあってね、あっ、徒競走の線、運動会が近いからその練習なんですって)
(運動会が近いって、ユリちゃん、まだ初夏だというのに、秋の運動会が近いってのかい)
(ユリもね、運動会って秋にするものだと思ってたの。だって、運動会ってほら、ご両親やご家族がみんなで集まってお弁当並べて、それでまだ青い蜜柑がすっぱくって、ってね)
(青い蜜柑、なつかしいのっ)
(日本語ではなぜ緑色を青とおっしゃるのですか、わたくし不思議でしたの。日本人の目には緑色は青と同じに見えるのでしょうか)
(カテリーヌさん、碧という漢字は昔からあおともみどりとも読んでいるようでござる。日本語では碧と青と緑が混在しているようですな。最近の散歩ではあちらこちらで見かける信号の光の色も、青というよりは緑に見えるのだが、あれを日本人は青と呼ぶのも、そういうことなのではないかと、我が輩は認識しております)
(う〜ん、体育の授業のお話から蜜柑にしてしまったのは、ユリです。でも、蜜柑から青のお話に、また逸れてしまってますっ。話を元に戻させてくださいな)
(ユリさん、セミテリオの時は永遠ですわ。ごゆるりと)
(それで、体育の時間でも、その前のお時間の算数の長さの説明をなさってました。ここまでが何、何でしたっけ。校庭を一周すると、とか。あっ、行進の練習やお遊戯の練習、ラヂオ体操ってのもしてました。ラヂオをかけるんじゃなくて、どこかから音がしていたんですけれど、ユリにはわかりませんでした。第一から第三まであるそうで、第一を練習しました。音楽に合わせて体を色々な向きにうごかしたり、ぐるぐるまわしたりするんです。ちょっと面白かったです)
(ラヂオは私にも分かるが、そのラヂオ体操というのはなんですかのっ)
(だんなさ〜、わたくしにお乗りになってらっしゃっていればお分かりになりましたものを。あれはいつ頃からでしたでしょう。大正の御代、いえ昭和の初めの頃からでしたかしら、毎朝広場や境内に集まりましてね、町会長さまが前にお出になって、ご近所のラヂオの音を大きくしましてね、みんなで体を動かすわけです。音楽に合わせて、動かす順が決まっておりまして、町会長さまが♪いっちにぃさんしぃ、ごぉろっくしっちはっち♪、などと声をおかけになって、そこに出て来ない者は朝寝坊のぐぅたら穀潰しとか悪口も飛び交いましてね、ちょっとぐらい熱があっても、参らないと何を言われるか、家にまで訪ねてらして、御加減いかがですかという、善きにつけ悪しきにつけ、左様な雰囲気でございました)
(おばあちゃんの齢でもそうだったの、へぇ〜)
(虎之介殿、わたくしは貴殿の祖母ではございませんっ)
(はいはい。僕も尋常小学校や中等学校ではそれやらされました。いや、最初はね、みんなと一緒に同じ事をするってのも面白かったですよ。小さい子ってそんなもんでしょ。夏休みだって冬休みだって、学校がお休みでも朝寝坊はできない。いや、二年坊主ぐらいまではね、校庭に一番乗りだっ、なんて競争したりもしましたけどね、段々、進級するにつれて、特に高等学校に入ってからは、なんだか馬鹿らしく思う自分がいるわけですよ。ところが時が時だけに、中国相手に戦争していたわけですから、国民一丸となって、でしたし、中等学校にも高等学校にも軍事教練で軍から軍人が来てましたからね、ラヂオ体操どころか、陸軍兵式体操だの海軍体操だのどこかの国の体操やら、やらされました。僕、薄々気づいてはいたようにも、今から思うとそう思うのですが、たぶん既にその頃胸を煩っていたんですね。体操をすると息切れがする、辛いから動きが緩慢になる、たちまち怒声が、拳骨が飛んでくる。たるんでるぞっ、我が皇国臣民としてなんだかんだ云々云々と続くわけですよ。まぁ、直に休学してしまうわけですが、高等学校の代名詞みたいなバンカラの格好も世が世なだけに少なくなっておりましたが、下駄も重くなりまして、いや、ゲートル巻いて下駄ははけなくなりましたが、そんな僕が制裁拳骨などに耐えられる訳もなく、ひ弱な恥知らずの臣民の末席に置かれておりました。軍人なんぞのどこが偉いんだ、帝大で法学を見につけ見返してやるなど初期の意気込みすら気もなえ、気も吸えず、煙草を吸えばごほごほ、酒を飲めばよれよれに)
