第一話 July 26
July 26 at 13:13 78,633 / 100,013
「もっと速く走れないの?!」
「そ、そんなこと言われたって……!」
二人の少女が森の中を走っている。彼女達は必死に走って逃げており、それを追うのは一匹の大型犬だった。
いや、普通の犬ではない。体重は人間の成人男子ほどもあるだろう。全身は墨のように漆黒で、紅い眼がぎらぎらと光っている。鮫のように大きな牙はよだれと赤い血で濡れていた。
「ま、待って……」
長い黒髪の少女が遅れていて、栗色のショートヘアの少女に追いすがろうとする。だが彼女は黒髪の少女の手を払いのけた。
「真樹?」
「死ぬならあんた一人で死んで! わたしを巻き込まないでよ!」
「そんな……」
親友に見捨てられた少女は思わず足を止めてしまう。その間に真樹と呼ばれた少女は走って逃げており、
「GRURURURU……」
「ひ、ひいっ?!」
黒い魔犬は至近までやってきていた。改めて逃げようにも心臓は破裂寸前で、肺は酸欠で潰れそうだ。疲労と絶望で棒立ちとなった少女に黒い魔犬が一足飛びに襲いかかってきて、彼女は何もできないままその牙に――
「奥義、緊那羅王剣!」
「え」
突然現れた少年が棍棒をフルスイング。黒い魔犬は頭部を西瓜のように粉砕されて絶命した。黒い魔犬の身体から光の球体が出てきて、それが少年の身体へと吸収される。少年の全身が一瞬光を放ち、それはすぐに消え去った。
「ふっ、またつまらぬものを斬ってしまった」
少年は日本刀を鞘に収めるように棍棒を納刀しようとする。その立ち振る舞い自体は非常にきれいで様になっており、まるで演舞のようだった。だが棍棒――一メートル超の木の棒が収まるような鞘を彼が持っているはずもなく、棍棒は腰から落ちて地面を転がった。少年は慌ててそれを拾い上げる。
「大丈夫か? 怪我は?」
「怪我は何も……ありがとうございます」
直近十秒ほどの出来事をなかったことにして少年が問い、黒髪の少女が答える。目を丸くしたままの少女がその少年のことを上から下までまじまじと見つめた。
年齢は、上に見積もっても高校生。身長は高くなく、顔立ちも女の子のように可愛らしい。だが髪は短く活動的な――わんぱくな印象で、女の子と見間違うことはないだろう。装備はTシャツとジーンズ、それに棍棒。靴の代わりに何かの布を足に巻いている。
「俺は門脇甲斐。君は?」
「わたしは中村悠です」
まず二人は簡単に自己紹介をした。甲斐の見たところ、悠は甲斐の同年代。艶やかで長い黒髪は美しく、顔立ちも非常に整っている。読者モデルでもやってそうな、「今どきの女子高生」を絵に描いたような少女である。
装備は、ノースリーブのシャツにジーンズ生地のホットパンツ。靴はなく、裸足である。露出の多い肌を少しでも隠すべく身をよじっていて、甲斐は彼女を直視しないよう目をそらした。
「君一人なのか? 仲間は?」
「友達が一緒だったんですけど、一人で逃げちゃって」
「それならその子を探しに行こう」
少年が主導し、二人は先へと歩き出した。ただ悠はあまり積極的にではなかったが。
「あの……どうして真樹を、あの子を探しに。あの子はわたしを見捨てて一人で逃げたのに」
「君はその友達に死んでほしいのか?」
その問いに悠は「まさか!」と強く否定した。
「いくら何でもそこまで……」
「それなら早く見つけないと」
悠はそれ以上何も言えず、ただ甲斐の後ろに付いていく。その甲斐が急に立ち止まった。
「またこいつか、煩わしい」
甲斐の十数メートル先には黒い魔犬がいて、二人に対して牙を剥いている。悠は全身を硬直させるが甲斐は全く臆することなく魔犬へと向かって突進。棍棒を一閃させ、一撃でその魔犬を撲殺した。魔犬の身体から吐き出された光の球体は甲斐の身体へと吸収される。
甲斐は何かを探すように左右を見回し……探しものが見つかったようだった。さらに先へと進んで足を止め、無言のまま目で悠を呼ぶ。悠が甲斐の下へと向かって歩き出し、
「……あ」
その数メートル手前で足が止まってしまった。甲斐の足下に倒れ伏す一人の少女――首の肉が七割くらい食いちぎられ、骨は折れ、首と胴体が皮でかろうじてつながっているような状態だ。おそらくはつい今甲斐が屠った魔犬に襲われたものと推測され、絶命していることは確認するまでもなかった。
