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雪刃  作者: 琴乃つむぎ
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第七章 戦支度・二

 昼食後、再び集まった村人達を前に、グレシオスは戦闘上の注意をさずけた。

 兵として戦いに参加しない者達まで集めたのは、万一ジャグルと遭遇してしまった時の対処法を兼ねているからだが、注意を授ければ有効であるかどうかと云えば、残念ながら疑問が残る。

 現実的には、武器を持たぬ村人がジャグルに出くわしたら、虐殺されるだけであろう。

 だが何も知らぬよりは、知っていた方がましであるのは確かだし、一度に集まった時に伝えておけば手間もかからない。

 連絡や、怪我人の搬送はんそう、その他の理由などで村を移動しなければならなくなった時、グレシオスが教えておいたことが、命を拾うに役立つかもしれないのである。

 まず戦いに参加せぬ者は、避難先、つまりグレシオスの館から一歩も出てはならない。

 人手が必要になるとか、連絡などで村に降りる時には、できるだけ物陰伝いに移動せよ。

 ジャグルやゴロドに出くわしたら一目散に逃げよ。隠れよ。矢で狙われることも考えて出鱈目でたらめに走れ。

 そして館に戻る時にも、できるだけ目立たぬようにせよ。

 もし館に戦えぬ者達が避難していることが、ジャグルどもに知れれば、館の者達は皆殺しにされると思え。

 次に戦いに参加する者達についてであるが、敵にゴロドがいた場合。

 第一に、ゴロドには絶対に近づいてはならぬ。

 ゴロドをたおす時にはわし自身が指揮をり、正面に立つので、それまでは決して攻撃を仕掛けてはならない。

 つまりお前達が相手にするのは、ジャグルが中心であると思って良い。

 それゆえジャグルについて、いくつか注意すべき点を挙げておく。

 まずジャグル達は怪力である。子供のような背丈をしているが、甘く見てはいけない。

 奴らは暴虐神ゴルドスの加護の元にある。並の大人をしのぐ腕力を持っているので、決して力比べにおちいってはならない。

 そのためにも槍で突くことだけを考えよ。斬り合いはできるだけ避けよ。

 そして戦いに関しては、必ず複数で一匹のジャグルにあたるようにせよ。

 突きかかる前に呼吸を合わせて、二人で一匹のジャグルを突け。同時に突け。さすれば避けられぬ。どちらかが当たる。その際は別々の部位を狙うようにせよ。

 一人は胴体、もう一人は腰から下を狙え。もし胴より上を狙うならば首の根本を突け。

 わきを狙うのも良いが、的が小さいゆえ頭は狙ってはならぬ。

 重ねて言うが、胴体を突くことを心がけよ。

 上手く突ければ、死なぬまでも相当に弱めることができるはずだ。それから討留うちとめよ。

 もしも武器を失ったときは地面に落ちている武器を拾え。

 何も武器が落ちていないときは逃げよ。

 そして家の角に石積みをしておく。その石を拾って投げろ。

 石投げはお前達が思っているよりも有効な攻撃になる。棒きれで打ち掛かるくらいならば石を投げろ。

 間違ってもジャグルと一対一になってはならぬ。その時は逃げ出せ。

 複数のジャグルと一人で向きあうなど論外である。

 それからグレシオスは武器防具の確認をした。武器は鍛冶屋のダイオンが頑張った結果もあり、戦える者達にはほぼ全員に槍が行き渡っていた。足りない分は館の予備の槍を渡した。

 そこでまだ穂先がついていない祭り用の飾槍については、できるだけ身の細い、投槍向きの穂先をつけるように命じた。ゴロド対策である。

 鎧の方は半ば予想していたとはいえ、悲惨なものであった。

 メグレイスと他は、あと二人しか鎧を持ってはいなかった。しかもリオプはメグレイスだけであり、残りは皮鎧であった。

「鎧を持たぬ者達は毛皮を代わりに身に着けよ」

 グレシオスはそう命じた。

 獣皮というのは中々に防禦力が高く、昔から「鎧のない時は毛皮をまとえ」と言われているのである。重ねて着込めば、結構な防具となるのだった。

 最後に戦いの策である。

 まずは門を閉じてジャグルどもを待ち構える。

 奴らが現れたら門上から矢を浴びせるが、これはおとりである。

 ジャグル達を村の中に引き込むことが目的である。

 グレシオスがそう言うと、村人の間に、やや不安げな空気が流れた。

「大丈夫だ。ちゃんと弓兵を伏せておく。奴らをわなめるわけよ」

 村人達は不安をぬぐいきれぬ様子であったが、他に方法はない。

 正門には、守るに必要なだけな守備力は期待できなかったし、ジャグルが正門を避けたり、火をかけたりしてきた場合はどうしようもない。

 そもそもゴロドがいれば、この村の正門など一撃で粉砕されてしまう。

 ならば最初から囮に使おうという考えである。

 ともあれ事実上の正門――守るべき重要地点は決まっている。グレシオスの館から降ってきた坂の入口である。ここを突破されたら、というよりもこの先へとジャグル達が興味を向けたら大変なことになる。

 館には、戦えぬ者達が避難しているのだ。

 それゆえ村の中を戦場にして、移動しながら戦うということには、二つの目的があるわけだ。

 一つには、門を固めて籠城ろうじょうするという手が使えないということの逆利用であり、もう一つには、村内を動き回ることで真の防衛場所を隠蔽いんぺいするということである。

