最強の竜だったおれが人間として甦るはずがな……なん……だと?
気持ちよく睡眠から目覚める。久しぶりの感覚だった。
ゆったりと身体を伸ばす。まず腕。突き出して曲げたり伸ばしたりして確認する。ごくオーソドックスな人間のそれ。日に焼けてはいるが、まるで新品のように軽く滑らかに動かせる。とてもよく鍛えられた成人男子の肉体だ。
身体を起こしてぐるりと周囲を見渡す。野戦病院のような場所だ。ただっぴろい広間にフレームだけの簡素なベッドがみっしり並んでいる。ベッドは空きが多くてがらんとしている。僧服と白衣がまばらに往来して、おれのような患者っぽいのやその付き添いの相手をしている。
今まではゲームが切り替わると新しい場所の常識やルールなどの基礎知識は最初から頭に入っていた。しかし今回は基礎情報がなにもない。
もっとも竜だったときもなかった。でも竜だし。
その前はどうだっただろうか。よく思い出せない。そもそも竜として暮らした期間が長すぎた。軽く三百年は経過しているだろう。おれのタイムスケールが狂っているだけかもしれないが。
ともあれ、人間か。面白味に欠けるな。しかしそれならばやることはひとつ。所持品の確認といこう。仮にこれがバトルロワイアルものなら、所持品ひとつで生死にかかわるからな。
ベッドにかけられたシーツ。おれに掛けられた毛布。これは違うな。施設の備品だ。
それから簡素なシャツと質素なズボン。下着はパンツだけ。当然のように裸足。
靴は枕元にも足元にもベッドの下にもない。
詰んだ。
いや待て。この毛布をうまく使えば靴の代わりになるのではないだろうか。紐があれば足に括りつけられるし、切らなくてもなんとかなるかも――
「毛布はきちんと畳んで」
「はい!」
いきなり声を掛けられてビビッたおれは、慌てて毛布を畳んだ。
誰かと会話するのはテストが開始されてから初めてのことだ。
きっちり畳んでから声をしたほうを見ると、赤い髪をサイドテールにした女が、ん、とズタ袋をおれに差し出してきた。
「受け取って。あんたの荷物」
「おう」
受け取って中身を確認する。街歩き用の靴。上着。硬貨しか入ってない財布。携行保存食。ナイフ。
ナイフ。
豪快に飛び散った鮮血を思い出す。
「蘇生代は抜いたから」
「お? おう」
慌てて財布を確認するが、前にいくら持っていたのかも分からないし通貨単位も分からないので元に戻す。
「なにボサッとしてんの。行くよ」
「行くって? どこへ?」
「あ?」
赤い髪の女は心底不機嫌そうな表情でおれを見た。なんだよおれに何の不満があるの。どこかで見たような顔だが――ん? 待てよ。この髪、右翼にいた女剣士じゃないか? 街着はおれと似たような素っ気ないシャツにズボンだが、そんな味気ない服を着ていても隠しようもない魅惑のボディラインには見覚えがある。おれが一目で推したあの女剣士では。
「よかった! 生きてたんだな」
「あ? 死んでたわよ。それがなに?」
「え? じゃ、いまここにいる君はなに? 幽霊?」
「あんたと一緒で蘇生したばかりなの。なんか文句ある?」
「文句っつーか、そもそも君は誰なの? おれの何なの? つーかおれは誰なの?」
「あ?」
そして君はなぜ、おれが喋るたびに威圧してくるの?