「この子が君の友達か?」
「……はい、間違いないです」
感情をなくした悠の答えに甲斐は重苦しいため息をつく。
「できることなら埋葬の一つもしてあげたいけれど、そんな余力は……」
「でももしかしたらゾンビになって復活するかも」
悠の懸念に甲斐は舌打ちをした。
「あり得るかもな、このくそったれな世界なら」
「でもだからと言って火葬にして送るのも簡単じゃないし……」
「このままにしておくしかないか」
甲斐がそう結論を出し、悠が「はい」と頷いてそれに同意する。……甲斐が何か言い難そうにして妙な間が空き、悠は小首を傾げた。
「その……この子には申し訳ないんだけど、何か使えるものを持っているならもらっていきたい」
悠は「なるほど」と強く頷き、
「それならわたしが調べます」
「頼む」
悠は顔を背けて首から上を視界に入れないようにして遺体の全身をまさぐった。まるで生きているかのようなその温かさに悠は泣きそうになってしまうが、「自分が生き延びるため」と心を機械のようにし、その作業を続ける。遺体をほとんど見ず、手探りで調べただけだが全くの手ぶらだった。
「何もないです」
「それなら服だけでももらっていったらどうだ?」
確かに、と頷いた悠は「ごめんなさい」と謝りながら遺体から服を脱がせた。脱がせたTシャツを破って足に巻き、靴の代わりにする。下着姿となった遺体は道の横の草むらの中へと甲斐が引きずって移動させ、死体が視界から消えて悠は安堵のため息をついた。
「それじゃ行こうか」
悠の友達を置き去りにし、二人は先へと歩き出した。その場に残されたのは少女の遺体だけだが、数時間の後にはそれも光を放ってこの世界から消え去っていった。
July 26 at 16:22 77,391 / 100,013
「……おなか、空きましたね」
「ああ。腹減った」
十数分間は無言のまま歩き続けた悠だが、不意にそんな呟きを口から漏らす。甲斐は心底からそれに同意した。
「最後に何か食べたのはゲームが始まる前だから、もう丸二日になります。こっちに来てからは水しか飲んでないです」
「俺もそうだ。モンスターを何体か狩っているからまだマシだけど」
無意識のうちに悠は甲斐から数メートルの距離を取っていた。
「た、食べたんですか、モンスター」
「いや、そうじゃなく。モンスターを倒してカルマを獲得するとしばらく空きっ腹が紛れるんだよ」
初めて聞く話に悠は「そうなんですか?」と目を瞬かせる。
「モンスターを倒してその魔力を身体に取り込むことが食事の代わりになっている……とか?」
「よく判らないけどそうかもしれない。でも本当に腹がふくれるわけじゃない。あくまで一時しのぎの代用だけどな」
甲斐はそう言って肩をすくめ、悠は背中とくっつきそうなおなかを抱えて左右を見回した。
「いずれにしても何か食べるもの……このままじゃ二人とも行き倒れです」
甲斐もまたその言葉に頷き、鵜の目鷹の目で周囲を見回す。そして、
「やっと見つけた!」
大喜びで先へと走っていき、不思議そうな顔の悠がその後を追った。甲斐は十数メートル先でしゃがみ込み、低木に成っている木の実を片端からむしって口にしている。それを見た悠の目もまた喜びに輝いた。
「食べられるんですか?!」
「ああ、木イチゴだ。俺の家の周りでもよく見かける」
二人はしばらくの間無言で木イチゴの実をむさぼり食った。ある程度おなかがふくれて人心地つき、ようやく人間の言葉が口から出てくるようになる。
「あまい、すっぱい、おいしい……」
悠の目には涙が光り、甲斐は他人には見せられないレベルで顔がとろけている。その木に成っている木イチゴを食い尽くし、二人はその場に座り込んで至福のひとときの余韻に浸った。
「ああ、美味しかった……」
「うん。でもまだ満腹には遠いかな」
そのとき、一羽のカラスが二人の近くに降り立った。そのカラスも木イチゴをついばみに来たのかもしれないが――甲斐が目にも止まらぬ早業で棍棒を一閃。頭部を殴られてカラスは昏倒した。
「奥義、那羅延堅固王剣……」