 どちらも現状の不利をそのまま受け入れて、利用できぬかと考えた結果の、苦しまぎれの策ではあったが、他に手はないように思えた。

「皆よく聞くように。戦いにおいて最も重要なのは冷静さだ。我を失わぬよう注意せよ。冷静さを失った者から死ぬと心得よ。おびえも、その裏返しの勇気にも注意せよ。心が己の手綱たづなを失ったとき、オルディヌスはお前達の元を訪れる。それを忘れるな」

 グレシオスが厳しく言い放つと、村人の間に緊張が走ったようだった。

 それまでただよっていた不安と興奮が混じったような、雑然とした雰囲気が無くなり、代わって重苦しいような空気が流れた。

 死者を連れ去るオルディヌスは、死の神ネストスの使いである。

 ローゼンディア人ならば、誰もが死に際してオルディヌスの訪れを願うものだが、死そのものには、やはり恐れを抱いているのが普通である。

 オルディヌスがまもり導くのは善なる者の魂だけだ。

 オルディヌスは悪霊を打ち砕き、善なる者の魂を守る者であるが、同時に、人にその生の終わりを告げる者でもある。

 それゆえに、人はオルディヌスに対して、相反する二つの感情を持たざるを得ない。

 恐れと喜び、歓迎と忌避きひ――ローゼンディアの人々にとって、死の御使みつかいオルディヌスは畏懼いくされる存在なのだ。

わしは誰一人として死んで欲しくない。このような戦いでお前達を死なせたくないのだ」

 この村にいる者は、誰一人としてジャグルに殺されて良い者はない。

 そのような災厄に見舞われねばならぬ者など、一人もおるはずがない。

「だから呉々(くれぐれ)も、儂の注意してきたことを忘れずにな。決して一人でジャグルと向きあってはならぬ。必ず複数でもってあたるのだ。常に心を澄ませ、はやりや恐れに捕らわれてはならぬ」

 村人は黙ってグレシオスの話を聞いていた。

 グレシオスが壇を下りると、代わってヨルスが壇に上がった。

 あらかじめタデアス、メグレイスとグレシオスとで決めておいた部隊の割り振りを、読み上げるためだ。

 ヨルスが名前を呼ぶ順に従って、村人はゆるやかに広場の中を移動した。

 戦いに直接参加できる数は三十二人、内十三人が女性であり、全体の内では六人が十四歳に達していなかった。

 これにタデアスとメグレイス、さらにアルテーア、そして己を加えて三十六人。

 それでもやはり、心許こころもとない戦力であることは変わらない。

 兵の規模としてみた場合、精々(せいぜい)三十匹前後のジャグルの相手が精一杯ではなかろうか。

 そしてこの顔ぶれでは兵として計算できないので、実際に相手をできるジャグルの数はそれ以下ということになる。

 ――この内の幾人が死ぬか。

 どうしてもグレシオスはそのことを考えてしまう。

「直接武器を取る者は残り、後の者たちは仕事に戻れ。戦わぬ者は全ての仕事が終わったら大殿の御館に避難せよ」

 その言葉を最後にヨルスは壇を下りた。村人達は兵になる者を除いて、広場を去っていった。

 広場には三十六人だけが残った。この村の、全兵力である。

 この者達には具体的な注意、グレシオスが考えている戦いの流れを、話しておかねばならない。

「イドナ」

「はいっ!」

 すぐに元気な声が返ってきた。緊張と興奮が感じられた。

「気を静めよ。落ちつけ」

「はい!」

 返事からすると、落ちつけといっても無駄なようである。

 グレシオスは軽い溜息を吐いた。

ふるい立つのは構わぬが、もう少し落ちつかぬか。お前には弓隊を指揮してもらわなければならぬ。そんなにいさんでいては、ジャグルの前にあやまって儂等を射ることになるかも知れぬぞ」

「そんなことはありませんです」

 イドナは首を振った。

 戦場では往々(おうおう)にして、誤って味方を攻撃するということが起こりうる。

 特に興奮状態にあったりすれば起きやすくなる。ましてやイドナは正規の兵ではない。

 グレシオス達がジャグルを引き込んできても、間違ってグレシオス達に矢を射かけてこないとは言い切れないのである。

 恐ろしい話ではあるが、他に適任の者がない。イドナの指揮を信じてやるしかないのである。

「くれぐれも儂等を射らないでくれよ」

 タデアスがぞっとしないかのように、情けない口調で言った。

 無論、場の緊張をほぐすためのものであろう。

「人とジャグルを見間違えるようなことはねえです」

 イドナが怒ったように否定した。

「しかし暗闇だからのう。芝居とはいえ、儂と大殿は這々(ほうほう)ていで走ってくるわけだし、間違いがないとは言えぬのではないか?」

 タデアスは疑わしそうな目でイドナを見た。

「そういえばイドナは山犬と狐を間違えて射たことがあったな」

 グレシオスが口を挟んだ。

「なんと! さすれば儂は、あの地虫じむしどもと間違えられるおそれが十分にありますな」

「まあ、お前がどこまで不恰好ぶかっこうに走ってくるかによるであろう」

 グレシオスが澄まして言うと、タデアスは天を仰いだ。

 村人の間から笑いが起こった。

「間違えねえです!」

 イドナが顔を赤くして声を張り上げた。

「儂はお前を信頼しておるが、くれぐれも落ちつくようにな。タデアスが言ったように儂等は暗闇の中を走ってくることになる。すぐ後をジャグルが追ってくるであろう。あやまつことなくジャグルを射るのだぞ」

