第二話 本戦開始前
May 01 at 19:00
「またお魚? たまにはお肉食べたい」
「お魚を食べると頭が良くなるのよ? お魚に含まれるドコサヒゴクマモト酸は脳や神経の機能維持に大切な役割を」
「多分それ間違ってると思う」
石川県能登地方のとある漁村。その中の、いかにも昔ながらの農家といった大きな、だが古びた民家。そこに父母・兄妹の一家四人で暮らす門脇家は夕餉の団らん中だった。
「お父さんは漁師なんだからお魚が多くなるのは仕方ないでしょう?」
「違うぞ母さん。俺は剣術家だ」
「ああ、そうでした。ごめんなさい」
母親の謝罪を容れて「がはは」と笑い、手酌でビールを飲むのは父親の門脇米太。元々人相が悪い上に左目を失う刀傷を負っており、知らない者が見ればヤクザとしか思わないだろう。実情は気さくな田舎親父なのだが。
「俺のアルバイトが猟師の方だったなら飽きるほど肉を食わせてやれるんだがなぁ」
「そう言えば親父、近所でイノシシが出たって田村さんが言ってなかったっけ」
甲斐の指摘に米太は思い返しつつ、
「そうだったな。猟友会を呼ぼうにも予算が足りないと……」
言葉を立ち消えさせた米太が甲斐の目を見つめ、
「狩るか」
「判った」
父と子の間で簡潔な意思疎通が交わされる。母親の麦子は満面の笑顔で、
「やったね亜衣ちゃん。明日はイノシシ鍋よ」
「わたしが求めてるのはそうじゃない……」
亜衣の呟きは誰の耳にも届かないようだった。なお高校二年の甲斐に対して妹の亜衣は中学一年、可愛らしくも生意気盛りのお年頃である。
そんな、門脇家の何の変哲もない、ごく日常的な夕食が終わろうとする頃。それまでただの背景でしかなかったTVが一家四人の注意を引いた。
『――大陸の東に位置するポータラカ王国。そこに住む人々は平和で豊かな暮らしを謳歌していた……だがそこに降臨するナラカ王。ナラカ王は大陸の半分の国々を滅ぼし、その暴虐に人々は呻吟することとなる……』
「なんだ、アニメか」
と米太がチャンネルを変更する。だが切り替えた先でも同じだった。どの局でも同じ映像が流れている。
「なんだ? これ」
「さあ」
TVに映されているのは蛇の眼を意匠化したような紋章である。それが描かれた旗が風に翻っており、どうやらそれは「ナラカ王」の紋章のようだった。
『ナラカ王は勇者カルナに封印され、大陸に平和が訪れる。だがそれから百年。百年を経てナラカ王の封印は弱まり、その復活は目前に迫っていた!』
『今、ポータラカ王国は世界を救う勇者を求めている! 君が勇者となってナラカ王を打倒し、この世界を救うのだ!』
そしてアニメの映像が終わり、実写が流される。場所はTVのスタジオと思われるが何も見えない。照明が当たっているのは床一面に描かれたナラカ王の紋章、そしてその上に佇む一人の男性だけだ。長身で痩身、年齢は三〇代だが実年齢よりかなり若く見える。中途半端に長い髪の、眼鏡をかけた、どこか頼りない印象の優男だ。
彼はYシャツの上に羽織った白衣を翻し、スポットライトを反射して輝く眼鏡を人差し指で押し上げた。
『皆さんこんばんは。私はスカーヴァティ社の水樹七瀬です』
「え、なんでこの人が」
と驚く亜衣。スカーヴァティ社は現在世界最大の通信事業者であり、その所有者である水樹七瀬は日本最大・世界有数の大富豪として知られた人物だった。
『私はここに、「ナラカクエスト・オンライン」の開催を予告します。我が社の最新VRシステムを使って異世界へと渡り、魔王・ナラカ王を打倒する。私はこの偉業に挑戦する勇者を求めています』
水樹七瀬は一言ごとに変なポーズを取り、腕を振り回して白衣を靡かせている。水樹七瀬の自己陶酔気味の説明に対し、TVのこちら側では甲斐や米太が戸惑いの顔を見合わせていた。
「要するに、オンラインゲームの参加者を集めようとしているってことか?」