中二病くさい技名を呟き、棍棒を納刀する……その素振りをする甲斐。悠は意味もなく口を開閉させた。
「あ、あの……どうしてそのカラスを」
「もちろん食うためだ」
甲斐は手早く焚き火のための材料を集めた。枯れ枝を拾い、倒木から木の皮を剥がし、枯れ葉を寄せ集め。木の皮を下に敷き、その上の木の枝を立てて、
「うおおおおっっっっ!」
木の枝を錐のように高速回転させる。摩擦熱で火を起こす、よく知られた、だが非常に原始的な方法である。
「そんなに簡単に火を起こせるわけがないのに」
「おっ、煙が出てきた」
「えっ、うそ」
悠が驚き、それ以上に呆れる他ない速さで木の皮がくすぶり出し、あっさりと火が点ってしまう。火は枯れ葉に燃え移り、やがて焚き火として充分な大きさとなった。
「よし、これで」
甲斐はカラスの羽毛を全部むしって丸裸にし、手頃な木の枝を口から肛門まで貫通させる。そうしてもはや食材となったカラスを火で炙り出した。木の枝を適時回転させ、火がまんべんなく通るようにする。
「雑菌や寄生虫が怖いからじっくりじっくり焼かないと」
甲斐がお気楽に鼻歌を歌う一方、悠はそんな甲斐にドン引きになっている。が、カラスの丸焼きの調理が進むに連れてその口には唾が溜まる一方となった。時折溜まった唾を飲み込み、目は焼ける肉から離れようとしない。
「……そろそろいいんじゃないでしょうか」
「いやいやまだまだ。表面が黒焦げになるまで焼いて、内側だけ食べるくらいで」
突然、甲斐が上空を見上げる。その険しい顔を怪訝に思いながら悠もまた空を見上げ――その頬を冷たい滴が濡らした。
「ま、まさか……」
「くそっ、雨だ!」
大粒の滴が一つ二つと地面に打ち付けられる。それは十、百、千と急速に増え、間もなく無数となった。甲斐と悠は雨宿りができる場所を探して走り出している。
「門脇さん、あそこ!」
悠が指差すのは直径が何メートルもある大木である。大慌てでそこを目指して走る二人だが足を滑らせて悠が転び、咄嗟に掴んだのが甲斐の腕だったために彼もまた引き倒される結果となった。
「ご、ごめんなさい」
「いや、いい。急ごう」
程良く焼けたカラスの肉はもう泥まみれだ。甲斐はため息をついてそれを投げ捨て、大木の梢の下へと逃げ込んだ。
「……ひどい雨だな」
雨はまるで滝のような勢いで降り注いでいる。梢の傘は穴だらけであり、雨を完全に防ぐことはできなかった。少しでも濡れない場所を探して幹に沿って一周し、結局元の場所に戻ってしまう。
「……雨が止むか、少しでも弱まるのをここで待つしかない」
「はい……」
悠が寒さに身を震わせてその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて身体を丸め、少しでも体温を保とうとしている。
甲斐は悠から視線を外し、物憂げな目を空へと向けた。土砂降りはいつ終わるともなく続いている。分厚い雲は太陽を完全に隠し、まるで夜のような暗さ……
「いや、もう日が暮れる時間なんだ」
それに気付いた甲斐は底なし沼のような、暗澹たる思いを抱かずにはいられなかった。
元の日本では季節は夏の真っ直中。季節自体はこの世界でも変わらないものと見られたが、気候の差異は文字通りの別天地だ。日中の一番暑い時間帯でも気温は三〇度を超えず、避暑地の高原のように涼しく過ごしやすい……だが逆に言えば、夜は「涼しい」を通り越して寒いくらいの気温になるということだ。
「下手をするとこのままここで、こうやって一夜を明かすことになるかも……せめて雨が止めば」
甲斐は切なる祈りを込めて暮れゆく空を見上げた。どうか雨が止みますようにと――残念ながらその願いが何者かに聞き届けられることはなく、雨は一晩中降り続けることとなる。
July 27 at 6:26 73,196 / 100,013
東の空が群青となる頃、ようやく雨が止んだ。
サファイアのように透明な青色の空はどこまでも高く、山間から顔を出した黄金のような太陽が大地の全てを明るく照らしている。朝露に濡れた木々の緑はエメラルドのようにきらきらと輝き、
「さわやかな朝だな。地獄に堕ちろ」
甲斐は太陽に向かって八つ当たり気味の悪態をついた。そして昨日の夕方から全く姿勢を変えないままの悠へと声をかける。