「はい」

 うなずいたイドナを、グレシオスはじっと見つめた。

 澄んだ目をしている。勇んではいても、芯には冷静なものがあるように見えた。

 これなら大丈夫だろう。いや、元より他の選択肢はない。

 イドナを信頼すると決めたのは己なのだ。それが間違いでないと信じよう。

 グレシオスは村人を見渡した。

 これからさらにくわしく丁寧に、戦う上での注意点、説明をさずけなければならない。

 殺し合いの注意点についてはもう教えた。

 あとは兵として動く上で気をつけるべき点、重要な事柄である。

「ジャグルどもが襲ってくるのは早ければ夕方、おそらく日が沈んでからであろう。連中は夜目が利くゆえ、その利を活かそうとするはずだ」

 対してこちらは目が見えぬ。人は光の元で生活するよう、神々によって定められた存在だからだ。

 昼間に戦えれば問題はないが、今回のように夜戦になることもあるわけで、あかりをどう確保するかというのは、ジャグルを相手にする場合はかなり重要な点であった。

 迂闊うかつに手元に燈りを持てば、恰好の標的になることもあるのだ。

「ゆえに村内の要所にはすべて篝火かがりびを置くことにする。こちらの目を確保しなければならぬからな。それと篝火のそばに伏せてはならぬぞ。火の近くは目立つゆえ、恰好の標的になる。ひそむ時にも必ず火から離れ、闇の中に身を隠せ。あとでヨルスから説明があるだろうが、幾人かはジャグルを待ち伏せて家の陰に潜むことになる。忘れずに注意するのだぞ。火はものの姿を浮き立たせる。お前達が思う以上に、それはよく見える。絶対に篝火の傍に身を置いてはならぬ。常に篝火を見張るような位置に身を置くのだぞ」

 闇の中では燈りはとても目立つ。

 その輝きは、遥か遠くからでも目にすることができる。

 夜間の目印として火を利用するのは、海に住まう人々だけではない。

 平原を駆けるイオルテスの人間とて、その力を知っているのだ。

 だがこれが夜戦となれば、その光の強さゆえの危険さをも知らねばならない。

 グレシオスはそれを伝えたかった。

「しかし、篝火をあまり多くするのも考えものではないでしょうか? 奴らに火を放たれた場合も考えませぬと……」

 アルテーアが危惧きぐするように云った。

 ある意味、常識的な心配だと言えたが、今回はほとんど問題にならない事柄であった。

「構わぬ。どのみちそうそう火がつくものではない」

 ゆえにグレシオスは、その意見をあっさりと切り捨てた。

 辺りには雪が積もっている。家々の屋根にも、道にも雪が拡がっている。

 火矢を射込まれた程度では、簡単に火はつくまい。

 家屋が火に呑まれ、それが隣家に燃え移るといった事態は、そうは起きないだろう。

 しかしジャグルどもが篝火を使って、順々に家に火を付けていく、などという真似をするならば、村が火に包まれる恐れはある。

 無論、そのような真似はさせぬが、この問題を無視するのはそれだけではない。

 そんなことを考えていられる状況ではないからなのだ。

「万一、火が着いたとしても構わぬよ。我等が使う建物の数は決まっておるし、結果として丘上の館さえ残っておればよい」

 グレシオスは言ったが、アルテーアは納得できぬようだった。

「戦いがそれほど大規模にはならぬ、と大殿はおっしゃっておられるのだよ」

 メグレイスが説明を加えた。

 戦闘がそれほど大規模なものではないという意味である。

 こちらではジャグルは精々(せいぜい)三十匹との予想である。それで戦いの最中、火を着けて廻られてもたかは知れているし、そもそもその数では戦い自体が、長くは続かないであろう。

