あと5日
目が覚めたのは午前5時だった。
母を起こさないように、出来るだけ音を立てず階下に降りた。
顔を洗い、鏡を見ると相変わらず顔色の悪い女がいた。目の下の隈などいつから取れていないだろう。
やはり食欲はなかったが、とりあえず食パンを焼き、ジャムを塗って食べた。アールグレイのティーバッグも用意した。
テレビをつけてもどうせカラーバーだろうと思い、CSに切り替えてBBCにチャンネルを合わせた。
現地では、日曜日の午後9時らしく、NASAの巨大隕石落下の発表、ひいては人類滅亡の危機による世界各地の混乱模様を映し出していた。
隕石はどうやら太平洋に落下するらしい。国連では緊急特別総会が開かれるようだ。
ぼんやりテレビを見ながら食事を終えて時計を見ると、まだ6時前だった。
今日は課外授業はなくなるだろうか。むしろこの世界的混乱の中で、普通に通学・通勤するほうがおかしいが、昨日政府も「日常生活を送るように」と言っていたし、どうだろう。
とりあえず制服を着て、薄化粧をした。校則違反だけど、今日はしょうがない。
必要最低限のものだけをバッグに入れた。
リビングに『学校に行きます』と母宛にメモを残した。
玄関を閉め、空を見上げた。空は既に明るかった。
電車は走っていたが、電車には乗らずに近くの公園のブランコをこぎながら音楽を聴いていた。この公園で遊んだのは10年くらい前が最後だろうか。
しばらくブランコに座っていたが、アルバムを一つ聴き終えたので、駅へ向かった。
始発駅なので座れる。
地下鉄の暗い窓に映る自分を見つめた。冷たい目が見つめ返していた。
幾人かが途中で乗り降りしたし、同じ制服もいくつか見た。
高校の最寄り駅に着くと、十数人ほどが学校へ向かっていた。
学校に着いたのは、7時を過ぎたころだった。
教室には誰も居なかった。教室の明かりをつけ、教室を見渡し、かばんを自分の机に置いた。先週はここで普通に授業を受けていた。
私はベランダに出て、隣のマンションや道路、遠くの山を見つめた。朝の風が気持ち良い。ふいに煙草を吸ってみたくなった。
「……り、みのり」
いつのまにか深い思考に陥っていたらしい。振り返ると友人だった。
「ああ、おはよう、奈々」
「誰かと思ったら、あんただったのね。早いじゃない」
「君こそ」
「あら?化粧してんの?優等生サマが珍しいじゃない」
「はは、このあとちょっと用事があるからさ」
ニヤリとした奈々に苦笑した。
奈々は眉を寄せた。
「……あんた落ち着いてんのね」
「うん?」
「だって隕石降ってきて、世界が終わるのよ?のんき、というわけではなさそうだけど」
「そうかな」
「……あたしがのんきか」
奈々はため息をついた。
「あたしね、お母さんがどっかいっちゃった」
淡々と言う奈々に、思わず目を見張った。
「たぶん、例の不倫相手のところだろうけど。まあ平気よ?お姉ちゃんもお父さんもいるし。すぐ帰ってくるわよ」
彼女はあっけらかんと笑った。
「君はいつも強いね」
「あんたがいつも弱いのよ」
ふふんと笑ったあと、奈々は真剣な顔で私を見つめた。
「……ねぇ、死なないでね」
「あと5日でみんな死ぬよ」
私は笑った。
教室に入ると、いつのまにかクラスメイトのほとんどがいた。みんな隕石落下のニュースの話題で持ちきりだった。
始業まであと数分だったが、各々が不安に満ちた目をして会話をしていた。
始業のチャイムが鳴って、しばらくしてから担任が入ってきた。いつも大らかな人だが、今日は青い顔をしていた。今から集会が開かれると担任は言った。
私たちは講堂に押し込められ、校長の話を聞いた。おおかた、ニュースで聞いたことと同じ内容だった。
講堂で解散になり、そのまま放課となった。バッグを取りに教室に戻ると、奈々が話しかけてきた。
「世界は終わると思う?」
私は薄く笑って言った。
「終わるんじゃないかな」
「じゃあ、その通りだわ。あんたの言うことはいつも正しいから」
奈々の言葉に苦笑せざるを得なかった。
「いや、それは違うと思うよ」
「あーあ、世界が終わるなら、尾下君に会いたかったなぁ」
奈々は、尾下君--アイドルの熱烈なファンだった。
「どうせ死ぬなら後悔したくないじゃない。ねえあんたは?したいことないの?」
「家には帰りたくない、くらいかな」
私が母を嫌っていることを知っている奈々は眉をひそめた。
「……ウチに来る?ほら、ちょうど一人いないし」
「いいや、当てはあるよ。ありがとう」
それじゃあと言おうとした時、力強く腕を掴まれた。
「死なないで」
奈々はまっすぐ私を見ていた。腕を引けば案外簡単に手が外れた。
「……君の終末に幸あらんことを。連絡するよ」
立ちすくむ奈々を残して教室を去った。
校門を出て本庄に電話すると、5分もかからずに白のレクサスが来た。
助手席の窓を開け、乗れとぶっきら棒に言った。
「早かったのね」
「近くにいたからな」
「素敵な車ね」
「……コンビニで買ってきた」
そう言ってサンドイッチとオレンジジュースを手渡された。礼を言うと、彼はそれきり黙ってしまった。
私も疲れていたし、食べながら流れていく街に目を向けた。
