公爵令嬢ミレナは記憶喪失のフリをする
その日、公爵令嬢のミレナは初めて目の前の現実から逃げ出した。
「―――待ってくれ、ミレナ!」
「…………っ、」
掴まれた腕を振り払った瞬間、ミレナの体はぐらりと傾く。
階段で足を踏み外したのだと気付いたときにはもう、鈍い痛みに襲われていた。
周囲から悲鳴が聞こえる。脳が揺さぶられたせいか、ミレナは頭がくらくらした。
絨毯の上に仰向けに倒れ、豪華なシャンデリアを見上げたミレナの中にある感情は、たった一つ。
(―――ああ、なんだかもう、全てがどうでもいい……)
目に映る全ての光景を否定するように、ミレナは静かに瞼を落とした。
***
ミレナの体は今、自室のベッドの上に横たえられている。
階段から転げ落ちたミレナは、そのまま意識を失うことはなかった。
けれどもう疲れ切った上に体のあちこちが痛み、気絶したフリを続けたところ、数人がかりで部屋に運ばれたのだ。
「……ああ、ミレナ……」
ずずっと鼻を啜りながら、ミレナの名前を呼んだのは母親だ。無口な父親も、きっと隣に寄り添い合っているだろう。
「一体ミレナに何があったの?ねぇ、モニカ……?」
「……お母さま、私には分かりません。突然お姉さまが階段に向かって走り出して、止めようとしたローレンスさまの手を振り払って…それで……」
ミレナはその高い声を聞きながら、なんて白々しいの?と心の中で吐き捨てた。
モニカはミレナの妹だ。ミレナはモニカを可愛がっていたし、姉として慕ってもらえていると信じていた。
―――ミレナの婚約者であるローレンスと、同じベッドで寝ている姿を見るまでは。
つい先ほど見たばかりの光景を思い出し、ミレナは眉を寄せてしまいそうになった。このまま起き上がる気にはとてもなれず、気絶したフリを続ける。
すると、ミレナの手が誰かにそっと握られた。
「ミレナ……」
切なさの滲む声を聞き、ミレナは苦しくなった。どうせ心配しているフリなんでしょう?と問いかけたくなる。
婚約者のローレンスは、この国の王太子だ。そしてミレナはいずれ王太子妃としてこの国を支えるために、数々の厳しい教育を受けてきた。
どんなに途中で勉強が嫌になっても、ローレンスのことを思えば頑張れた。ローレンスの隣で笑う自分の姿を想像して、幸せな未来を思い描いていた。
―――それなのに、ミレナの気持ちは見事に裏切られてしまったのだ。
政略結婚となるミレナとローレンス。幼い頃から許嫁として決まっていたミレナは、徐々にローレンスへの想いを募らせていた。
けれど、ローレンスは違った。彼の心は、いつの間にかモニカに奪われてしまっていたらしい。
(本当に―――今まで必死に頑張っていた自分が、バカみたいだわ)
そのうち婚約破棄を言い渡されるのだろうか。それともモニカを愛人として、ミレナはお飾りの妃となるのだろうか。
「……ミレナ、目を開けてくれ…」
ローレンスの声には、演技とは思えないほど心配している様子が滲み出ていた。このままミレナがいなくなった方が、モニカとの恋は成就するかもしれないのに。
(……そっか。私がいなくなれば……)
ふと思いついた考えが、まるで天啓のごとくミレナの心を明るく照らしていた。
重たい瞼を持ち上げ、数回瞬きを繰り返す。そしてゆっくりと体を起こせば、ミレナの手を握るローレンスが安心したような顔で口を開いた。
「良かった、ミレナ……」
「……ええと、あなたは誰?」
ミレナがそう言えば、ローレンスが目を見開いて固まった。その奥にいた両親やモニカ、使用人たちも驚愕している。
緊迫した空気に包まれる中、ミレナは笑顔で口を開いた。
「ところで、ここはどこ?―――私は、誰?」
ミレナは、公爵令嬢で王太子の婚約者のミレナ・ルサージュという自分自身を手放すために、記憶喪失のフリを始めたのだ。
***
ミレナが記憶喪失になったという情報は、邸宅中に広まった。
けれど、肝心の貴族界にはまだ広まっていない。ローレンスが止めたからだ。
国王の耳に入れば、すぐにでもミレナとの婚約を解消してくれるはずだが、ローレンスはそれを止めていた。
やはり今まで王妃教育を叩き込まれたミレナを手放すことはせず、お飾りの妃にするつもりなのだろう。
(……でも、残念。なぜなら私は記憶喪失。ここは都合よく、王妃教育の全てを忘れさせてもらうことにするわ)
ある日ミレナは、訪ねてきたローレンスとの会話の途中でくすりと笑った。
