スクルドの箱
それが僕らにとって普通だったから、毎日が退屈だとも思わなかった。でも彼女が現れてからは違った。
夕方、帰路に就く。輸送管の揺れはほとんどない。この輸送管は、よくわからないが、50年以上前に頭のいい人が発明したものを利用しているらしい。3分と経たずに家に着くため、何かについて考えを巡らすこともない。移動中に身体の洗浄が終わる。部屋に着くと手のひらに収まる程度の小さな箱が落ちていた。
これがさっぱり記憶にない。何かを頼んだ覚えもなければ、部屋の清掃もまだ先のはずだ。休息の時間をこんな小さな箱への思慮で削られるのも馬鹿らしいと思い、すぐに寮の管理局へ持って行こうとした。箱に手を触れた瞬間、箱は青白く眩い光を放ち、手の中で自壊した。
目が閃光から回復し、景色が目に入ってくると、僕と同じ背丈の少女が立っていた。その少女は片耳だけ隠れる固そうな帽子をかぶり、上に半袖、下に長ズボンの、やけに白い統一感のある服を着ていた。胸元には読めなかったが、文字のようなものが刻まれていた。
空間投影技術はここまで来たかと思ったが、彼女の立つ床は彼女の重みを受け止め軋み、彼女のいる方からは自分ではない他人の匂いがした。最先端の技術では可能かもしれないが、僕にこんなことをするほどの知人はいないし、する意味もない。目の前のことを頭で受け止めることができなかった。
彼女は気だるげな鋭い目を細めて、キョロキョロと周りを見回した。彼女もまた僕と同様に驚いているようだった。何かを言おうとしても、唇が震えてうまく話せなかった。そんな僕より彼女が先に口を開いた。
「ここ、どこ?キミ、だれ?」
驚きの表情は既に彼女から消えていて、鋭い目が僕を見つめている。
「ねぇ、聞こえてるの?」
呆気にとられる僕を急かすように彼女が次の言葉を打ち出す。その言葉に僕は慌てて答える。
「こっここはっ、ぼっ僕の部屋で、僕はっ、223,609」
声を出したのは久しぶりだったため、お世辞にも聞きやすいと言える返事ではなかった。彼女はそれを聞いては眉をひそめた。
「にーにーさんろくぜろきゅう?変な名前」
この少女はなんて失礼なんだと思った。言い返したくなるのをぐっとこらえて、一番気になることを聞いた。
「お前はなんなんだよ。急に僕の部屋に現れて」
話し方を思い出し、普通に聞くことができ、内心ほっとしていると、彼女はにやりと楽しそうな笑みを浮かべて返答をする。
「あたし?あたしはね、野球の神様なの!」
常識的に考えて人の部屋に急に現れる変なやつから情報を集めるのは無理だ、と聞いた後に気づいた。
「そもそも野球ってなんだよ」
「えぇ~~~~~~~~~!!!」
生まれてこの方聞いたことのないような声量で彼女は叫んだ。
「知らないの!?攻めと守りに分かれて、守りの人がボールを投げて攻めの人がバットで打つの!それで...」
彼女は気だるそうだった目をぱっちりと開き、身振り手振りで説明をしてくれているが、正直わかりづらい。説明に夢中になっていたから、こっそり手の中で調べると、野球というのは100年以上前に流行っていた運動のことらしい。第二次シンギュラリティよりも昔の話をされてもわかるはずがない。
とっくの昔に途絶えた運動の神などという非科学的極まりないものを自称するなんて彼女はまともな精神状態ではないと確信した。彼女に視線を戻すと、僕が話を全く聞いていなかったことに気が付いた彼女がこちらを睨んでいた。
「お前、どこから、どうやって、何しに来たんだよ」
彼女は明らかにめんどくさそうな顔をした後に、思いついたように答えた。
「秘密!」
驚きで疲れて詳しく詮索する気にもならなかった。もう彼女には帰ってもらおうと思った。
「あっあと、帰れなくなっちゃったから、帰れるようになるまでよろしくね」
この少女は何を言っているんだ。開いた口が塞がらなかった。
「いいじゃん、ね?」
僕が頭を抱えていると、彼女は奇妙なことを言い出した。
「も~わかったよ。神の力ちょっとあげるから、手出して、手」