「起きてるか? 動けるか?」
「……はい」
悠はそう返事をしながらも身動き一つしなかった。
「ここにいても仕方ない。移動しよう」
悠は無言のままゆっくりと立ち上がり、何とか歩き出した。ただその足取りはおぼつかないもので、いつ倒れても不思議はなかったが。
……二人は道に沿って歩き続けている。道の幅は二メートルもなく、舗装などされていないことは言うまでもない。草木が好き放題茂っている中にわずかに土の見えている筋が通っている。かつては人なり車なりの往来があったのだろうが、今はただの獣道だった。
道中頻繁に休憩を入れ、無花果などの自生する果物を見つけて飢えをしのぎ、二人は先へと進んでいる。ただ、何かの当てがあって歩いているわけではない。
「この道の先には……何があるんですか」
「判らない。でも道があるなら家や村だってあってもいいだろう」
「そこは安全なんですか? 食べ物が手に入るんですか?」
「判らない。でも家や村があるなら人だっているだろう。俺達と同じこのゲームのプレイヤーも」
意外なことを耳にしたように、悠が顔を上げた。
「他のプレイヤー……」
「モンスターから身を守るにしても、元の世界に戻るにしても、一人や二人じゃどうしようもない。力と知恵を合わせないと」
そうですね、と得心したように悠は深々と頷く。「元の世界に戻る」――その言葉に多少なりとも生気を取り戻したようで、甲斐は少し安堵した。
そうやって適時休憩を入れて歩き続け、昼を過ぎた頃。
「あ、門脇さん、あれ!」
悠が前方を指差す。何百メートルも先、森の向こうに見える、立ち昇る白煙。それはその場所に人がいる何よりの証だった。
「行こう」
「はい」
喜び勇んだ二人はその場所へと向かい、足取りも軽やかに……にはほど遠いものの、着実に一歩一歩前進していった。
緩やかなカーブを曲がってすぐに、ちょっとした空き地が広がっている。そこに男が一人いて、火は彼が起こしたものだった。彼は地面に座り込んであぐらをかいて、火で何かの肉を炙ってそれに食らい付いている。肉の焼ける匂いが漂い、二人は唾を飲み込んだ。
「あの、すみません」
悠が先にその男に声をかけ、男が二人に視線を向けた。男の装備はスーツのズボンと袖まくりをしたYシャツ。靴の代わりに何かの布を足に巻いているのは甲斐達と同じである。年齢は三十代と見られる、あまり特徴のない中年男だ。
ふむ、と男はまるで値踏みをするような目を二人へと向け、小馬鹿にするような笑みを見せる。甲斐はその笑い方に嫌な予感を覚え、警戒を強めた。
「その……プレイヤーの方ですよね。あの、食べ物をわたし達に分けてもらえませんか」
「まあ、分けてやらんこともないけどな」
男は勿体ぶってそう言う。そして死角に置いてあった何かを掴み、悠にむかってそれを放り投げた。悠が反射的にそれを受け取り、
「ひっ、ひいっ?!」
悲鳴を上げてそれを投げ捨てる。地面に叩きつけられたそれは黒い魔犬の生首だったのだ。その首の断面からは血が滴り、目は見開かれ、口からは舌が飛び出、その形相は断末魔のまま固まっている。悠の狼狽えように男は馬鹿笑いをした。
「犬を食べる食文化は世界の広い範囲にある。日本でも明治以前はよく食べられていたって話だぜ」
男はそう説明するが、悠は半身になって拒否と警戒を表現している。もちろんそれは犬を食うことではなくその男に対してであったが。
「その犬、ただの犬じゃなくてモンスターだろう。モンスターを食って大丈夫なのか?」
「公式ガイドブックを読んでないのか? モンスターの多くは食用になるって書いてあっただろう」
「でもモンスターを食べるなんて……もしかしたら自分もモンスターになっちゃうんじゃ」
悠の不安を男は「江戸時代か!」と笑い飛ばした。
「プレイヤーはモンスターを狩って、そのカルマを手に入れてレベルアップする。カルマってのはゲーム上では経験値の言い換えだが、この世界じゃモンスターの魂だか存在だか、何かそんなようなものだ。モンスターの魂とか何とかを自分の中に取り入れて成長するんだ。肉体的にモンスターになるより、魂がモンスターに変質することを心配する方が先なんじゃねえのか?」