「王太子殿下の婚約者……私が?」
可笑しいことを聞いたとばかりに笑って見せれば、ローレンスが悲しそうな顔をする。
全てを忘れてしまった価値のないミレナに、絶望しているに違いない。
だから、早く私を捨ててください―――そう期待を込めた眼差しをミレナが送ってみても、ローレンスは押し黙ってしまっていた。
あの全てを諦めた日から、ローレンスは毎日のようにミレナの元へやって来る。
王太子はそんなに暇ではないはずなのにどうして?と考えた末、ミレナは一つの結論に至っていた。
ミレナという婚約者がいながら、ローレンスはモニカと身を寄せ合ってベッドで寝ていた。ミレナが記憶を取り戻せば、その醜聞が広まってしまうと恐れているのかもしれない。
そう心配しなくても、ミレナは記憶喪失のフリをやめるつもりはなかった。
王妃教育からは解放され(今は階段から落ちて重症を負い療養中となっている)、毎日好きなことをして過ごせている。
両親はミレナを心配しすぎて甘やかし、モニカに至っては話し掛けようともしてこない。
堅苦しい言葉遣いをやめ、淑女の所作をどこかへ置いてきたミレナは、公爵令嬢のミレナ・ルサージュではなくなっていた。
「本当に……何も覚えていないのか?」
ローレンスにそう訊かれ、ミレナは笑顔で頷きそうになり……笑顔は不自然かなと思い直して困ったように頷いた。
「ええ、何も」
「……そうか」
ローレンスこそ、ミレナが何も覚えていないことを喜んでもいいはずなのに、何故かずっと悲しそうにしている。
まさか本当に悲しんでいるのでは……とミレナは思いかけてやめた。無駄に期待をしても、結局もう手遅れなのだ。
「ローレンスさま。もう何も覚えていない私より、他の人を大事にしてあげて。私のために時間を使っても勿体ないもの」
「他の人……そうだな、大事にはするが……俺は、君のことも諦めない」
「え??」
とんでもない発言を聞いたような気がして、ミレナは目が点になる。モニカを大事にしながら、ミレナのことも諦めないと、確かにそう聞こえた。
「ミレナ。俺は、君の記憶を取り戻してみせる。だからどうか、君も諦めないで欲しい」
恐ろしく真面目な顔でそう言い放ち、ローレンスはミレナの手をぎゅっと握ってから部屋を出た。
ソファにぽつんと取り残されたミレナは、呆然と扉を見つめる。
(……取り戻すも何も、記憶は失っていないし…。諦めないで欲しいと言われても、全てを諦めたくて記憶喪失のフリを始めたんだけど……?)
結局まだ何も手放せていないことに気付き、ミレナはしばらく頭を抱えていた。
***
一国の王太子であるローレンスは、執務の手を止め物思いに耽っていた。
考えているのは、つい最近記憶喪失となってしまった婚約者のミレナのことである。
幼い頃に勝手に決まっていた婚約者だったが、ローレンスはミレナを知る内にどんどん惹かれていた。
ローレンスの母……つまり現在の王妃が何度も逃げ出したという王妃教育から、ミレナは一度も逃げ出したことはなかった。
綺麗に背筋を正し、真剣な瞳で授業を受ける様子を一度盗み見たときは、自分も頑張らなければと感銘を受けたほどだ。
ミレナが素晴らしい王妃となり、やがて国王となる自分の隣で笑っていてくれる未来を、ローレンスは信じて疑っていなかった。
けれどその未来は簡単に崩れ去り、ひと欠片だって手元には残っていない。
ミレナは何一つ覚えていないのだ。過去に交わした言葉も、約束も、何一つ。
「……ローレンス殿下」
あまりに長い時間手を止めていたためか、見かねた側近が声を掛けてきた。ローレンスは視線を上げ、親しい側近であるエディを見る。
「エディ……俺はどうすればいい?ミレナはどうすれば俺のことを思い出してくれる……?」
「ショック療法はどうでしょう。モニカ嬢と同じベッドで寝ている姿を見せれば、怒りで記憶を取り戻すのでは?」
バッサリとそう切り込まれ、ローレンスは顔を覆って呻いた。ミレナに記憶を取り戻して欲しいが、その記憶だけは破り捨ててしまいたかった。
ミレナの妹であるモニカ。美人でしっかり者のミレナと比べれば、モニカは幼い容姿であどけない雰囲気を持っている。
けれど、ローレンスはモニカのことを“ミレナの妹”としか認識していなかった。
だからこそあの日、ルサージュ公爵家に泊まっていたローレンスの部屋に―――もっと言えば同じベッドに―――モニカがいたことは、全くの想定外だったのだ。