冗談じゃない。こんなことに付き合ってられない。管理局に連絡を取ろうとすると、彼女は突然その右手を奪うように握った。彼女の手はものすごい力だったが、とても柔らかかった。僕がその感覚に捕われていると、右手のひらに熱のような電撃のような鋭い痛みが走った。
反射で彼女の手を振り払い、手のひらを見てみると、小文字のエックスのような跡ができていた。彼女の顔を見ると、彼女は二ヘラと笑い、
「神の力。いいでしょ」
バタンと扉が開く。さっきギリギリ連絡できた管理局の人がやってきたのだ。
「助けてください、知らない人が勝手に部屋の中に入り込んでました!」
我ながら迫真の演技だ。野球の神が両手を掴まれて連行されていく。最初は抵抗していたが、観念したのか、暴れることなく足を引きずられていった。
「薄情者~!神の力をあげたのに!」
閉じた扉の向こうから叫び声が聞こえる。今日は散々だった。明日もまた6時から演算があるからすぐに寝ることにした。寝場所では恐怖と興奮とその他の多くの感情が渦巻いていた。こんなに心が動いたのは生まれて初めてかもしれないと思った。彼女にもちょっとだけ悪いことをしたかもしれないと思った。そんなことを考えていたらいつのまにか寝ていた。
5時50分、目が覚める。昨日の奇妙な体験を思い出す。夢だったかもしれないと思った。演算場へ行く準備を整え、輸送管に入る。
5時55分、既定の位置に着き、頭と両手にデバイスを付けて準備をする。
「ん~なにこれ。教科書無いの?教科書」
がしゃがしゃとデバイスを持ち上げる音とともに聞き覚えのある声が左側からする。
「これ頭に着けるの?めんどくさ。授業いつから始まるの?」
固そうな帽子の中から現れた彼女の髪は手入れがされていないらしく、長さがまちまちだった。髪を肩よりも長くしている人は初めて見た。物珍しさで目が奪われたが、僕は無視して連絡回線に繋いで報告をした。
「すみません、隣の席にいつもと違う人が座ってるんですけど、AS室の212,795です」
『AS室ですね?確認をします。』
『AS室の212,795は本日より別の演算に配属になりました。そこへ代わりの人員が補填されました』
『会話を終了します。以上の通信はANQUによって生成されました。また、ログがANQUに保存されます』
野球の神が隣に座っていることはシステム的には間違っていないらしい。
「ねぇ、聞いてる?にーにーさんろく?なな?なんだっけキミの名前。あっくんでいい?」
いいわけないだろ。急に人に変な名前を付けないで欲しい。面倒なことになりそうだったので、別に言い返しもしなかった。
6時、演算が始まる。左側から猛烈な視線を感じたが無視をした。いつものように開始を待っていると、右手のデバイスがエラーを吐く。ログを確認しても見たことのないエラーだった。連絡回線に再びつなげる。一日に二回も使うことになるとは思いもしなかった。
「右手のデバイスが未知のエラーで動きません。対応をお願いします」
『未知の電磁波によって正常に回路が制御できないようです。デバイスの交換による回復は見込めません』
『規則第三項に従って、四日後に行われる任意検診に参加してください。デバイスの故障を避けるため、検診が終了するまで演算への参加は控えてください』
『会話を終了します。以上の通信はANQUによって生成されました。また、ログがANQUに保存されます』
野球の神を除いた周りの人は皆演算をしている。別にサボっているわけではないが、自分だけ何もしていないと、なんとなくいたたまれなかった。音が出ないように席から立つ。
「あれ?どこいくの?あたしも行く!」
行き先を言ってもいないのに野球の神が付いてきた。あの場を離れるために演算室から出たため、行く当てがなかった。それを見透かすように彼女は
「あたし屋上行きたいんだよね。屋上。スッキリしそうじゃない?」
「別に、なにもないと思うよ」
このまま彼女の言いなりになるのは何となく癪だったので、しょうもない反論をしてしまった。
「なにもないからいいんじゃん!どうせ暇でしょ?ね?」
何か意味を持って反論した訳じゃない僕は何も言い返せなかった。無言の了承をして屋上を目指した。輸送管を使わない移動は人生で初めてだったので、探り探り歩いた。