 決着を求めるならば、戦いは早く終結するはずである。

 もちろんそんなことはしない。何故なら早期決戦を求めれば、結果はこちらの全滅と分かりきっているからだ。

 ギルテからの援軍頼みなのである。

 できるだけ長く持ちこたえるように戦う。

 だがそれでも、仮にジャグルが途中で兵を退き、再度攻めてくるというような真似をしたとしても、二度目の攻撃の際には決着がつくはずである。

 だから村の建物のことをあまり考える余裕はないし、意味もないのである。

 必要な分だけ無事であれば良い。

 こちらとしても、村の中央にある神殿とヨルスの館以外は使うつもりはない。

 それ以外の家は全て空家にしてあり、大切な道具なども運び出させてあった。

 これらの家は戦いの間、いざというときに逃げ込んだり、ジャグルを待ち伏せたりするする為には使うが、本格的にって戦うことを想定してはいない。

 だからと言ってそれらの家が燃やされ、破壊されてもよいわけではないが、何よりも大切なのは村人の命である。

 そのためにはあらゆる手立てをくす。

 家も道具も換えがきくが、人の命はそういかぬのだ。

「村人の命が助かるのならば、家など幾ら燃えても構わぬ」

 グレシオスが言うと、

「ですが戦の後のことも考えるべきではないでしょうか。村人には生活があるのです」

 アルテーアが至極しごくまっとうなことを言った。

 別段不快感はなかったが、グレシオスとの身分差を考えると、かなり不躾ぶしつけな態度である。

 案の定、メグレイスが渋い顔をした。

 アルテーアをしかるのは簡単であるが、ここはやはり、彼女にも判るように話してやる必要があるだろう。

 そういえば先程ダイオンも同じようなことを言った。

 それを思いだして、グレシオスは苦笑した。

「生き残れるかどうかも判らぬのに、戦後いくさごのことを考えるのか?」

「何も考えずに戦うよりは良いと考えます」

 真剣な目をグレシオスに向けている。メグレイスが横から制して黙らせようとするが、アルテーアは言葉を続けた。

「戦いに勝っても、住む家が失われたのでは苦労することになります。安易に家屋の犠牲を認めるような発言はしないでいただきたいのです」

「神官は随分と自信家であるな」

 やはり、実際の戦場を踏んでいない者は楽天的である。

 いやむしろ現実を認識する能力に、いちじるしく欠けていると言うべきか。

「では神官は、儂が何も考えずに指示を出していると思うのかな?」

「いえ、そのようなことは……」

 アルテーアは口ごもった。

「儂の見るところ、この戦いは厳しいぞ」

 言った。後はどこまで話すか、である。

 全てを包み隠さず教えるわけにはいかない。本音を語れば、村人達は耐えられないだろう。

 絶望に近い気持ちの中で戦いを迎えることになる。それは避けねばならない。

「ゴロドがいれば門は一撃で砕かれるであろう。家屋も容易たやすく突きこわされるであろう。それに加えてジャグルどもの相手をせねばならん。陣を構えての戦という規模でもないゆえ、まとまった動きは取れん。おそらくほとんど、出会いがしらの戦いになる。銘々(めいめい)が目の前の敵と切り結ぶだけで精一杯であろう。乱戦になると言っても良い。しかも逃げ回りながらのだ。他のことに構っておる余裕など持てぬよ。持てるとすれば歴戦の戦士だが、まさかお主ら、己を指して歴戦の戦士だなどと言うつもりはあるまい?」

 グレシオスはいったん言葉を切った。

 村人を見渡すと、目があった者の幾人かがうつむいた。

 責めるつもりがあって言ったわけではないが、仕方ない反応だとも思った。

「ゆえに家屋敷など、辺りに構っておられるとは思えぬし、そんな余計なことを考えているようでは生き残れぬだろう。お前達が考えているよりも激しく、厳しい戦いになるぞ」

 これでまだ何か言う様であれば、少し厳しい言葉を与えねばならない。

 アルテーアを含めて、村人の間に硬い表情が浮かんで見えた。

 皆、黙っていた。

「誰もが生き残れるわけではないであろう。何人が犠牲になるかは分からぬが、少ない人数ではあるまい。つまり儂も、神官、お主も含めて全ての者に、死が訪れるかもしれぬわけだ。そんな戦いを前にしているというに、もう勝ったつもりになり、後のことを考えろとお前は言うのか。神官は誰もが生き残れると考えているのだな」

「いえ……」

「違わぬ。命が懸かった戦いを前に、住む家、着る服の心配もあるまい。そんなものは現実を見据えた判断とは云えぬ。今すべきことは全ての力を注ぎ、生き残るための備えをすることであろう。家は建て直せばよい。服も織ればよい。だが人の命に換えはきかぬ。取り戻せぬのだ」

「……大殿のおっしゃるとおりでございます」

 アルテーアは目をつむり、うめくようにつぶやいた。恥じ、後悔している様子であった。

「分かればよい。皆もそうだ。余計なことは考えるな。生き延びられれば、後はどうとでもなると思え」

 村人達は無言で頷いた。幾人かは俯いたままである。

 士気を考えると不安な様子であるが、この程度で落ち込まれるようでは、先が思いやられる。

「万一、家を失う者が出た場合には儂の館を使って良い。着る物も、食糧も館にある物を使用して構わぬ」

 グレシオスが言うと、皆が驚いたような顔をした。タデアスもである。

「新しく家が建つまでの間は、儂はギルテに戻ることにするから心配はらぬ。ゆえに無用な心配をするな。己が生き残ることだけを考えて戦え」

「その……およろしいのですか?」

 メグレイスが不安げに尋ねてきた。

「構わん。元々村人を守るために始める戦いよ、細かいことを気にしてはいられぬ」

 使える物は全て使えばいいのだ。

 生き残るために。ただそれだけのために。

「己が今言ったことを否定するようだがな。そういうわけで、儂とて後のことをまるきり考えていないわけではない。だがな、もう一度重ねるが、後のことを考えてはならぬ。この戦いにそんな余裕はない。全てを生き残ることに傾けよ」