「ゲームのコマーシャル? それだけにしては随分と仰々しいけど……」
おそらく日本中で同じような会話が何百万回と交わされたことだろうが、そのような困惑や嘲笑を一切意に介さず、彼は話を進めた。
『このような難行苦行に無償で参加してもらおう等とは、もちろん考えておりません。一億です――ナラカ王を打倒した勇者には一億の懸賞金を進呈します』
水樹氏が人差し指を立て、カメラに向かって突き出した。亜衣が「一億?!」と身を乗り出し、水樹氏がそれに応えるように、
『そう、一億――一億アメリカドルです』
亜衣はぽかんと口を開けたまま言葉もない。その横では甲斐達が、
「一億ドルっていくらになるのかしら?」
「今のレートなら一一〇億円くらい?」
「そりゃまた豪気だな」
甲斐や父母はその話を全くの他人事として聞き流している。だが亜衣だけはそうではなかった。予告の内容を一字一句聞き漏らすまいと真剣に耳を傾け、その特番が終わったら、
「こうしちゃいられないわ」
とスマートフォンにかじりつく。母親の麦子が「行儀が悪いわよ」とたしなめるがそれだけで、誰も亜衣の行動に注意を払わなかった。
そして数日後の夜。門脇一家がイノシシ鍋に舌鼓を打ち、満腹となった頃。
「お兄! 一緒に『ナラクエ』に参加しよう! 優勝したら賞金百億だよ百億!」
亜衣は本気で百億の獲得を目指して意気込んだが、甲斐は困った顔をするばかりだ。
「でも俺、ゲームはあんまり得意じゃないし」
「大丈夫! 『ナラクエ』はスカーヴァティ社の最新VRを使ったゲームだから。実際に身体を動かして戦うのと何も変わらないって話だし、お兄なら優勝を狙えそうじゃない?」
亜衣は用意していたパンフレット等を広げ、甲斐や父母に対して熱弁を振るった。
「ゲームの主催者はスカーヴァティ社の水樹七瀬。このゲームのために会社を一つ設立したんだって」
水樹七瀬は情報通信を革新した人物として世界的に名が知られている。世界規模での超高度情報化社会の進展に伴いデータ通信量は年々倍々ゲームのように増えていき、整備が追いつかない通信インフラは限界を迎えようとしていた。だがその問題を一挙に解決したのが、一〇年前に水樹氏が開発したPSY通信システムである。
通常の電波は現在から未来へと、時間の順方向に進み、これは遅進波と呼ばれている。それに対して現在から過去へと、時間の逆方向に進む、先進波と呼ばれる電波がある。この先進波は遅進波との相互干渉によりこれまで観測することが不可能だったが、それを世界で最初に観測したのが水樹氏なのだ。
「猫が生きている世界と死んだ世界、二つの未来のうちの一つを選ぶその瞬間! 人間の決断が二つの世界のうちの一つを選択するその瞬間! その瞬間なら位相がずれて純粋な先進波を取り出すことができる。先進波を観測することができるのです!」
水樹氏はそのように主張し、実際に先進波を観測することに成功した。その成果を公表しても当初は「単なるオカルト、トンデモ論文」と相手にされなかったが、研究成果を通信技術に応用し、その事業化を実現したことで風向きが変わってくる。
先進波を利用した、光よりも速い、地球の裏側であっても全くのタイムラグなしで通信可能な、PSY通信システム――それは既存の通信技術をあっと言う間に駆逐し、一〇年を経た今日にあってはインターネットのインフラとほぼ同義となっている。
「あんなものは魔法の水晶玉を使った、ただのオカルトだ。何故あれで通信できるのか、全く理解できない」
一〇年前と変わらず今なおそのように主張する学者もいるが、世間に相手にされないのは今では彼等の方だった。
「スカーヴァティ社は『ナラクエ』のためにVRの最新技術を開発したわ。指でぽちぽち操作するコントローラなんか使わない。PSY通信技術を応用した脳波コントローラは考えるだけでゲームキャラクターを動かすことができるの。これは未公開の技術で、『ナラクエ』の開催に合わせて発売される予定になっている」