縦長の扉は最先端の都市のものとは思えないほどに寂れて、開けるとギギギと鳴った。扉の先には錆びきった鉄の階段があった。ここを見つけるのに相当な時間がかかった。
カンカンと不揃いな音を立てて上っていく。僕の心臓はドクドクと破裂しそうな勢いで鼓動をしている。
「あっくん、大丈夫?」
僕に話しかけていると一瞬わからなかった。僕はぶっきらぼうに返す。
「何が?」
「何がって」
彼女がするりと僕の胸に手を回す。
「こんなにドキドキしちゃって、休んだ方がいいんじゃないの?」
僕は慌てて手を振り払う。振り向かなくても彼女がにやけ顔をしているのがわかった。
「別に大丈夫だよ、こんなの」
内心、とても苦しかったし、すぐにでも座りたかったけど、理由もなく強がってしまった。
「ほら、もう少しだよ~」
僕を追い越した彼女が屋上の扉のノブに手をかけて声をかけてくる。やっとの思いで階段を上りきる。それと同時に彼女は扉を開けようとしたけれど、この扉もまた古く、建付けが悪くなっているようだった。
「ほら、あっくんも手伝って!」
完全に息が上がっている僕がなんの役に立つかわからなかったが、言われるがままにノブに手をかけた。
「いくよ?せ~のっ」
踏ん張る彼女の手とノブに挟まれて手が痛い。
「ちゃんと力入れてる!?」
彼女がそう言いかけたとき、バキンッという何かが壊れる音とともに勢いよく扉が開き、僕らの体が投げ出された。ゴロゴロと転がり、狭い空が目に入る。綺麗かはわからなかったけれど、とても青くて、印象的だった。
「フッ、アハハハハハハハハ!」
彼女の方から大きな笑い声が聞こえる。彼女はひとしきり笑い終えると、こちらにやってきて、手を差し出した。
「大丈夫?こんなに思いっきり転んだの久しぶり!」
彼女の手を引き起き上がる。
「大丈夫だよ。転んだのは初めてだけど」
彼女は少し驚いた様子で返答をした。
「へ~、不思議な人。キミだけじゃなくて、あの教室にいた人も、あの教室も、み~んな不思議」
「なんか息が詰まっちゃうって感じ。でもさ、ここはいいでしょ?空があって、解放!って感じでさ」
息が詰まるって感覚はよくわからなかったけど、ここが心地よいのはわかる気がした。
「うん、なんか、転がって空を見たときの感覚は新鮮で、なんていうか、気持ちよかったよ」
それを聞いて彼女の顔はみるみる嬉しさで溢れていった。
「だよね!良かった良かった。連れてきてくれて、ありがとう。」
彼女の顔は、これまでに見た小馬鹿にするようなにへら顔ではなく、眩しいような笑みだった。なんとなく気恥ずかしくなった僕は明後日のほうを見て返事をした。
「べ、別にひとりでも来れただろ」
「あたしはあっくんと来れて良かったよ」
目尻の上がった顔で彼女は返事をする。
「だからなんなんだよそのあっくんって」
「あたしが昔好きだった人のあだ名。キミがそっくりだったから。数字よりは呼びやすくていいでしょ」
僕が面食らっていると、彼女は話を続けた。
「あたしの名前は矢内ユキ。ユキでいいよ」
自分だって変な名前じゃないかと思った。数字のほうが一瞬で誰なのか識別可能だし、管理も楽だと思った。
「それにしてもさ、空綺麗だけど、もっと広かったらいいのに」
気持ちはわかるが、無茶な話だ。この都市には3000万近い人間がすし詰めになって住んでいるのだから。狭い土地に無駄なく人間を住まわせるには、高いビルが建ってしまうのは必然だ。
「特にあの、で~っかい球!あれすっごく邪魔!」
ユキは宙に浮かぶ巨大な球を指さしながら不満げに話していた。僕はユキが本当にこの世界について何も知らないのだと思った。
「ユキ、あれは、あれだけは無くならないんだ」
ユキは巨大な球を見つめていた。振り向かないユキの顔がキョトンとしているのが想像できた。ユキが何も言わないので僕は続けた。
「あれはね、この世界のすべてを作っている機械なんだ。あれはアンクといって、この都市の建物も輸送管も回線も、全てのインフラが、いやそれどころか人間でさえもあの機械に従って整備されてるんだよ。」
