三日饗応祭
1
若菜の居住空間は、たったの二畳分!
壁はむき出しの岩肌ながら、あきらかに人の手による削り跡が見られる長方形の部屋だ。
一方の壁面には古臭い鏡と、しめ縄が飾られ、奥には岩の地べたに赤い敷布団と、上等な掛け布団が敷かれている。そして若菜も赤い浴衣姿ときたもんだ。
なによ、この衣装。まるで遊郭みたいじゃない、と彼女は思う。
その枕もとには古びた戸棚と、彼女が持参してきたボストンバッグ。灯りは奥の壁にロウソクが一本と、それだけでは心もとないので、戸棚の上に置いたランタンに火を灯していた。部屋の片隅には壷が置かれていたが、これについては言及を控えたい。
観音扉の入り口手前には漆塗りの箱膳が据えてあった。華やかなもてなし料理。これまた漆塗りの器に山菜料理やごはんが盛られ、銚子には甘酒が満たされている。猪口は伏せてあった。メインディッシュは鯛の尾頭つきと豪華だ。思わずつまみ食いしたくなるが、あいにくこれは若菜の夕飯ではない。
その穴ぐらの天井までの高さは、わずか一メートル三〇ほどと窮屈で、常時しゃがんだ状態でないといけない。ここにつれられてきた当初は、たんこぶだらけになったものだ。ふだんは座布団の上で体育座りをして、じっとしているしかない。
本当の作法は、しゃんと背筋を伸ばし正座するのがしきたりらしいが、なに、かまうものか。平成っ子は正座慣れしていないのだ。
ここに運ばれてからまだ半日と経っちゃいない。これが三日三晩続くわけだ。
息がつまりそう。若菜は浴衣のえりをもとをゆるめ、背をかがめたまま入り口に寄った。
観音開きの鉄扉を内側に開けた。海風にあおられるといけないので、すぐクサビで固定しないといけない。どぎつい西日がさしこみ、潮の香りがなだれこんできて、たちまち壁のロウソクの炎が消えた。
湿った海風が若菜の長い髪を乱暴にくしけずる。
入り口から下を覗いてみた。ネイルアートをした足のつま先の、はるか四〇メートル下で荒ぶる海がうねくっていた。
とっくの昔に高所恐怖症は克服した。風が吹きつけてくるたび、ギシギシといやな音をたててこの縦長の島そのものがゆれているが、まさか立神岩がいとも簡単にポッキリ折れるとは思えない。はるかな昔からこの立神岩は、海に突き刺さってきたのだから。
日本全国には『立神』と名づけられた岩礁が無数にある。岬の向こうにそそり立つ威容を神の姿に見立て、古くから信仰の対象としてきたのだ。
同じく、鹿児島県南西部の僻地、淡海町にある柏木漁港から沖合八〇〇メートル先に、漁師の安全を祈ってくれると信じられている立神岩がある。高さ五〇メートルにもおよぶ円柱状の岩が天にいどむかのようにそびえているのだ。
ふだんは無人島にすぎず、半径一キロメートル以内は禁漁区に指定されたうえ、ある時期をのぞいて、ある関係者以外足を踏み入れてはならない決まりがあるのだ。はるかな昔より、地元民はこの岩礁を神聖な場所とあがめてきた。若菜はいま、その聖地、立神岩のやや上方の中腹に穿たれた穴ぐらでたったひとりでいるのだ。
せっかく短大を出たというのに、佐世保でバイト生活に甘んじていた若菜は、こわれかけの恋をきっかけに再就職しようと決心したのだが、うまく内定がもらえず悶々とした日々を送っていた。
前職は居酒屋『一颯!』の従業員だった。『一颯!』じたい、居酒屋特有のお通し代や時間制限のシステムをなくし、まるで家庭でくつろいでいるような雰囲気に定評があったせいもあって地元では大盛況だった。客層も老若男女問わず集り、商品が単品売りのせいもあって、しぜんと客単価が高くなるからだ。かき入れ時は激戦区そのものだったが、時給が抜群によく――一四〇〇円也――、なにより仕事仲間に悪い人がおらず、ケチのつけようがなかった。
店長候補をつとめる若菜の恋人、正月 謙吾との仲がぎくしゃくしはじめたのがすべてだった。
どちらかが悪いわけではない。
忙しさにかまけ、なんとなく感情がすれちがうようになっただけだ。つき合いはじめたころは、鉄琴みたいに打てばひびくほど弾んだ会話、一緒にいるだけで溶けたバターみたいに安らげたのに。だけどいまでは相手にあわせるのさえ苦痛がともなうようになった。
プロ野球を観ていて、なんとなく相手投手に抑えこまれ、なんとなくチャンスもつくれないまま、なんとなくひいきのチームが負けてしまう試合があるように、なんとなく消滅しそうな恋だった。そもそも恋と呼べるほど、募る気持ちを重ねてきたのか怪しいのだが。
わずかな望みに託すべく、いったんクールダウンの間をおこうと思い立った。そんなわけで淡海町の実家に一時帰郷したのだ。
家に帰るや、縁側で洗濯物を取りこんでいた母が手をあわせた。「すまないんだけど、有里ネエのピンチヒッターで、三日饗応のおつとめに出てくれないかい? ついに当たっちゃったのよ、頭屋に。報酬として有里ネエから十万あずかってるの。わたしからもあと三万はずむから。お願い、ね?」
やられた。
ついに地元の奇祭、三日饗応の巫女役が家に当たってしまったらしい。そのまま佐世保にいたならば難を逃れられたものを、年子の姉がボイコットしたせいでお鉢がまわってきたのだ。
有里ネエはいつもそう! いやなことは棚上げし、妹のわたしに押しつけて逃げてばかり。
もっとも誰だって三日饗応だなんて、前時代的な神事に参加するのはごめんだ。知っているかぎり、二年前に白羽の矢が立ってしまった同級のノンコは、どうにか三日三晩の饗応を乗り切るも、泣きながら糞尿まみれになって立神岩から帰ってきたと聞かされた。巫女の衣装の股ぐらに茶色いシミをこしらえて。もう、ウエッ……ってなる。淡海町のうら若き女の子のあいだでは神事に関しては罰ゲームとしか思っておらず、経験者によればロクなうわさを耳にしない。
2
三日饗応とは、毎年三月十日から十三日までの三日間、立神岩の中腹に掘られた防空壕みたいな穴でひとりこもり、神膳をそなえ、神をもてなすと称してひたすら待ち続ける行事のことだ。なんでも、立神岩のご神体である『しらとりさま』なる神さまが、はるばる旅から帰還され、膳を召しあがり、その立神岩で寝泊まりされるそうな。
そのお世話をするのが巫女役である。巫女は毎年、淡海町の独身の女の子――十六から二十四の生娘がいいとされる。
生娘とな!――が神事をとりしきる氏子たちの籤引きによって無作為に選ばれる。女の子にとっては、それはもう恐怖のロシアン・ルーレットでしかない。
この饗応の神事は、石川県奥能登地方にて毎年十二月上旬におこなわれる新嘗の祭礼、アエノコトと酷似しているかもしれない。もっともアエノコトは県の重要無形民俗文化財に指定されているにもかかわらず、慢性的な後継者不足に悩まされ、いまや絶滅の危機に瀕しているのが現状である。
それにくらべ三日饗応は廃れる気配はなく、地元の女子の不評を買いつつも、毎年つつがなく実施されていた。それもこれも淡海町役場商工観光課の課長であり、地域発展のプロジェクトの発起人でもある不破 純平さんが異様な熱意でもって、神事の継承と推進に力を入れているからだ。それこそ入魂の思いで。その熱量はアツく、アツさを通りこして、ただひたすら暑苦しいほどだ。
それはさておき、アエノコトが姿なき神と会話し、眼の不自由なそれを導くための演技をするに対し、『しらとりさま』もまた眼が見えない設定なのはなぜか一緒で、こちらはただ立神岩の穴ぐらでひたすら物忌みのような所作を貫き、お膳と甘酒をそなえ――せいぜい食事時に、演技ぐらいはつとめなくてはならない――、寝泊まりするだけとはいえ、精神的苦痛は計り知れない。なにせ三日三晩、沖の無人島、それも危険な岩礁に取り残されるわけだから。
巫女役はこの三日のあいだ、立神岩から本土に戻ることはゆるされない。よほど生命にかかわるようなアクシデントでも発生しないかぎり、立神岩で神を歓待するという名目で、サバイバル生活を通さなくてはならないのだ。これを総じて『おつとめ』という。いまどきナンセンスとしか言いようがない、エアー接待というわけである。
じっさいに『しらとりさま』が降臨し、巫女のまえに姿を現したなんてオカルチックな事例はないはずだ。巫女に選ばれた女の子たちは退屈の三日間を、ほぼしゃがんだまま無為にすごすしかないという。
