ハニー・トラップ
「あ、トリス! まだイエスの返事もらってないよね? そろそろ返事が欲しいんだけど」
「それはもう断ったと思ったけれど」
「イエスの返事をまだもらってない」
そこそこお行儀もよく会計も安めの賑やかな酒場。
学究所の不毛な議論が続く交流会に付き合わされていたら、私が誰といようがお構いなしなフィオナ・エヴォリュシオンが声を掛けてきた。
交流会にうんざりしていた私にとっては、テーブルを替えるいいタイミングだった。
フィオナの席の隣には見覚えのない長身の赤毛の女の子がいた。
「あ、これ妹のレベッカ。今日が成人式で酒場初体験ってわけ。レベッカ、こちらはトリス・エリュダイト。学究所の学士さん」
「はじめまして」
レベッカは片手を差し出した。もちろん無視すると、さりげなく手をひっこめる。彼女は礼儀正しく、それ以上私たちの会話には加わらなかった。
フィオナは現在ご執心の『始源の竜』に関して私の興味を惹きそうないくつかの情報をほのめかし、私も彼女の興味を惹きそうないくつかの情報を並べて、条件が折り合いそうなものを交換した。
このほど学究所が所有する古文書に『始源の竜』に関する新しい情報が見つかった。棲処を特定できる情報が見つかったのだ。
門外不出のはずのこの情報を、なぜかフィオナは知っていた。とてもよく。
「討伐隊にきてくれれば、絶対に損はさせないんだけどな」
「なにも成果がなくても報酬を支払う、という誓約書でもくれれば考えるわ」
「報酬? どんな?」
「例えばあなたの持つ『始源の竜』の情報は無条件で私に渡す、とか」
「暴利が過ぎる」
レベッカが別の顔見知りに声を掛けたので、私はテーブルを離れた。
◇
「いま帰り? こっちのほうだっけ?」
絡み酒×論戦の不毛な交流会もようやく終わって酒場を出たところで、フィオナに声を掛けられた。肩に酔い潰れた妹を担いでいる。
「ええ」
「じゃ、途中まで一緒に行こうよ」
返事も聞かずに肩を並べて歩き出した。ひと一人担いでいるとは思えない軽やかな足取りだが、『咒』でも使っているのだろうと思った。
あとで知ったことだけどレベッカには『咒』は効かない。それでもフィオナ自身の身体能力を向上させる、掛けられた負荷を拮抗させる、フィオナが重量を感じないようにする等々やりようはいくらでもある。
「あなたの妹にしては隙があるわね」
「今日は飲ませ過ぎちゃったし仕方ないよね。徐々に限度を覚えていくと思うし」
「あなたはそういう失敗はしなかったと思うけど」
「そう? 知らないだけでしょ?」
「そうは思わないけど」
他愛ない話をしながら、尖塔に着く。
ここはエリュダイトに加わったときに手に入れた住処だ。扉を開けると塔の内側を埋め尽くす書架に圧倒される。その前に架けられた螺旋階段の最上部に部屋があり、私はそこで暮らしている。書架の反対側、塔の中央部分は吹き抜けになっている。
すでに廃れかけていたエリュダイトを選んだのは、この尖塔が欲しかったからだ。
もっとも正確に言えば、この塔も本もただの管理者である私のものではなかったのだが。
「それじゃ悪いんだけど、これ、預かってくれる?」
「は?」
フィオナがあまりに自然にレベッカを私に差し出すから、つい受け取ってしまった。
ずしっと体重が全身にかかる。つい先ほどまで軽やかに持ちあがっていたのが嘘のようだ。
「持って帰るのも重たいし放置するわけにもいかないし、困ってたんだよね。トリスがいてくれて助かったわー。床にでも転がしといてくれればいいから」
フィオナはひらりと手を振って、さっさと走り去った。
「ちょっ…待っ……」
あまりの仕打ちにぽかんとした。フィオナと知り合って随分経つし、どういう人間か熟知していたはずなのに、この事態が予測できなかったことに臍を噛んだ。