「確かにその可能性はあるかもしれない。でもモンスターを狩ってカルマを手に入れてレベルアップしないと、生き残れない」
甲斐の言葉に男は「そういうことさ」と肩をすくめた。そして「それにしても」と嫌らしい目を悠へと向ける。
「おじさんは心配だねぇ、お嬢ちゃんみたいのがこの先生き残れるのか。俺が助けてやろうか?」
もちろん無償じゃねえが、と男がなれなれしく悠の肩に手を回そうとし――その手を甲斐が掴んだ。
「ああ? なんだてめえは」
男がチンピラのように威嚇するが、甲斐はわずかも動揺を示さない。悠が「門脇さん」と心配そうにその名を呼んだ。
「もう行きましょう」
「そうだな。邪魔をした」
甲斐と悠がその場から立ち去ろうとする。男は「けっ」と舌打ちをし、ただそれを見送った――ように思えた。
「きゃあっ?!」
悠が悲鳴を上げる。彼女のすぐ横、一瞬前まで甲斐の頭部があった場所を、剣の切っ先がかすめていったのだ。咄嗟に地面に伏せて避けなければ甲斐は致命傷を負っていただろう。
「くそ、外したか」
男は残念そうにそう言うだけだ。そこに人を死なせたかもしれないことに対する罪悪感や躊躇は、寸毫もない。一方殺されかけた甲斐は心臓が止まる思いをしている。最大限警戒してはいても「まさかそこまでは」と思っていたことが現実となったのだ。呆然としたような二人の視線に対し、男は薄笑いを返すだけだった。
「……何の真似だ」
「見ての通りだよ」
顔を青ざめさせる甲斐を、男はそう嘲笑する。
「このゲームの仕様を忘れたのか? プレイヤーはモンスターを殺してそのカルマを獲得し、レベルアップする――だがな、このゲームじゃPKでもカルマを獲得できるんだよ!」
プレイヤー・キル (Player kill) 、略してPK。ゲーム上では相手プレイヤーを倒すその行為は、現実においては「殺人」と呼ばれるものだった。
「まさか……それを実際に」
「もちろん実際に確かめたから言えることだぜ!」
歯を軋ませる甲斐に対し男は欠片も悪びれせず、むしろ威張るようにそう答えた。
「モンスターを殺すよりもよっぽど簡単だ、狙わない理由がねえ!」
「お前……!」
甲斐が棍棒を剣のように構え、その背中に悠が隠れる。男が嘲笑しながら剣の切っ先を甲斐へと向けた。何の装飾もない、無骨で頑丈そうなその剣は、男がこの世界で手に入れたものなのだろう。
「何をむきになってるんだよ、所詮はゲームじゃねえか」
急に男は心外そうに、おどけるように言う。
「お前、この期に及んでまだこれがただのゲームだと」
「思ってるわけねーだろ。空きっ腹を抱えてうろつくのも、クソをしていてヤブ蚊にケツを刺されるのも最悪だ……だがそれと同じくらいに人間の肉を剣でぶった斬る感触も、命乞いをする女に突っ込んでやるのも最高だ。もしこれがゲームなら作った奴は変態的な天才だろうが、どう考えてもそうじゃない。俺達は生身の身体ごとゲームそっくりのこの世界に引きずり込まれたんだろうよ。いや、ゲームのモデルとなった世界と言うべきか」
「それが判っていて……」
甲斐が怒りを抑えながらそれを問うが、男は嗤いを浮かべるだけだ。
「馬鹿か? ゲームじゃねえならなおさらじゃねえか!」
その意味が理解できないらしい二人に対し、男は親切に説明する。
「これは俺が生き残るために必要な正当防衛で緊急避難で、やむを得ずのことなんだよ。カルネアデスの板ってやつだ、知ってるか?」
どこかで聞いたようなことを言う男に対し、甲斐は無言のまま続きを促した。
「俺が殺さなくても同じことだ、どうせあいつ等は生き残れはしない。どこかでモンスターに殺されて、モンスターのレベルアップの手助けをしていただけなんだ。それなら俺があいつ等を殺して何が悪い? モンスターがレベルアップしないならその分生き残れる人間が増えることになる。誰も損をしてねえじゃねえか!」
男の自己正当化を黙って聞いていた甲斐だが、不意に口を開いた。
「モンスターのカルマを獲得すれば魂がモンスターに変質する――その可能性の話をしていたよな」
「ああ」
「あんたにはその心配は要らないみたいだ。あんたは最初からモンスターだよ」