「練習に使える時間は一緒だから有利も不利もない、みんな平等に戦えるってことか」
甲斐の理解に亜衣は「そういうこと!」と指を鳴らした。
「だが、ただの玩具にこんな金は出せんぞ」
父親の米太がパンフレットのある箇所を指差し、渋い顔をする。そこにあるのは脳波コントローラ・ヘッドマウントディスプレイ・ヘッドホンが一体となったVRヘッドセットの画像であり、さらにその下には発売予定価格が記載されていた。
「そうよねぇ。そんなものを買うなら中古の軽でいいからもう一台自動車を」
「百億手に入ったならベンツでもBMWでも、新車で運転手付きで買えるわよ。投資よ、投資!」
うさんくさい儲け話を聞かされたように米太は顔をしかめるが、
「ねえ、おとーさーん」
と亜衣が甘えた声で肩を揺すぶると相好を崩した。この可愛らしい娘に父親は滅法甘く、亜衣もそのことを良く理解しているのだ。
「……さすがに二台は買えんぞ」
「うん、判ってる! 予約するだけだから!」
亜衣が喜び勇み、スマートフォンで購入予約を入れる。
「お父さん」
「まあ、実際に買うことにはならんだろう」
麦子の非難がましい呼びかけに対し、米太はこっそりとそう言い訳をした。
あの「ナラカクエスト・オンライン」開催予告から、日本だけでなく世界中で熱狂が巻き起こっている。まだ何の情報もないのにインターネットには攻略サイトが林立し、「攻略情報を教える」と言って金を取る詐欺も多発しているくらいである。
スカーヴァティ社は「ナラクエ」参加者数を一〇万人までに限定したが、参加申込は既に数百万に達しており、間もなく一千万を越えるのは間違いない。またVRヘッドセットは現時点では「ナラクエ」専用で、ゲーム参加者だけに購入権が付与される。つまりは百倍以上の倍率を突破しなければゲーム参加自体が不可能であり、VRヘッドセット購入もまた同様なのだ。
ゲームの専門誌でなくとも、一般の新聞にもこの程度のことは書かれている。それを知っているから米太は余裕をもって、微笑ましく亜衣の行動を見守ったのである。
その亜衣は、スマートフォンを握り締めて何やら思い悩んでいるところだった。
「うぐ……アピールポイントか。アピールポイントって言ったって」
「亜衣は可愛いし成績も良いじゃないか」
甲斐のてらいのない褒め言葉に、亜衣はちょっと呆れたようになった。
「いや、確かにわたしは可愛いし成績も悪くないけど、この程度じゃアピールポイントにはならないのよ」
「ナラクエ」の参加倍率は百倍を超えると予想され、その中でスカーヴァティ社は参加者選抜の基本方針を公表していた。公式サイトに曰く、
「基本的には抽選だが、何か特技やアピールポイントがあるのなら優遇措置を講じる」
フィジカル面、知性面、その他何らかのアピールポイントがあればゲームに参加できる可能性はそれだけ高くなるということだ。これを受けて、例えばオリンピックで活躍したスポーツマン、例えばプロレスラー、例えば東大生や京大生、例えば将棋や囲碁のプロ、例えば自衛隊のレンジャー、例えばフランス外人部隊帰り……そんな錚々たる面々が参加を表明していた。
亜衣の名前でも参加申込はするものの、当選しなくても仕方ないと亜衣は考えている。亜衣にとっての本命は兄の方だった。
「わたしはただの田舎の中学生だけど、お兄は日本一強い高校生なのよね?」
「別にどこかの大会で優勝したわけじゃないぞ」
甲斐はそんな物言いをしつつも「日本一強い」こと自体は否定しなかった。亜衣は「うーん」と頭をひねり、母親に添削してもらいながらアピール文を考案する。
「石川県能登地方に戦国時代から伝わる、一子相伝の古流剣術・門脇流の免許皆伝にして次期当主! あくまで実戦を重視する門脇流は今では日の当たる場所に出ることはなく、その技術を密かに研鑽し続けている。真剣を使った実戦なら門脇流に勝てる剣士は地上に存在しないだろう……」