まるで歩き方を説明しているようで変な感じがした。説明を続けようとすると、ユキの大きなあくびがそれを遮った。
「フワァ~...アッ」
あくびを切るかのように上げた声も無駄に大きかった。人が丁寧に説明をしているのに聞いていなかったのかと内心ムッとした。
「なんか大変そうだね。あたしだったら、息苦しくて一週間も経たないうちに全部壊しちゃうね」
「...わからないよ」
生まれてからずっとこの場所で生きて、従ってきた僕には本当にわからなかった。けれど、ユキと出会ってからのことを思うと、少しだけ言葉が出にくかった。
「嫌んなったら空き地に行って、ボールをカーンッって打つの。で、こりゃ将来野球選手だな~って」
「わからないって!!」
初めて大きな声をあげたかもしれない。どうしてこんなに腹が立ったのか自分でもあまりよくわからなかった。僕の生きてきた過程を否定されたことが気に障ったのかもしれないし、あまりに自由なユキが妬ましく思えたのかもしれない。それとも、ユキが楽しそうに話す話を理解できない自分が嫌になったのかもしれない。その全部がちょっとずつ入り混じっている気もした。
我に返ってユキの顔をゆっくりを見上げると、口角少しだけ上がっていた。
「未来、見せてあげよっか」
一瞬驚いたが、また野球の神様が適当なことを言っているのだと思った。が、次の瞬間ユキの体が光りだした。僕は直視できずに目を閉じてしまった。目を閉じても光は瞼を超えて眩しかった。
収まったときにはかなり長い間光り続けていたようにも思えた。目を開くと、宇宙用作業服のようなまん丸で黒い頭をしたロボットのようなものが目の前に立っていた。ただ、宇宙用作業服というには胸部には謎のボタンがたくさん付いているし、腰回りや手足がやけに細いし、腕もやけに長い。よく見たら、手足に装甲のようなものまで付いている。
なにより特徴的だったのは大きな翼が付いていたことだ。キラキラと見たことのない輝きをしていた。さっきの閃光を閉じ込めているみたいだった。
ロボットからユキの声がする。
「行くよー!」
ロボットに抱き寄せられる。それと同時に足の裏から地面の感覚が消える。
「っ!」
僕は宙に浮いていた。
「暴れると落ちちゃうよ」
ロボットから響くユキの声のいうことに従う。それだけでは安心できずロボットに必死でしがみつく。
「お、熱烈だな~」
馬鹿にするようなユキの声に反論しようにもうまく声が出なかった。
「もうすぐつくよ。目、開けてみ」
恐怖でつぶっていた目を恐る恐る開けると、黒い大地が下には広がっていた。しばらく眺めてようやく理解ができた。僕らは今、さっき見つめていた巨大な球の上にいるのだ。
ロボットが急に僕のことを離して、球の上に尻もちをつく。その球の表面には不規則で幾何学的な模様が付いていて、ボコボコとしていた。指でなぞると何となく気持ちよかった。
「どうだった?」
上から声をかけられ、返事をしようとその方向を見ると、さっきまで見ていたものとは比べ物にはならない、広い空が広がっていた。視界の9割以上が青く、いつもより多く空気を吸える気がした。
僕が呆気に取られていると、上から見下ろしていたロボットの頭の球がガションと音を立てて開く。中からはニヤついたユキの顔が現れた。
「こうやって使うならこの球も悪くないね」
隣に座りながらユキが言う。
「でも手間だし邪魔なんだよッ!」
そう言って球の表面をガツンと小突く。
次の瞬間、鋭いアラームのような音が鳴り響く。
「え?これあたしのせい?」
まるで他人事のようにユキがこっちを見る。
「ちょっと見てくるから待って」
めんどくさそうにロボットの頭を再び装備すると、ドプンと球の中にすり抜けていった。
早まる心拍音と裂くようなアラームしか聞こえない中、僕は完全に思考停止してしまった。地蔵のように固まって動かないでいると、ユキの声が中から近づいてくるのがかろうじて聞こえた。
「むりむりむりむり!これはむりだ!」
勢いよく飛び出すと同時に僕のことを抱えた。
「ずらかるぞ!あっくん!」
「まさか中に何も入ってないなんて思わなんだ」