甲斐の悪態に男は「へっ」と笑った。甲斐にはそれ以上問答をする意志はなく、棍棒を正眼に構える。静かに高まるその戦意を感じ取り、男もまた戦闘態勢となった。
「そんな棒っきれで俺とやり合うつもりか? 俺が何人の人間と何匹のモンスターを殺してどれだけカルマを稼いだと思っている」
浅はかな甲斐を男が嘲笑い、
「思い知るがいいぜ。レベルアップした人間とそうでない奴の、力の差を!!」
そう雄叫びを上げた男が剣を大きく振りかぶって襲いかかった。それは男が自分で言うように常識を越えた速度と力だった。普通の人間なら回避も抵抗もできないまま胴体を藁のように両断されて一瞬で絶命しただろう――普通の人間なら。
「ぐわあっ!」
汚い悲鳴を上げたのは男の方だった。悠の目には何が起こったのか全く見えておらず、理解もできない。判るのは男の手の甲が砕け、剣を取り落としたという結果だけである。
「て、てめえ……」
男の右手甲は骨がささらのように砕け、皮膚が破れて飛び出た骨が見えている。左掌で押さえるが出血は止まらず、血が流れ続けた。男の目は憎悪に赤く染まり、その視線は甲斐を射殺さんばかりだ。だが甲斐は何らの痛痒も感じず、白けたような顔をするだけだった。
「モンスターを殺してレベルアップしたのが自分だけだと思っていたのか?」
あるいはそれは正鵠を射ていたのかもしれない。男が折れんばかりに歯を軋ませ、左手で剣を拾い上げた。そして再び甲斐へと襲いかかり――一瞬後には悶絶した男が地面に倒れ伏していた。
「奥義、毘楼勒叉天剣……」
甲斐はそう呟き格好を付けているが、実際には鳩尾と喉を狙ったただの突きである。手の甲を砕いたのもただの小手だ。それは剣道にあるごく一般的な技でしかない。だが長年の修行により磨き上げられた技術と、レベルアップした速度と腕力が合わさったとき、それらの技はまさに「奥義」と呼ぶべき領域に達するのだ。圧倒的な力を手に入れて有頂天になっただけの素人など、歯牙にもかからない。
さて、と甲斐は男からYシャツを脱がせ、剣を拾い上げ、その二つを悠へと差し出した。
「これで自分の身を守ってくれ」
まずYシャツを羽織った悠は次に剣を受け取り、それを強く握り締めた。そして男を放置して先へと進もうとする甲斐を、彼女が「門脇さん」と呼び止める。
「この人、どうするつもりですか。このままにしておくんですか」
その問いに甲斐は何も答えない。答えられない。悠の視線の先には土下座のような姿勢で地面に突っ伏している半裸の男がいる。甲斐の打撃は常人が受けたなら死んでも不思議はないものであり、悶絶した男が動けるようになるのは大分先のことだろう。
「殺さないんですか、この人を。この人は人殺しなのに」
悠の詰問に甲斐は無言のままだ。悠は声高に言い募った。
「この人が動けるようになったらまた同じことをくり返します! それで誰かが殺されたら責任を取れるんですか?! 動けないままなら、モンスターに殺されるだけです。それでモンスターをレベルアップさせるくらいなら、門脇さんがこの人を殺してレベルアップするべきなんじゃないんですか?」
甲斐は棍棒を強く握り締めた。悠の言うことは全く正しい、この男はここで殺すべきだ、それでさらにレベルアップすれば彼女を守るのもより容易になるだろう――それは理屈ではよく判っている。
「……もう行こう」
だが甲斐の返答はそれだけだった。どんな極悪人だろうと、人間の生命を絶つという決断を甲斐はどうしても下すことができなかったのだ。驚いたように目を見開いた悠は、次いで失望のため息をつき、
「判りました」
そして剣を握り締めた彼女が男へと歩み寄り――倒れ伏す男の首へと、真っ直ぐに剣を振り下ろした。剣が跳ね返って悲鳴を上げた悠が尻餅をつく。撒き散らされた血飛沫が座り込んだ彼女を紅く染めた。
「な……なんてことを」
悠の腕力では首を両断するには程遠く、ほんの数センチメートル剣が首を抉っただけである。だがその刃は骨と脊椎に届き、それらを半ば断ち切っている。流れる血は止めようもなく、男の生命が尽きるのは時間の問題だった。そしてその前に、男の身体から吐き出された光の球体が悠の身体へと吸収される。
「ああっっ??」
