新説! 劉邦伝-1-
紀元前202年。
大陸は混乱の最中にあった。
沛の劉邦が項羽を打ち倒し、漢王朝が誕生して間もない頃である。
戦の傷痕は深く、民の興味は高祖劉邦の祝勝よりも明日の生活のことであった。
秦帝国の苛政による疲弊も充分に癒えておらず食糧の蓄えも匱乏が著しい。
国家の基盤を盤石にすべく劉邦、蕭何らは慈愛をもって治国に励んだ。
それから数か月。
仁政が奏功して今、国内は一応の落ち着きを取り戻し始めている。
とはいえ戦後の処理は厖大である。
成ったばかりの王朝は官吏の末端にいたるまで鞅掌する日々であった。
「ふう…………」
午前の政務を終え、劉邦は一息ついた。
戦に馬を駆っていたのも今は遠い昔のように感じられる。
長安の都の煌びやかさにはまだ慣れない。
田舎の小役人にとってはここは眩し過ぎるのだ。
「漢王、お時間をいただきとうございます」
補佐官がやって来て恭しく頭を下げた。
「その呼び方、慣れんな。”劉さん”とでも呼んでくれた方がよほど気が楽だわ」
「なんということをおっしゃいます。漢王のご威徳は天下に鳴り響いてございます。そのような軽々しいこと――」
「分かった分かった。それで何用だ? 政務のことなら明日にしてくれんか。昨夜から働き詰めで疲れたわ」
ああ、と補佐官は手を叩いた。
「なればちょうどよろしかろうと思います。実は界隈ではそこそこ名の通っている文筆家を呼び出しておりまして」
「まさか儂に書を読めと言うのではなかろうな?」
劉邦がまともに読み書きをできるようになったのは、つい最近のことである。
そのくらいの教養がなくては王として威厳が保てない、と張良が口うるさく言うので仕方なく勉強した。
「いえいえ、その逆でございます。執筆にあたって漢王のご助力を賜りたいと――」
「読むので精一杯なのに、書くなんてできるワケがなかろうに。張良と蕭何を呼んでくれ。儂には荷が重い」
「もうお呼びしております」
「なん――?」
足音に劉邦が振り向くと、2人がしずしずと入ってきた。
「おお、ちょうどよいところに来てくれた。実は執筆を手伝ってくれと言われてな。儂には無理だから二人に頼むつもりだったのだ」
張良はかぶりを振った。
「話は聞いております。今回の件、沛公が中心になっていただきませんと」
挙兵以来、張良は彼のことを沛公と呼び続けている。
劉邦はそれが心地良かった。
「どういうことなんだ?」
その時、正面の扉が開いて衛兵がやってきた。
「申し上げます。先生が到着されました」
入ってきたのは柔和な顔つきの青年だった。
もともと痩身の彼は全体的に黒みを帯びた衣服をまとっているせいでさらに細く見える。
「司馬言皆と申します。漢王様に見えることができ恐悦至極です……一、二」
青年は深く頭を垂れると、ゆっくりと数字を数えてから顔を上げた。
「それは何の数だ?」
「漢王に謁見する時はゆっくり一、二と数えてから頭を上げるのが礼儀だと」
「誰に教わったのだ?」
「そちらの方に」
司馬は衛兵を指差した。
「これこれ、ヘンなことを教えるな。そのような決まりはなかろう」
「はっ、失礼いたしました。皆さん、同じようにされていましたからそれが礼儀かと思いまして……」
「まったく……司馬言皆と言ったか。あまり気にするな。儂も堅苦しいのは苦手だ」
衛兵を下がらせると劉邦は従者を呼び寄せ、席の用意をするように言った。
「せっかく訪ねてきたのに立ち話もあるまい。食事でもしながら話そうではないか」
匱乏……ものが不足していること
鞅掌……忙しく働いて暇のないこと