盛りに盛った文章をアピールポイントとして送信する亜衣。米太は苦笑するだけで亜衣を止めはしなかった。
他者から見れば亜衣のアピール文は噴飯ものだろう。「門脇流」という剣術道場は存在しているがこれを継承しているのは米太と甲斐の二人だけで、門下生はゼロ。道場経営では到底食べていけないから米太は普段は漁師として働いている。客観的には米太は「チャンバラがちょっと強い田舎親父」でしかなく、甲斐もまた「チャンバラがちょっと強い田舎の高校生」でしかない。他者が認めるだけの実績を二人とも何も持っていないのだ。
「門脇流が東京に……せめて関東にあったならまた話は違っていたかもしれんが」
日本の大多数の田舎と同じく、彼等の故郷もまた少子高齢化・過疎化の波に襲われている。かつて門脇流が子供相手の剣術道場として運営されていたこともあったが、それはもう何十年も前の話だった。
「俺が『ナラクエ』で優勝すれば門脇流の宣伝になって、門下生も集まるんじゃないか?」
「この田舎でか?」
「百億あるなら東京に出ればいいじゃん! 東京に大きい道場建てて、門下生集めて!」
亜衣の語る未来に米太達は「それはいいな」と笑った。この時点ではそれはただの夢物語でしかなかったのだが……
June 01 at 17:33
「お兄お兄お兄お兄見て見て見て見てーー!!!」
高校から帰ってきた甲斐へと向かって亜衣が奇声を上げながら突進してくる。亜衣はそのまま甲斐に体当たりし、甲斐はそれを抱き止めた。
「ただいま。見るって何をだ?」
「これこれこれこれ!!」
と亜衣が振り回すのは一通の手紙である。それを受け取って広げる甲斐。
「……『ナラカクエスト・オンライン参加権当選のお知らせ』?」
「抽選に当たったんだよ!! 『ナラクエ』に参加できるんだよ!」
「え、本当に?」
もちろん!!と全身を使って頷く亜衣はそのまま不思議な踊りを踊り出した。だが甲斐はその当選通知を煮え切らない顔で眺めているだけである。それに気付いた亜衣が頬をふくらませた。
「もう、お兄。せっかく『ナラクエ』に参加できるのに嬉しくないの?」
「でもなあ」
それから一時間と少し後。亜衣は夕食の席で当選通知の件を改めて米太や麦子にも報告するが、両者の反応も甲斐と似たようなものだった。
「でもなあ」
「でもねえ、難しいんじゃないかしら。参加できるのは東京在住の人だけでしょう?」
スカーヴァティ社は「参加希望者殺到のため」という理由でかなり厳しい参加条件を追加していた。まずゲームは七月二四日から開催され、閉幕は「ナラカ王が倒されるまで」。おそらく一ヶ月はかかるだろう、とはスカーヴァティ社公式の見通しである。
そしてゲーム参加者はこの期間ずっと東京近隣の一定範囲内に滞在しなければならない。その範囲は地図によって指定されたが、それは東京及びその近郊上に直径三〇キロメートル弱の円を描いたものだった。
この参加条件が発表されたとき日本の地方勢だけでなく海外勢もまた罵声と怒声を上げ、スカーヴァティ社の公式サイト等は大炎上となった。だがスカーヴァティ社は「通信速度と容量上の限界のためやむを得ない措置」と述べ、撤回の可能性を完全否定する。
条件緩和を諦めた地方勢・海外勢は七月末からの一ヶ月間を東京近隣で滞在するために動き出し、それを見越した商売も活性化している。例えば民泊、マンスリーマンション、カプセルホテルなどだ。
「ちょうど夏休みの間じゃん、その間東京のどこかに泊まったらいいだけでしょ?」
亜衣はそう言ってマンスリーマンションの相場一覧をスマートフォンに表示させ、米太へと見せる。ゲーム開催期間のその相場はかなり高騰しており、ゼロが並ぶその額に米太は渋い顔となった。
