新説! 劉邦伝-4-
「人夫を引き連れて咸陽へ向かう途中、人夫たちが逃げ出したので漢王様も何人かとともに隠れた、と――」
「うむ、当時の秦の決まりで期限までに人夫を送り届けねば死罪だったからのう。行っても、留まっても、戻っても儂らの運命は決まっておったからな」
「ここにも何かひとひねり欲しいところですな……さて……」
どうしたものかと遠くに目をやった彼は蜥蜴が走っていくのを見た。
「では道を塞いでいる大蛇を退治したことにしましょう。行く手を阻む障害を取り除く……冒険にはなくてはならぬ要素でございます」
「大蛇?」
当時を思い出した劉邦は小さく笑った。
「芒碭山にいる時に山蛇が出てきたが、棒っ切れの先で追い払った程度だぞ。それを大蛇にするのか?」
「ええ、道をすっかり蓋うほどの。ついでにその大蛇、秦帝国の比喩にしましょう。そうですね、語り部は老婆がいい。大蛇に化けた白帝の子を赤帝の子が斬った、と」
これで劉邦の神秘性が増す、と司馬は竹簡に書き足した。
「そこまで話を膨らませてしまっていいものなのか?」
「こうした仕掛けの連続が読み手の興味を引くのです。次に山場になりそうなのは……鴻門での会見ですね」
「………………」
鴻門の名を出した途端、張良が苦々しい顔をしたのを司馬は見逃さなかった。
「おや、張良様? 何か好ましくない出来事でもございましたか?」
そうであれば是非教えてほしいと前のめりになる。
どうせ躱しても追及の手を緩めはしないだろうと読んだ張良は渋々ながら当時の様子を語った。
会見そのものに大きな問題はなかった。
先に関中に入った劉邦に対し怒った項羽が、彼に謀叛の罪を着せて攻めてきたことが全ての始まりである。
項伯のとりなしで成った会見は和やかな雰囲気で進んだ。
豪放磊落な項羽は劉邦の陳弁を素直に聞き入れると、豪勢な料理と酒を振る舞った。
ただ中盤あたりから范増が事あるごとに劉邦に難癖をつけるものだから次第に空気は悪くなってしまう。
どうにか劉邦が害されることは阻止できたものの、代わりに降服してきた子嬰を項羽陣営に差し出す羽目になってしまった。
「あの時は漢王のお命のためと耐え忍んだが、范増からの侮辱の数々が今もって腹立たしいのです」
「左様でございましたか……」
俯き加減の司馬は額に手を当てて笑みを隠した。
張良の悔しさを巧く調理すれば物語に花を添えられるかもしれない。
「ではその無念をこのように晴らすのはいかがでしょうか?」
そう言って竹簡の余白に思いついたことを走り書きする。
「范増は漢王様の暗殺を目論んでおり、張良様への侮辱はその合図であった、ということにするのです」
深呼吸をひとつした司馬は卓を強く叩いた。
「後の禍根よ劉邦殺せ。お腰につけた玉玦擡げ、早う斬れよと合図を送る。待ってましたと項陣営より、現れ出でるは剣豪項荘。余興に見せよう剣の舞。切っ先鋭く光芒一閃。狙う先には劉邦の首!」
「なにか始まったぞ……?」
「それを察した項伯が立ち、我が相手と交わる刃! あわや危うし劉邦を見て、これはまずいと張良走る! 干戈を持てよと樊噲呼び寄せ、闖入したる剛毅の士! ……劉邦は虎口を逃れたのでございます!」
拍子をとるのに何度も筆で卓を叩いたので、飛んだ墨が劉邦の顎に付いた。
「そなたは文筆よりも語り部のほうが向いておるのではないか?」
「身に余る光栄にございます。しかし某には書より他に道はございませぬ。張良様、これでいかがです?」
「む…………」
「范増は項羽の老獪な参謀として知れ渡っております。范増を悪辣にすればするほど、その対比として張良様の名声がますます高まろうかと思いまする。それに――」
司馬は口元に手を当て、耳打ちするような素振りで、
「今のとおりに書けば張良様は漢王様をお守りした英傑として永く語り継がれましょう」
他の二人にも聞こえる声で言った。
しばしの沈黙のあと、張良は咳払いをひとつして、
「溜飲が下がらなかった、と言えば嘘になるでしょうな」
遠回しに改変を認めた。
「結構でございます。では次に参りましょう」
「まだやるのか」
「もちろんでございます。が、その前に――」
司馬は筆を置き、劉邦の顔をじっと見つめた。
老獪……悪賢いこと