「婚約破棄は、破棄しない…殺せ」
「自殺未遂をやった人間の、有名な台詞がある」
少女はナイフで、器用に爪を磨きながら語りかけた。
王子と、国王と、王妃。この三人は仲良くそれぞれの玉座に座り、その上から麻縄でがんじがらめに縛られていた。胴体と手足、それぞれ別の縄を用意して、徹底的に抵抗できないように念をいれている。
宰相の娘は、炊事場から持ってきた使用人用の木製の椅子に腰掛けている。背もたれのない固い椅子に座ったまま、ナイフを慣れた手つきで仕舞うと、頬杖をついた。
「自殺者を減らしたいのなら、まず報道を減らせ、と。ここで自殺が起こった、と大声で叫ぶから自殺志願者が集まってくる。世の中はそういう風にできているものだ、と」
シ、シ、シ......とスタッカートを利かせながら息を吐き出した少女は、手首を労っていた市民に目を向けた。
「そろそろ再開できるかな?」
「へい」
「じゃ話を続けよう......この言葉を私流に解釈するなら、こう。拷問を始めたがってる人間に、やり方を教えるな......上流階級が卑俗という芝居の中にこそ、人生で大切なことが詰まっている。そう思いませんか、殿下?」
体格のいい平民たちは、ゆっくりと立ち上がった。椅子に座らされたままの王族が、くぐもった悲鳴をあげる。宰相の娘は、あ、と間抜けな声を出した。
「あー......殿下の、猿ぐつわを取って差し上げなさい」
「へい」
市民が乱暴に、縄をほどいて口許をぬぐってやる。ひどく咳き込んだ王子は、枯れた声で叫んだ。
「こんなことをして、ただですむとでも......」
「違う、違う。そうじゃない......殿下、話の腰を折るのは悪い癖だ。とっても、とっても、ね」
間髪を入れず、少女が雇ったごろつきが、王子の顔面に拳を叩き込んだ。一人息子が目の前で殴り付けられ、夫妻が身を縮める。
「さあて、殿下。彼らが手首を痛めないよう、真剣に答えていただきたい......ああいや、こう言っていただきたい」
「婚約破棄の宣言を撤回する、と」
「断る!」
叫んだ途端、彼は腹を蹴りつけられ、椅子ごと床に倒れた。
「なあ、王子さまよ、宰相サマの娘さんは、あんたの婚約破棄に心を痛めてるんだ。男なら少しは、気を使ってやるというもんだろう。違うか?」
「王族に手を出すような不届きものが、何を言う!」
「俺たちだってしたくてやってる訳じゃない」
「なぜ......」
「ああ、やっぱり王子さまはわからないんだな」
ごろつきが、仲間の方を振り返る。雇われものたちがどっと笑う。
「何がおかしい」
「どうして俺たちが本来したくもないことを、こうやってしているかがわからない。だからあんたは王子さまなんだよ。玉座にふんぞり返っているだけの、なっ!」
下町の球技のように蹴り上げると、爪先が王子の顎に食い込んだ。白目を向いた王子が、粗相をした。かつて血を吸ったこともないカーペットは、今栄えある王子の小便で汚れ始めていた。
「お前らのような、俺たちのことを歯牙にもかけない貴族が、俺たちから搾り取る。奪い去る......そういった考えもないってのは、改めてよくわかった。だったらこっちも上品にやってやる必要はない」
「うーん、でもほどほどにしなさいよ?殿下はほら、荒事になれてないヤワなお人だから」
宰相の娘、王子の元婚約者は、そういって窘める。へい、とごろつきたちが恭しく頭を下げた。それだけで、国王たちは絶望した。
「それにしてもこの広間って、ずいぶん声が響くわね」
あー、あー、と声を整えた彼女は、やがて声高らかに歌い始めた。その美声に酔う男たちが、リズムに合わせて王子を殴り付ける。再び体を起こされた王子は、手荒い暴力に意識を取り戻した。それが幸せだったかどうかはまた別だ。
もちろん彼女はバカではない。王子の心を射止めるためにこんな真似をしたところで、逆効果なのはわかっている。ではなぜこのような強行手段に出たかと言えば、ただ婚約破棄という宣言を取り消させるためであった。
この状況であれば彼女の人格破綻を理由に突きつけられた婚約破棄は道理の通っているように見える。しかし、王子がそれを決行したのは単純に、他の女に心惹かれたからであった。
所詮は臣下。そう思っていた。
だが誰にわかるだろうか。誰が実行するだろうか。たかが、婚約破棄を言い渡しただけで、最高権力者を軟禁して拷問するなどという凶行を。
常識的にあり得ない。
飾られた王子の軍服は擦れ、白く汚れ、とうとう生地まで破れ始めた。胸から落ちた勲章が虚しく絨毯の上に転がっていた。国王と王妃。二人が目を見開いたまま茫然自失していた。顔の腫れ上がった王子は今、なにも言えなくなっていた。
さてどうしよう、と少女は腕を組む。ここまでやってしまえば、もう引き返すことはできなくなる。
正直な心情を慮るなら、たった一言である。
やべえやりすぎた。
本来はもうちょっと丁重にもてなすつもりだったのである。しかし事態がごろごろ転がっていった結果、なぜかすっごいサイコパスを演じるような状況に追い込まれていた。冷汗が止まらない。
そもそも私情で婚約破棄をするくらいなのだから二転三転急転直下、強情な王子がプライドから撤回を拒んで、リンチが激化するのは道理であった。王子はサンドバッグを通り越してずた袋だし、夫婦は揃って気を失ったり意識を取り戻したりと忙しい。
こんなことならせめて王子だけ捕まえて拷問すべきだった、と後悔して、いやそれもそれで十分ヤバイ考えかもしれない、と少女は思い返す。
ノリノリでやってくれている平民たち。さっきの文句垂れる場面とか、完全に私情が入っている感じだった。いや絶対本音だったね。
本人を拷問してこの様なら、やはり現婚約者の方を誘拐して目の前で拷問すべきだったか。ああいや、どうしてこう考えが過激になっていくのか。
ともかく、彼女には叛意はなかった。国王陛下バンザイ。なんなら今のまま無能を晒してくれていた方が宰相家としてありがたい。今後も長生きしてくださいますように。
だがその願いも虚しくこちらがちょっと微笑んでみたらまた失神した。乙女の笑みになんちゅう反応見せやがる。
引くに引けない、逃げるに逃げられない。ただ婚約破棄を撤回してもらいたかっただけである。
そこに、無神経な声が。
「ヤメテワタシノタメニアラソワナイデ!」
広間の扉をすぱーんと開いて宣った平民婚約者が踏み込んでくる。意気軒昂、本日は天気晴朗なれど波高し。かっぽかっぽと足音を響かせて近づいてきて、王子の前で反転し、彼を庇うように腕を広げる。
それから二度見して、凍りついた。王子のあまりにも無惨な状況に、唇の端をひきつらせる。
「アイエナンデモナイデス。コンゴトモヨシナニ」
「ぶち殺しましょうぜ、お嬢」
「......任せちゃっていい?」
もうなるようになってくれ。
女子にも手加減なしのラリアットを食らってぶっ倒れる彼女を、慣れた手つきで縛り上げていく。四人目の被害者。
このままこの女を消してしまえば婚約者の存在がなかったことになり、つまりは婚約破棄も成り立たなくなるのでは。
無能な国王に無能な次期王。
こいつらにこの国を弄ばれてたまるかと決行した脅しがある意味結実してしまい、少女は天を仰いだ。