日中は穏やかな三月中旬とはいえ、夜になれば底冷えし、孤独にうちふるえることになる。海が時化ることだってめずらしくない。健康を害し、リタイアした娘は過去にいないそうだが、つねに危険はつきまとう。というのも、生理現象には逆らえないからだ。トイレに行きたくなったら、当然外へ出向く必要があった。立神岩から下へおりるためのステンレス製のハシゴを伝って磯まで三〇メートルもの高さをおりなくてはならないのだ。一応、建設現場で作業員が使う胴綱という安全ベルトを腰にまき、安全を期すよう義務づけられているとはいえ、いちいちハシゴの足場にフックをかけなおしながら昇降するのは、おそろしく骨が折れる作業で、そんなことをやりながら下に着くころには下着を濡らしかねないほど時間がかかってしまうのだ。
女はいざとなれば度胸。いっさい下は見ず、チャチャチャッと手際よくハシゴをおりきってしまえば無問題なのだ。手をすべらせて落ちたら落ちたで、そのときは観念するしかあるまい。ちなみに過去において、あやまって転落死した巫女役はいないらしい。そりゃそうだ。誰だってこんな僻地でのたれ死にしたいものか。まかりまちがっても第一号の犠牲者にはなりたくないものだ、と若菜は思った。
3
若菜は外の空気を吸って、気分転換しようと思い立ち、ハシゴをおりてみることにした。安全ベルトは使わない。
学生のころは、ドンくさいとはよく言われたけれど危なげなくハシゴをおりきった。
下は猫の額ほどながら磯になっているのだ。磯はUの字の形をしており、股の部分に、これまた建設現場や海の家でお目にかかる仮設トイレが建っていた。この人工物、ましてやお世辞にも上品とはいえない長方形の箱は、立神岩の景観を損ねるとして、地元民、および不破さん率いる三日饗応祭推進委員会は設置に反対したものだが、幸いにして柏木漁港からは死角に入る位置であるため、観光客が望遠レンズで覗いても、さほど支障はないとして承諾を得たのは戦後間もないころだった――つまり、神事はそれほど歴史が古い――。
推進委員会がなんだ。神事を進めるのは女の子たちなのだ。いくら神と人間の仲介役である巫女でも、膀胱はパンパンにふくれあがり、それを排出せねばならない。トイレが設置されていなかった以前の巫女は、穴ぐらのなかで用を足していたらしい。例の汚物入れの壷がそうだ。三日三晩、自分の排泄物の臭いとともに辛抱しなきゃならないなんて、わたしには無理……。
仮設トイレのなかは和式。言うまでもないが、出したものはタンクで貯蔵される。巫女役の糞尿で立神岩周辺の海を汚すわけにはいくまい。もっとも、万が一、満潮時に大時化がこようものなら、このトイレは確実につかるのだが……。
トイレを済ますと、せまい磯を歩いてみることにした。これといって眼をひくものはない。岩場の窪みには巻貝や亀の手が密集していた。磯のへりから海を覗きこむと、底は見すかせないほど深いため、タールそこのけの闇の色をしている。波しぶきがあがり、若菜は驚いてうしろへはねた。本来、トイレ以外、巫女役は磯でうろつくべきではない。神事の規約によれば、立神岩の穴ぐらで座って待つのがしきたりなのだ。
真下から立神岩を見あげた。みごとなまでの円柱状の岩が屹立しているものだ。山頂部分が白いクリームをたらしたかのような跡があった。なんてことはない。カモメの白い糞だ。地元漁師たちは、漁の安全を見守ってくれる信仰のシンボルであるのと同時に、男性のナニの形に似ていることから卑猥な別の名も口にしたりする。
『おつとめ』を果たすべき穴は立神岩の中腹よりも高い位置に穿ってあり、その入り口には朱塗りの鳥居が岩肌に埋めこまれていた。ハシゴはてっぺんまでにはかかっていない。ハシゴの横には滑車とチェーンとゴンドラでできた巻きあげ機が設置されていた。これは荷物をあげさげするときに使う運搬機。本土で作られたお膳を上まで運ぶために必須なのだ。ただし、手動式なため、巫女が重労働するはめになるのだが。
死角になっているからだいじょうぶだとは思うが、三日饗応祭をとりしきる不破さん及び氏子衆が、柏木漁港から監視していないともかぎらない。若菜は真っ赤な浴衣姿で、顔も真っ白なおしろいをベタ塗りしてあり、イヤでも眼につくだろう。それこそコヨーテがのし歩くサバンナで、不用心に棒立ちしているキリンみたいなものだ。
そんなわけで、散歩をきりあげ、とっとと穴ぐらに戻ることにした。どうせ太陽がじき、本土の山の端に消えようとしていた。
ハシゴの昇降は慣れたものだ。胴綱にたよることなく、消防士そこのけに駆けあがった。
穴に戻ると、観音扉の片方だけを閉め――一応は空気孔があいているのだが、換気は基本、大きくしておいた方がいい――、入り口の前に座布団を敷き、その上でもっともらしく正座してみた。露出したふくらはぎから足にかけて形がいい。座りだこができていた。
気のない表情で外を見た。ひたすら海はうねり、潮騒は轟々とやかましく、頭を洗濯機に放りこまれたようだ。風がいたずらっぽく浴衣の胸もとをはだけさせた。ひんやりした空気がBカップの乳房をもみしだいた。
茜色の太陽は淡海町の西の向こうに姿をかくそうとしていた。線香花火の最後っ屁の火花が垂れさがるみたいに。こうしてマッタリとしてばかりもいられない。ランタンのタンクに油を補充し、火をともした。壁のロウソクにも着火したあと、少し早めの、若菜自身の夕飯の支度にとりかかることにした。
三日饗応祭のあいだ、本土に戻れないかわりに、食料および『しらとりさま』へのお膳は、専門の調理人がこしらえてくれ、それを地元漁師を代表して西嶋さんが朝一、船で運んできてくれる手はずになっていた。若菜の分は檜のおひつに入れられた白米と、漬物や納豆などの日持ちするおかずの詰めあわせにくわえ、ペットボトル大に満たされた飲料水が三本。不測の事態にそなえ、若菜自身もボストンバッグにチョコレートやキャンディーなどのお菓子と、小型のカセットコンロを用意してあった。この知恵は先代の巫女役からご教示していただいた。
朝に運んでもらったおひつのフタを開けてみた。ご飯は完全に冷えてかたくなっており、味もそっけない。身体を冷やさないためにも、コンロを使っておかゆを作ることにした。茶碗一杯分のごはんを鍋に入れ、適当に水をくわえ、塩をひとつまみ落とし、フタをして火にかけた。
鍋が煮えるまで体育座りをしたまま、コンロの火を見つめた。ときおり吹きこんでくる風で青い炎が不安定に揺れた。
そのとき、この原始生活に不釣りあいな、だけど耳慣れた電子音が鳴った。
スマートフォンの着信音。三日饗応をおこなうにあたって、基本的に私物の持ちこみは禁止されているのだが、最低限の品は目をつぶってもらえた。が、こんな文明の利器はご法度のはずだ。
バッグからドコモを取り出した。着信者は『謹賀新年』とある。胸がきりりと締めつけられた。正月さんだ。
出るべきか否か、さんざん迷ったすえ、若菜は通話ボタンをタッチし、耳に当てた。
「もしもし、おれだけど」一週間ぶりの、なつかしい声が遠慮がちに言った。「いま、実家へ帰ってるんだってな。領子から聞いた。あいつ、なかなか口を割らなかったんだけど、泣き入れたらおまえの居所、もらしてくれてな」
領子は『一颯!』でいちばん仲良しだったレジ打ちの子だ。神戸の繁華街の出身らしく、身のこなしや言葉づかいも知的で、若菜などおよびもつかないほど品があった。
しばらく息を殺していた。沈黙。この穴ぐらの真下で波が砕ける音。
「聞こえてる、若菜? スルーされるのがいちばんこたえるな」
「聞こえてる。口を割らないとか、吐いたとか、尋問ですか。領子も、とばっちりでしたね。あとで謝っとかないと」
「おれのことで怒ってるのか」疲れた様子で、ボソリと正月は言った。「最近、仕事忙しすぎたからな。まるっきり意思の疎通ができなかった。すまない」
「そういうわけじゃない。たしかに逃げる形で実家に来てるのは事実だけど、必ずしも正月さんのことだけで飛び出してきたわけじゃないから」と、若菜は相手を傷つけまいと、慎重に言葉を選びながら言った。「じつはいま、ちょっと取りこんでいる最中なもんで。藪蛇になっちゃって。率直に言って、手が離せないの」
