2話 王都ラザリア
封印獣との戦いから三日。
村は見る影もなく瓦礫と化し、辛うじて残った家々に人々が身を寄せていた。
焦げた木材の匂い、焼け崩れた石の残骸、風が運ぶ灰の舞い――その中に、かすかな笑い声や子どもの泣き声が混ざっている。
壊された日常を寄せ集めるように、人々は必死に立ち上がろうとしていた。
俺の右腕は厚い包帯で固められ、痺れと痛みで満足に動かせない。
しかし、周囲の視線はその傷よりも、俺自身に向けられていた。
生き延びた者たちの目には、不思議な熱が宿っていた。
――絶望を打ち破った瞬間を、皆が確かに目撃していたからだ。
その日、村に王都ラザリアからの正式な使者が到着した。
先頭を行くのは黒い外套に身を包んだ騎士たち。鎧の軋む音と蹄の響きが、荒れ果てた村に重々しくこだまする。
続く馬車の列には書記や従者が乗り、旗には双塔と炎の紋章がはためいていた。
その馬車から降り立ったのは、銀髪の壮年の男。
陽を浴びてもなお冷たさを感じさせる瞳と、背筋の伸びた威容。
胸に輝く双塔の紋章が、彼がただの役人ではなく、権威の中枢にいる人間であることを物語っていた。
「我はラザリア王城評議院の一員、レオン卿である。
――封印獣が現れたと聞き、急ぎ参上した」
その低く響く声に、村人たちはざわめきを止め、一斉に頭を垂れた。
ガロンや村の長老たちが進み出て膝を折り、俺も同席させられ、事情を語ることになった。
「俺は……偶然、発掘現場で……あの“黒い手”を見つけて……」
自分の声が震えているのを自覚する。あの瞬間の光景は、今もまぶたに焼き付いて離れない。
語り終えると、レオン卿は長い沈黙の後、鋭い視線で俺を射抜いた。
「……クレイヴの報告と食い違うな」
「報告?」俺は眉をひそめた。
「彼はこう述べている。村人たちが禁じられた遺物を暴走させ、封印を解いた――と」
「なっ……!」
リリカが思わず立ち上がり、拳を握り締めた。
「ふざけるな! あの男は逃げただけだ!」
場に緊張が走る。だが、レオン卿は片手を上げ、静かに制した。
「静まれ。……どちらにせよ、封印獣が動いたという事実は重い。
王都には“ある極秘の記録”が残っている。お前も知るべきだろう」
馬車の中で広げられたのは、黄ばんだ羊皮紙。
その古びた図には、大陸全土に点在する“七つの黒い影”が描かれていた。
「封印獣は、一体ではない。
大崩壊の最中、魔術師たちが暴走させた術式炉が変質し、七体の“災厄”として世界に刻まれたのだ。
《オルガ=マウ》は、その一つに過ぎん」
七体――。
あれほどの怪物が、まだ六体も眠っているのか。
冷たい汗が背を伝い、手のひらに嫌な湿り気を残した。
「篠崎悠真――」
レオン卿は俺の名を呼び、その眼差しを真っ直ぐに向けてきた。
「お前の力は危険だ。だが同時に、世界に残された唯一の希望でもある。
王都に来い。詳しく調べさせてもらう」
隣でリリカが反射的に立ち上がり、俺の前に出る。
「勝手に連れていくな!」
その声には怒りと恐怖が入り混じっていた。
俺は息を吐き、答えを絞り出した。
「……行くよ。行かざるを得ない。
このままじゃ、またどこかで誰かが死ぬ」
やがて馬車が村を後にした。
遠ざかっていく発掘区画を振り返る。
崩れた土の奥――そこには、まだ黒い影が沈んでいるのが見えた。
それは静かに、しかし確かに、脈動していた。
――車輪が石を踏み、鈍い振動が腰を揺さぶる。
馬車の中は、乾いた藁の匂いと革の匂いが入り混じっていた。
向かいにはリリカが座り、窓の外を睨むように見つめている。
彼女は参考人として一緒に連れてこられた。
俺は右腕を膝に置き、包帯の上からそっと押さえた。
まだ痺れは残っている。握ろうとしても力が入らず、指先が震えるばかりだ。
――この世界に来てから、初めて「死」を真正面から感じた。
異世界。
俺が目を覚ましたのは、魔法文明が滅んで数百年という荒廃の只中だった。
都市や城はまだ存在し、人々は細々と暮らしを繋いでいる。
だがその裏には、俺たちが戦ったような封印獣や、無数の魔物が蠢いている。
俺は、なぜこの世界に来たのだろう。
事故で死んだ俺が、ただの偶然でここに?
それとも――何か理由があって呼ばれたのか。
古代端末。
あれは俺にしか扱えない。
解析や構造表示……まるで、この世界の遺産を「動かせ」と言わんばかりの力だ。
封印獣を倒せたのも、結局はあの力のおかげだった。
でも、もしまた別の封印獣が目を覚ましたら……?
