答え
呪具を預けた運び屋バーチが行方をくらましたと気付いたボスは、悪魔も裸足で逃げ出す荒れようだった。歩くとシャラシャラ音が鳴るガラス片だらけの床を踏み、湯気をたてる料理だったものを片付けつつ、自分だけはボスの拳を避けられた安堵でため息が無限に出てくる。
こんなに取り返しのつかないやらかしも存在しないだろう。ずいぶん甘い汁を吸わせてもらったこの組も解散は免れないほどに。
特注品の呪具は、まず材料からしてそうそう用意できない希少品なのだから。
なんたって数百年を生きた魔女の首だ。
返り討ちにあって蛙の群れにされる覚悟で気味の悪い森の屋敷に踏み込んで、型崩れがないようにスッパリ斬らなきゃ使えない。
魔女に対抗できる腕利きの頭数を揃え、首切りできる技術者と特殊な魔術を刻んだ刃物を用立て、持ち帰ったら持ち帰ったで、魔術師連中の言いなりになって訳の分からない素材集めの日々を三ヶ月だ。
沼のヘドロに沈んだ石だの、毒だらけの山の山頂にだけ生える苔だの、死体安置所から女の赤毛だけ七人分切り取ってこいだの、まぁ上から下まで這いずり回って、やっと材料を揃えた日の晩酌のまぁ美味かったことといったら。
そこまで時間も金貨も注ぎ込んで、ようやくできるのが相手を確実に殺す呪具である。
使用者が命じると死をもたらす呪文を歌い出す。聞いた相手は息絶える。
使用者だけ死なない。
このシンプルで強力な暗殺用品に、城が一つ建つような値段がついていた。そこらの貴族の屋敷どころじゃない、もっと巨大な尖塔付きの城が建つような、だ。
そんな重要な品を運ばせるのだから、うちで一番信頼の厚いバーチを指名して預けたのに。
バーチは消えた。
呪具と一緒に。
魂の抜けたようなボスに代わって捜索の指示を出すものの、時間ばかりが過ぎていった。納期までもう一月を切ったころで、告発がひとつあった。
一番重要な術式を掘り込む翡翠が、質の低いものとすり替えられていたと。
「で、こっちが使うはずだった最高品質の翡翠と」
「あ、ああああ」
革袋の中から滑り出てきた楕円形の翡翠を手のひらに乗せる間に、「冠」担当だった魔術師は口から泡を噴いていた。
「まぁまぁ落ち着こうや?きみの正直な話を聞きたいだけなんだからさ?」
差し入れの赤ワインをゴブレットに注いでやると、さらに顔から血の気が引いた。
「まだ処分には早いって分かるよなぁ。ここで終わるこたぁないから、安心しな」
「うあ、ああああ」
このままでは話も聞けないので、今注いだゴブレットの中身を口に含んで見せる。
「ほら美味しい。めったに飲めないボス秘蔵のやつだぞ?飲んどき?」
ゴブレットを手に持たせて、こぼさないように口まで持っていってやると、やっと飲んだ。
「はーっ、はー、ああ、わた、わたしは」
「うん、これがここにあるのは、どうして?」
「か、冠の役割は、元の自我の消去と一連の命令の上書きです。自我の消去には大量の魔力を消費しますが、一度消してしまえばもう戻らない点で、封印よりはるかに安全です。こここ、この工程さえ確実にできたなら、命令文の書き込みは多少質が落ちても十分に行える、と」
「こんな良い素材使うのが勿体なくなっちゃったのか。そっかそっか、こんな上物、売れれば大金持ちだもんね、……ふざけんなよ」
勢いあまってゴブレットをひっくり返してしまって、石の床が真っ赤に染まっていく。
「五百年だぞ五百年。森ひとつ支配下に置く五百歳の大魔女制御するのに素材けちったら失敗するに決まってんだろ。隣国でなぁ、箱ひとつ抱えて歩き回ってる男が、一人で楽しそうに会話してるんだと。女の声が箱の中から聞こえてくるんだと。これバーチだろ、なぁ会話してるんだと。自我消えてねぇじゃねえかよ」
勢いあまって足も出てしまった。
石の壁から欠片がぱらぱら落ちてくる。追い詰められた魔術師が赤ワインの水たまりにへたり込む。ああ、これじゃボスそっくりじゃないか。
