01 後宮入り
「この書類にサインを。最後に拇印を押してください」
「はい」
サリサは目の前の書類に「サリサ・リベラ」と名を書き込んだ。
そして用意されていた特殊な紅に右の親指を浸すと、サインの横に拇印を押す。
その様子を見届けた司祭が書類を受け取り、何事かつぶやいた後にふうっ、と息を吹きかけた。
一瞬、書類の文字が光ったのがサリサにも見えた。
何らかの術が使われたらしい。
「これにて契約は交わされました。精霊様も見届けられています」
「はい」
「サリサ嬢。本日ただいまをもって、あなたはゾロ・グランディエ国王陛下の第五妃となりました。リベラ伯爵家の籍を抜け、第五妃と呼ばれることになります。これよりひたすら国王陛下の御為に尽くしなさい」
「かしこまりました。この身もこの心も全て、国王陛下に捧げます」
「よろしい。第五妃サリサには『桜の館』が与えられます。精霊様の祝福があらんことを」
第五妃サリサ。
それが今の彼女の名前だ。
サリサはグランディエ王国の貴族の一人、リベラ伯爵の一人娘として生まれた。
淡い金髪と青灰色の瞳に彩られた容姿は整っていて、幼い時からリベラ伯爵家の珠玉の姫君として有名だった。
美しい容姿と伯爵令嬢という身分から婚姻の申し出は後を絶たなかったが、数か月前、リベラ伯爵は彼女を国王の妃の一人として差し出すことに決めた。
そして先ほど国王の五番目の妃になる儀式と契約が完了し、15歳の幼い妃が後宮に入ることとなった。
サリサは後宮の中に用意された「桜の館」に入ると、まずは身支度を整えた。
妃になる儀式は午前のうちに終了したのでまだ陽が高い。
夜には国王との初夜を迎えることとなるが、その前にやらなくてはならないことがあった。
侍女に結われていく髪型を鏡で確認しながら、サリサは一人の黒髪の女官に声をかけた。
「エイプリル、王妃様への贈り物は用意してくれた?」
「はい、お嬢…サリサ様。お小さい姫君がいらっしゃいますので甘いお菓子にしました。すでに検分を済ませ、封印を施して用意してございます」
「ありがとう。エイプリルは仕事が早くて助かるわ」
サリサは支度が終わったのを確認すると、エイプリルに手を引かれて立ち上がった。
後宮に入ってからの最初の仕事…それは後宮の主である王妃、つまり国王の一番目の妃に挨拶をすることだ。
あらかじめ先ぶれを出していたので、時間通りに案内役の女官が「桜の館」を訪れた。
先導する女官に続いてサリサは「牡丹の館」へと向かう。
王妃ガブリエラが、幼い王女と共に居住している館だ。
「こちらでございます」
入口を通り過ぎ、奥の客間へと通される。
サリサは立ち止まり、エイプリルが差し出した手鏡で再度自分の姿を確認した。
そんなサリサに、ここまで案内してきた女官がそっと声をかける。
「本日は第二妃様、第三妃様、第四妃様、そして王太后様もお招きし、すでにお部屋でくつろいでいらっしゃいます」
「そうでしたか、教えてくれてどうもありがとう」
予測していたことだったが、サリサは親切心で教えてくれた女官に礼を述べた。
後宮に新しく向かい入れられた妃を王妃の屋敷でお披露目するのは決まりではないが、もはや慣例になっている。
後宮入りするまでサリサもただ遊んでいたわけではない。
お茶会からの情報や父の伝手を使って、後宮の勢力図や女官の様子、独自のルールなどを下調べしてきた。
当然ガブリエラ王妃の好みや性格、どんな会話を好むのかも調べつくしてある。
「扉を開けてください」
「第五妃様がいらっしゃいました」
女官が扉の向こうに呼び掛けると、しばらくして扉が開かれた。
中から上品な紅茶の香りが漂ってくる。
サリサは女官に続いて中に進み、一番奥で椅子に座っている女性にカーテシーをした。
「お初にお目にかかります、王妃様。本日より第五妃を賜りました、サリサと申します」
女性が立ち上がり、二、三歩こちらへ近づく気配がした。
「顔を上げて頂戴」
ゆっくりと立ち上がる。
グレーの瞳をした女性が柔和な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
王妃ガブリエラ。
侯爵家の出身で、現在は29歳。
金の刺繍が施された臙脂色のドレスを上品に着こなし、茶色の髪はルビーの髪留めで飾っている。
他のアクセサリーも豪奢なものばかりだというのに嫌らしい感じはせず、さすが王妃とひれ伏したくなるような威厳を際立たせているのはさすがであった。
「私がガブリエラです。サリサ様、あなたを歓迎いたしますわ」
「恐れ入ります。王妃様にお目にかかれ、恐悦至極に存じます」
「硬くならないで頂戴。妃の契約が成った以上、あなたは今日から私の妹よ」