 ぴしりと言い放った。

 これでもう、村人達に言うべきことはない。

 教えられることはない。

 あとは戦況に合わせて、的確な指示を下せるよう努力するだけである。

「あとはメグレイスとヨルスに任せる。受け持ちと、任務の内容を説明しておくように」

 メグレイスが深く頭を下げた。

「門の様子を御覧になりますか?」

 タデアスが言った。先程タデアスが館に戻ってきた時に、門の修復具合を聞かされてはいたが、一度自分の目で確認しておくべきではある。

 当然のことではあるが、急(ごしら)えの防備であっても、手を抜くわけにはいかないのだ。

「判った。今行こう」

 グレシオスはタデアスと並んで歩き出した。

 背後でメグレイスが村人の名を呼び始めた。まずは弓隊から説明をするつもりのようである。

「どうやら保ちそうですな」

 タデアスが空を見上げて言った。

「まだ判らぬよ」

 日射しはぼんやりしているし、雲の数がこれから増えてくれば判らない。雪は夕方から降り出すかもしれなかった。

 肌に触れる空気の気配からは、雪が降るかどうかは半々と感じられたが、どちらにせよ今日は寒い。

 毛皮の上着を着込んでいるため、体の方は寒さをまぬがれてはいるが、頬や額は寒気を受けてひんやりとしている。

 二人とも、すでに戦装束いくさしょうぞくに着替えていた。毛皮を脱げば、下は戦用の帷子かたびらである。

 そのままリオプをまとって臑当すねあてをつけ、カトールを着込めばいいだけの状態だった。

 カトールは早い話が鎧の上から着る服である。元々鎧装束というものは革鎧を除けば大体が金属なので、暑さにも寒さにも弱いものなのだ。

 その対策として生まれたのがカトールであり、要するに戦装束の一種である。

 何でもその昔、ローゼンディア王国軍が南方アウラシールに出征した折に考案されたと言われているが定かではない。

 それに防具は嵩張かさばる上に重量がある。特にリオプは全ての重みが肩に集中するため、戦闘の直前になるまでは、下着の帷子だけで過ごすのが通例なのだ。

 だから戦場の寒暑に応じて、このように毛皮を上に着たり、そのまま帷子だけでいたりするのである。

 もちろん、いざ戦闘装備になれば、長い時間をそのままで過ごすこともあるわけだが、できることならそれは遠慮したいと思う。

 この歳で長時間、鎧姿で居るのはかなり厳しいであろうから。

 重いだけでなく鉄の鎧は冷える。芯まで冷気を伝えてくる。

「よもや再び、戦装束に身を包むことになるとは思いませんでした」

 タデアスが軽くわらった。

「儂もだ」

 タデアスもグレシオスも、戦装束になるのは久しぶりである。

 気持ちが高揚しなかったわけではないが、考えていたほどには興奮しなかった。

 もっと興奮するのではないかと思ったが。

 今までの戦場に在った時と、同じような気持ちしかない。

 静かな緊張感である。そこにはわずかな悲しみのような気分が混じっているのだが、それが何であるのかは解らない。

 言葉にするのは難しい。

 だがそれは、どこか遠い何かを見つめるのにも似た思いである。

 戦場に長くありすぎた所為せいかも知れぬ。

 己がり減ったという感覚はないが、気付かぬところで失い続けてきたものがあったのかもしれない。

 これから生死を懸けた場に立つというのに、燃え盛るような熱気がまるでない。

 だからといって気がゆるんでいるわけでもなく、静かな緊張を感じているのだ。

 何が己をそうさせているのか、それはグレシオスにも解らなかった。

 村の正門が見えてきた。

 正門と言っても貧弱な物である。野盗対策というよりも、獣()けの方が主眼なので仕方ない。

 今さら言っても遅いが、ジャグルのことも考えておくべきではあったろう。

 とはいうものの、ジャグルが群れを成して村を襲うなど滅多にあることではない。

 備えが無くとも、これまた仕方ないと言えた。

 正門は、いたんである箇所を修繕した他は、簡単な足場をつけ足してあるだけだった。

 一応、上に立って矢を射かけられるようになってはいるが、とてもって戦えるような代物ではない。

 門近くに立っていた二軒の家は、板をがされ無残な有り様となっていたが、門と、門からびている道に対しての方角には、かなりの板を残してあった。

 見ると槍留やりどめが打ちつけてある。槍を立てかけられるようになっているのだ。

「こんなところに兵を伏せるのか?」

「はい。神殿の横手からイドナ達が矢を射かけますでしょう?」

「いや、そこまで引きよせては危険であろう。斬り合いの舞台が広場になるのは避けられまいが、弓による攻撃は奴らが広場に突入する直前に行ないたい」

「ではあの小屋でありますか?」

 タデアスが示した小屋は、修繕用に半解体された家の近くにあった。

「うむ」

 弓隊は全部で六人である。多少窮屈になるかもしれないが、上下に分けて列を組ませれば、あの位置からなら十分、通りを走り抜けるジャグルを狙えるのだ。

「ならば同時にここから走り出れば、策はより確実になりましょう」

 その場合は背後からジャグルを攻撃する事になる。

 悪くはない考えであるが、それとは別に、ジャグルどもの突進を正面から受け止めねばならない部隊が必要である。

 タデアスの献策けんさくを採用するならば、その事も考えて数を割り振らねばならない。

「何人、伏せる?」

 グレシオスは尋ねた。

「四人。お許し下さいますか?」

 タデアスが手を開いて答えた。

「……六人伏せよう。東西で三人ずつ。どうだ?」

「およろしいのですか?」

「構わぬ。兵は一度に投入した方がよかろう」

 戦力は一度に大量に、というのが基本である。

 弓隊が六人、槍を持って伏せるのが六人となれば、合計十二人。これに己とタデアスと、あとは神殿の付近に待機していた兵達が加わることになる。

 味方の数は三十六人である。だが全ての兵をここに配置するわけにはいかなかった。

 全てのジャグルが一直線に、広場へ向かってくるとは限らないからだ。ばらばらに村に進入してきた場合を考えて対策せねばならない。

 とはいえ一番多数のジャグルがここに向かってくるだろう。敵の全体を三十と考えて、少なくてその半数、十五匹といったところか。

 つまり最低でも、十五人はここに配置しなければならないわけだが、弓兵は白兵には参加しないゆえ、数に加えるわけにはいかない。

 となると広場付近だけで二十一人を配置しなくてはならない。これは厳しい。

 残りの十一人を遊撃に使い、村内を徘徊はいかいするジャグルを狩りたてねばならないからだ。

 だがそうして十五人を確保したとしても、突入してくるジャグルどもを、防ぎ止められるかどうかは判らない。

 推定とはいえ兵力は五分である。となれば素人集団であるこちらは明らかに不利だ。

 果たして防ぎ止められるだろうか?