(貴殿も苦労なさった由、そのバンカラとは面白い言葉なのでござる。日本語と英語をつなげた言葉ですな。ハイカラ同様、カラが付くが、はてさてこのカラは何なのか。二説ありましてな。ひとつは襟、カラー、すなはち高い襟、もう一つは階級、クラス、つまり高い階級、すなはち上流階級、どちらなのでござろうか。最初に二つの言語をつなげてこの言葉を作った御仁に尋ねてみたいものですな。ちなみに、こちらにいらっしゃるカテリーヌさんですと、ハイカラの両方に当たりますな。襟の高い服を身に着けた上流階級の方ですから)
(いえいえ、わたくしなど上流などとはとても申せませんわ。英吉利ですとじぇんとるまん階級になるのかしら。新しい階級とでも申しましょうか。財産はそれなりにございましても、王室のような歴史的家系ではないと申しましょうか、うまく説明できませんわ。わたくしにも祖父母、曾祖父母そのご先祖様と、歴史はございますし、どなたにもご先祖様はいらっしゃいますし。え〜と、ずうっと昔からお金持ちというわけではなかった、ということかしら、それとも政治力を持たなかったということかしら、うまく立ち回れなかったということかしら、あら、よく分かりませんわ)
(なんだか、またユリの話、脱線させられちゃいました。あのぉ、それで、体育の話は、もうやめます。あっ、でも、校庭でね、面白いもの見つけました。カテリーヌさまとご一緒した幼稚園にはございませんでしたのに、小学校には鶏小屋と兎小屋があったんです)
(もしや、時折聞こえる朝の雄鶏の挨拶は小学校から聞こえてくるのでござろうか)
(ほうっ、こども達の食料用に飼育しているのかのっ。さぞかし鶏もうさぎもたくさんおったのだろっ)
(彦衛門さま、いえ、あの数羽ずつでした)
(ほう〜、貴重品だのっ。師匠の食料かのっ)
(それとも、僕みたいに虚弱な子に生卵を食わせるためとか)
(虎之介殿も、肺病には滋養第一と生卵を召し上がられてたのですね)
(はい、いえ、そろそろ物資欠乏が始まっておりまして、僕が療養とはいえ戦中行く宛もなく親元におりました頃には配給制度も始まり、かといって都内で誰もが鶏を飼っていたわけではなく、雌鳥の若いのを両親は分けて貰ったのですが、一羽では毎日たまごを産み続けてくれるわけでもなく)
(そういえば日本人は生卵を召し上がるのですね。あれはわたくし、気持ち悪くて)
(カテリーヌさん、仏蘭西人もえすかるごを召し上がるであろう。我が輩はあれは苦手でござる)
(えすかるごって何ですか。美味しそうな名前に聞こえます)
(ユリさん、貴女もきっと気に食わぬ、否、食えぬ筈でござる。なめくじ、じゃなくて、貝に入った、ほら、そこの紫陽花にいる、あっ、まいまい、でしたかな。そう、えすかるごとはまいまいでござる)
(まぁ、カテリーヌさま、まいまいをお召し上がりになってらしたんですかっ)
(あら、美味しゅうございますわよ。バターでいためたり、ケチャップで煮たり)
(ほうっ、それぞれ違う物を食べるものだのっ)
(文化の違いでござるな。違う文化を野蛮と思うか、崇拝するか、受容の程度こそ受容する側の文化度なのでござろう、という結論に我が輩は達しました。ただ、受容するということは食せるということとは別の物とも思っておりますな。生卵を食べようとまいまいを食べようと、そういう文化があるということでしかなく、そういう文化だから素晴らしいとか野蛮だとか、そう考えるからことがややこしくなるのでござろう)
(まぁ、人間、自分の基準で他人を判断しがちでのっ)