「またまた、おれを避けるための口実を」
「たしかに」若菜は言いながらコンロの炎をゆるめた。「いまかけてこられると迷惑なんです。それでいて、神事の最中だからとかこつけて、逃げるための言い訳かもしれないけど」
「若菜らしいというか、いきなりなんの話?」正月はすっとんきょうな声をあげた。「シンジってなんじゃい。エヴァンゲリオン?」
「地元に古くからあるトラップに、まんまとつかまりまして。ある意味、たいへんな目にあってる最中なんです」と、若菜は正座したまま、神事の内容をざっくり話して聞かせた。突っこまれるとキリがないので、あくまでざっくりだ。
「なんじゃそら。絶体絶命なのか」
「いまのところは、まだ心にゆとりがあるけど、はたしていつまで持つことやら」
「神事の最中って、宮さんで巫女が神楽を舞うような状況か? それのどこがピンチなんだ」
「巫女はご名答」と、明るい声で答え、「だけど、シチュエーションが異常でして。そして非人道的なの。こんなのが現代社会でまかり通るなんて信じられないと思う」
「ふーむ」と正月は深くうなった。「とにかく、身動きがとれない、なすがままの状況なわけだな。……って、おまえ、『一颯!』にいたときと変わらんがな」
若菜はかるくズッこけた。「的を射てるだけに、反論しようがないです」声のトーンをあらため、「それはそうと、なにか急を要する用事でも?」
「よくわからん儀式の巫女に選ばれたってのはわかった。……って素直にわかるかい。なんにせよ、いまは取りこんでて、おれとくっちゃべってる場合じゃないわけだな。長電話につき合うのもきびしいと」
「察してくれたらうれしい」
「わかった」と、正月は明るい声で言った。「とりあえず、今日のところは退散すっか。また連絡するから。……って、まさか、これが最後って意味じゃないよな?」
「そういう意味じゃないよ。深読みしなくていいから。わたしはヘタな小細工はしませんって」
「はいよ。じゃあ切る。お疲れ。とにかく、おまえもがんばれよ」と言って、正月は通話を切った。
若菜は電話のあいだ、鍋のあんばいを見守っていたつもりだったが、おかゆはすっかり煮すぎてしまい、水分が蒸発し、鍋底の米がこげついてしまった。食欲はすっかり失せてしまったとはいえ、胃を空にしておくのはよくない。なにせ長丁場の試練が続くのだ。せめて板チョコだけでもと、ポキンと折り、頬張っておくことにした。
4
さて、三日饗応祭における『おつとめ』は晩にあるといっても過言ではない。というのも、『しらとりさま』は夜の八時ごろ、立神岩にお見えになるというからだ。朝、運ばれてきたお膳を白布の覆いを取って入り口におき、お銚子の甘酒を盃に注いでスタンバイする。このときばかりはアエノコトみたく、氏子衆にみっちり教えられた演技力で、見えざる神を迎えねばならない。
若菜は座布団の上で正座し、背筋をしゃんと伸ばして襟を正した。やおら神妙な、しゃちほこばった口調で――それこそ能か歌舞伎役者みたいに――しゃべり始めた。
「ささ、立神岩にまいられた『しらとりさま』よ、少しおそめですが、夕飯の支度がととのいました。恥ずかしがらず、穴に入られてください」手で箱膳の向こうにいざなう。神座に見えざる『しらとりさま』が着席したところを想像しながら、ジェスチャーを交える。「なにぶん窮屈なところですが、どうぞごゆっくりくつろいでください。去年は不漁が続き、作物のできも思わしくなかったですけど、このたびはつつましいながら、精魂こめておもてなしの料理を作らせていただきました。なにとぞ、本年こそは漁にめぐまれ、豊作になるようお願いします……」
若菜は失笑をこらえるのに必死だ。なにを好きこのんでひとり芝居を演じなければならないのか。これではコントだ。しかも観客はいない。痛々しいったらない。
待てど暮らせど、『しらとりさま』なる神さまがやってくる道理はない。半開きの扉の向こうから潮風がなだれこむだけで、なんの変化もあろうか。いつの間にか、外は墨をこぼしたような暗闇が占めていた。怒涛のうねりが返事をし、立神岩自身がきしんで、わずかばかり揺れるだけ。
それでも一応、『おつとめ』は型どおりしておいてやろう。わたしも馬鹿正直だ。せっかく姉と母からも報酬をもらってるんだし。若菜はやっつけ仕事みたいに神座に向かって正座したまま、小一時間待ってみることにした。
バカバカしいったらありゃしない。三十分もしたころ、場ちがいにまたスマホが鳴った。取って液晶画面を見ると、母からだった。出ることにした。
「あんた、大丈夫かい? 行事の最中に電話するのもどうかと思ったんだけど、急に心配になってね」と、母は開口一番、早口でまくしたてた。硬いものをかじる咀嚼音が合いの手に入る。たくあんでも食べているようだ。「ぶじ、つとめが進んでいるね? あんたのことだから昼寝してて寝すごしたんじゃないかと思って」
「寝すごすわけないじゃない。まだ初日なのに、いつでもどこでも、グースカ眠れますか」
「行事について、なにかわからないことないかい? 答えられる範囲で、なんとか助言するよ」そんな母だが、あいにく巫女に選ばれたことはない。ご近所のご長寿ばあさんこと、西野さんがまだ生娘だったころ――はるか七十年もの昔だという――選ばれた経験があり、なにかと情報を聞き出してはいたらしい。
「いまのところは、つつがなく進行させているつもり。ていうか、思いっきり途中なんですけど」
「それはなにより。だったら体調、崩してない? 声がしわがれてるような気がするけど、そっちは寒いんでしょ。風邪なんかひいてダウンした日にゃ、あんた、一大事よ」
「寒いけど、寝るときは浴衣の下にジャージ履くから。声は飲み物飲めばよくなるはず。夕飯、そっちはなに食べたの」
「あんたにゃ悪いとは思ったんだけど、てんぷら作ってみたの。立派な車エビ、浜将さんが安く売っててね。それと、おとなりの橋田さんが渡船で釣りに行って、アオリイカ、入れ食いだったそうなの。で、おすそ分けいただいて。まだ旬の時期の手前で、小ぶりだったけど、なんの、これががおいしくて。それでいま、おなかさすりながら余韻にひたってたわけ」
「次女が沖合の立神岩で、孤独と寒さに闘いながらプルプル震えてんのに、てんぷらとか!」
「おーお、巫女はつましい食事しかとれないから不憫だね。とりあえずあと二日の辛抱じゃない。帰ってきたら、ぐんとおいしいもの、ふるまうから。そうだ、久しぶりにウナギにしよっか?」
若菜は頭を抱えた。「そのあと二日を思うと先が思いやられるのよ。ここでは時間が経つのがあまりに遅すぎる」
「泣き言いわない」と、母はゆっくり噛んで含めるように言った。「がんばるのよ、若菜。がんばるしかないじゃない」
「応援してくれるのはいいんだけど、お母さん、いまテレビ、なに観てるの? さっきから、さんまの笑い声が聞こえるんですけど」
「不謹慎だったかもね。あの人の冠番組。たまたまチャンネルかけてただけよ。あんたのことが気がかりで、とても集中して観てる場合じゃないわよ。心ここにあらずってやつだわ」
「文明の利器が恋しい。かろうじてスマホだけが心のよりどころよ」
「反則だけど、電話ぐらいいいよね。充電器はしっかり持ってる? 電池切れだと、今後連絡取れなくなるから、そろそろ切るわ」
「ぬかりなく。予備の電池もあるから」
「それはそうと」と、母は声をひそめて言った。「暗くなってからトイレしに下へおりるのは危険でしょ? できるだけ壷でしちゃいなさいって西野さんからのアドバイスよ。恥ずかしいも汚いも関係ないんだから。どうせ誰も見てやいないって。そんなところで、転落して命を落とすのだけはやめて」
「またそんなことを」若菜は額に手を当て、「日が落ちたら、できるだけ水分は控えるつもりだから、このぶんだとトイレにいかず済ませそう。少なくとも壷だけは使いたくない。壷だけは」
「わかったよ、そうだろうとも。あんただっていつまでも子供じゃないわよね。なんにせよ、いまのところは、あんたが元気なのはわかった。電池、少なくなるから切るね」
「もう。ずいぶん一方的な業務連絡ですこと!」
「この会話が役場の不破さんにでも盗聴されてたら、たいへんなことになるわ。あんたと話すのも気が引けるね」
