新説! 劉邦伝-5-
「儂の顔に何か付いておるか?」
「整ったお顔立ちですね」
「そ、そうか……」
「しかし英傑としての華がありませぬ」
「儂が項羽でなくて良かったな」
相手が相手なら首を刎ねられていたぞ、と劉邦は口を尖らせた。
「これまでの出来事で多少の誇張はしましたが、できますれば漢王様ご自身のことで強調する点がほしいところですね」
「あれは誇張の範疇を超えていると思うが……」
蕭何が呆れたように言ったが司馬は聞こえないふりをした。
「そうは言ってものう」
困ったように劉邦が顎をさする。
乾ききっていない墨が鬚のように左右に伸びた。
「人の姿などみな同じであろう。誇るような家柄でもなければ抽んでた能力もない。まともに読み書きができるようになったのも最近だからのう」
「ますます項羽に勝利した理由が分かりませぬな」
司馬は大笑したが、張良たちはにこりともしなかった。
「おお、そうだ! そういえば昔、抱いた女が言っておったが儂の太腿には黒子がやたらと多いらしくてな」
「黒子、ですか? それはまたどうにもつまらな……いえいえ! 多いというのはどれくらいですか?」
「さあ、正確には知らんが五〇個はゆうに超えておると言っておったな」
「ふむぅ……」
司馬は頬を撫でた。
考えごとをする時は決まってこうする癖がある。
「あっ!」
その手が撫でていた頬をぱちんと打った。
「良いことを思いつきました。その黒子、七二個にしましょう」
「えらく中途半端な数だな?」
「五行でございますよ」
張良が容喙した。
「三六〇日を五で除せば七二。これは大変な吉数にございます」
「そうなのか? しかしいくら黒子とはいえ偽りを記すのはどうかと思うが」
心配はない、と司馬は手を振った。
「もともと多いのですから少しくらい増えても問題はないでしょう。シミや雀斑も足せばそれくらいには」
事実を曲げるのではなく誇張表現だからかまわない、と彼はさっさと竹簡に着想を書き足していく。
いくつかの項目を書き加えたところで彼ははたと顔を上げた。
「誇張といえば……」
「まだ何かやるのか?」
劉邦はなかば呆れたように問うた。
「漢王様のことばかりでは読み手は次第に厭きてしまいましょう。ここらで項羽の嗜虐残忍な振る舞いにも触れておきましょう」
そう言って脇によけてあった竹簡から使えそうな記録を探し出す。
「やはりこれでしょうな。新安での秦兵の阬事件! おや? ここには五千人を残らず殺した、とありますが某が聞いたところでは一万人だったかと?」
司馬はこの中で最も事物に精通していそうな張良に確認した。
「記録にあるのですからそうでありましょう。しかし妙ですな。私は二万と聞いたが……蕭何殿はいかがです?」
「たしか三万であったかと。しかし当時は情報が錯綜しておりましたからな。正確なことは分かりますまい。漢王はいかがにございます?」
「大勢ということは知っておるが詳細は知らぬな」
誰もが不確かな情報を持ち合っているのを見て司馬は安堵したように何度も頷いた。
「なるほど、ではいっそのことキリよく一〇万人にしましょう。そのほうが項羽の凶悪さも際立つというものです」
「いやいや、それはいくらなんでも記録との乖離が過ぎるのではありませぬか?」
蕭何が慌てて止めた。
国が管理する公式の記録では五千人となっているから、司馬の提案を呑んでしまうと記録を否定することになってしまう。
「虐殺自体は事実なのですからこれは水増しでございますよ。現に蕭何様も張良様も正確な人数をご存じではないでしょう?」
ならば記録などあって無いようなものだ、と司馬は恬淡としている。
「それとも新安一帯を掘り返して骸を数えますか?」
「馬鹿を申すな。他にも手がけなければならぬ事業は山ほどある。そんなことに割ける人夫はおらんぞ」
つまり好きにしろ、というのが劉邦の見解だ。
「しかしですな、漢王。憑拠というものがございまして――」
「蕭何様、お気持ちは分かります。しかし奕葉、歴史も記録も勝者が作り上げるもの。勝てば漢軍、負ければ賊軍にございますよ」
「それは漢軍ではなく官軍なのでは……」
「それにですね、古よりこういった数字は多少大袈裟に言うものでございます。某の思うところでは数百年の先にはこの倍に膨れ上がっていることでしょう」
しばらく押し問答が続いたが最後は蕭何が折れた。
戦の終わりや劉邦の存在を広く知らしめることが目的だから、それに直接関係のない事柄は厳密でなくともよいとなかば押し切られた恰好だ。
「ではせめて巻末に書き加えておいてくださらんか? この書の内容には一部、事実を誇張した表現があります、とでも」
そうしておかないと国が水増しを認めたことになる。
「それはもちろん。では次に――」
司馬は懐から追加の竹簡を取り出した。
容喙……横から口をはさむこと
憑拠……よりどころ
奕葉……世を重ねること、代々、累世