今日もこの街はバスが多い。世界が終わるようには見えないほど、当たり前の世界だった。
「お前、今日は家に帰るのか?」
不意に男が口を開いた。
「……帰りたくない」
言ってから駄々をこねる子供のようだと思い、繕うように声を弾ませた。
「貴方のところに泊めてくれないかしら?駄目ならネットカフェでも探すけど」
「いや駄目じゃない、元々うちに来てもらうつもりだった」
「じゃあ、あと5日いいの?」
「良いさ、爺さんも喜ぶ」
「そう、ありがとう」
また男は黙った。私もまた街に目を向けた。
学校から30分ほどで、事務所に着いた。
「お帰りなさい、坊ちゃん。それとようこそお嬢さん」
昨日のスキンヘッドの男が出迎えてくれた。
「しばらくお世話になります。青池です」
「青池さんですね。俺は工藤って言います。若が小さいときから俺は世話見てるんすよ」
そう言って工藤さんは、胸の下あたりに手を示して笑った。
「中に入れ、まだ話がある」
本庄が私たちに声をかけた。私はスクールバックを持った。
昨日と同じ部屋に通された。工藤さんは退室した。
「俺は昨日お前に、お前を好きなように使うと言ったな?」
「ええ、言ったわね」
「俺からの条件は、指示に必ず従え、だ。いいな?」
「良いわよ。ただし終末までに必ず銃をちょうだいよ」
「約束は違えない」
私はよく冷えた麦茶を飲んだ。
「それで?私は何をすればいいの?」
「爺さんと話をしてほしい」
私は眉をひそめた。
「それは私でいいの?貴方じゃなくて?」
「こちらにも少々事情があってな」
本庄は首を触った。
「大抵のことはこなせる自信があるけど、病人の相手はしたことがないわ」
「それは工藤がする。ただ話すだけでいい」
「分かったわ」
和室に入ると、組長は起きていた。
「おお、来てくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。しばらくお世話になります」
私たちが挨拶を交わしている間に、本庄は去っていた。
「……本庄さんとは、お話にならなくてよろしいのですか?」
本庄の背中を見つめていた組長に尋ねた。
「良いんだよ」
悲しそうに微笑んだ。
「みのりさん、お話をしよう」
示された座布団を組長の横に敷いて正座した。
「セーラー服も素敵だね。良く似合ってるよ」
「ありがとうございます。結構気に入ってるんです」
クラスメイトや勉強など他愛のない話をした。本当の祖父と話しているようで楽しかった。
「爺さん、夕飯の時間だ」
本庄が入ってきた。気がつくと日が傾いていた。
「腹が減ってないから、いらん」
「そうか」
「ヨシアキ、みのりさんに食事を。私はもう寝る」
「分かった」
「おやすみ」
おやすみなさいと私も返した。
夕食は工藤さんが用意してくれた。彼は見た目こそ怖いが随分と器用だ。
「部屋には浴衣が用意してあるが、何か他にもいるか?」
「ありがとう、そうね、大丈夫だと思う」
食事を終えると本庄が部屋に案内してくれた。そこで大事なことを思い出した。
「あ」
「なんだ」
「コンビニに買い物に行ってもいい?」
「何を買いに行くんだ」
「……」
さすがに恥ずかしくて言えなかった。
「まあ良い、俺も行く」
「え?!別にそこだから大丈夫よ」
「お前に逃げられたら困るからな」
「逃げるつもりはないんだけど……」
「じゃあ何を買うんだ」
「洗面用品と……し、下着、です…………」
「……ついて行く」
本当に本庄はついて来た。財布も用意していたのに、本庄が買ってくれた。流石にレジの前で顔を覆ってしまった。
家に帰ると、工藤さんが風呂を沸かしてくれていた。
「もう休め。また明日だ」
「ありがとう、おやすみなさい」
本庄は何も言わずに去っていった。
私は広めの風呂にゆったりと浸かり、用意された部屋で布団を敷いた。
携帯の電源を入れると、母と奈々からラインが来ていた。
先に母にラインをした。
『楽しくなって連絡するのが遅れました。ごめんなさい。この前言っていた友人のところにいます。明日一度荷物を取りに帰ります』
とりあえずはこれで良いだろう。と思っていると奈々から電話がかかってきた。
「死んだかと思ったわよ!やっと既読がついたから、すぐに連絡来るかと思ったわよ!」
「ごめんごめん、先にお母さんに連絡してたから」
「ん?あんた今どこにいるのよ」
「ほら当てがあるって言ってたじゃない」
「それ大丈夫なところよね?」
「君が来るって言ったら受け入れてくれそうなところだよ」
「ふーん、ま、あんたがいいならいいや」
「……いつも心配かけてごめんね」
「それを言うならありがとう、でしょ!」
「うん、そうだね、ありがとう」
「もし、もしさ、あんたが何処かに行くなら、その前にあたしに顔見せに来てね。最後に会いに来てね」
「うん、もちろん」
電話を切ると幸福感に満たされた。私のことを大切に思ってくれる友人がいてうれしい。
それと同時に彼らの私に対する扱いは不思議に思えて来た。
でも他人の優しさが心地よくて、薬を飲まずとも昨日よりも寝つきが良かった。