「さすがに市の職員はそんなこと、しません」
「わかったよ、若菜。バイ。『おつとめ』の続き、がんばるんだよ。あんたならやり遂げられると、母さん信じてるから。あんたは性根ひん曲がった有里ネエとはちがう」
「敵前逃亡した有里ネエにも伝えといて。今度会ったらヘッドロックのえじきにしてやるからって」
「おおこわ」そう言って、母は電話を切った。背後から漏れていたさんまの素っ頓狂な笑いもやんだ。
若菜はため息をつき、枕の上にスマホをポンと置き、大股を広げて布団にひっくり返った。赤い浴衣の裾が乱れ、白い太ももがあらわになっても平気の平左だ。
入り口の向こうで、怒涛が岩壁を打ちつける音がくり返されるだけで、どうやら『しらとりさま』がやってくる気配はない。やってくるはずもないのだが。
おなかが鳴るのを感じた。やはりチョコレート数切れだけでは物足りない。放置されたお膳を見た。真横のアングルから見える、赤鯛のお頭つきがわずかにVの字に曲がり、とりわけおいしそうに映った。どうせ明日になれば、漁師の西嶋さんが新しいお膳を運んできて、古い料理は廃棄処分にされるだけだ。だったら、有効利用するべきだ。
神座に着くと、がっつくように料理に手をつけた。ものの十五分とたたぬうちにたいらげてしまった。
ぬるい甘酒を飲んで、ひと心地ついたあと、下のジャージを履き、ほかにすることもないので、スマホのアプリで無料ゲームを楽しんだ。なんだかんだ言って現実逃避のなせるわざか、ダラダラと夢中になり、気づけば液晶画面の端に表示されたデジタル時計は二十二時を示していた。やるべきことは一応はきちんとやり遂げたことだし、いいかげん暇つぶしも飽きた。どうやら今夜の神さまは、気乗りしないのかもしれない。それにすっかり冷えこんできた。
そりゃそうだ。観音扉をしめ、施錠し、灯りを消した。
スマホのわずかな液晶ライトをたよりに布団にもぐりこみ、波の音がうるさいので、頭までほっかむった。ものの五分もしないうちに、眠りのエアポケットに転げ落ちた。
5
慣れない穴ぐら生活の初日だったが、熟睡できたのは誇るべきだ。むしろ、下で待機しているであろう漁船の警笛で叩き起こされたぐらい。
枕もとのスマホを見ると、すでに八時をまわっていた。催促するかのように、もう一度警笛が鳴らされた。若菜はしかめっ面をして、下は黒いジャージ姿で、胸もとの浴衣をはだけさせたまま扉を開け、入り口から顔を出した。
みごとな青空が視界いっぱいに広がっていた。燦然たる太陽が眼を射抜く。穴ぐらにひと晩閉じこめられていた鬱積を晴らすさわやかな風。しかしながら雲の動きは速く、眼下の波はやや高めでうねりが激しい。磯にぶつかり、砕け、白い飛沫が天に挑むかのようだ。
「こりゃーーーーーッ、若菜。この寝ぼすけめ、やっと眼ぇさましたか!」すぐ真下の磯のそばでは漁船が横づけしてあり、西嶋さんが磯の上に降り立っているのが見えた。波に負けじと絶叫している。「巫女役だろ、寝坊するバカがどこにおる! これじゃあ『しらとりさま』に顔見せできんぞ。しっかりせんか!」
「人の気も知らないで。好きで巫女なんかやってないわよ! 貧乏クジひかされたんだから!」負けじと若菜も叫んだ。
「祭のあいだ、わしゃ単なる運搬役でしかないぞ。本来、巫女と口を利いてはならんのだが、だらしない娘はしっかり忠告すっからな!」
「説教は聞き飽きた!」
「とにかくだ」と、西嶋さんは両手メガホンで言った。「早いとこ、神膳を交換しろ。わしゃ長居したらいかん決まりだから。早う、古膳からおろせや」
若菜はブイブイ文句を言いながら、昨夜のお膳を乱暴にかたづけ、外にしつらえた箱型のゴンドラをたぐり寄せた。荷台は箱型なので、すっぽりお膳はおさまって余裕あるサイズ。ついでに空になったペットボトルやゴミをまとめたビニール袋も放りこみ、紐を引いてゆっくり荷台をおろした。たっぷり時間をかけて下の磯までおろすと、西嶋さんは荷物を回収した。
「お!」西嶋さんは上を見あげ、顔をほころばせた。「神膳がすっかりなくなっておるな。夕べ、『しらとりさま』が来てくれたのか」
「ごあいにく。腹ペコだったので、ごちそうになったの。不測の事態が生じてね」
「けしからん娘め。神のおさがりを食べるたあ」
「さっさと新しいお膳とわたしの食料をあげて。待ちきれないわよ。このあと禊もしなきゃいけないんだし」
「文句の多い娘め……。待っとれ」西嶋さんは今朝作られたばかりのお膳と、若菜が食べるご飯のお櫃や保存食、飲料水を荷台におさめた。「よっしゃ、オーライ、引きあげてみい」
「引きあげるには、すっごい上腕二頭筋を酷使するんですけど」若菜は脚をふんばって、ゴンドラと取っ組んだ。
「だいじな巫女の仕事じゃねえか」西嶋さんは叫んだ。「それと若菜、おまえに悪い知らせだ。……まるで、ハリウッド映画みたいな、思わせぶりな前ふりだがな」
「なに? まさか穴ぐら生活が盗聴されたんじゃないでしょうね」
「盗聴?」西嶋さんは眉をひそめた。「真剣に聞けよ。どうも今日の昼すぎから時化るみたいだ。かなり荒れる恐れがある」
「ウソー」若菜は力なく言った。事実、雲行きが怪しいのだから疑いようがない。はるかな沖の真上には、密度の濃い雲海がこちらに手をさしのべようとしていた。「こんなところで、雨風しのげっていうの。行事の中止はないの?」
「あるもんか」西嶋さんは荷物を持ったまま漁船に飛び乗ったりして往復しながら言った。「なにも、時化のなかで神事をやるのは、おまえが初めてじゃねえ。過去に何人もの巫女が悪天候にあい、どうにか耐え抜いてきた。たかだかあと二日だ。だから負けんなよ。……なもんで、場合によっちゃ、明日以降、時化が長引けば、さすがにおれの船もここに近づけやしねえ。そんときゃ、保存食でなんとか乗り切れ。『しらとりさま』の神膳も、二日続けて供えるしかあるめえ。『しらとりさま』は飯がお古だからと言って、文句を言うような心の狭いお方じゃねえはずだ」
「だといいけどね!」
「いけねえ、立神岩の巫女さまと長話がすぎた。そろそろ陸に帰るわ。昼までにハマチの養殖場の補強をしとかないとならねえんだ。おれだってオマンマのもとを心配しないといけねえんでな」
「飢え死にさせたくなかったら、あさっての朝にはちゃんと迎えにきてよ。ちょっとの危険ぐらいなによ。巫女役にくらべたら、はるかに安全じゃない。かよわい女の子を置き去りにして、心が痛まないの!」
「あー、聞こえねえ、聞こえねえ。チンポコ岩から人の声がすっけども、空耳に決まってら!」
「セクハラじじい! なによ、もう契約外の時間なの」
「達者でな、若菜! せいぜい気ぃつけるこった。なせばなる、なさねばならぬ。なるわざをならぬと捨つる人の儚さってか!」
こう言い残して西嶋さんは漁船に乗りこみ、最大出力で柏木港にとって返していった。若菜はポカーンと口をあけ、見送った。
こうなっては否応も言っていられない。覆らないものは覆らないのだ。三日饗応とはそれほど理不尽なものなのだ。
となれば、進むあるのみ。巫女役たるもの、お膳を供える前に心身を清めなくてはならない。
若菜はトイレをかねて一度下へおりることにした。さすがにひと晩我慢し続けるのは苦しかった。磯におりると猛ダッシュでプラスチックの個室に駆けこんだ。
トイレをすませ、Uの字のカーブになった先端のところへ行った。そこはなだらかに傾斜になっており、ちょうど人ひとりが入ることができる穴があった。ピットホールと呼ばれる、自然の力でえぐられた空隙だった。そこは常時海水がたまり、言うなれば天然の風呂釜となっていた。三日饗応に選ばれた巫女は毎朝、よほど海が荒れていないかぎり、ここで禊をしなくてはならない決まりがあるのだ。
昨日もそうだったが、柏木港からは立神岩自身で死角になっているとはいえ、浴衣を脱ぐのは抵抗があった。が、そうも言っていられない。いまや身体じゅうが潮や汗でべたつき、生理的にすっきりしない気分。ひと風呂浴びねば、どうにもおさまりがつかない。
若菜はあたりを見まわし、沖の方にも漁船が通りかかっていないか確かめ――立神岩の半径一キロメートル以内での漁は禁止されているものの、禁止エリア外から双眼鏡で覗くことは可能だ――手早く浴衣を脱いだ。下はジャージを履いたままだったので、さっさとずりさげると、ブラとパンティも脱ぎ捨てた。南国の海岸線みたいなまぶしい全裸となった。