耳を疑うようなことをユキは言った。そのことについて尋ねられるほど、互いに余裕のある状況ではなかったので、その場ではなにも言わなかった。
いろいろなことが頭の中でグルグルしていると、突然ユキが話しかけてきた。
「もう自分で歩いてよ」
僕はいつのまにか部屋の前についていた。
「あ、あぁ。ごめん」
僕が自分の足で立つと、ロボットは微細な機械音をカシャカシャと立てながらユキの背中側に集まって消えた。
部屋に入ると、一日の疲れがどっと押し寄せ、瞼を開けていることすら困難になった。傾き始めた日に背中を押されて、フラフラと寝場所へ行くと、泥のように眠り込んでしまった。
パチリと目が覚める。窓からさす月の光が頬に当たっている。眠ってから6時間近くは時間が経っているようだった。寝返りを打つ。ユキの寝顔が目に入る。
「うわあ!!」
僕は寝場所から転がり出る。ユキは眠そうに目を開け、明らかに不機嫌そうに話しかけてくる。
「何?あたしまだ眠いんだけど」
「なっなんでここで寝てるんだよ!」
「別にいいでしょ。あたしもちゃんとした場所で寝たいもん」
そう言うと、ゴロンと逆を向いて寝始めようとした。まだ疲労が残っており、言い返す気力もなかった。しかたないので寝場所の少し横で転がって寝ようとすると
「別にいいじゃん。こっちで寝なよ。さっきまで寝れてたんだし」
彼女の言うとおりだ。けれど、女の人と、というのは意識してしまうと恥ずかしかった。そんなことを考えているとユキに悟られたくなかったので、急いで寝場所の端の方にそっと体を置き、寝ようとした。
背中に知らないぬくもりがくっつく。僕は端で寝ているのにユキが体を寄せてきたのだ。僕の心拍数が上がる。この心拍が背中を通してユキにバレてしまわないか、気が気でなかった。
「ねぇ、あの球壊しちゃわない?」
ユキの言葉が耳と、接触した背中から伝わる。気持ちが落ち着かず、ユキの言っていることは全く頭に入ってこなかった。
「え?」
落ち着くために僕は聞き返す。
「だからさ、あの球、壊さない?」
「あたし今日、中見たけど、カラッポだったし」
脳の処理が追いつくと、ユキはとんでもないことを言っていたことに気づいた。
「なんでそんなことするんだよ」
僕が聞くと、ユキはすねた子供のように答えた。
「だってさ、邪魔じゃん。あっても意味ないし。カラだよ?」
眠気のせいもあってうまく言葉を返すことができなかった。
「カキーンってさ、野球みたいに。あっ、棒でね、あの球を打つの。気持ちいいと思うけどなぁ」
僕の目は完全に閉じ切っていた。なんとなくユキの言っていることも悪くないと思えた。願いを聞いて、屋上に行ったときのように、ピカピカの笑顔がもう一回見れたらいいなと思った。明日起きたら、もっとちゃんと話を聞いて、検討してやってもいいかなと半分寝ている頭で思った。
朝目が覚めると、10時だった。こんな時間に起きたのは初めてだった。どうせ演算も休みだから問題はなかった。が、別の問題として、ユキが居なくなっていた。
勝手に色々巻き込んで、勝手に上がり込んでいたやつがいなくなっただけだ。別に気にすることはないのかもしれないと思った。でも、昨日の夜の話を検討してやるって時にいなくなって、ムッとしたので探して文句を言ってやることにした。
輸送管を使わない移動にも少しだけ慣れた。まだ昨日の疲労で足が少し痛んだ。探すと言っても当てがないので、適当に歩き回るだけになった。
昨日のアンクのアラーム騒ぎのせいか、普段人がいないような場所に警備員みたいな人がうろうろしていた。僕が関係していたことがバレていないことを切に願う。
僕を見かけた二人組の警備員がこちらへ向かってきて、話しかけてくる。
「あ~少年、この写真の女の子を見かけなかったかい?」
その写真に写っていたのはユキだった。今よりも髪が短いが、鋭くて気だるげな目は間違いなくユキだった。
「知りませんけど。この人が何かしたんですか?」
「ん?あぁ、この人はね、いるべき時間から逃げ出しちゃって、自分の目的のためだけにいろんな悪さをしているんだ。もの壊したり、すり替えたり、あとは、」
(あの!しゃべりすぎですよ!)