「……本当に、手を出したりしていないんですよね?」
「誓ってしていない。まだミレナとも手を繋いだことしかないんだぞ」
エディが「えっ」と声を漏らした。思い切り眉をひそめてローレンスを見ている。
「幼い頃からの婚約者なのに?手を繋いだことしかなかったんですか?」
「……そうだ。隣にいると緊張しすぎて、何を話せばいいのか分からなくなるんだ」
「なるほど……つまり記憶を失う前のミレナさまのローレンス殿下の印象は、“全然手を出してこないくせに妹には簡単に体を許した裏切り者”ということですね?」
ローレンスは反論もできず、情けないうめき声が口から漏れただけだった。
ミレナが朝の挨拶にやって来たとき、ローレンスは隣にモニカが寝ていることに気付かなかった。入室したミレナが顔を真っ青にして初めて、ローレンスはモニカの存在に気付いたのだ。
慌ててミレナを追い掛けたが手を払われ、そのままミレナは階段を滑り落ちてしまった。そして意識を取り戻してくれたと思ったら、記憶喪失となっていた。
ミレナの記憶がないままでは、ローレンスは弁解することすらできない。
「どうしてモニカ嬢は、そんなことをしたんですかね?」
「……あとで問い詰めたら、完璧な姉の傷付いた姿を見たかった、と言っていた」
エディが思い切り顔を歪ませる。ローレンスもそれを聞いたとき全く同じ顔をした。泣きじゃくりながら言い訳をするモニカに、ローレンスは怒りの感情しか浮かばなかった。
モニカの言動は、ローレンスとミレナを貶めるものだ。処遇はミレナの記憶が戻ってから二人で決めようと思っていたが、その記憶が戻る目処が全く立たない。
このままでは、ミレナが記憶喪失だと周囲に気付かれ、ローレンスの婚約者から外されてしまう。
記憶を失ったミレナは、他の人を大事にして、と言ってきた。もちろん国民も大事にするが、それ以上にローレンスはミレナが大事なのだ。
「ミレナ……どうか、思い出してくれ」
ローレンスは祈るようにそう呟き、窓の外の暗く淀んだ空に視線を向けた。
***
ミレナが記憶喪失のフリを始めてから、早くも一か月が経っていた。
両親は毎日のようにミレナの幼少期からの話を聞かせてきた。王妃教育に一生懸命に取り組むミレナは、公爵家の誇りだと。
その言葉は、以前のミレナが聞いていればとても喜んだだろう。けれど今のミレナには、捻くれた捉え方しかできなかった。
(お父さまとお母さまは、私が王太子妃から外されることが嫌なんだわ。それに、どんなに勉強を頑張ったところで、ローレンスさまの心は掴めなかったもの)
ミレナはローレンスとモニカの関係が気になっていたが、記憶喪失の設定のため、安易に二人の様子を訊ねることはできなかった。
邸宅内でモニカの姿を全く見なくなったことから、ローレンスがいる城へ移り住んだのではと予想していた。
モニカに笑いかけるローレンスの姿を想像しては、ミレナは心が痛むのだった。
太陽の光を浴びながら邸宅の外を散歩していると、今日もまたローレンスがやって来た。その後ろには側近のエディの姿がある。
ミレナとエディは世間話をする程度の仲で、記憶喪失のフリを始めてからは、今日初めて顔を合わせた。
「ミレナ、おはよう。今日はミレナが好きだった焼き菓子を持ってきたんだ」
ローレンスが微笑みながらそう言った。ミレナは危うく喜びそうになりながら、慌てて平静を装う。
「……焼き菓子?楽しみだわ」
「向こうの木の下で食べよう」
大きな木の下にシートを敷き、ミレナとローレンスが座った。エディは木のそばに立っている。
ローレンスが持ってきた焼き菓子は、城下街で大人気の物だ。ミレナは焼き菓子をさくさくと頬張った。行儀よく食べなくても、注意してくる人は誰もいない。
「ミレナ、口元についているよ」
「え?」
優しい眼差しをしたローレンスが、ミレナの口元についた焼き菓子の欠片を指で拭った。心臓がドクンと高鳴り、ミレナは誤魔化すように笑う。
「あ、ありがとう。……以前のミレナだったら、こんな食べ方はしなかったでしょ?」
「ん?……そうかもしれない。でも、幸せそうに食べる表情は何も変わらないな」
おかしい、とミレナは思った。どうしてそんなに愛おしそうに見てくるのだろう、と。