しゃがみ、両手を桶とし、天然の風呂釜にたまった海水をくんで肩にかけた。死体も起きあがらんばかりに冷たい。いまさらあとへは退けない。禊を続けた。
「なんでこんなことしなくちゃいけないのよ……。だからこんな田舎、いつまで経っても発展しないのよ。こんな人権無視の行事を、地元の女の子に押しつけてるから、みんなよそへ出ていっちゃうっていうのに……」と、憤懣やるかたない思いで行水をくり返し、冷たさに慣れたのを見計らって、くぼみに飛びこんだ。あまりの冷たさに悲鳴をあげた。
とにかく禊は済んだ。身支度を整え、磯をぐるりと散策してみることにした。たしかに波は荒々しくもみくちゃになり、白い波頭をあげて磯に体当たりしてくる。岩壁にぶつかり砕けた怒涛は泡となって高々と舞いあがり、せっかく身ぎれいにした若菜をずぶ濡れにした。地団駄を踏んで、柏木漁港の方向に向けて呪った。
もはや時化がくるのは、漁師のベテランである西嶋さんの見立てじゃなくとも明白だ。とすれば、それなりの武装をして臨まねばなるまい。三日饗応祭は昨日の『神迎えの日』を消化し、今日の『なか日』、そして明日の『神送りの日』の一夜を終えたあと、四日目の早朝に迎えの漁船で回収される手はずになっている。
とはいえ、時化が激化すれば、立神岩の穴から一歩も外へ出られなくなる恐れがあるし、それだけならまだしも長引くことにより、新たに食料支給されるのが無理になるうえ、船すら接岸できないことだってあり得る。つまり、帰るのが延期になるってことだ。
となると、現在ある保存食を長持ちさせ、できるだけ自給自足することに越したことはない。だてに漁師町でやんちゃに育っちゃいないのだ。母さんが口癖のように言った言葉が、耳もとでよみがえった。「体力ではさすがに男にはかなわない。けど、ハートの強さ弱さは、男も女も関係ないんだよ。だったらがんばり」
まったくおっしゃるとおり。
いったんハシゴを登り、穴ぐらへ戻った。ゴンドラにバケツとタッパー、十徳ナイフを入れ、注意深く下までおろした。続いて若菜も下の磯へおりた。
臨海学校と、夏休みのたまの磯遊びでしかやったことのない街の子とはちがい、子供のころから海での遊びに長けていた。この猫の額ほどの広さしかない磯でも、食料に利用できそうなものは事欠かない。ましてや人の出入りが激しい本土のそれとちがい、ここは手つかずの状態。サザエを小さくしたような巻貝は大粒のものばかりだし、ちょっと手を伸ばせばいくつものトコブシが岩壁に張りついているのだ。
トコブシはアワビを小ぶりにしたような一枚貝で、アワビにくらべればかなわないが、身は歯ごたえがあり、生でも煮ても、バターで炒めて食べてもよしの珍味。じっさいトコブシは、第一種共同漁業権の対象となる貝藻類のため、漁師以外獲るのは禁止されているとはいえ、いまは緊急事態にそなえる必要があった。この際、不破さん率いる推進委員会や氏子衆、漁協、海上保安庁も大目に見てくれるはずと思いながら、若菜は十徳ナイフを使って一枚貝を岩からひきはがした。
よく肥った岩ガキも密集しているポイントがあったので、それにも手をつける。これも漁業権に反するが、乱獲するわけではないのだ。勘弁してよ、と若菜は思う。
「自分の身ぐらい自分で守りなよ。自分で守れてこそ一人前なのよ」と、母がことあるごとに言ったものだ。父は物心つくかつかないうちに、よそで女を作り、出ていった。それ以来、母は女手ひとつで姉妹を育てあげた。「人間は誰しも最初は弱いの。だったら強くなればいいだけの話じゃない。難しく考える必要ないわ」
二日前、佐世保から帰郷したとき、家の縁側で洗濯物を取りこんでいた姿をこっそり覗いたが、ここ二、三年のうちにめっきり老けこんだような気がする。有里ネエもプライベートで問題を抱えており、そりゃ老化が進むのもやむなしというものだろう。
十徳ナイフを使ってトコブシや岩ガキの貝殻と身を引き離す作業をくり返し、小一時間をかけて身だけをタッパーにおさめた。巻貝は殻のまま塩茹でにすればいいのでバケツに放りこみ、ちょっとだけ水を張った。収穫量はバケツの三分の一ほどまでと上出来だ。
はるか沖合で天のシンバルが打ち鳴らされ、ストロボを焚いたかのような紫色の閃光がまたたいた。ペトリコールの匂いがしたら、ほどなくぱらつき始めた。じきに本降りになるだろう。
そろそろ撤収すべきと判断した若菜は、バケツとタッパー、道具一式をゴンドラに入れた。その足でもう一度トイレに駆けこみ、膀胱を空にしてからハシゴと取っ組んだ。今後、屋外で用を足すことは難しいかもしれない。
とすれば、いよいよ穴ぐらでは壷にしないといけないわけで……。若菜はずん、と沈みそうになる気分を切り替え、穴ぐらまで戻った。
どうあっても、人間は自然の摂理には逆らえないのだ。とことん状況に応じて変化していかねばなるまい。用心しいしいハシゴを登り――途中で手をすべらせ、二度ほど冷汗をかいたが――、どうにか穴にもぐりこんだ。全身ぐっしょりで、せっかくの禊が台なしになった。間髪入れず、巻き上げ機をあげる作業にかかった。たっぷり時間をかけて磯での成果を回収した。
6
案の定、昼すぎから豪雨と強風が立神岩に襲いかかった。屋外ではびゅうびゅうと、頭上で振りまわす象使いのムチのような鋭い音をたてて、猛抗議している。
観音扉をぴしゃりと閉ざし、内側から錠をかけても隙間から雨が入りこんでくるので、あらゆるものを使って目張りし防いだ。じゃないと、この部屋は湿気でベタベタになるどころか、磯から離れていながら溺れかねない状況なのだ。
若菜は浴衣をぬいで戸棚にかけた。これでは当分乾きそうにない。ブラとパンティを新しいのにかえ、ほかに着るものを持参していなかったので、バスタオルを使って胸もとから下半身をつつみかくした。長い髪も乾かず、若菜は気分がささくれ立った。
部屋の隅には今朝、西嶋さんから交換してもらった箱膳が置いてある。基本的に夕方供えるものなので、埃がかかるといけないと思い、白布で覆ってあった。
それにしても、なぜこんな目にあわなきゃいけないのかしら。若菜は布をかぶったお膳を見つめながら恨めしく思った。
トコブシの煮つけを作ることにした。醤油と砂糖だけはある。日本酒とみりんがないのはいただけなかったがやむを得ない。できあがったら冷ましたあと、タッパーで保存しておいた。ほかの貝を適当に口にして腹を満たした。
二時になってすぐ、有里ネエから電話がかかってきた。
開口一番、巫女役を押しつけたことを弁解釈明し、かわりに報酬十万に、あと二万を上乗せすると誓わせた。これで母からの分をくわえると、十五万になる。
「さすがに悪いことをしたと思ってるわよ。キリキリ良心が痛んでる。でもね、聞いて」と、有里ネエは早口でまくしたてた。「わたしもいろいろと問題抱えててね。それどころじゃないのよ、精神的にもまいってて。こんな状態で三日饗応に行った日にゃ、あんた、衝動的な行動に出て、取り返しのつかないことになりかねないわ」
「だからって、あたしに押しつければ済む問題じゃないのよ。都合よく利用ばかりして。あたしだって、生きてりゃいろいろあるわよ」と、若菜は噛みついた。
「わーた、わーた。でも、いまさらどうにもならないじゃない。あまんじて耐えて。ぶじ帰ってきたら、恩返しするから」
「当然じゃん」
有里ネエは黙っていれば美人でスタイルもよく、宴会などではみずから音頭を取るなど、ムードメーカー的な性分もあり男受けはよかった。じっさい、大学時代はミス熊本の二番手に選ばれた花形であり、その後ファッションモデルの仕事をしており、全盛期は某ファッション誌の表紙を飾ったほどだから。もっとも、いまは生え抜きの女の子にお株をうばわれ、落ち目だが。まあそれはモデルたる者、誰もが通る道だ。
それは抜きにして、いったん身内の前で地金をさらすと、卑屈な本性にうんざりさせられるのだ。合理主義のくせに、保身しか考えていないエゴイストでしかない。