話していた警備員は後ろにいたもう一人の警備員にグイと引っ張られ、会話を止められる。
「あのなぁ、別にいいんだよ。全部終わったら収束忘却でノイズは掃き出されるから」
「でも...」
話していた警備員がため息をつき、腕を振り払う。
「あぁ~ごめんね~揉めてるとこ見せちゃって」
「いえ」
「最後に、この機器の検査だけ協力お願いします~」
警備員が輪のようなものを取り出した。
「右手をこの中にお願いしま~す」
指示に従って手を通す。機器のエラー音がなる。心臓が凍る思いだった。慌てて右手に目を下すと、ひらのあのマークが光っていた。
まったく理由はわからないが、まずいと思い、僕は一目散に逃げだした。
「あッコラ!待ちなさい!」
走りながら逃げ先を考えていると、屋上で笑っているユキを思い出した。ユキがいる根拠も理由もないけど、屋上を目指して走って走って走った。階段はガンガンガンと荒々しい音を立てて鼓舞してくれた。
バンと屋上の扉を勢いよく開けると、ユキが空を眺めていた。なんとなく嬉しい気がした。
「どしたのそんなに焦って」
いつもの調子のユキに詰め寄り、呼吸すら整えないまま聞いた。
「ユッユキが悪い人でいろんなッ悪いことしてるって、ほんとなの」
ユキは寂しげな顔をした。
「あ~」
「本当だよ」
僕は言葉に詰まってしまった。その詰まったものごと吐き出すように声を出した。
「じゃッじゃあ!あのアッアンクを壊すってのもッ」
「うん、あたしのため。あたしにとって邪魔だったの」
僕はそのとき相当ひどい顔をしていたと思う。崩れ落ちそうな顔のまま聞くことが無くなってしまった。
「でもね、隠し事をしてたけど、それ以外は全部本当だよ」
階段の方から大きな声がする。
「容疑者見つけました!少年と一緒です!」
ユキは彼らを睨みつけ、昨日のロボットを身にまとう。僕を抱きかかえて空高く飛び上がる。
「逃亡!逃亡しました!」
「発砲許可は出ている!打てッ!」
飛び上がった建物から無数の光の玉のようなものが飛んでくる。ロボットは華麗に避け、そうできないものは弾き飛ばし、ものともしなかった。
あっという間の出来事にぼーっとしていると、ロボットは昨日と同様に球の上に来ていた。僕をやさしく降ろしてくれた。ロボットの手から離れて初めて気が付いたが、弾き飛ばしていた際は確実にダメージを受けていたようで、手足がボロボロになっていた。
一番目に着いたのは右側の羽に開いていた大きな穴だ。ロボットの顔が開く。
「ははは、ボロボロだよ。自分を騙していた人間がボロボロになってうれしいかい?」
ユキが自虐交じりに言う。僕は何も言えなかった。
「あたしはここまでみたい。もう帰らないと、本当に帰れなくなちゃうから」
ユキになにかいうことがあると、探したけれど、何も言えなかった。
「じゃ、もう行くよ。これはさ、あっくんに任せるよ」
ユキが地面をコンコンと蹴る。ユキを覆っていたロボットが左の翼に集まり光る。その光はだんだんと収まり、ユキの右手に集まる。ユキの右手には、部屋にあった、あの箱が現れた。
ユキは右手の箱を強く握った。箱が光り始めた。
ユキに言うことがあった気がする。言わなきゃいけないことがあった気がする。でも、何も口から出てこない。僕の口がパクパクする。
ユキの右手の光が体全体を呑み込んでいく。
「ありゃ?」
僕はユキの体に抱きついた。かたく、かたく、持ってる力いっぱいで、忘れないように、抱いた。
「もう、苦しいよ」
そう聞こえたと思うと、感触は無くなって、目の前からは何もなくなって、僕の顔に僕が流したものとは別の涙がつたって落ちた。
何か言ってあげればよかったと思った。胸のあたりがじくじくと痛んだ。胸だけでなく、体全体が痛かった。
僕は大きな声で叫んだ。誰にも届かないだろうけど、その一声で喉が枯れてしまうほどに叫んだ。
体の痛みは一か所に集まっていた。右手のあのマークが光っていた。右手が爆発するんじゃないかと思うくらい痛んだ。
強く右手を握ると、光が右手から溢れ出して僕を包んだ。そしてその光はあのロボットについていた翼のように僕の背中に集まっていった。けれど、あのロボットのものより、ずっと不格好で、ずっと醜くて、ずっと大きかった。
気づくと右手には光の棒を持っていた。僕はユキのいうヤキュウなんて全然知らなかった。だから、ただそれを両手で持って真下に振り下ろしてやった。
とんでもない衝撃が走る。棒を握る手にジーンとした痺れが残る。大きな翼が僕を包み、衝撃から守ってくれていた。意識が遠のいていく。
アンクコンピュータの異常爆発事故から10年がたった。都市の生き残りは僕だけだった。当時のことはもうよく覚えていない。今ではアンクは人類の繁栄にとって不健全なものだったとされている。何があるかはわからないものだ。外では蝉がミンミンと蝉が鳴いている。校庭で生徒たちが野球をやっている。キーンという金属バットの音が響き渡る。打ちあがったボールを目で追うと、真っ青な空に溶け込んで分からなくなってしまった。僕はなんとなく切ない気持ちになった。