◇
「自分で歩いて」
「ん…」
とりあえず尖塔に入って扉を施錠し、螺旋階段にレベッカを置く。
声を掛けると、レベッカはよろけて手摺につかまり立ちして頭を振った。それからぼんやりした目で私を見た。
「あれ? あたし死んだ? 天使がいるんだけど」
「……上まで歩ける?」
レベッカは目線をあげる。天窓から入る星明かりに、ほのかに浮き上がる書架と螺旋階段。
「ここは天国?」
「そうかも」
「こんな天国やだなぁ」
「失礼な」
めそめそしながらレベッカは一歩ずつ階段を昇り始めた。落ちやしないかとハラハラしながら背後から見上げると、すらりとした彼女のアキレス腱が見えた。階段を昇ることによりしなやかに動くそれを眺めてると、だんだん見てはいけないものに見えてきて視線を逸らす。なに、これ。
「ここにある本って、もう全部読んだの?」
「ひととおりは」
「どれが一番おもしろかった?」
「面白いの定義によるわ」
「つまらない本はあった?」
「ない」
「すごいね」
レベッカはくすくすと笑い出した。酔っ払い特有の躁状態に陥っている。わかってる。なのに、背筋がぞわっとするほど魅惑的に見えた。
レベッカは階段をのぼりながら、立てた人差し指で本の背をなぞる。擦過音すら扇情的に響く。
「ぜんぶ読むのにどれぐらいかかった?」
「目録があったから、それほどでは」
「目録って?」
「本のリスト。どの本がどの本の影響下で書かれたのかという地図みたいなもので、私が専攻しているのはそういう……」
「すごいね」
レベッカは私を見て破顔した。
その美しい造作で無防備な笑顔を向けないで欲しい。それはほとんど凶器に近い。
なので。
私の反応が遅れたことは仕方ないと思う。
ほとんど攻撃されたようなものだったので。
レベッカ・エヴォリュシオンは、無造作に螺旋階段の手摺にひょいと腰を掛けて、そのままぐるんと回って、吹き抜けを落ちていった。
上機嫌な笑い声にドップラー効果がかかった。
◇
もちろん吹き抜けに落下物という事態は想定済だったので、仕掛けておいた外法――この呼び方はあまり好きではない。寺院の呼び方だから――による自動発動のエア・クッションで、レベッカ・エヴォリュシオンは墜死を免れた。
1階でも、レベッカはまだげらげら笑っていた。
エヴォリュシオン姉妹はとてもよく似ていると思った。
『レベッカはまだいいとしても姉貴がアレだからな。無理』
先ほど酒場で耳にした言葉だけど心の底から同意する。レベッカはフィオナ・エヴォリュシオンの妹だ。だから無理。それでおしまい。
「わあ」
このままもう彼女を1階に放置して寝室に戻って寝よう。そう考えて階段を昇りかけていたら、階下が崩れる音がした。
「点灯」
慌てて灯りをつけて螺旋階段から身を乗り出して階下を見る。
崩れた床の下に、深淵までも続きかねない深さの図書室が新たに現れていた。
蔵書の貧弱さから、そういうものがある可能性も予測はしていた。しかし、なぜ今見つかるのか……。
私の理性は様々な種類の興奮のあまり、限界を迎えそうだ。
◇
「最初からこうしてれば良かった……」
ドローン数台に網を持たせて、動かないようにぐるぐる巻きにしたレベッカを乗せる。吹き抜けをそのまま上昇させて部屋に運ぶ。
二度目の墜落では外法のフォローもなかったレベッカだけど、まったく無傷でへらへらしていた。運が良すぎるのか身体能力が優れ過ぎてるのかは分からない。
部屋までレベッカを運ばせる。さっと縄を解いてベッドに転がす。
「脱がせて」
「自分でやって」
「紐が解けない」