その姉の電話も、最初のうちこそ若菜の身を案じた口ぶりだったが、社交辞令にすぎず、自身の悩みについて吐くだけ吐き続けた。いまつき合っている男が妻子持ちであることがわかり、相手の嫁にもバレ、嫁と姑の二人がかりでやりこめられて参っているんだとか。昔から男は入れ代わり立ち代わり切れない星のもとに生まれていたものの、ロクでもない男ばかりつかまえていた。母さんまでもがその尻拭いをさせられているのだ。
しゃべり出したら恐るべきピッチで、トチ狂ったタイピストみたいにしゃべりまくる有里ネエの長話につき合わされ、
「……もうアゴが疲れたから、そろそろ切るね。あんたも『おつとめ』を果たさないといけないんだし」と、長いため息をつくと、一方的に切られてしまった。
たっぷり一時間しゃべりっぱなしだった。おかげで立神岩に取り残され、暴風雨にさらされていることを忘れさせてくれるに充分な時間だったとはいえ、思いっきりスマートフォンの電池を消費させられた。益ある会話なら若菜も励まされるが、まるっきり不毛な話を聞かされ、どっと疲れが全身にしなだれかかった。布団の上にひっくり返ると、陸に打ちあげられたマダコのような気分を味わった。
夕方になり、とるものもとりあえず夕飯をとることにした。おひつからごはんをよそると、上に納豆をぶっかけ、漬物をつまみつつ、生の岩ガキを醤油にひたして食べた。ためしにトコブシの煮付けも口にした。これが絶品……。
おひつのごはんはあと三分の一。場合によっては、これで明日一日食いつなげなければならない。この荒天ぶりを考えると、十中八九、そうなる算段が高かった。
またぞろ八時にはお膳を扉の前に供えた。昨日の晩と同じ文句をそらんじ、見えざる神をいざなう。昨夜にくらべ、あきらかに手を抜いているのが見え見えだ。早くもこの生活が退屈で退屈でしかたなかった。
観音扉の向こうは、立神岩を倒さんばかりの烈風が叩きつけ、研磨するかのような豪雨がきっと斜めに降りしきっているだろう。ギシギシといやなきしみを立てて、この岩礁が揺れているのが体感できる。この荒れ模様では、神さまが訪れたくても来ようがないだろう。
若菜は神座に着くと、赤飯とともに鯛の塩焼きをつつき、甘酒を拝借した。『しらとりさま』など知ったことか。
深夜十一時になってからも、時化はおとろえを知らなかった。
騒音でそんな気分ではなかったが、そろそろ横になろうとしたところに、例のごとくスマホが鳴った。すでに充電器でマックスまで回復させている。着信者はノンコ。若菜はむしゃぶりつくようにそれを取り、耳に押し当てた。
「ハイ、若菜。どうせ起きてるんでしょ? むしろ眠れるわけないか」
「まさかノンコから連絡があるとは」と、若菜は興奮した様子で言った。「なんてったって、経験者の助言なら、喜んですがりつくわ」
「どうよ、若菜。いまのところ無事なの? ハシゴから転落して腰を強打とか、ないわよね。どうせスマホ、かくし持ってってるって思ってたから、ドンピシャみたいね」
「言ってくれるわ。この若さで死ねるもんですか」
「そりゃ、いい人が待っててくれるんだからねえ。うらやましい」
「その件なんだけど」若菜は大の字にひっくり返って言った。「まえに紹介した正月さんのことは、最近うまくいってなかったのよ。なんだかすれちがいばっかりで。なにやっても、ボタンのかけちがいなのよね。だから冷却期間をおこうと、こっちに帰ってきたら、トラップに引っかかったわけで」
「あそー、よくある話。なにはともあれ、正月さんとの仲、修復することを願ってるわ。言っとくけど、わたしには恋のアドバイスはできないから。……話変わるけど、そっちも降ってるんでしょ」
「これでもかってぐらいにね。天のタライはジャジャ漏れですってか」
「どうよ。明日まで長引きそうな気配? 陸と沖とじゃちがうでしょ。完全に穴んなかで釘づけになるんじゃない?」
「だと思う。最悪」
「乗り切れそうなの? それともギブ?」
「ギブもなにも、やるしかないじゃない。途中下車はできっこないんだし」
「しばらくのあいだ、サバイバル生活を強いられるってことね。ごあいにくさま。これは皮肉じゃなくてよ」
7
小中高といっしょだった同い年のノンコは、二年前に三日饗応の巫女役に選ばれた。ちなみに現在は地元の図書館で司書の仕事をしている。そのわりにはたいして読書家でもないのだが。
彼女の場合、どうにか三日間の『おつとめ』を果たすも、本土へ帰ってきたときは、おしっこウンコまみれ、泣きじゃくりながら取り乱したのが、この行事の陰惨さを浮き彫りにしたものだった。その経験者の声がじかに聞けるのだ。これは願ってもないことである。
「不名誉な失態を演じたと、いまさらながら思うんだけど」と、ノンコはあらためた口調で言った。いまごろ電話の向こうで、ざあますメガネの位置を正しているはずだ。サバサバした男っぽいところが好感もてる子だ。「あんたにいくつか助言したいことがあるの。いんや、警告と言うべきか」
「ノンコから学ぶものがあれば、喜んで聞くわ。なんなりとおっしゃって」若菜は勢いをつけて起きあがり、姿勢を正した。
「悪しき前轍を踏まないためにも、参考になると思う。だからいい? 聞くからには真剣に聞いて」
「もったいぶっちゃって」
「いまから話すことは、あんたをビビらせるハッタリではないわよ。わたしが三日饗応でおかしな体験をし、取り乱した状態で内地に帰ってきたのは恥ずかしいかぎりだけど、後日、冷静さを取りもどし、じつは独自で行事に関することを調査をしてみたの。勤めてる淡海図書館には地元郷土史家の研究本がそろっててね。調査する分には、最高の環境よ」
「研究本なんてあるの。不破さんはそんなのを読みこんでたのかしら」
「あの単細胞はどうだか知らないけどね。とにかく、ざっとピックアップしてもこれだけあるわ。栗原地下衛門って江戸時代の国学者が書いたといわれる『淡海町三日饗応祭の所作について』、昭和初期の郷土史家、瓜生可児がフィールドワークによって著した『奇祭・三日饗応の事』、それとスティファニー・クリステンセン――アメリカ人なんだけど、熱烈な日本好きが高じて、その後帰化した女性民俗学者――って人が最近になって発表した論文『淡海町の沖合に見る立神岩での神事の検証』などなど。基本的に選ばれた巫女は、立神岩であったことを外部にもらしてはいけないタブーがあるんだけど、まあワイロしだいで口を割っちゃう人もいるわけよね。本によってはツッコミの足りない、うわっ面しか撫でてないようなものも多いんだけど、これらはかなり中核まで捉えたものなの。で、夢中になって調べたんだけど」
「ノンコも物好きね」
「なんなの、この温度差は」ノンコは一オクターブ声をあげて、あきれたように言った。「とにかく、驚くなかれ。ついに三日饗応の肝らしきものをつかんだのよ。三日饗応は単なる地元のうら若い女の子の苦行なんかじゃない。いい、若菜? これはれっきとした……」
ノンコは三日間にわたる行事で半狂乱となったのは、なにも孤独のせいではないという。『なか日』の夜半すぎから観音扉を弱々しくノックする音が聞こえたのを皮切りに、立神岩全体が地震にあったかのように揺れたり、あげくの果てには神膳がひとりでに宙を舞い、ひっくり返る怪異な現象を目の当たりにしたという。
そこで、最終日の『神送りの日』の夜、ノンコは真っ向勝負に出たのだ。いつまでも扉をノックする音に神経をすり減らした彼女は、その正体をつきとめてやろうと決意。深夜、扉を勢いよく開けたというのだ。
「いったい、なにがいたというの。扉の向こうに」と、若菜はおそるおそる聞き、激しく降りしきる外を思いながら扉の方を見つめた。「まさか『しらとりさま』がじっさいに来たっていうの? そんな事例、いまだかつてなかったはずよ」
「わたしだって、マジで『しらとりさま』を招いてしまったのかもと思ったわよ。怖かった。正直、怖かったわよ。同時に、わたしの精神を極限まで追いつめる相手の正体を見てみたい好奇心もあった。とにかくあのときのわたしは、正常な状態じゃなかった。で、わたしは扉に手をかけ、勢いよく開けたわけ」
「で?」
「ところが」ノンコはため息とともに言った。「なんにもなかった。夜の十二時すぎ、暗闇が広がっているだけ。立神岩の下では波がザブーン、ザブーン、言ってるだけ。当時は月も雲に隠れ、わずかな星明りだけしかなかった。だぁーれもいやしなかった。おかげで扉をノックするのも当然ピタリとやんだ。いまもって、あの現象がなんだったのか、皆目見当もつかないわけ」