(まさか、本当に私のことを……?でも、今までそんな素振りは一度もなかった。キスだってされたことはないし……何より、モニカと一緒に寝ていたじゃない)
少しだけ浮ついていた気持ちが、あの日の光景を思い出してすぐに萎んでいった。
「ローレンスさまは、どうしてそんなに私の記憶を取り戻したいの?……私たちは、愛し合っていたの?」
「―――…」
ローレンスが息を飲んだ。綺麗な夕焼け色の瞳が揺れ、唇が固く結ばれる。
それが答えなのだと、ミレナはそっと視線を落とした。愛していたのは、自分だけだったのだと。
食べかけの焼き菓子が、ボロッと崩れ落ちる。静かに立ち上がったミレナに、ローレンスの戸惑った声が届いた。
「……ミレナ?」
「もう……いいじゃない。あなたが私を愛していないなら、これ以上記憶を取り戻そうとする必要はあるの?」
泣くな、とミレナは自分に言い聞かせる。記憶喪失のはずなのに、ここで泣くのは不自然だからだ。
ぎゅっと手を握りしめ、ミレナは精一杯の笑顔を貼り付けた。
「ローレンスさま。私のことはもう、諦めてくれて構わないわ」
傷付いたようなローレンスの顔から目を背け、ミレナは歩き出す。ほんの少しだけ、追い掛けて来てくれるのではないかと、そんな期待を抱いていた。
―――けれど、やはりその期待は裏切られるのだった。
***
それから、ローレンスがミレナの元を訪れることはなくなった。
これで良かったのだと思う安堵の気持ちと、本当に終わってしまったという悲しい気持ちが絡み合い、ミレナは複雑な表情で空を眺めていた。
すると、背後から声が掛かる。
「―――ミレナさま」
振り返ると、そこにいたのはローレンスの側近のエディだった。イスに座ったままのミレナの元へ、エディが颯爽とやって来る。
そして衝撃の言葉を口にした。
「記憶喪失だなんて、嘘ですよね?」
「…………え」
ミレナは固まりかけたが、すぐに笑顔を取り繕った。それでもエディの目は誤魔化せなかったようだ。
「この前お会いしたとき、ローレンス殿下のそばにいた俺に対して、あなたは何の説明も求めなかった。つまり俺が側近だと、記憶喪失のはずのあなたが知っていたということです」
「し……知らないわ。当たり前のように近くにいたら、側近だと思うでしょう?」
「だとしても、何も気にしないのは不自然です。本当に記憶喪失なら、自分の周囲の状況は嫌でも気になるはずですから」
鋭い眼差しをエディに向けられ、ミレナは逃げ切れないとすぐに悟る。けれど、認めることもできなかった。
記憶喪失のフリは、王家を騙しているも同然だ。例え最初にミレナを裏切ったのが、ローレンスだとしても。
認めてしまえばこの場で捕らえられるかもしれないと、動けなくなったミレナに向かってエディがため息を吐く。
「……大丈夫です、全面的に悪いのはローレンス殿下ですから。でも、誤解しないでください。殿下はあなたを裏切ったことはありません」
「………?」
思わず眉を寄せたミレナに、ローレンスが封筒を手渡して来た。王家の紋章の封蝋が見える。
「王城で開かれる夜会の招待状です。ローレンス殿下は先日のあなたの言葉に深く傷付き、誘えないようなので。俺が代わりに渡しておきます」
「………っ」
「あなたが来なければ、殿下は婚約者に見放された憐れな男になりますね」
挑発するようにエディが鼻で笑い、ミレナはカッと頭に血がのぼった。
「私を見放したのは、ローレンスさまでしょう!?どうせその夜会だって、モニカを誘ってるに決まってるじゃない……!」
「……どうぞ当日、ご自分の目で確かめてみてください。あなたが本当に、ローレンス殿下を想っているのなら」
そう言って立ち去っていくエディの後ろ姿を、ミレナはその場に立ち尽くしたまま見送った。
***
王城で開かれる夜会の当日、ミレナは豪華なドレスに身を包んでいた。
両親が心配そうに身を寄せ合ってミレナを見ている。
「……ミレナ、本当に参加するの?まだ記憶が戻らないのでしょう?」
「……そうだぞ、ミレナ。夜会には大勢の招待客が来るし、陛下だって……お前が記憶喪失なことが広まってしまう」
両親の心配は最もだったが、ミレナはもう決めていた。エディの言葉に頭を悩ませるくらいなら、言われた通り実際にこの目で確かめようと。
ローレンスの隣にモニカが立っていたならば、ミレナはすぐにでも立ち去ればいいのだ。
(―――もし本当に、ローレンスさまが一人で参加していたら?)