◇
麦酒2杯、硬くてひらべったい煎餅みたいなパン数枚、チーズ、干葡萄、そしてしょっぱい串焼き肉が3本ずつ給仕される。木製のテーブルが並んだいかにもな無骨な酒場だ。おれたちは遅めの昼食をとっていた。
「それ、おれの金じゃね?」
「いいじゃない。あたしがいなきゃ戻って来ないお金だったんだし、ここは奢るしさ」
さっきまで不機嫌の塊だった推しちゃんはすっかりゴキゲンだった。おれの蘇生が完全じゃなかったと寺院に捩じ込んで半額返金してもらっていた。金貨5枚。そしてそれを自分の財布にしまいやがった。
で、おごってくれるというここの昼飯は白銅貨3枚。そりゃ上機嫌になるよね。
今まで戦闘に次ぐ戦闘で、こういう日常パートは殆どなかったからイマイチ勝手が掴めないな。
しかし情報は無いよりはあったほうがいいだろうし、推しちゃんがいるならそれに越したことはない。
推しちゃんはテーブルの上に置かれた燭台の蝋燭でチーズを炙って溶かし、パンに垂らすと何枚かをおれに寄越した。
「ん」
「どうも」
「定番よね、チーズが溶けるように仲間の絆を温めよう、みたいなの」
「そーゆーのは鍋でやるもんだと思ってたよ」
「鍋ね。聞いたことないけどそれもありかもね」
推しちゃんはじろっとおれを睨めつけた。うむ。プロポーションだけでなく顔もいい。おれはパンを齧る。ぼそぼそで味がしないが、チーズが絡んだところはまだ食える。さすが推しちゃん。
「名前も覚えてないってホント? ありえないんだけど」
「覚えてないんだから仕方ないね。君の名前だって分からないし」
「あたしはレベッカ」
「苗字は?」
「エヴ……」
「えぶ……?」
「……」
「……」
「……教えないわよ」
「え、いまなにか言いかけたよね?」
「教えないから」
真名を知られると支配されるような世界観なのかな。それとも推しちゃん、いやレベッカ、かなりきわどい鎧を着せられていたけど本当は高名な貴族で、それを隠しているとか? まさかね。
「で、おれの名は?」
「ええと……ちょっと待って……」
レベッカは視線を彷徨わせて、麦酒に手を伸ばした。ん? なにを考えることがあるんだ?
「だめ」
「う」
レベッカの手にしたジョッキを上から抑え込むように華奢な手が乗せられる。視線を上げると、白いローブを着た金髪の美少女がレベッカの背後にいた。レベッカは、わずかに顔を引き攣らせた。おれの表情もちょっとひきつる。
こいつ知ってる。レベッカを刺していた奴だ。白いローブに金髪。間違いない。
「だめ?」
「だめ」
「……ですよね」
レベッカががっくりと肩を落とす。美少女はレベッカの隣に座ると、レベッカのジョッキをぐいっと一息に呷った。おい美少女。おいおい未成年。未成年? んん? もしかしたらちょっと童顔なだけの成年かな? だとすると美少女(仮)が適当か。
美少女(仮)は一気に飲み干して、とん、とジョッキをテーブルに置いた。そして言った。
「あなたはカイン・ブルーブラッド」
「それ!」
レベッカは美少女(仮)を指さして自分が言いたかったのはまさにそれアピールをした。
「……え、なに、君、おれの名前忘れてたの?」
「え、いやまさかそんな。えっとこっちはトリス!」
強引にレベッカは連れを紹介した。美少女(仮)ことトリスはとくになんのリアクションをするでもなく、ぼーっとおれを見てる。間に困って会釈をすると、ほんのり首を傾げた。なんかいい感じの挨拶を言葉でください。
「他にあと3人いるんだけど、みんなロストしちゃって、今はこれで全部」
「ロストとは?」
「えっ? そこまで分かんないの?」
「金貨5枚分のサービスだと思って、まっさらの赤ん坊を育てるように丁寧に教えてくださいお願いします」
言いながら、もしかしたらレベッカには期待できないんじゃないかという不安に襲われる。こいつ、説明がかなり下手なのでは。
君も何か喋ってくれやと、トリスを見たら、ふらっと立って「帰る」と言うなりスタスタと酒場の階段をあがっていった。
はて。酒場の娘なのか?
