第五話:グランの母
数日後、朝の支度をしていた時だった。厨房の戸が乱暴に叩かれ、少年の声が響いた。
「レオンさん! メルティさん! 母ちゃんが……! 苦しそうで……!」
駆け込んできたのは、村の少年グラン。先日ここを訪れた少年だ。
「家はどこだ? グラン」
すぐさま二人は駆け出す。グランの家は村の外れ、湿った土壁の小屋だった。寝台の上には、苦しげに息をする女性。唇は青ざめ、額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「これは……熱がひどいな。グランとメルティは水を汲んできてくれ」
「わかった」、「わかったわ」
レオンは薪をくべ、鍋に湯を沸かす。その間、メルティは冷たい布を絞っては額に乗せ、拭い、また絞る。何度も。だが――
熱は、下がらなかった。
どれだけ水を飲ませても、薬草を煎じても、苦悶の息遣いは止まらない。
「……くそっ……」
レオンは額を拭う手を止め、静かに立ち上がった。腰に手を当て、呼吸を整える。思考の底を探るように、遠い記憶に手を伸ばした。
(……そういえば――)
かつて、傭兵団として交易都市の護衛を任されたときのことだ。夜の酒場で出会った、妙に口の軽い元冒険者の傭兵仲間から、奇妙な薬を手渡されたのだった。
『高熱にうなされたときはこれだ。ダンジョンの最深部で手に入れた薬草を煮詰めたもんだ。癖が強くてな、素のままだと飲めたもんじゃねえ。料理に混ぜて使うといい。……俺は、これで命拾いしたぜ』
眉唾だと思っていた。ずっと――だが、今。
「……他に手はねえ」
レオンは古びた革袋を開け、陶器の小瓶を取り出した。封は固く、年季の入った赤い紐が口を巻いていた。それをメルティに差し出す。
「これを使え。昔、仲間からもらった薬だ。熱病に効くらしい。癖が強いから粥かなんか、食べ物に混ぜて飲ませてくれ。今はもう、これにすがるしかねぇ」
メルティは少し驚いたように目を見開き――それでもすぐに真剣な眼差しでうなずいた。
「……わかりました。味と香り、少し工夫します」
鍋に湯を張り、乾いた米と薬草をひとつひとつ入れる。そこに薬を垂らすと、ほんの一滴で、強烈な薬香が立ちのぼった。メルティの手が一瞬震える。レオンはその様子に気づき、そっと声をかけた。
「落ち着け。お前ならできる。……信じてる」
メルティの動きが止まる。そして、メルティは静かに深呼吸をしてから、鍋を見据えた。
「ありがとうございます、レオンさん」
粥は、少しずつ、慎重に冷ましてからスプーンで口元へ運ばれる。そのたびに、グランの母の荒かった息遣いが、わずかに整っていった。
朝を迎えた。母親の容態は大分落ち着いたようだ。グランも安心したように母親を見つめている。すると、母親がふと声を発した。
「……グラン……?」
その瞬間、少年の顔がくしゃりと崩れた。
「母ちゃん……! 母ちゃん!」
グランの母は完全に意識を取り戻し、熱も驚くほどに引いていた。グランの叫び声に、小屋の空気がほころぶように緩んだ。少年は泣きながら、母の手を握りしめていた。
奇跡のような快復だった。
それから数日――
グランはどこかでそれを「蒼鉄亭の料理が病を治した!」と盛大に吹聴して回った。村のあちこちで噂が膨れ上がる。
「蒼鉄亭の料理は、どんな病も治す万能薬らしいぞ!」
その話は、薪割りをしていたレオンの耳にも当然入ってくる。
「......ったく、困った小僧だ」
レオンは苦笑しつつ、肩をすくめる。
ただ、それでも――
誰かが、「蒼鉄亭の飯」に救われたのだ。それが実感できただけでもレオンは嬉しかった。剣を置いて本当に良かったと思えたのだから。
(妙薬の力だったのか、それとも、メルティの腕だったのか……)
それは、誰にも分からない。
だが――
(……あのダンジョンってやつ、一度見に行ってみるのも悪くないかもな)
レオンは空を仰いで、ふとそんなことを思った。
温かい飯と、温かい手。当たり前のようでいて、乱世では簡単に失われてしまうもの。
だが、それがここにはある。
蒼鉄亭には、今日も開店中――
──続く。