その考えを、ミレナは頭を横に振って追い払う。
「私、確かめたいことがあるの。……行ってきます」
ミレナは馬車に乗り込むと、王城へ辿り着くまでじっと窓の外を眺めていた。
王城はたくさんの招待客で賑わっていた。男女ペアで連れ添って参加している人たちも多い。
まだローレンスの婚約者であるミレナは、一人で移動していると人目を引いてしまった。
「あら?ミレナさまはお一人かしら?」
「ローレンス殿下はどうしたのかしら…」
「どこかで待ち合わせでもされているのでは?」
ミレナは微笑みを浮かべながら柱の影に移動した。こっそりとローレンスの姿を確認しようと思っていたのだが、このままでは目立ってしまう。
どうしようかと逡巡していると、肩をトンと叩かれた。
「来てくれましたね、ミレナさま」
「……エディ。私……」
「どうぞこちらへ」
有無を言わさずエディが歩き始め、ミレナは仕方なくついていく。
夜会の会場である大広間の舞台袖で待っているように言われ、一人その場に取り残された。
(……何なの?まさか……)
ミレナの嫌な予感は当たっていた。足音が近付いて来たかと思えば、次いで聞き覚えのある声が響いたのだ。
「エディ、話とはなんだ?もうすぐ皆に挨拶をしなくてはいけないんだが」
ミレナは咄嗟に近くに積まれていたイスの裏に隠れた。心臓がバクバクと早鐘を打っている。
「……その挨拶、お一人でいいんですか?ミレナさまに拒絶された傷心中の殿下は、一夜を共にしたモニカ嬢をお誘いすれば良かったのに」
エディの言葉に、ミレナは胸元をぎゅっと握りしめた。まさかエディは、もう一度現実を突きつけるために呼んだのだろうかと、じわりと涙が滲んだそのときだった。
「バカ言え。いつまでその話を引っ張るつもりだ?彼女は今謹慎中で反省してもらっているし、俺はミレナ以外を隣に立たせるつもりはない」
「ミレナさまが一生記憶を取り戻さなかったら、どうするんです?」
「それでも俺は……ミレナと一緒にいたい。今夜の夜会を一人で乗り越えたら、今まで真正面から伝えられなかった気持ちを、毎日嫌がられても伝えていくつもりだ」
ぽたり、と涙が床に落ちた。聞こえた言葉が信じられず、ミレナは都合の良い夢を見ているのかと自分の頬をつねる。
痛みが現実だと教えてくれたが、それでもミレナは信じられなかった。
次々と溢れる涙を拭おうと動かした手が、積み上がっていたイスにぶつかった。
カタン、と響いた音にローレンスが素早く声を上げる。
「―――誰だ!?」
「………っ」
「ミレナ……!?」
慌てて逃げ出したミレナの背後から、ローレンスの驚いた声が掛けられる。ミレナは振り返ることができず、ローレンスの反対側―――舞台上に飛び出してしまった。
突然舞台に現れたミレナに、広間に集まっていた招待客たちが注目した。けれど、ミレナはそれどころではない。
(……どうしよう、どうすれば……!)