思いがけない感覚に悠は官能的な声を出した。悠の身体が一瞬光を放ち、それはすぐに収まった。悠がゆらりと立ち上がり、陶然とした笑みを甲斐へと向ける。
「な、中村……」
「だって仕方ないじゃないですか。あなたがやらないならわたしが手を汚すしか」
そう言って悠はくすくすと笑う。
「わたしを責めるつもりですか? 門脇さん。これはわたしが生き残るために必要な正当防衛で緊急避難で、やむを得ずのことなんです。カルネアデスの板でしたっけ、意味は知りませんけど」
悠はそう言って自分の冗談に自分で笑うが、甲斐はわずかたりとも笑えなかった。
「でもすごいです、これがレベルアップ……! これでもうモンスターや男の人に怯える必要も……!」
今、悠の体力・腕力・速度は本来の力の何割増しにも成長し、良く鍛えられたアスリートの水準に達している。突然それだけの力を手に入れた彼女が浮かれるのも当然であり、悠はまるでスキップするような足取りで歩き出した。甲斐もまたその後を追って移動する。だがその歩みは軽いものではなく、敗残者のように重いものだったが。
July 27 at 16:22 66,689 / 100,013
「そんなに警戒しないでください。傷ついちゃいます」
悠がすねるようにそう言うが、甲斐としては「無理を言うな」と言いたいところである。
「わたしが門脇さんに何かするわけないでしょう、あなたはずっとわたしを助けてくれたのに。今度はわたしがあなたを助けますから」
悠はそう言って笑うが、甲斐は罪悪感や後悔を無表情の仮面の下に隠していた。
今、二人は道を進んでいる。方向は概ね北、行く先には何の当ても展望もない。
「もうすぐ日が暮れる。休めるところが見つかるといいんだけどな」
「そうですね。それにおなかも空きました」
男のカルマを獲得し、悠の体力は底上げされてその足取りも確かなものだ。ただ根本的な食料不足という問題は解消されておらず、二人は痛むほどの空腹を抱えている。
「ん? あれは……」
「もしかして、建物?」
二人の視線の先、数百メートル向こうに石造りの建物らしきものが見えた。接近するにつれてそれは少しずつ増えている。今は三軒の建物が見えている。
「人がいるかもしれない」
「食べ物があるかもしれません」
二人の歩みは自然と速くなり、彼等がその場所に到着するまでわずかの時間しかかからなかった。
「村……だったんでしょうか」
おそらく、そこはかつて村だったのだろう。道があり、家があり、畑があり、人がいて……畑だった場所には草木が茂り、道だった場所まで浸食している。所々草木が盛り上がっているのは、木造の家が倒壊した跡なのだろう。人影は全くなく、残っているのは道と石造りの建物だけだ。この村が遺棄されて少なくとも何十年もの時間が経っているものと思われた。
「今日はここで休みましょうか」
「そうだな。あとは食べ物を探して」
そのとき、動く何者かの気配。二人は即座にその存在に向けて棍棒と剣を向けた。
「Karakarakara……」
物陰からふらふらと迷い出てきたのは、人間の形をしたモンスターだった。ただ、その身体には何も着けていない。肉すらも身にしておらず、全身が完全に白骨化している。眼球のない虚ろな眼窩で甲斐と悠を見据え、カタカタと歯を鳴らしてゆっくりと二人へ接近した。
「なんだ、今さらスケルトンですか」
と悠は気を抜いた。公式ガイドブックの記載に依れば、スケルトンは人間と同程度の力しか持たない雑魚モンスターである。カルマ獲得のために初心者が最初に戦って狩るべき獲物であり、レベルアップしてしまえばもう用済みだった。
「さすがにスケルトンは食べられませんけど、カルマだけはもらいます!」
悠は勇ましくスケルトンへと突撃。十数メートルの距離を一瞬で詰めて、剣を大きく振りかぶり、それを振り下ろし――
「え」
いつの間にか悠の懐に飛び込んだスケルトンが、その首に食らい付いた。肉が大きく食いちぎられ、大量の血が噴き出す。力を失った悠がそのまま押し倒され、その身体から吐き出された光の球体はそのモンスターへと吸収された。
「中村!」
甲斐が棍棒ですくい上げるようにスケルトンを殴ろうとするが、それは思いがけない速度でそれを避ける。さらにそいつは悠の剣を拾い上げ、その切っ先を甲斐へと向けた。