(わたくしも、江戸、いえ東京に参りましてから、言葉や風習の違いに苦労いたしました。薩摩言葉は乱暴、薩摩言葉を話すおごじょ、おなごは田舎者だのなんだかんだと言われておりました。田舎者と言われて、はいそうです薩摩は田舎です、と開き治れるまで随分時間がかかりましたわ。わたくしにとりまして、薩摩はわたくしの故郷、素晴らしいところ、それをご存知ない方に田舎者と言われて悲しみ、でも、気付いたのですわ。田舎者という言葉をおっしゃる方が田舎というものを下に見ている、田舎を下に見るという文化しかお持ちでない可哀想な方なんです、と)
(マサさま、ユリの父は越後の出です。明治になってからは、日本のあちらこちらから上京してらした方々ばかりでしたでしょ。江戸の頃からの江戸育ちの方より、江戸育ちでない方々の方がよっぽど多かったんじゃございません。ですから三台目江戸っ子などという言葉もございましたし。田舎者ということをおっしゃってらした方々も田舎者だったのかもしれませんわ。哀しいことですけれど、あちらの世界にいると、よその方を下に見ることでしか自分を下に見ない術がないと思ってらっしゃる方々が多いんですもの)
(そうそう、男か女か、餓鬼か大人か老人か、金があるか貧乏か、学があるか無学か、地位があるか庶民か、医者か乞食か官僚か、家系が良いか家系が辿れないか、嫡子か庶子か、容姿が良いか悪いか、基準を作って枠にはめて誰が下だとか上だとか、他人を判断して安心する。こちらに来ちゃえば関係ない、たぶん、本当はあちらの世界でも、誰が上とか下とか、無い方が楽だよね。本当に大事なのは、性格なのかもしれないって、僕は思う。じゃぁいい性格って何かって考えると、これ、難しいんだけれど、まだ結論でていないんだけれど、たぶん、違う物を受け入れる余裕のある性格、なのかな、って思う。財産や容姿や学歴が違うから別の種類の人間だって思うのって、なぜなんだろうね)
(我が祖国亜米利加では肌の色の違いがひいては戦にまでなりましたが。日本に参りましてからは、金髪碧眼の我輩ではともかく逃げられる。こちらが日本語で話してもぼんやりされる。八百屋の爺さんだけが日本語の話相手でした。あの爺さんは江戸っ子、最初の内こそ我輩を目にすると、それまで曲がっていた背中をぴんと伸ばして、顔を上げて睨むようにしておりましたが、我輩の日本語を面白がるようになってからは、あの爺さんだけは日本の生活の中で我輩を同じ人間として扱ってくれた日本人でした)
(福沢諭吉爺が学問のすゝめで、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと書いてただろう。逆に言えば、人がそうしていたから嘆いていたんだろうね。でも、爺ですら、生まれた時には差は無いけれど、生きている内に差ができるのは学問故、とも言ってるしなぁ、だから学問を勧めたってことなんだけれど。それに、男に生まれるか女に生まれるか金持ちの家に生まれるか貧乏人の家に生まれるかで、学問の機会も違うだろうし。どこに生まれるかは選べないし。士農工商の別がはっきりしていた江戸では親と同じ職に就くと決まっていたようなもので、明治になってからは職は選べるってことになったけれど、限界あったしね)
(うふふ)
(ユリちゃん、何がおかしいんだい)
(ユリね、福沢諭吉さまのその書物、表紙だけは目にしたことあるんです。学問は読めたんですが、すゝめが読めなくて、すずめとか、すっめとか読んで大笑いされたんです。ですから、中身は知らなくても、その表紙は覚えています)
(明治の御代は驚天動地、下克上、上を下への大騒ぎ、あらゆる枠が外されたような時代だったというのは錯覚だったがのっ。巧く立ち回れるかが勝負の決めてだったのかのっ。金を儲ける奴がいりゃ、儲ける術を無くす者もいた。太平な江戸三百年近くの生きる術では生きられなかったのっ)
(だんなさ〜お金がなければこのセミテリオは買えませんでした)
(そうだったの。私が死ぬことを見越して、マサは早めにここを買っていたものな)
(セミテリオに入らなくても人は死ぬだろ、どこで死ぬかなんてわからないし)