「まさか、それがオチ? で、三日間はそれで済んだの?」
「そ」と、ノンコは高らかに言った。「ぶじ、四日目の朝に迎えがきて、張りつめていた糸が切れて、あのように取り乱したという流れなんだけど」
「それで、テヘッと苦笑いしたいわけね」
そんなこんなで内地へ帰還し、不破さんや氏子衆に奇妙な体験を語っても、笑ってやりすごされただけだったそうな。
その後、ノンコは心身が回復してから地元郷土史家にあたり、情報を集めたり、図書館で文献を読み漁ったりして、『しらとりさま』とは、いかなる神さまなのかを、独自に研究したという。
『しらとりさま』なる神とは、常世の国から渡ってくる『来訪神』、あるいは『マレビト』を指し、まさに年に三日間だけ、つまり神事がとりおこなわれる三月十日から十三日に渡ってきて、立神岩の頂上に止まり木みたく、その御身を休められるという。そして立神岩から生きとし生けるものを守り、とりわけ漁師の安全を祈願し、海の豊穣を約束してくれるのだそうだ。
その『しらとりさま』は眼が悪い。カジキマグロを捕まえようとして、あやまってその鋭い鼻先で眼を突いてしまったため、眼が不自由とされているのだ。怪我をしていないもう片方の眼も、元来鳥なので、夜目が利かないのだとか。だからこそ巫女が導く形で、もてなさなくてはならないわけだ。
そもそも巫女の役割とはなんなのか。なぜ生娘でないといけないのか。ノンコはそこに切りこんだという。
「あたしははじめ、巫女は神への生贄じゃないかと思ってたのよ。つまり人身御供」
「ドラゴンボールとどう関係あるの?」
「じゃなくて。……あんた、人柱って言葉知らない? あるいは生贄。この二つは似て非なる概念だけど、いまはひっくるめてしまっても害ないと思う。かんたんに言えば、荒ぶる神に対し、災いをこらえてもらうための供物ってこと。つまり、それを指すんじゃないかと思ってたんだけど」
「なんで神さまをもてなし、しまいには食べられなきゃなんないの」
「でしょ。それでは筋がとおらない。だから人身御供ではないことは、考えればわかること。で、ヒントは赤い浴衣に、赤い寝床よ」
「まるで昔の遊郭みたいよね。そして巫女は遊女そのもの」
「そ」と、ノンコは力強く言った。「あんた、ふだんから抜けたとこ多いけど、いまは冴えてるじゃない。つまりそれよ」
「神さまにごちそうふるまったあとは、わたしの身体がデザートですとか。まるでヘルス嬢じゃない」
「ヘルスに本番はご法度よ。なんにも知らないわね」
「いずれにしたって、巫女は性行為を求められるってことね」
「そういうことね。『しらとりさま』のベッドのお相手をつとめなくてはならないわけ。神の花嫁って言った方がいいかしら。極端に言えば、どうぞ、わたしと同衾し、孕ませてくださいってこと。……おお、やらしい。ダイレクトすぎる」
「究極が神さまの子供を妊娠する」と、若菜は茫然たる面持ちで言った。「巫女役のわたしはいま、とんでもない境遇にいるわけね。三日饗応の歴史はなんとなくわかった。でも、ノンコが体験したできごとと、どう関係があるの。扉をノックしてたのは正真正銘、『しらとりさま』だったってこと?」
「断言はできない。けど、『しらとりさま』であるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「科学万能主義の権化のようなノンコがそれを言うの」
「もちろん見たわけじゃないけど。『しらとりさま』じゃないにせよ、いまもってあれがなんだったのか、理屈では説明できないのも事実でしょ。三日饗応のあいだ、おかしなことが起こり得るってことが言いたいの。過去の経験者百人に聞いてまわったわけじゃないけれど、同意してくれる人もいれば、なんともなかったという人もいるし。なんで意見が分かれるのか、謎なのよね。少なくとも、ふしぎなことが起こってもおかしくない状況なの、いまのあんたの境遇は」
「よくわからないわね。わざわざ不破さんや氏子衆が悪戯しにやってくるとは思えないし、現実的じゃない」
「いい、若菜、わたし独自の考察とはいえ、まだ不明瞭な点も多い。これからさらにツッコんで調べていくつもりだけど、まだまだ時間がかかるわ。なんにせよ、また新たな発見があったら連絡する。それまでなんとかもちこたえて」
「……わたしの任期中に答えが出てくれればいいけど」
「なんとかやってみるわ。だから辛抱なさい。じゃ、そろそろ切るね。今日のところはゆっくり寝なさい」と、ノンコはそう言って、通話を終えた。
依然、外は浅野内匠頭がご乱心したかのような烈しい降りっぷりで、おとろえる気配がなく、とてもノンコが体験したような奇怪な現象が起きそうもない。若菜は布団にもぐりこんで外の騒音のため、しばらく悶々と寝返りを打ったが、やがてビリヤードのコーナーポケットへ落ちるように眠りについた。
8
七時二十分すぎ、スマホの時計を見るかぎり、どうやら三日目の朝をぶじ迎えることができたようだ。
しかしながらあいかわらず立神岩の外は、トチ狂ったような暴風雨が吹き荒れていた。これでは西嶋さんの漁船も近づけまい。お膳はもとより、若菜の食料も昨日の分と、収穫した貝類でやりくりしないといけない。
それはそうと、どうやら生理現象には逆らえそうもない。下腹部で、膀胱がパンパンに張っているのがわかる。恨めし気に部屋の隅の壷を見た。
どうやら、しのごの言ってられないようだ。覚悟を決めると、隅へ行き、壷で済ませた。うまくおさまるはずもなく、豪快にはみだした。情けないったらありゃしない。使用した壷はふたを重ね、タオルで覆ってしまった。
その後、朝食はおひつのご飯を半膳だけよそい、カセットコンロでおかゆを作ることにした。これが生命線だから、なるべく節約したい。
もちろん、扉から雨風がなだれこんでくるのが難だが、しっかり換気だけはした。その間、納豆、白菜の漬物、生牡蠣を用意し、おかゆが焚けると、ひと息にかきこんだ。次にインスタントコーヒーを作り、たっぷり時間をかけてのどに落としこんだ。
殴りつけるような雨はずっと続いている。若菜は体育座りをし、ひざに顔を埋めたまま耐えしのいだ。一縷の望みにすがっていたが、やはり九時をすぎても西嶋さんは来てくれなかった。
若菜はためしに観音扉を半開きにしてみた。たちまち猛烈な雨風がなだれこみ、部屋半分は水浸しになるが、かまわず外を見た。まるっきり視界が利かない。ただただ篠を束にしてばらまいたような雨。手動式巻き上げ機とゴンドラは水浸しだ。あきらめて扉を閉め、目張り用のタオルを敷きつめた。むだに居住スペースを濡らしただけだった。布団まで湿っぽくなってしまったのはいただけない。
せっかくの最終日、『神送りの日』の一夜さえ乗り越えれば、明日の早朝迎えがくるというのに、現時点では怪しい気がした。はたして無事帰ることができるやら。このまま時化が長引けば、明日さえも釘づけにされる恐れがあった。
昼ご飯を食べたところで正月から安否を気づかう電話があり、これに三十分ばかり時間をとられ、そのあと矢継ぎ早に母からも連絡があったが、あまりにくだらない話につき合わされそうになったので、これも軽くいなした。それどころか、心にここにあらずの気分だった。
というのも、いまごろになって昨夜のノンコの話を真に受けはじめていたからだ。どれだけ反応が遅いのか。
ノンコの言う、「巫女は『しらとりさま』の花嫁であり、同衾することにより、子供を孕む」という図式が頭から離れないのである。いやでもイチモツを勃起させた鳥のお化けが、ヨダレを垂らしながら飛来してくる様子が思い描かれた。そのたびに打ち消すのだが、天高くそそり立ったイチモツだけが迫ってくるようだった。若菜は両手で顔をふさぎ、悲鳴をあげた。
『しらとりさま』が花嫁を抱きに来るのだとすれば、今夜をおいてほかにあるまい。だったら、神膳を用意するのはやめるべきではないか。なまじそんなのを置いて歓待しようとするから、よけい不測の事態を招いてしまうのではないか。むしろ神から嫌われるぐらいがいいのではないか。