せっかく激昂しやすいボスの横で、冷静沈着な右腕を演じてこられたのに。まあこの組もばらばらになるのは時間の問題だし、もういいか。
「不良品出したなら、修理に行かねぇとな?」
「あ、あの冠はもう固定されていて、取れな」
「石だけ取り替えればいいだろ?こっちの翡翠にもう一度魔力を込めて取り替えて、もう一度すべての自我を消去すれば修理できるだろ?」
「そんな無茶な」
「無茶苦茶だろうがなんだろうがやれよ。依頼人の言うことだけを聞く魔道具を納品するのが仕事だろうがよ。つーか他の魔術師たち馬車で待ってんだわ」
馬車を走らせて四日目、隣国の広大な草原の中でバーチの馬車に追い付くことができた。
久しぶりに見たバーチの顔は、腹が立つほどに輝くような笑顔だった。
「こんばんは。お兄さんたちも薬草採集ですよね?今夜はいい三日月ですものね」
「ええと、私どもは宝石で商いをしておりまして。ぜひお連れ様とご一緒にご覧になりませんか」
翡翠パクった魔術師が貼り付けた笑顔で誘うものの、バーチは怪訝そうな顔で後ずさりをはじめた。俺たちが仕事仲間だった記憶は完全に無いようだ。
「すみません、うちのは人見知りで、あまり大人数の中に入るのが苦手で」
パクり魔がちらりとこちらを振り返るので、一人で行ってこいと指で合図してやる。
「で、ではおすすめのものを選りすぐってご覧いただきましょう」
ダイヤ、瑪瑙、ラピスラズリなど魔術の素材用の石をいくつか宝石箱に詰め、いちばん上に例の翡翠を置いた。
「高品質なこちらの翡翠など、奥さまによくお似合いになるのでは……」
「あら、翡翠はわたし好きよ」
ふいに聞き覚えのある女の声がして、背筋が凍るかと思った。この魔女はたしかに目の前で死んだはずだと記憶がわめきだす。
「ケルマの翡翠も俺は好きだよ。白くて、ところどころ緑が混じってるのがすごく綺麗だ」
「透明度が高いほうが高価なのよね。魔力の通りがそれだけ良いから。でも私はこの翡翠が気に入っているの」
「まぁまぁ、めったに出ない透明度ですから、ご覧になるだけでも」
パクり魔が馬車の荷台に入っていく。
「まぁ、夜空が透けてみえるのね。素敵だわ」
「これほどの品はめったに出ないのですよ奥さま」
「こうも素敵だと、なんだか歌わなきゃいけない気分」
歌。暗殺の命令がこもった翡翠を前にして、魔女が歌う歌。とっさに両耳をふさいだ。
「天より賜る雪のしずくを、こぼれ落ちる愛をあなたに……あなたに贈るは愛の歌……」
耳をふさいだのに聞こえてくる歌声に、冷たい夜風が混じる。
吸い込む空気の、薬草独特の青くささが、ふいに甘くなった。
「天より賜る雪のしずくを……」
馬車の荷台から、白い花が次々こぼれ落ちるのが見える。この歌はだめだ。これこそ我々が仕込んだ暗殺の魔法だ。
まだ距離がある私たちは間に合うかもしれない。馬に乗ろうとして、歩こうとして、足が動かないことに気がついた。
確実に儲かる取引だから、苦労して魔術師も素材も集めたのに。
右足が白い花で覆われている。
どうして、魔女狩りは完璧に上手く行ったのに。
左足も下から白い花に分解されて、とうとうバランスを崩した。
「去り行くあなたに愛を……」
この白い花が。こんなものが愛だというのか。
首を売った儲けで独立して、大きな商会をつくるはずだったのに。もう両手も花になって夜風に流されていく。
悪態をつこうにも、発音するための喉がもう花の塊になっていた。
「きれいな歌だね、ケルマ」
バーチが上機嫌で首を抱えて、こちらに歩いてくる。お前は白い花にならないのか。暗殺用魔道具の恋人を気取って、過去も忘れて、そんなに幸せそうにして。
草原にまた風が吹く。ああやめてくれ、俺を散らさないでくれ。甘い風が、俺の花びらを巻き上げて、花を