おれがわけのわからない表情で見送ってると、レベッカはまた「そこからかー」と頭を抱えた。
「ここは宿屋兼酒場で、ここに宿を取っているの。今日は三人で一部屋だけど文句ないよね? 風呂は宿にもあるけど、寺院にあるやつは無料だから入るならそこで入ってきて。こういうことまで教えないと分かんない感じ?」
「わかんない感じです」
「大変だー」
「大変だね、君が。おれの麦酒でものむ?」
レベッカはがばっと起きて一瞬目を輝かせたが、すぐにどよんとした目に戻って首を横に振る。
ほーん。
トリスとレベッカの力関係を察しつつ、おれは自分のジョッキを呷った。
◇
修理に出している武器を取って来るというレベッカと酒場で別れ、おれは宿の階段をのぼる。
煉瓦造りの薄暗い廊下で板扉のプレートの数字をひとつひとつ確認していく。
廊下の中ほどでレベッカから聞いた番号の部屋を見つけ、ノックした。
「いいか? 入るぞ」
返事を待たずに扉を開く。
トリスは壁際のベッドにいた。壁にクッションをあてがってくつろぎながら革表紙の本を読んでいる。
真ん中のベッドにはすでに荷物が置いてあるから、そこはレベッカのベッドだろう。
おれは窓際のベッドに自分の荷物を置いた。
「どうも蘇生がうまくいかなかったようで、記憶が戻ってない。面倒を掛けるが、よろしく頼む」
トリスは無表情におれを見て軽く頷くと、すぐに本に視線を落とす。
おれは靴を脱いで木製の寝台にあがりこむ。造りはしっかりしているものの、やや窮屈な感じだ。
この部屋の調度は、寝台を除けば入口そばのコート掛けと鏡ぐらいしかない。
コート掛けにはトリスの白いローブや、武器や工具を身に着けるための細工のある革ベルトが吊るされ、その根本には雑多な荷物が積んである。
ふと思いついて窓を――おれのベッドの横にあって、おれのベッドからしか手が届かない――開けると、ぶわっと風が吹きこんできた。
青空でも見えないかなと身を乗り出してみたが、あいにくの曇り空だ。
「寒いわ」
吹き抜ける風でめくれあがる頁をそっと右手で、ばっさーと翻る長い髪を優雅に左手で押さえながら、物憂げにトリスが言う。なんでこんな悲惨な状況で、見惚れてしまうほど絵になるのか。美少女こわい。
「すまん」
詫びながら窓を閉じ、それから改めてコート掛けの白いローブに視線を走らせる。血の痕はない。漂白されたかのように綺麗だ。
「……さっきからずいぶん熱心に読んでいるけど、なんの本? 魔法の勉強?」
彼女はいったいどういう人間なのだろう。殺人を犯すような人物なのだろうか。見た目はまったくそうは見えないが。おれは警戒しながら会話を試みる。
トリスはスッと革表紙――ならぬ革カバーを外して背表紙が割れた薄いペーパーバックを見せてくれる。白馬の王子様と古風なドレスに身を包んだ美女が描かれたアメコミのようなイラストが表紙だ。とてもハーレクイン・ロマンスっぽい。
「ロマンス小説。これからヒロインが悪の貴公子を告発して王子と結ばれるクライマックス」
トリスは本の内容にまるで興味がなさそうな平坦な声で言った。
「いつになっても勧善懲悪ロマンスは人気だよな」
「たまには悪の公子が勝利すればいい」
「わかる」
ロマンス小説も読めば案外面白いのだ。大衆に受け入れられやすい誠実なヒロインに、ヘイトを集めやすいライバル。主軸も分かりやすく結末はスカッとする。見え見えの筋は、安心感をもって読み飛ばしやすい。多読にはもってこいの題材である。ペンギンブックスやオックスフォードのグレイデッドリーダーばかり死ぬほど読んでいた日々を懐かしく思い出した。