「ありがとうございます。王妃様の妹になれる日が来るとは、身に余る光栄ですわ」
ガブリエラ王妃は笑みを深くした。
サリサの言葉を額面通りと受け取ったのか、あるいは社交辞令と思ったのか…。
「あなたが来てくれると聞いて、お義母様を始め他の妃もお招きして待っていたの。このまま紹介してもいいかしら?」
「こちらからお願いすることでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
ガブリエラ王妃は、王太后から順番に紹介していった。
まずはラモーナ王太后。
前王妃で、国王の生母。
「百合の館」に居住し、現在でも後宮で大きな権力を持っている。
ガブリエラ王妃との関係はあまりよくなく、姪にあたる第二妃を王妃にしようと画策していると専らの噂だ。
次に「蓮華の館」の主である第二妃オーガスタ。
ブルネットの髪に褐色の瞳で、顔立ちは伯母のラモーナ王太后に似ていた。
水色の薄い生地を何枚も重ねたような、プリンセスラインのドレスを纏っている。
いくら王妃より年下とはいえすでに二十代半ば、夜会でこんな格好をした日には貴族たちから失笑をかうところだろう。
そんな彼女はラモーナ王太后を後ろ盾にガブリエラ王妃と対立し、後宮は事実上王妃派と第二妃派で真っ二つに割れている。
「撫子の館」の主、第三妃エメライン。
紺青の髪と薄い灰色の瞳をした、少し儚げな印象を与える女性だ。
元辺境伯令嬢の彼女は元々婚約者がいたものの、相手が日ごろの振る舞いを理由に廃嫡され、婚約も解消されたことで急遽後宮入りすることが決まったという異色の存在だ。
身目の通り大人しい女性のようで、装いもベージュのドレスにシンプルな真珠のアクセサリーでまとめている。
最後は「菫の館」を与えられた第四妃パンジー。
ピンクブロンドの髪に、ややつり上がった紫の瞳をした、勝気そうな印象を与える少女だ。
去年後宮入りしたばかりの17歳、実家もサリサと同じ家格の伯爵家だ。
鮮やかな髪に合わせてパステルグリーンのドレスを纏っている。
しかしサリサを除けば一番下の妃であるからか、アクセサリーはサファイアのイヤリングのみと華美になるのを控えている様子だ。
ラモーナ王太后とオーガスタ妃は品定めするような、パンジー妃は敵意を感じさせるような視線をぶつけてくる。
エメライン妃は微笑するだけで何を考えているのか分からない。
彼女たちが後宮で国王の寵愛を争う妃たちだった。
それに今日からサリサが加わるのだ。
「桜の館」に戻ったサリサは、軽く食事を取ると国王との初夜を迎えるための準備に入った。
新しい妃が後宮に入った日は、必ず国王は新しい妃の屋敷で過ごすことになっている。
結婚式も行われないまま国王と婚姻したサリサにとっては、ナイトドレスが花嫁衣装であった。
風呂で体を清めて肌に香油を塗り込み、寝化粧をしたサリサは静かに国王を待った。
やがて女官が国王が来ることを知らせ、ほどなく宦官を伴った国王が姿を現した。
ゾロ・グランディエ。
このグランディエ王国の国王にして、今日からサリサの夫となる男。
今年で35歳。
短く刈り込んだ亜麻色の髪をしていて、灰色掛かった緑の瞳は鋭い。
在位四年の間には目立った失策はなく、堅実に政務に取り組む姿勢に大臣たちからの評価も高かった。
「楽にせよ」
膝をついていたサリサはその言葉にゆっくりと立ち上がった。
「久しぶりだな、サリサ嬢」
「陛下」
有力伯爵の娘だったサリサは幼いころからゾロ王の妃候補だった。
ゾロ王はガブリエラ王妃との関係は良好だが、ようやく授かった男児は夭折し、王女が一人残るのみだ。
第二妃や第三妃も妊娠する兆候がなく、去年16歳だった第四妃が後宮入りしたが、やはり妊娠には至らない。
サリサの父であるリベラ伯爵は国王や大臣たちと応談を重ねる傍ら、サリサを国王と何度か面談させて相性を見た。
二十も歳が離れている二人だが、何度か面談している間に領地経営や経済の話で盛り上がって気安い関係になっていた。
女性が政治に口を出すのははしたないと言う者もいるが、先々王の時代から少しずつ女性の官僚も増えており、ゾロ王も頭の良い女性は嫌いではなかった。
サリサが婿を取ってリベラ伯爵を継げば、大臣たちに交じって政治を動かしていたかもしれない。
「聡明なそなたを後宮に閉じ込めたくはなかったが…」
「おっしゃいますな。すべては精霊様のお導きでございます」
「…感謝する」
ゾロ王は宦官を下がらせ、最後までサリサの側に控えていたエイプリルも退出する。
扉が閉まり、ランプの明かりだけになった室内にサリサは体を震わせた。
その日、第五妃サリサは国王との初夜を滞りなく終えた。