本を読む人
カインが寝入ったので、あたしも眠ろうと寝具を整える。トリスはまた読書に戻っている。
「竜のところへはいつ行くの?」
「え?」
トリスが本から視線を離さずに言う。彼女があたしにそういった行動についての提案をするのは皆無に近いので一瞬耳を疑った。そっか。姉貴がいないからか。すぐに腑に落ちる。
「できるだけ早く行ったほうがいい」
トリスは畳みかけるように言う。いやだ。行きたくない。もう竜退治なんてしたくない。
「姉貴たちが来るのを待ったほうがよくない? 手紙はもう寺院に預けているんでしょ? 遅くても来週ぐらいには合流できると思うんだけど」
「その頃には竜が育ってしまうわ。できるだけ早く行くべきよ」
竜が育ってしまう? トリスが言っている意味がわからない。竜なんて放っておいてもいいんだ。寺院もあるし、竜は洞窟から出たりはしない。でも――あたしは考えるのをやめた。トリスの言うことなら、そこにはきっと間違いはないんだ。
「それなら明日にでも。蝋燭はどうする?」
「あとで消すわ」
「そ?」
あたしは毛布に潜り込んで身体を伸ばした。目を瞑っても蝋燭の灯りの気配がする。顔に右腕を乗せて目を覆う。トリスが頁をめくる音がかすかに部屋に響く。いい感じに眠くなってくる。しばらくして頁をめくる音が止まる。しばらくなんの音もしなくなる。ちょっと訝しんでいるとカツンと燭台に灯り消しが被せられる音がして、部屋の灯りが消えた。
◇
夢を見る。
一度だけ、トリスと相部屋になったときのことだ。あれだけ飲むなって言われたのに、あたしはしたたかに酔っ払っていた。なんでそうなったのかもう思い出せない。とても楽しかったような気がする。トリスもすごく優しかった――ような――だから何をしても許されるような気がした。
次の日は地獄のような頭痛で目覚めた。トリスはとにかく不機嫌で、また自分がなにかをやらかしたのだと知る。あたしが何を言ってもトリスの機嫌がよくなることはなく、最終的にこう宣告された。
『あなたとの相部屋は二度としない』
その宣告通りトリスと二人っきりの相部屋になることは二度となかった。
食事の前に帳場で確認したらカインも同室の三人部屋になっていた。
見知らぬ人とも男性とも同室になるのを嫌がるトリスが取った予約が。
そこまであたしとの相部屋がいやだとか、あたしはいったい何をしたんだ。
夢の中でもぐるぐるとトリスの『あなたとの相部屋は二度としない』の言葉が響き渡る。わかってる、トリスがあたしのこときらいなのはわかってるから、そんなに何度も繰り返さないでほしい――
◇
目が覚めると、トリスはすでに身支度を終えて、自然の光の下で優雅に本を読んでいた。いつから起きているんだろう。まったく気配がなかった。
「おはよう」
「ん」
ん、は挨拶ではないと思う。あたしもさっさと着替えて口を濯いだり顔をあらったり髪をサイドテールに整えたりしていると、カインが起きる気配がした。
トリスはそれを見て、本を閉じて立ち上がった。
「あさごはん」
「あ、あたしも行く」
この宿の朝食は人気があってすぐ席が一杯になり、下手をすればなかなかありつけない。朝食が宿代に込みになっているんだから食いっぱぐれるのももったいない。というわけでできるだけ速やかに朝食を食べるのが賢い冒険者だ。
先に壁際の席をキープして交替で朝食のトレイを取りに行く。パンとグリルしたソーセージと根菜と、豆のスープ、それに珈琲。トリスはヨーグルトとシリアルと野菜ジュースを選んでいた。
「ボリューム足りるの、それ」
「それなりには」
トリスはあたしの4つ上だけど、童顔だし小柄だしで、あたしのほうが上に見られることが多い。トリスの体格は、読書を優先して後回しにしがちな食生活にも原因があるのではないだろうか。まぁ本人がいいなら、それでいいんだけど。
一足出遅れたカインはなぜか食堂じゅうの人と和気あいあいと盛り上がっていた。昨日はちょっと嫉妬しちゃったけれどトリスとも盛り上がっていたし、あれはもう才能なんだと思う。
しかし話題が酷い。あたしたちがそんな噂になってるなんて知らなかった。尾鰭がつきまくりだし、中には顔から火が噴き出そうなものや誤解だと叫びたくなるようなものも混ざってる。あたしひとりだけ盛り上がりに加わるべきか自制すべきかあうあうしてるのに、トリスがまったく平然としていて、自分だけすごくバカみたいに思えてくる。
それに早く竜のところに行こうと切り出さなきゃいけないのに、ちょっといらいらする。
◇
竜を狩ることを伝えて、大急ぎでカインの準備を整えていたら、カインがこそっとあたしの脇腹を小突いてきた。
「ねえ、なんでトリスしゃべんないの? おれ嫌われてる? なんか変なことした?」
「まさかでしょ。嫌われてるならあたしのほうだって」
カインが嫌われるカテゴリに入っちゃうなら、あたしなんてどうなっちゃうんだろう。嫌われるの下ってなに。殺される? うわ。自分で思いついて、凹む。
「うっそー。二人でなかよく朝食キメてたじゃん?」
「会話ゼロだったけど?」
「仲悪いな?!」
カインは悪意なくぐっさり抉ってくる。
「仲は悪くないと思うけど! 普通ぐらいなんじゃないかなって思うけど!」
思わず勢い込んで言ったら、カインはにっこりしてあたしの両肩をぽんと叩いて親指を立てた。いやなにそのサイン。励ましとか逆に哀しくなるんですけど。普通だから。普通なんだからさ。
「むしろあんたこそ、昨日めっちゃ仲良く喋ってたじゃない? トリスがあんなに沢山しゃべるの初めて見たんだけど」
「マジで? あれが通常だと思ってたんだけど」
「内緒話するなら、聞こえないようにやってね?」
いきなりトリスが会話に加わったので心臓が止まるかと思った。本人がいる前でこんな話はしちゃいけないよね。当然のことだよね。でも話し掛けてきたのはカインだもんね。あたし悪くないよね。
「ねえ、さっきから喋らないのはなんで?」
カインはさらりとトリスに聞いた。なんでそれ本人に聞いちゃうの?!
「三人いて二人が喋っていたら、私が会話に加わる必要性って限りなく薄くないかしら
「つまり?」
「面倒なのでサボッてました」
え?
「そんなしょーもない理由だったの?! もうちょっときちんとコミュニケーション取ろうよ?! 仲間なんだし!」
思わず言ってしまう。特に何も含むところもなく、単にさぼっていただけで喋ってくれないんだったら、あたしめっちゃ安心するんですけど!
「え、仲間?」
トリスがへんなところに引っかかった。
「え、違うの?」
焦って聞く。え、あたしたち仲間だよね? 仲間じゃなかったら何なの? 知人とか……顔見知りとか……なにそれ哀しすぎるんだけど……。
「そうね。仲間だものね」
トリスがうっすら微笑んで言う。わかんない。言葉通りに取っていいんだよね、これ? あたし、安心していいんだよね?!