「VRヘッドセットの上にこれだけの滞在費が」
「それに食費も交通費も必要でしょう? それを考えると……」
必要経費の総額は最低でも二桁万円の後半となり、それは門脇家にとっては数ヶ月分の収入であり生活費だった。門脇家は貧乏というわけではなく、食と住に関しては都会の一般家庭よりもはるかに豊かな暮らしぶりではあるが、現金収入には恵まれていないのである。
「百億手に入ったら一万倍になって返ってくるじゃない!」
「そんなに上手くいくかしらねえ。いくらこの子が強いからって」
「現実ならともかくゲームではな」
声高な亜衣の主張に対して三人の反応は芳しいものではない。亜衣は少し考えてアプローチの方向を転換した。
「ともかくやれるだけやってみようよ。ホテルの予約とか必要なことは今のうちに全部やっておいて。今月末から『ナラクエ』のβ版が開催されるから、VRヘッドセットが届いたらそれに参加してみて、どうにも勝てそうにないならそこで諦めることにして。VRヘッドセットも参加権も買い手はいくらでもいて、高値で転売できるから」
「最初からそうした方が儲かりそうだな」
他人事のようにそう言う甲斐の足を亜衣が蹴飛ばした。
「お兄がそんなこと言ってどうすんの! VRヘッドセットが届いたら死ぬ気で特訓するからね!」
妹の剣幕に甲斐は「はいはい」と首をすくめる。その姿を両親は微笑ましさ半分・苦笑半分で見守った。
June 24 at 16:16
「おー、これがVRヘッドセットなんだ」
その日、スカーヴァティ社からの宅配便が門脇家に到着。甲斐よりも先に亜衣がそれを開封し、興味深げに眺め回した。甲斐はその横でおこぼれに預かるようにそれを検分する。
外観はゴーグル付きのヘッドギアといった様子で、非常に軽量だ。これなら一日中装着していても何の負担にもならないだろう。
「……なんか随分物足りないと言うか、頼りない感じがするな」
「判ってないなー、お兄は」
甲斐の感想に対し、したり顔の亜衣が説明する。
VRヘッドセットはヘッドマウントディスプレイ・ヘッドホン・脳波コントローラが一体となったものであり、さらにPSY通信システムが内蔵されている。VRヘッドセット自体が行う処理は必要最低限のもので、機能のほとんどはスカーヴァティ社のサーバに依存しているのだ。PSY通信は時間も距離も関係なく大容量のデータ転送が可能であり、その特性を最大限活用したシステムと言えるだろう。
「ともかく、試してみるか」
取扱説明書に軽く目を通した甲斐はVRヘッドセットを装着、起動しようとする。
「ハンドルネームはどうするの?」
「ハンドルネームって何だ?」
「……とりえず『運動・会』で登録しようか」
情報機器関係にはあまり慣れていない甲斐を亜衣がサポートし、ああだこうだと試行錯誤しながらも、何とか起動に成功した。今、VRヘッドセットは「ナラクエ」のβ版に接続しており、甲斐の眼前には風にそよぐ草原が地平線の向こうまで広がっている。
「おー、すごい。良くできてるな」
ヘッドホンから聞こえるのは風の音、草木が揺れる音、それに小鳥や虫の鳴き声。もちろんそれらは本物ではなく、網膜に投射されたCGであり合成音であるのだが、本物との区別はかなり難しい。まるで本当に草原にいるかのような臨場感だった。
『お兄、どう?』
ヘッドホンから亜衣の声が聞こえてくるが、それは隣にいる亜衣が直接話しかけているわけではない。スマートフォンで「ナラクエ」のオプションサービスに接続し、サーバを経由して甲斐へと電話をしているのだ。
「何もないな、ただの草原のようだ。移動してみるか」
と甲斐は歩き出そうとし、膝立ちとなった。
『本当に歩かなくていいんだってば。歩くって念じてアバターだけ動かせば』
「お、そうか」
亜衣のアドバイスに従いアバターを動かそうとするが、思うように動こうとしない。