 それは初撃で何匹、矢で仕留しとめられるかにかかっているだろう。

 兵力を減らすわけにはいかない。最低でも十五人は絶対に必要である。

 加えて、敵にゴロドが居る場合を考えねばならない。かなり厳しい。というか無茶である。

「それとは別に神殿の脇に七人をひそませる。儂とお前を加えて九、背後から突く六人をさらに加えて十五、これでほぼ考えられるジャグルの半数に達する」

「最低の線でありますな」

「うむ。だがこれ以上はけまい」

 答えると、タデアスが溜息を吐いた。

「まったくもって兵力が足りませぬ」

「まったくだな」

 グレシオスは相鎚あいづちを返した。

 そうとしか言いようがない。

 タデアスが再び天を見上げた。グレシオスも釣られて見上げる。相変わらず、頼りない空模様である。ますます気が滅入めいった。

「無いものを強請ゆすっても仕方ないとはいえ、天から兵でも降ってこないものですかなあ……」

 タデアスが唐突に、間抜けなつぶやきを口にした。

「別に兵でなくとも構いはしませぬ。それ、言い伝えにございましょう、太陽神アクシオーンのお持ちになるという『戦士の牙』、あれでも一向に差し支えはありませぬ」

「確かにそんなものがあれば、便利ではあるな」

 神話に登場する『戦士の牙』は、神秘の武器であり、地に落ちるとたちまち屈強な戦士へと変わるのだった。

 そんなものがあれば、今はのどから手が出るほどに欲しいと言える。

「天はここのところ雪ばかり景気よく降らせておりますが、たまには戦士の牙をですな、雪の代わりに降らせて頂きたい」

 不満げに眉を寄せて言った。妙にわざとらしい仕草である。

 口調もうんざりしたようなものではあったが、どこかおかしみがこもっている。

 イドナの時と同じく、やはり意識してやっているのであろう。

「せめてゼメレス公がいませば、我等も楽ができたかも知れませぬなあ」

 不意にクレオラの名前が出てきた。正確にはクレオラは先代のゼメレス公になるが、グレシオスは敢えてタデアスの発言を修正しようとは思わなかった。

 クレオラに最後に会ったのは何年前になるか……三年前か。

 昨日からやけにベルガイアの戦いのことを思い出していたが、こうしてクレオラの名を聞くのは、何か不思議な感じがした。

「あの女は人使いが荒いぞ。我等に楽をさせてくれるとは思えぬ」

「そうでございましたな」

 タデアスが含み笑いをした。

「エーダ様はお元気でございましょうか……」

 エーダはグレシオスの娘である。ゼメレス族のハドリスの元にとついでいる。

 クレオラの名が出た関係から発せられた言葉であろうが、エーダにつきしたがった騎士の中には、タデアスの息子ファイオスがいる。

 下の息子である。上の息子オスティスは家督を継ぎ、現在はヘクトリアスの下に仕えている。

 言葉の裏に寄り添っているタデアスの思いを感じて、グレシオスは済まない気持ちになった。

「元気であろうさ。お前の息子も来年は帰ってくるであろう。その時にエーダの話を聞けば良いではないか」

「そういえばそうでしたな」

 言われて初めて気付いたという風に、タデアスは肩をすくめた。

「あの馬鹿者めが帰ってくると思うと、今から気が重いですわい」

「何を言う。立派な息子ではないか」

「いやいや、大殿のお言葉はうれしゅうございますが、間違ってもそのお言葉、あやつにお聞かせするのは御勘弁願いたい。どれだけ増長するかと思うときもが冷えますわい」

 タデアスは鼻の上にしわを寄せた。

「そうか。では言葉をかける時には気を付けるとしよう」

 グレシオスは微笑ほほえんだ。

「お願い致します」

 まじめくさってタデアスは答えた。

「……そういえば、儂とクレオラとは親戚になるのだが、知っておるか?」

「は? いや、それはもちろんそうでございますとも」

「はは、エーダのことではない。儂とクレオラとは七代(さかのぼ)れば先祖が一致する。儂等は元々、遠い親戚なのよ」

「恥ずかしながら初耳であります」

「そうか。別に憶えんでも良いぞ」

「いえ……」

「似ていない、と言いたいのであろう?」

「そんなことはございません」

 タデアスは慌てて否定した。

「気にするな。七代ともなれば、同族と言っても近いとは言えぬ。ましてやこれだけ領地が離れておれば、代を重ねる毎に血は遠ざかる。儂とクレオラとが似ておるはずもない」

「はあ……」

 ベルガイアの戦いの後、クレオラは幾つかのいくさの指揮をしたが、戦場から離れたのは早かった。まだ四十にならぬ内のことである。

 王を含めて周囲の誰もが、彼女の才をしんで引き留めようとした。

 だがクレオラの決心は変わらなかった。

 兵権を王に返上すると、供回りを連れて、領地に帰ってしまったのである。

 何か嫌なことがあったとか、問題が起こったりしたわけではない。

 ゼメレス家は七宗家の一つである。

 尊貴さにおいても実力においても、クレオラに対して文句を言える者など、あろうはずはなかったし、また言う者もなかったのだから。

 誰もが天才の下で戦えることを誇りに思い、神に感謝していたのだ。グレシオスとてその一人である。

 つまりクレオラの隠退は、政治的な事情を含んだものではない。単に彼女の、個人的な事情によるものである。

 将軍をすにあたっての経緯を詳しくは聞いていないが、元々クレオラは、あまり戦に興味のある方ではなかったし、殺し合いに厭気いやけがさしたのかもしれなかった。

 貴族としては珍しいと言えるが、クレオラは戦場を特別な目で見ることはなかった。

 戦うことに重要性を見いだしてはいなかった――いや、貴族社会での常識的な見方と、自分の価値観とを切り離していたと言うべきか。

「戦争は損」

 というのがクレオラの口癖であった。グレシオスも実際に、その言葉を幾度も聞いたことがある。

 貴族ならば普通望むであろう輝かしい大勝利や、それに伴う名誉といったものには、大して興味がない種類の人間だったのだ。

 変わり者と言ってしまえば早いのだが、それで片附けられるほどの才能ではない。

 ベルガイアの戦い以後も、旧大陸ではアウラシールの大連合軍を打ち破った。これも歴史的な一戦となった。

 そして南方においてはダルメキアの救援におもむき、ニムリとバラディアの連合軍を打ち破った。その背後にはレメンテムの元老院の影があったのだが、こちらも見事に勝利をおさめた。