若菜はさんざん迷ったすえ、神膳を……たいらげることにした。もったいないという思いが働いたせいもあるが、捨てるぐらいなら胃袋へかくしてしまえ、といった発想だった。というわけでペロリと完食したいところだったが、気分がのらず、ちょっとつまんだ程度だった。
夕方、退屈すぎてしばしのあいだまどろみ、いつしか寝息をたてて熟睡していた。
深夜に眼がさめた。いつの間にか時化はやんでいるようだ。若菜は安堵でうれし涙が出た。風すら落ち着き、ただ高波がのた打つざわめきが定期的に聞こえるだけだ。あとは明日の朝、さらに海がおとなしくなってくれれば、西嶋さんがニカッと笑みを浮かべて颯爽と迎えにきてくれるにちがいない。それまで、あと数時間の辛抱だ。
スマホで無料ゲームをプレイし、無聊をなぐさめて小一時間と経たなかったころ、外に異変があった。
観音扉になにかがぶつかる、ガン、という音が鳴った。
そのあと、ずいぶん離れた位置から、「キュウキュウ、キュウキュウー」という甲高い金属音めいた異音が聞こえた。
「な、なにこれ。なんなのよ、いったい……」若菜は動揺した。すかさず時間帯を確認する。夜の十二時二十分をすぎようとしていた。ノンコに緊急連絡して意見を仰ぐしかない。ダメもとで電話をかけた。爆睡しているかもしれない。
コールが九回鳴ったところで、ノンコが出た。寝入りっぱなだったらしく、声がしゃがれていた。
とにかく若菜は事情を説明した。
「そういや、あたしのときも、二日目の深夜におかしな鳴き声を聞いた気がする。それを合図に、次々とおかしな現象に襲われたからうっかりしてたんだわ。そうよ、それ、鳴き声だわ」
「まさか、『しらとりさま』ご登場なの?」
「昨日も言ったけど、思いきって扉を開けたはいいけど、外にはなにもいなかったのよ。暗闇に眼をこらしたんだけど、なんにも見当たらなかったわけよ」と、ノンコはあくびまじりに言った。「ところで、声はどの方角からするの」
「位置は特定できない。とにかく外からだけど、頭に直接響いてくるようでもある」と、若菜は言った。依然、「キュウキュウ、キュウキュウ」という声が耳にこびりついたように木霊した。
「どういうことなのか、さっぱりわからない」
「近づいてるような気がする。この暗闇のすぐそこまで来てるんじゃ……」
「あたしとあんたの共通事項……。なぜ過去の巫女たちはこれほどの現象に遭わなかったのか」ノンコはトイレで踏ん張るような声でうなった。しばらくして指を鳴らす音。「もしかしたら」
「もしかしたら?」
「あんた、もしかして神膳……神のおさがり、食べたんじゃない?」
「神のおさがり」若菜は茫然たる面持ちで言った。「お膳のこと? ちょっとつまんだほどだったら」
「じつはあたしもつまみ食いしたのよ。もっとも、あたしの場合は三日目の夜だけだったけど。もしかしたらそれかも」
「つまり?」
「神膳を食べること、すなわち神人供食することで、神人合一をはかり、はじめて人は神の目線と対等になれるってことじゃないかしら。対等に立てるっていうのは、おこがましいかもしれないけど、少なくとも近づいたのだとすれば、中途半端に完食していないからこそ、気配こそ関知するけど、姿までは見えないんじゃないかしら」
「だったら、完食すれば姿が見えると」
「いますぐ食べてみれば、もしかしたら姿が見えるようになるかも。……でも、神の姿が見えたところで、いったいなんになるというの。あたしみたいにトラウマ抱えるのがオチ……。なんにせよ、あとは若菜、あんたしだいよ。せっかくだから姿を暴露しちゃうのも手よ」
「他人ごとだといくらでも言えるでしょ。じっさいは怖いわよ」
「判断にまかせる」と、ノンコが言ったところで、突然スマホの電池が切れた。ウンともスンとも言わなくなった。肝心なところで使えない。
なおも外では、「キュウキュウ、キュウキュウ」という甲高い鳴き声が響いていた。去ってくれる様子はない。今夜でファイナルなのだ。いっそ、モヤモヤを取り払うため、見極めてやるべきではないか。そうすることで、淡海町の恥ずべき三日饗応祭にピリオドを打つことができ、毎年の苦役を強いられる女の子もいやな思いをせずに済むかもしれない。
俄然、若菜はその気になった。
意を決して、見えざる神の正体を看破してやろうとふるい立った。いままで逃げてばかりの冴えない人生だったけど、人は遅かれ早かれ真っ向勝負しなくちゃいけないときがくる。眼をそらしてはダメだ。その通過儀礼として、『しらとりさま』の正体を見届けてやるのだ。なんだかよくわからない理屈だが。
それには神膳をすべてたいらげなければ……。が、食が進むはずもない。例の異音を耳にしながら、冷たくて硬くなりつつあるお膳を無理やりかきこみ、滞り出したら甘酒で流しこんだ。
ついに完食した。力がみなぎってくるような気がする。
心なしかさっきよりも音が明瞭に聞こえるような……。それとも声の主が、それこそ立神岩にしがみついているのではないか。
若菜は力強くうなずくと、扉を開放した。なんてことはない。宇宙空間そこのけの闇が一面に広がっているだけ。その闇のなかを眼を皿にして凝視し、全身を耳にした。
依然「キュウキュウ、キュウキュウ」という音はこだましている。音の発生源がどこなのか、感覚を研ぎ澄ました。
若菜は穴ぐらから身を乗り出し、見あげた。「上だわ!」
声はたしかに上からする。武者ぶるいがした。突きあげてくる衝動に背中押されながら、若菜は、なんと立神岩を上に向けてよじ登りはじめた。
立神岩のてっぺんに向けてハシゴがかかっているわけではない。地肌むき出しの岩でしかない。それをロッククライミングよろしく、手足のみでよじろうとしているのだ。ふだん若菜はぼんやりしていることが多かったが、思いついたようにとんでもない行動を起こすことがあった。
雨風がおさまったとはいえ、周囲は一寸先も見渡せない暗黒がとりまき、手がかり足がかりとなる岩の起伏こそ烈しいものの、ほぼ垂壁のそれを素人が登るのは、いささか無謀すぎた。てっぺんへは優に一〇メートルの絶壁が続くのだから。落ちればひとたまりもない。
ところが若菜はついに登頂を果たした。さすがに肩で息をし、三平方メートルほどの岩場だらけの広場でへたばったまま、しばらく立ちあがることもままならない。そのころには夜目が利くようになっていた。若菜はすぐ眼のまえに、巨大ななにかが立ちふさがっているのを意識していた。もしやまだ立神岩の頂に達していないのかもとすら思った。が、たしかにここは頂点にほかならず、覆いかぶさらんばかりに眼のまえにいるものは、わずかに動いているのが感じられた。それはあきらかに生物だ。
ぼんやりとだが、その物体の正体が識別できるようになっていった。若菜はのどの奥で悲鳴が突きあげてくるのを両手でふさいでこらえた。
それは巨大なカモメだった。羽を閉じているので最大幅は見当もつかないが、胴まわりは二メートルはあり、頭から水かきまでの高さは六メートルはあろうかと思えるほどの巨体だった。しかも頭にあたる部分は鳥特有の顔をしていない。人間の成人男性の顔をしていたのだ。それも見憶えがあった。
「これが『しらとりさま』?」と、若菜は眼を見開いたまま言った。「正月さんの顔をしてるじゃないの。なんなの、いったい。これはどういうこと?」
正月の顔をした巨大カモメが、若菜を見おろした。肝心の眼の瞳孔は灰色をしており、ろくに見えていないらしく、目標を捉えきれていない。
『しらとりさま』は、半身をかがめ、ぬっと正月の顔を突き出し、正月の声でこう言った。「やかましいわ。せっかくはるばる渡ってきたというのに、三日三晩、ベチャクチャベチャクチャ、長電話ばかりしよってからに。ちゃんと誠意こめて、わしを迎えんか、コラッ!」と、俗気たっぷりに叱責した。「ここ最近、けしからん巫女ばかりよこして、信心もクソもないじゃないか。祭りをなんと心得ておるんだ、バカチンが」
若菜は立神岩の頂で気絶した。
了
★★★あとがき★★★
実は完成までに7、8年はかかった難産の末の物語。
後半はかなりやっつけ仕事です。ほとんどあらすじ。
もうゆるしてください。たび重なるデータの消失で何度も一から書き直した、いわくつきの一品です。