「あれ、えい、動けっ」
アバターが七転八倒し、甲斐が四苦八苦し、ただ歩くだけでかなりの時間がかかってしまった。それでもどうにか移動できるようになって甲斐がほっとしていると、突然目の前に何者かが出現した。全身が白骨化した骸骨が動いている。両腕を前に突き出して甲斐へと襲いかからんとしている。
「モンスターか!」
スケルトンと会敵した甲斐は即座に抜刀し、
「奥義、五部浄居炎摩羅剣!」
数メートルの距離を一瞬で詰めた甲斐は障子に頭から突っ込んでこれをぶち破り、縁側を転がる。亜衣は呆れて言葉もなく、その間にアバター「運動会」はスケルトンに殺されていた。
「何をやっているのよ、あなたは」
「ごめん」
母親に叱られた甲斐は言い訳せずに障子を補修。亜衣はぶつくさと文句を言いながらもそれを手伝った。
「やっぱり難しいんじゃないの? 今日だけで何回死んだの?」
「六回……でもだんだん慣れてきたから」
その日の夕食の席で甲斐と亜衣が現状を報告。父母は参戦に否定的だが亜衣が懸命に反論した。
「アバターをちゃんと動かせないのはお兄だけじゃないから。みんなまともに動かせなくって、スカーヴァティ社に抗議が殺到しているって」
亜衣はスマートフォンにその最新ニュースを表示させ、父母へと見せた。
「個人別に脳の反応とかを学習して蓄積していって、いずれは思い通りに動かせるようになるって話だから」
「それに、やられっぱなしも尻尾を巻いて逃げるのも性に合わない。やるからには勝ちに行く」
甲斐が静かに、だが確固と戦意を燃やし、米太はちょっと驚いた顔をした。甲斐はこのゲームにあまり積極的ではない様子だったが、何度も殺されたために持ち前の負けず嫌いが顔を出してきたらしい。
「……中途半端は許さんぞ」
「判ってる」
父と息子の間で端的な会話が交わされる。母親の麦子はため息を一つつき、それ以上何も言わなかった。
July 15 at 20:05
「今日はどうするの?」
「えーと、それじゃ『鉄道同好・会』で」
甲斐は新たなハンドルネームで「ナラクエ」にログイン。今日も今日とてモンスターと殺し殺されの二時間である。
「ナラクエ」β版はログイン時間を一日二時間までと制限されていた。これなら社会人でも学生でも、生活に支障を来たすことなく経験を積むことができる。ただ本戦では制限時間が撤廃されるので、サラリーマン等の社会人が普通の生活を送りながら優勝を狙うのは至難となるものと予想された。このため参加者は高校生や大学生、その他若年層が中心となっている。
『とにかく、練習の間は百回だろうと千回だろうと好きなだけ死んだらいいから。本戦で死んだら許さないけど』
「判ってる」
β版の間は死んでも経験値がゼロに戻るだけで、何度でもログインが可能である。甲斐も今は練習と割り切り、思い通りにアバターを動かせるようになることに専念した。
「くそっ、また殺されたっ」
「ああ、今のは仕方ないよ。SK杉山に会っちゃったんだもの」
そして亜衣は甲斐のサポートに尽力する。ネット上の攻略サイトや情報交換サイトに顔を出して回り、他の参加者の動き等を情報収集するのだ。
「SK杉山?」
「シリアルキラー・杉山。モンスターを狙わずにPK専門でカルマを獲得しようとする、変な奴。有志が集まって『ぶっ殺し返してやる』って息巻いてるけど、参加する?」
「いや、興味ない。それよりもう一度ログインだ」
甲斐は今度は「海釣り友の・会」のハンドルネームでログイン。モンスターを探してフィールド上をさまよい歩いた。
β版が始まって半月以上。死ぬたびにハンドルネームを変更する甲斐は、もう百以上のハンドルネームを消費していた。ただこんなことをしている参加者はほんの一握りで、ほとんどの者は同一のハンドルネームを使い続けている。またその中で死ぬことなく戦い続けている者はカルマを蓄積し、甲斐が足下にも及ばないほどのレベルアップを遂げていた。そしてそのような者は「英雄」としてゲーム内外にその名を轟かせるようになる。