七体のうちの一つでさえ村を壊滅させたのに、残りが目覚めれば、人類が残っている都市や王都すら、簡単に呑み込まれるだろう。
俺の胸を冷たいものが締めつけた。
右腕の痛み以上に、未来への恐怖が重くのしかかる。
「……難しい顔してる」
不意に、リリカが口を開いた。
窓の外から視線を戻し、じっと俺を見てくる。
「そんなに自分ばっか背負い込むなよ。あんた一人で世界をどうにかできるわけじゃない」
俺は苦笑を浮かべる。
「それでも……やらなきゃいけない気がするんだ。あの端末が俺に渡ったのも、偶然じゃない。そう思えてならない」
リリカは呆れたように息を吐き、だがほんの少し、口元を緩めた。
「……ならせめて、死ぬなよ」
馬車は丘を越え、遠くに石造りの街壁が見え始めた。
夕陽に照らされるそれは、廃墟の村では決して見られなかった、人の営みの象徴だった。
けれど同時に、胸の奥では別の思いが膨らむ。
――王都。
そこには、俺の知らない陰謀と、さらなる真実が待っているはずだ。
馬車の揺れに合わせて、俺の決意もまた、静かに揺れ動いていた。
馬車の窓から差し込む夕陽が、視界を金色に染めていく。
やがて丘を越えた時、俺たちの目に“それ”が現れた。
――王都ラザリア。
大地にそびえ立つ城壁は、まるで巨大な山脈のように連なり、その表面には緻密な紋章と修復の跡が刻まれている。
何百年も前に大崩壊で崩れ去った文明の断片を、必死に繋ぎ止めたような姿。
けれどその古傷こそが、人類がまだ滅びきっていない証でもあった。
城壁の上では、槍を持った衛兵が隊列を組み、旗が風にたなびいている。
遠く天を突くように立つ双塔の城、その中央には炎を象徴する大紋章が掲げられていた。
荘厳で、力強く、同時にどこか冷たい。
門前に着くと、数百人規模の人々が列をなしていた。
荷馬車、旅人、商人、そして冒険者風の集団――。
街は活気にあふれているが、その眼差しの端々に潜む疲れと不安を俺は見逃さなかった。
誰もが“ここにいれば安全”と信じたいのだ。だが、その信頼は薄氷の上に築かれたものだ。
俺たちの馬車は使者の紋章により優先的に通された。
石畳を打つ車輪の音が反響し、狭い門を抜けた瞬間――視界が一気に広がった。
王都の大通り。
石造りの街並みに灯る魔導灯、露店から漂う香辛料の匂い、吟遊詩人の笛の音。
それは、俺が知っている「廃墟の世界」とは別物の、まるで夢のような光景だった。
人の営みが確かにここに息づいている。
だが、その華やかさの裏側に、目に見えない影が潜んでいるのを感じた。
街角には鎧姿の巡回兵が多すぎるほど立ち、壁に貼られた布告には「治安維持」と「魔物警戒」の赤文字。
道を行く市民の笑みもどこか硬く、声を潜める者が少なくない。
――この街は、美しく、そして脆い。
「すげぇ……」
リリカが思わず息を呑む。
彼女の目は憧れに輝いていたが、俺は胸の奥に重い違和感を覚えていた。
大崩壊で滅んだはずの文明の残骸を、ここまで無理やり繋ぎ合わせてきた。
だが、その根本には、封印獣という時限爆弾がまだ眠っている。
王都は荘厳だ。だが同時に、脆くて危うい。
俺は包帯の巻かれた右腕を握りしめる。
ここから先で何が待つのか――それを知るために、俺はこの街に来たのだ。
王都の中心にそびえる城は、白亜の石を基調に築かれた巨大な要塞だった。
しかし近づけば、その美しさの裏に走る無数の修復跡と、古びた石材の継ぎ接ぎが見える。
栄華を取り戻そうと必死に繕われた姿――それがこの世界の現実を語っていた。
厚い鉄扉をくぐり、広間へと案内される。
天井は高く、赤い絨毯が玉座まで真っ直ぐに伸びている。
壁には双塔と炎の紋章が掲げられ、窓から差す光が重苦しい空気をいっそう強めていた。
玉座には王の姿はなく、その代わり、半円形に並ぶ机の後ろに数名の貴族と魔術師が座っていた。
その中央に立つのは――レオン卿。
「これより、リュード発掘区画における封印獣出現の件について、事情を聴取する」
声が広間に響いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
ただの村人ではなく、王城の空気。
ここでは一言一言が、俺の運命を決めかねない。
「まずは、篠崎悠真」
レオン卿の視線が俺に向く。
「お前が発掘現場で遺物を操作し、封印を解いたというのは真か?」
「それは――!」
思わず声を荒げそうになった瞬間、机の端から静かな声が割り込んだ。
「間違いありません。私は現場でそれを目撃しました」
姿を現したのは、青い外套をまとった男――クレイヴだった。
涼しい顔で俺を見下ろし、薄い笑みを浮かべる。
「彼は禁忌の遺物を不用意に扱い、その結果、封印獣を呼び覚ましたのです」
「嘘だ!」
リリカが椅子を蹴って立ち上がる。
「お前は真っ先に逃げただけだろ!」
だが、その叫びは広間の冷ややかな視線に吸い込まれるだけだった。
クレイヴは眉一つ動かさず、あくまで理路整然と語る。
「私は全力を尽くした。しかし、封印獣の力は王城魔術院でも想定外。
――だが彼だけは、不可解な装置を操り、あの怪物を討った」
言葉は矛盾している。
だが、それは俺の存在を「危険な希望」として印象づける狡猾な手段だった。
レオン卿はしばし沈黙し、やがて低く言った。
「なるほど。……篠崎悠真、リリカ。お前たちを当面、王城の保護下に置く。
監視と研究を兼ねるが……安心せよ、害を加える意図はない」
その言葉は、保護と呼ぶにはあまりに冷たい響きを帯びていた。
リリカが小声で囁く。
「……保護、じゃなくて監禁だろ、これ」
俺は包帯で巻かれた右腕を握りしめる。
――ここで反論しても無駄だ。今はただ、この場を凌ぐしかない。
広間を退出する直前、クレイヴと目が合った。
彼は唇の端をわずかに吊り上げ、声にならない言葉を吐いた。
――“次は王都で試そうか”。
その笑みを背に受けながら、俺は重い扉を押し開けた。
城の石壁に反響する靴音が、妙に冷たく響いた。