酔っ払いはほんとうに始末が悪い。それとも貴族様は一人で服も脱げないのか。イライラしながら紐で止められた上着やベルトを外してやると、あとは自分で脱ぎ捨てた。レベッカはそのままベッドに突っ伏してしまう。全裸で。
……。
いや待ってなにこの状況。なにも疚しいことがないのにどうしてこんな結果になってしまったのかよくわからない。いまさら着せるのは更に労力が要る。もういいや。ほんとどうでもいい。
ベッドはひとつしかないし私も疲れてるので、せめて真ん中ではなく端っこに寄ってもらおうとレベッカの肩を揺する。
「おやすみ、姉貴」
レベッカはふにゃっと笑うと、私の頬にキスをして眠りに落ちた。あいつ妹に何させてんの。犯罪じゃないの。
とりあえず部屋じゅうのありったけの毛布でレベッカを包んで封印すると、空いたスペースに横になった。でも、なかなか眠ることはできなかった。
◇
人の気配を感じて、目を醒ます。
レベッカが身体を起こして窓を見ていた。綺麗な三角筋をしていた。硬さを感じない程度に鍛えられていて、しなやかさを感じる。僧帽筋から臀部までの筋肉の流れには、鍛えられた人の美しさがあった。
「もう起きていたの?」
声を掛けると弾かれたように振り返る。レベッカは困惑を浮かべた表情で私を見た。それもそうだろう。昨日はそうとう酔っていた。どうしてここにいるのか、私が誰かすら覚えてないのだろう。
「もう殆どお昼だよ」
レベッカは自信のなさそうな声で言った。
彼女が指摘した通り、窓の外の太陽はかなり高くまで昇っている。
「ほんとだ」
私の生活は常に規則正しく整っている。
寝過ごすなんて、昨日眠れなかったせいに決まっていた。
ベッドから起き上がって、スリッパを履く。
私の部屋はワンルームだ。煮炊きのできる場所もクローゼットの向こうにあるとはいえ、同じ部屋にある。
一昨日のスープを温め直してパンでも用意すれば立派な朝食に――そういう食事って、貴族の口には合うのだろうか? 残されても困る。
「なにか食べる?」
声を掛けると、レベッカはぶんぶんと首を横に振った。
やたら陽気だった昨日とはうってかわって表情はこわばっているし、顔色はすっかり蒼白になっている。
さすがにこの状況に説明は必要だろう。
「それで昨日のことだけど、」
「ごめんなさい」
レベッカはベッドの上でいきなり土下座した。謝られる意味がちょっとよくわからない。
しかも全裸である。
たいへん美しい筋肉をしている。大胸筋や腹筋もさることながら、上腕二頭筋の完璧さときたら筆舌に尽くしがたい。
いや筋肉美のことはどうでもいい。
状況がおかしすぎて知能指数が下がってしまった。
「昨日のこと何も覚えてませんなにかしたなら本当にすみませんでしたできれば忘れて欲しいです」
レベッカは伏したまま一息に言った。
ここは私の家だ。彼女は全裸だ。その状況下で自分が加害者だと考える思考回路は相当おかしい。悪い人につけこまれかねない。
フィオナとかに。主にフィオナに。
「あなたは二度と酒を飲まないほうがいい」
私はとても妥当なアドバイスをしたと思う。
◇
その後、竜討伐のメンバーをフィオナに確認すると、見透かされたようにこう言われた。
「この前は妹がありがとうね。トリスのこと教えたらやたら謝ってたけど、あのコ何かやらかした?」
「べつに、なにも」
確実にやらかしたことを期待されていたので、出来るだけ素っ気なく答える。
「竜の討伐にはもちろんあの妹も行くんだけどね。あのコ、私の命令には逆らえないし。かわいいでしょ?」
「……、あなたよりはね」
そもそもメンバーを確認した時点で失敗していた。けれど誓って言うけれど、私には何も疾しいところはないし、フィオナが期待しているようなことは何も起きてはいない。いないんだったら。