 政治を含む謀略戦でもクレオラは偉才を発揮したのだ。

 諸外国から『東の森の魔女』と恐れられるようになったのは、いつの頃からだっただろう。

 周辺諸国にその名も高きバラディアの騎兵、アウラシールの魔術兵団、不死の兵士、東の王の戦象部隊、火を噴く車、恐るべき流砂、まるで伝説のような戦いを、ローゼンディア軍はクレオラの指揮の下に戦い続けた。

 そう、あの戦いを体験していない者達にあっては、まさしくあれらの戦は伝説となっているだろう。

 よくぞ己も生き残ってきたと思う。

 しかもクレオラがローゼンディア軍を率いていたのは、それほど長い期間ではなかった。

 二十年にも満たない。

 だがその間、ただの一度も敗れることなくローゼンディアに勝利をもたらし続けた。

 ゆえに誰もがクレオラの才を惜しんだ。

 しかしクレオラは戦場で華々しく活躍するよりも、良き領主として、良き妻、良き母としての人生を選んだのだ。

 それはそれで尊いことではなかろうか。

 グレシオスはそう思うのだが、その事は別として、あれほどの名将でありながらクレオラは夫を騎士から選ぶことはなかった。

 彼女が選んだ夫は、乗馬も槍投げも下手な人物であるばかりか、そもそも貴族でありながら騎士ではなかったのだ。

 二人の結婚には誰もが驚いたが、要は本人同士が幸福ならば、それで良いのである。

 祝いの席にはグレシオスも駆けつけた。

 己の結婚式であるというのに、クレオラの様子はいつもと変わらなかった。

 あの考えの読めない、どこか眠そうな表情のまま最後まで通し、新郎と一緒に館の奥へと消えていったのだ。

 見送った誰もが、妖精にかされたような顔をしていた。

 無論その中に己も入っていたであろうことは、グレシオスにも判っている。

 二人の結婚生活がどうであるは知らぬが、おそらくは幸せなものであるに違いない。

 その後悪い噂を聞くこともなく、現在ゼメレス家はクレオラの娘の代になっているからだ。

 娘エーダが、ゼメレス族のハドリスに嫁ぐことになるまでは、クレオラとは疎遠そえんであった。

 なお娘婿のハドリスは貴族の出身ではあるが、騎士ではないし、戦士でもない。

 強いて言えば猟師であるが、ここにはゼメレス族独特のしきたりというか伝統がある。

 ゼメレス族は女性が家督を継ぐことで有名だが、男性の方もその他の氏族とは色々と違っているのだ。

 とまれグレシオスは、長いことクレオラの消息を聞くこともなく過ごしていたわけである。

 エーダの結婚を機に、久しぶりにクレオラに会った。

 見事だった黒髪はすっかり白くなってしまっていたが、相変わらずきっちりと結い上げられており、しゃんと伸びた背筋も変わらなかった。

 あの眠そうな表情も健在だった。

 若い頃は戦の話くらいしかしなかったし、平常の会話はといえば、王都の戦勝祝いの席でぽつぽつと交わす程度でしかなかったのだが、この時は色々なことを話した。

 もっとも話すのは主に妻であって、己は横にすわっていただけと言う方が正確だが。

 無論、中心になったのはグレシオス夫婦とハドリスの両親であったが、もてなしは領主館で行なわれた。当然、クレオラ母娘おやこにも対面することになったわけである。

 農作物の話から始まって子供や孫の話まで、沢山のことを話した。

 恥ずかしい話ではあるが、エーダとハドリスが結婚しなければ、おそらくは知ることはなかったであろう事も判った。

 クレオラの夫、ドゥニマコスは銀細工が巧みであるという。作品の数々を実見じっけんしたが、確かに見事な物であった。

 何よりもクレオラが嬉しそうに、自慢そうに見せびらかすのが印象的だった。

 利発そうな孫娘にも会った。

 領主館から臨むフェルシナ海は濃く、青かった。

 酒も食事も素晴しく、至高と言っても良いであろう美しい皿が並んだ。

 元々ゼメレス族の治めるトラケス地方の料理は、ローゼンディア王国でも「王国最高の料理」とか「口中の至福」だとか言われる程で有名なのだ。特に名産のクラーヴァは素晴しい味だった。