「こいつ……ただのスケルトンじゃない? もしかして」
このゲームにおいてはプレイヤーはモンスターを殺してそのカルマを獲得し、レベルアップする。だがモンスターもまた人間を殺してそのカルマを獲得し、レベルアップするのだ。このスケルトンも人間を殺してレベルアップを果たしたのだろう。
くそ、と甲斐は悔しさを噛み締める。もっと早くそれに気付いていればという後悔が胸中を満たした。だがβ版においてはモンスターのレベルは見ただけで判るように表示があったのだ。だが現実にそんなものはありはせず、さらに知恵の回るこのスケルトンは悠を油断させるためにレベルアップ前の振りをしていた。先に戦ったのが甲斐であってもあるいは騙され、手傷を負っていたかもしれない。
「Karakarakara!」
雄叫びを上げるようにして歯を鳴らしながらスケルトンが襲いかかってくる。その速度は今の甲斐でも瞠目する水準だ。その上得物も大きく劣っており、甲斐は距離を取って仕切り直しをした。
剣を構えたスケルトンと甲斐が対峙する。だがそれは長い時間ではなかった。両者は同時に走り出す。両者が激突する寸前、甲斐が棍棒を投げつけた。
「Karakarakara!」
馬鹿め、と嘲笑するようにスケルトンがそれを斬り払い、そのまま甲斐を斬り捨てようとする。だが甲斐の姿を見失い、左右を見回し――その天地が逆転した。足を引っかけられて転ばされたのだ、と理解できたかどうかは判らない。起き上がろうとしたその顔面にかかとの蹴りが叩き込まれ、顔の骨が砕けて穴が空いた。
「これで終わりだ!」
スケルトンから奪い返した剣が一閃され、その頭部から胸までが唐竹割となる。スケルトンが吐き出した光の球体は甲斐の身体へと吸収された。膨大な量のカルマに驚くがそれも一瞬だ。甲斐は悠の下へと駆け寄り、彼女を抱き起こした。
「中村! 中村!」
「どうして……しにたくな……たすけて……」
悠がわずかに残った生命を費やし、甲斐へと助けを求める。だが甲斐にはどうすることもできなかった。悠の手を強く握り締め、彼女がそれをかすかに握り返し……だがその力もすぐに喪われた。
「なかむら……」
甲斐は悠を――その遺体を抱きしめ、嗚咽を噛み殺した。流れる涙は止めようもなかったが。
……一体どのくらいの時間そうして過ごしたのだろうか。日はとっくに沈み、星々が瞬く夜空には月が昇っている。
「これは……」
抱きしめたままの悠の身体が軽くなったように思えた。最初は気のせいかと思ったがすぐにそうではないことを理解する。彼女の身体が光っている。その身体が光の粒子となって分解していく。悠の存在が失われていく。
「中村……」
それが始まってから終わるまでは、一分か二分のことだっただろう。悠の身体は完全にこの世界から消え去っていた。甲斐の手に残っているのは乾いた血の跡だけである。
「もしかして……元の世界に戻ったのか?」
死ねば元の世界に、日本に戻れるのなら、それは何かの救いになるのだろうか――甲斐はそのように考え、次の瞬間にはそれを強く打ち消した。そんな世迷い言を考えた自分を殴り飛ばしたいくらいである。
「冗談じゃない、中村は殺されたんだ。あいつだけじゃない、もう何十人、何百人か判らない人間がこの世界で死んでいる。死ななくていい人間が、モンスターに、同じ人間に殺されている……!」
言葉にならない憤怒が腹の底から湧き上がり、甲斐は獅子吼した。そうして甲斐は立ち上がり、剣を握り締めて夜の道を歩き出す。その行き先には何の当ても、展望もない。だが目指すべき場所は明確だった。
「このくそったれなゲームを作った奴を、ぶった斬る。そのためにも生きて元の世界に、日本に帰る。必ずだ……!」
甲斐は鋼のように熱く硬い決意を胸に、力強く前へと進んでいった。その彼の前には漆黒の夜の世界が、一寸先も見えない暗闇が横たわっている。
July 27 at 20:27 65,324 / 100,013
切りのいいところまで書き上がったので投稿開始です。
第一部は全12話。1日1話ずつ更新していき、12話目は5月30日更新予定です。
なお用語の一部は前作「石ころ冒険者」の流用ですが、内容的なつながりは一切ありません。