また咄嗟に逃げ出してしまったが、今のミレナにこの先の考えは何もない。舞台の中央の階段が目に入り、このまま招待客の中に紛れて逃げ出すことにした。
「―――ミレナ!!」
ローレンスの声に反応してしまったミレナは、階段を踏み外す。
また落ちる―――と思い目を強く瞑ったミレナの体は、痛みに襲われることはなかった。
ローレンスがミレナの体を抱き寄せ、庇っていてくれたからだ。
「……ローレンスさま!?お怪我はっ……」
「……大丈夫だ。あのときの君の痛みに比べたら、こんなものなんでもない」
上半身を起こしたローレンスが、ミレナの手をそっと握る。
「ミレナがこれ以上傷付かなくて……本当に良かった」
その微笑みを見て、今まで溜め込んでいた涙が、ミレナの瞳から次々と溢れ出した。
まだ全てを失ったわけではないのかと、震える唇を開く。
「……私は、ずっと…幼い頃に交わした約束を胸に、頑張ってきました」
「……!ミレナ、記憶が…?」
「お互いに支え合い…いつまでも隣で、笑い合っていようと……」
まだ恋を知らなかった頃の、幼くも未来ある約束。その約束はまだ、破られたわけではなかったのだろうか。
ローレンスがミレナの目元を優しく拭ったあと、強く抱きしめてくれる。
「……その約束を、俺から違えることはない。ただ……今回の過ちは、何よりも先に伝えなければならないことを、ずっと後回しにしていたことだ」
その力強い腕に、体から伝わる熱に、耳元を震わせる優しい声に、ミレナの全身から力が抜けた。
ローレンスの言葉が、ストンと心の中に落ちたのだ。
(……そうだわ。私も一番大切なことを、ずっと―――…)
体を離し、互いを見つめ合う。“婚約者だから”という理由で、当たり前のように隣にいてくれるものだと、そう思ってしまっていた。
「―――ミレナ、愛している」
「―――ローレンスさま、愛しています」
ほぼ同時にそう伝え合い、ミレナとローレンスは同じように目を丸くして、それから照れたように笑い合った。
一部始終を見守っていた夜会の招待客たちが、ワッと一斉に拍手を送る。ミレナはそこでようやく、自分が注目の的となっていることに気が付いた。
顔が一気に熱を持ち、恥ずかしさからローレンスの胸に顔を埋める。
「……ローレンスさま、どうしましょう…」
「ん゙ん゙っ……とりあえず夜会は抜けよう。君に伝えなければならないことが、まだたくさんあるんだ」
咳払いをしたローレンスが、ミレナの手を取って立ち上がる。
招待客へ夜会を騒がせてしまった詫びを入れてから、二人並んで大広間をあとにした。
人通りの少ない静かな廊下を手を繋いで歩きながら、ミレナはまだふわふわと夢見心地なままでいた。
けれど、これだけは確認しなければと口を開く。
「ローレンスさま、その……モニカとは…」
「ミレナの妹とは、本当に何もない。どうやら……君の優秀さに嫉妬してしまったらしい。謹慎を言い渡しているが、処罰はどうする?」
「そうですね……では、しばらくそのままで。自由奔放なあの子には、自由を奪うことが一番の罰だと思いますので。その間に、きちんと向き合ってみます」
モニカの許されない行動が、ミレナとローレンスに向き合うきっかけを与えてくれたことには間違いない。
何もなかったことにはできないが、モニカの抱えているものを言葉で受け止めたいと、ミレナはそう思うことができていた。
ローレンスは頷いたあと、微笑みながらミレナを見つめる。
「ところで……記憶を失っていたときの君は、俺に敬語を使っていなかった。それが心地良くて……今このときから、続けてもらってもいいか?」
「え?あ、はい……分かったわ。……ローレンスさま、その…記憶喪失のことだけど……」
ミレナはごくりと喉を鳴らした。記憶喪失のフリをしてしまったことを、正直に打ち明けなければと、そう思ったのだ。
(……改めて思い直すと、本当に私はなんてことを…。どうしよう、せっかく想いを確かめ合えたローレンスさまに嫌われたら……)
なかなか言い出せないミレナに、ローレンスが「ん?」と首を傾げる。その後方の壁際に、いつの間にかエディが立っていた。
エディの人差し指が、その唇に添えられる。
(…………!)
黙っていていいのだと、エディにそう言われた気がしたミレナは、少しだけ心が軽くなった。
全てがどうでもいいと、そう思ったことも。全てを手放してしまいたいと、そう思ったことも。
間違った感情ではないと、そう肯定してもらえたような気になったのだ。
「―――記憶を思い出せて、良かったわ」
ミレナがそう言えば、ローレンスが嬉しそうに笑った。
徐々に顔が近付き、そっと触れるだけのキスを交わす。
繋いだ手の温もりを感じながら、もう二度と記憶喪失のフリをすることはないだろうと、ミレナは幸せな気持ちでそう思っていた。
〈完〉
影の立役者はエディです。
お読みいただきありがとうございました!