(我輩は突然殺されましたしな)
(戦があれば死人が出る。死人を埋葬する暇もないということも古今東西枚挙なしですな)
(江戸の頃からの江戸っ子は、薩長土肥のものを馬鹿にする。まぁ、怖かったのかもしれんがの。知らぬものは怖いもの。見慣れぬものは怖いものだからの)
(眉毛が、毛が濃い、肌の色が黒い、目が飛び出てる、言葉が違う、風習が違う、もう、何でもかんでも、田舎者という言葉でくくられて、悔しかったり哀しかったり)
(カテリーヌさん、貴女はそれほどでもなかったでしょうかな。仏蘭西は江戸幕府と外交関係がありましたし、貴女のご主人は英吉利で、これまた薩摩と戦って勝ってますしな。我が輩の米国も、ペルリ以降怖がられてはおりましたが、なにしろ仏蘭西や英吉利からすれば二等国家、西洋人の間でのそのような階層が日本人の間にも通じていたようで、我が輩が亜米利加人だと知ると、やや下にみたような、もしかすると、薩摩の方々と我が輩は、前からの江戸っ子にしてみれば同じ余所者、勝手に江戸にやってきて我が物顔をする輩だったのかもしれませんな)
(ユリちゃん、鶏小屋の話の続きは)
(あら、ごめんなさい。わたくし、だんなさ〜ともう少し思出話に花咲かせとうございますわ。鶏小屋と言えば、だんなさ〜、覚えてらっしゃいますかしら、もう五十年以上前のこと、悦が朝子と克子と朝子の子綾子を連れてセミテリオに参って、ほら、すぐそこでお昼をご一緒したこと)
(おうおう、そういうこともあったの。重箱がいくつも並んで、のり巻きやお稲荷、卵焼きや蒲鉾や竹輪、たくあん、煮しめなど、ああ、あの卵焼きのことかのっ)
(いえ、あの時、わたくし達、迷いましたでしょ、誰に乗るか。娘の悦か、孫の朝子か克子か、それとも幼い綾子にするか、って)
(おうおう、そうだったの。それで、朝子に乗ったんだった)
(それでしばらく滞在しておりましたでしょ。朝子の家はあの頃三田にございましたでしょ。朝子の家には鶏小屋がございました。覚えてらっしゃいますかしら。ほら、市電、いえあの頃は近くを都電が走っていて、綾子の通う幼稚園には牛がいました)
(おう、あれはもう戦後随分経っていたのっ。あの牛は何の為だったのかのっ。あの鶏小屋は卵のためだったと記憶しておるが)
(そうでした。朝子が毎日たまごを取りに中に入って行って。でも幼い綾子は鶏が怖くて、外から葉っぱを差し出して、鶏がついばむ直前に葉っぱから手を離してましたその様子が可愛らしくて。指先をついばまれると大泣きしてましたわね)
(綾子はよく泣く子だったからの)
(もしかして、わたくし達が朝子に乗っているのを気づいてたからでしょうか)
(さぁなぁ、幼子は感が強いからの)
(それで、鶏もだんだん卵を産めなくなり、朝子は、情けない事に自分では捌けないらしく、生きたまま鶏をお肉屋さんに持って行き、絞めてもらって、綾子の誕生日に洋風の鶏料理を作ってましたっけ)
(鶏料理といえば、麹町の武人は、鶏飯が好きで、私同様自分で料理しておったの)
(そうそう、兄の所には、悦を行儀見習いで預けておりましたでしょ。あの頃、悦が申しておりましたわ。おじさまは卵料理が好きで、けれど生卵にこだわって、黄身がぷっくりもりあがり、黄身に混じりけが無いものを食さねばならぬと、毎日いくつも卵を割っていたそうですわ。それで割ったけれど兄が食べなかった卵がいくつもあるので、毎日出汁巻きを作っていたそうです)
(武人は薩摩の頃、我が輩同様藩校で学んでいた頃から、少し胃腸が弱くての、生卵にあたったことも何度かあって、慎重になっていたのであろうのっ。あの頃は、割った卵がややおかしかろうと、食べないなどとはもったいないからの、少しぐらい傷んでおっても食べてしまったからの)
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続く
お楽しみ頂けましたなら、幸いです。その八は9月1日までにはアップいたします。




