新説! 劉邦伝-8-
「ふう…………」
午前の政務を終え、劉邦は一息ついた。
戦後処理にもそろそろ区切りがつく頃である。
久しぶりの暇をどう過ごそうかと考えていると、張良と蕭何がやってきた。
「漢王、書簡が届いておりますぞ」
「書簡? それは専門の部署があったハズではないか。そちらに回せばよかろう」
「いえ、これは漢王に宛てられたものです。目を通されてくださいませ」
「やれやれ」
と受け取った書簡はとても劉邦宛てとは思えないほど粗末なものだった。
「なんだこれは? まるで子どもの――」
玩具のようではないか、と言いかけてやめる。
そしてたどたどしい文字の羅列を目で追った彼はふふっと笑った。
「内容はいかがでしたか?」
「数日前、都を歩いていた儂を見たそうだ。声をかけたかったが我慢したと。最後に”これからも長生きしてください”とあった」
微苦笑しながらもう一度読む。
「差出人は子どもだ。懐かしいな。儂も文字を習った頃はこんな字体だったか」
「今や沛公は誰からも愛されております。歴史を顧みるに子どもにまで慕われていた君主は他におりますまい」
参謀として仕えることができて幸せだ、と張良は言った。
「それは儂の力ではない。戦に於いて、智謀に於いて、内政に於いて、儂は何の役にも立たん。儂がやったことはお前たちを信じ任せたことだけだ」
「それができぬのが世の為政者であります。尤も、沛公の御名をここまで広めたのは、やはりあの書でありましょうな」
”劉邦伝 上の巻”は好評を博し、既に第三版が頒布されている。
以前は民の声を聴くために身分を偽って都を歩いていた劉邦だが、件の書が広まってからは顔も名前も知られるようになり、お忍びでの調査もできなくなった。
「司馬先生によれば中巻、下巻の構想もあるとか」
蕭何が言うと劉邦はため息を吐いた。
「民に慕われるのは良いが、あれはもはや別人ぞ。儂はもっと真面目で控えめな性格だというのに」
今からでも書き改めてほしいと彼は言うが、時は既に遅い。
「そのことでございますが」
と蕭何は真剣な表情で切り出した。
「今にして思えばあれこそが漢王の人品を的確に表すものだったと考えます」
「どういうことだ?」
「司馬先生とのやりとりに於いて、漢王は一度も先生を無礼だから斬り捨てよ、と言われませんでした」
「当たり前だ。そんなことで処刑していてはただの暴君だ。天下に信を失うではないか」
「そのとおりです。もしこれが項羽や秦の時代であったならとうに斬刑です。書が世に出ることはなかったでしょう」
傍で聞いていた張良は深く頷いた。
「しかし漢王は結果的に改変を認め、頒布を許可されました。自分を遊蕩者と描写しているにもかかわらず――」
「ん……?」
劉邦は彼の言わんとすることを理解できないでいた。
「これを読んだ民はこう思います。漢王は自分をだらしなく描いている書が出回ることを允可している。なんと心の広いお方だろう、と」
「なるほど……」
「書を通して民は暴政の終わりを肌で感じることでしょう。そして漢王の寛大さに感謝し、名声は自ずから高まりましょう」
「そ、そうか……?」
劉邦の頬は次第に緩んできた。
こう言われれば悪い気はしない。
「まあ、そういうことなら――」
照れ隠しにそっぽを向いた先には、台に乗りきらないほどの果物や織物、金銀珠玉が堆くなっている。
劉邦の徳を讃え、方々から寄せられた進物だ。
「ならば引き続き仁政を施そう。民が富み、漢が末永く栄えるために」
だらしなく笑いながら劉邦は言った。
允可……許すこと