「――わかる?」
「斜め上の衝撃っての? 冷酷無比で露悪的で意地の悪い貴公子が、こう思わぬところで激情をぶつけてヒロインに熱烈片想いしてることが分かる瞬間、よっしゃオラァ!って思わない? おれそういうのすごく好き」
「わからなくもないわ」
「そんで相手がスカしてればスカしてるほど、みっともないのは爽快感があるよね。おれのヒロインの魅力をくらえ!って」
「いつからあなたのヒロインに」
「いやまぁね、おれのヒロインちゃんにはね、悪の貴公子みたいなそういういかにも幸せになれなさそうな男よりも、ずっとヒロインちゃんを見守っていた従僕とか、ちょっと素行の悪くてことあるごとにからかってくるワイルドな騎士様とかと幸せになって欲しいんだよね! あ、でも戦争に行く前のプロポーズはだめだよ。死亡フラグだからね。確実に死んじゃうからね!」
「確かに」
「だいたいさ、本命のヒーローって話の展開を持たせるために無駄に問題起こすどうしようもない奴が多すぎるんだよな。幼馴染とか親に決められた許嫁とか何人いるんだよっていう」
「ある…」
「正直おれのほうがマシだよ! 王子様より確実に上手くチャーハン作れるからね!」
非常に短い返事しかくれなかったトリスが、ついにくすくす笑い出した。
「あなたもロマンス小説が好きなの?」
「ロマンス小説『も』好き、だね。読めば面白いし、最後まで読めるものはなんでも好きだし。トリスは?」
「私は――」
ふいに醒めたような表情になってトリスは本を閉じた。
「――何冊読んでもぜんぜん好きになれない。どうしてヒロインは自立しないの? 王子様って必要ある?」
「おっといきなりの全否定」
「このヒロインも男装するぐらいならそのまま貴族の御令嬢でも落としまくって悠々自適に暮らしてもよくない?」
「それは別のジャンルになるな」
「どうして男装してるのに将校と恋に落ちるの? 将校はホモなの? ホモじゃないなら、わざわざ男装のヒロインと恋に落ちるのはなぜ?」
「おれが作者なら軍部はホモの巣窟でヒロインちゃんの魅力に負けて次々に清らかになる話にするよ」
「それ面白い?」
「おれが読者ならまず読まない」
「私も」
トリスは喋り過ぎたとでもいうように言葉を切る。いや面白いからもっと語ってくれ。トリスは明らかにおれの好きな人種だ。つくりものに。創作物に。物語に。つまらなくても大真面目に読んで登場人物視点でも作り手視点でも多角的に俯瞰できて。それで本気で感情を込めて語れる人種。剣と魔法と竜の国では、そんな人種は珍しいんじゃないかと思う。
「総じて一番つまらない人とくっつくのよ。私がヒロインなら絶対――」
「絶対?」
トリスは一瞬言い澱んでから、俺を見る。そして秘密めいた笑みを浮かべる。
「――いちばん稀覯本を持ってそうな人を選ぶわ」
「やだなそんな打算的なロマンス小説!」
トリスは肩をすくめて読書に戻った。
『私がヒロインなら』なんて言うまでもなく、トリスはロマンス小説の主人公みたいな見た目だった。シャンプーの宣伝に使えそうなサラッサラの長い金髪。日が沈んだり昇ったりする直前の空の色のような、赤紫が滲んだ深く暗く蒼い瞳。長い睫毛。うっすらそばかすの浮いた白い肌まで少女を感じさせて完璧だ。トリスなら物語に出るようなどんなイケメンでも、思いのままに落とせるだろう。
少なくともおれは落ちる。
トリスに愛を囁かれたら殺人犯だろうが何だろうが2コマで即落ちする自信がある。
もちろんレベッカに愛を囁かれても即落ちするけどね! むしろもう落ちてるよ!