『お兄、ついにレベル一五に達した人が出たって』
「七大英雄の誰かか?」
『うん、「シューティングスター」の人』
「カルマ」は他のゲームでは一般に「経験値」と呼ばれている。モンスターを倒せばカルマを獲得でき、その量に応じてレベルアップする、ごくありふれたゲーム上のシステムである。ただ「ナラクエ」のユニークなのは、モンスターもまたゲーム参加者を殺してそのカルマを獲得し、レベルアップするという点だった。
そしてこのカルマは単位としても使われる。カルマ獲得前の人間一人、またはモンスター一体を倒して得られるカルマの量が一カルマ。一カルマのモンスターを殺した者は二カルマの人間となり、その分の値がステータスポイントに加算される。またこれを殺したモンスターは二カルマを獲得し、その分速度や攻撃力や防御力が強化される、といった寸法だ。
カルマ獲得前のプレイヤーは、そのステータスポイントが合計一。一カルマを獲得するとこれに〇・二五が加算される。モンスターを四体殺せば四カルマ獲得でき、ステータスポイントは合計二となり、レベルで言えば二となる。レベル三となるにはレベル二の二倍のステータスポイントが必要であり、カルマで言えば八。レベル四となるには一六カルマが必要だ。
つまりレベル一五とはカルマで言えば三万二七六八、ステータスポイントは八一九二。このポイントのうち一割を攻撃に振っただけだとしても、甲斐の八一九倍もの攻撃力があることになるのである。
またステータスポイントは魔法を含む特殊技能「スキル」を取得するためにも使われる。魔法は「雷撃」「火炎」等の攻撃魔法、「物理無効」等の防御魔法、「治癒」「加速」「剛力」等の補助魔法、敵を洗脳する傀儡魔法等、何十種類。スキルは「高速機動」「筋力増幅」「気配察知」「気配遮断」「武器強化」「魔法無効」等、やはり何十種類。そしてこれら複数のスキルを組み合わせて相乗効果を生み出す「複合スキル」を開発することも可能である。
ただしこれらは全て所定のレベルに達しなければ解放されず、レベル三より上に行ったことのない甲斐にとっては全く無関係の話だった。
「ここまで差が付くとちょっとやそっとのことじゃ追いつけないな」
『β版のカルマは本戦じゃ全部リセットされるから気にする必要はないわ。それに、有名になるのも善し悪しだしね』
ゲーム中の模様は全てではないが多くがネット上に公開され、全世界で何億という人間がそれを追っている。その中で四大ギルド・七大英雄といった有名人も出てきており、今や彼等は全世界的なスターだった。
現在、四大ギルドが二つに分かれてモンスターそっちのけの抗争が展開されており、さらに七大英雄の誰それがどちらかに加勢するとかしないとかで大いに盛り上がっている。
「百億と言えば常識外れの大金だが、別の言い方をすればせいぜい『ハリウッド映画一本分』だ。スカーヴァティ社の財務力からすれば端金でしかない。今後スカーヴァティ社がVRを独占し、牽引するための宣伝及び投資と考えれば、『ナラクエ』は既に大成功を収めていると言えるだろう」
とはどこかのエコノミストの評論だった。
「奥義、畢婆迦羅王剣!」
甲斐は剣を振るって黒い魔犬・ブラックドッグを打倒、そのカルマを獲得する。アバターを動かすことにもすっかり慣れてもう支障はなく、つい身体も動いてしまって壁に激突する回数もかなり減っている――ゼロになったわけではなく。
「ひでぶっ」
甲斐が壁に向かって突進しようとし、亜衣が素早く足を伸ばして引っかけて転ばす。その間に甲斐のアバターは殺されており、
「……大丈夫かなぁ、こんな調子で」
亜衣は心配そうに嘆息するが、彼女を安心させる者は誰もいなかった。
July 15 at 20:52