 クラーヴァは魚卵の塩漬けである。フェルシナ内海にむミュイという魚の卵であり、独特の風味とさわやかな塩味を持ち、美味珍味としてよく知られている。

 ミュイが捕れるのは主にトラケス地方沿岸部である。内海沿岸部ならばどこでも捕れるというわけではない。

 しかもクラーヴァが保つのは精々王都までであるから、フェルシナ海近隣に暮らす者達以外は口にすることができない。

 所領であるイオルテス地方のすぐ北がトラケス地方でありながら、セウェルス族はクラーヴァの味を楽しむ機会は少ない。

 というのはイオルテス地方の真北にはスケイオス山脈がそびえており、トラケス地方との交通が極めて困難だからである。

 唯一、イオルテスの東のはてであるデルギリアからはテラモン大森林を抜けてフェルシナ内海に出ることができるが、トラケス地方に出ることはできない。

 森林奥の大峡谷があるためだ。テラモン大森林はこの峡谷によって東西に仕切られている。

 それにフェルシナ内海に出たとしても、この場所からではミュイが捕れることはあまりないし、おまけにそこは人間の生活圈ではない。

 内海沿岸部まで森林が張り出していて陸地がほとんどない上に、すぐ近くに雲居くもい山脈が控えている。危険極まりない悪の種族が周囲を徘徊している。

 こんな危険な場所で暮そうなどというのは、余程よほどの変わり者か狂人でもない限りは居ない。

 そしてただ漁をするためだけにテラモン大森林の奥地に分け入って行き、捕れるか捕れぬか判らぬミュイを求めるというのは、あまり現実的とは言えぬ。

 一応フェルシナ海に接した領地を持っていながら、セウェルス族の口にクラーヴァが入らぬのはこういう理由があるからである。

『感謝祭のクラーヴァと夏場の雪は有り得ない』とはイオルテスの言葉だが、欲しくても手に入らないものの代名詞がこのクラーヴァだった。

 そういうわけでにグレシオスも久しぶりに口に入れたのだが、美味うまいいとは思ったものの、その素晴しい味わいの中に引き込まれはしなかった。

 初めて食した時には、葡萄酒との組み合わせが生む玄妙げんみょうさに酔いれたものだったが。

 あの婚礼の宴の席では、場の雰囲気の所為もあったのだろうか……味わいを楽しむよりもむしろ、王都で過ごした若き日の記憶がしみじみと思い出された。

 口中に拡がる爽やかさは、懐かしさと共に王都の思い出を、若き頃のことを呼び覚ましたのだ。

 巨人の城壁を歩いたこと。

 夜になっても消えることのない繁華街のあかり

 ひっきりなしに出入りする諸国の船。

 天をく大神殿。金銀宝石で飾られた神々と、香と花々と果物の匂い。

 人々の祈りの声と聖歌。

 そして大神殿の壁面に刻まれた、『至誠しせいなる者』、剣の守護者(ケルサイオン)

 それらがまざまざと胸のうちからあふれるように思い出された。

 宴の後には武芸競技がもよおされた。

 グレシオスも参加した。

 槍も投げたし、久しぶりにグラティオンもした。

 当然の結果であるが、槍ではセウェルスが勝ち、弓ではゼメレスが勝った。

 双方健闘をたたえ合った。

 楽しい滞在だった。

 今でも年に一度は、妻はクレオラと会っておるようだから、意気投合するものがあったのだろう。

 二人は手紙の遣り取りなどもしておるようだし、グレシオスにも挨拶を兼ねた手紙が良く来る。

 わざわざナウロス村の方に分けて出される手紙であるから、あの女は筆忠実ふでまめなのだ。意外な一面である。

 蜘蛛くもの糸でも貼りつけたような、のたくった、細い字を書いてくる。

 毎回何となく読んでしまうのだが、読みやすいのか読みにくいのか、判別しがたい筆跡である。

 ともあれ内容はさすがに明晰めいせきであるから、頭脳の健在ぶりにも変わりはないようだ。

「……このいくさが終わったら、手紙を書くか」

「ゼメレス公に、でございますか?」

「うむ」

「さすればこの戦のことをお書きになってはいかがでしょう? きっと驚きになると思いますぞ」

 タデアスが提案した。機転が利いている。

 さすがに良いことを言うと思った。

 だが今の話にしても、イドナの時にしても、緊張をきほぐそうという気遣いから出た会話であろう。

 タデアスには、昔からそういうところがある。

 常に感謝してはいるが、礼を言った記憶は余りない。

 それにしても不恰好ぶかっこうな気の遣い方である。

 だがその不恰好さが好ましいと思ってきた。

「初めて戦場に立った時も、お前と一緒であったな」

「はい。槍持ちをお勤め致しました」

 初陣ういじんは十五才だった。二人ともまだ少年と言って良く、前線に出たとは言え、随身ずいじんの騎士達にまもられたお飾りでしかなかった。

 騎士として、戦士として戦えるようになるまでは、それから幾度かの実戦をくぐり抜けなければならなかった。

 家名に恥じぬ騎士として、自らの力で騎馬の先陣を務めるようになったのは十八の頃か、それとももう少し早かったか……今となってはもう定かではないが、どの戦いの時にも、タデアスは変わらずかたわらにあった。

 いつも無言で手を伸ばした。タデアスの顔を見もしなかった。

 だが、間違いなく必要としている物が手渡された。

 それは槍であり刀であり、ある時は盾であり、矢であった。

 タデアスが居なければ、己は今こうして、この場に立っている事はなかったかもしれぬ。

 常に変わらず己の傍にあってくれた。そのためタデアスが騎士に叙任されたのは、三十歳も間近になってからのことである。

 かなり遅いと言わねばならない。タデアスの家柄を考えれば異常と言っても良い遅さだった。

 当然グレシオスは、それ以前にも幾度となくタデアスに、騎士の位へのぼることを勧めていたのだが、なかなか首を縦に振らなかったのだ。

 その理由は察しがついた。グレシオスの傍にあって働きたい、その一念がとても強いのだ。

 だがそれを、己が子供扱いをされていると思い、タデアスに食って掛かった事もある。

 その行為自体が己の未熟さを示しているのだが、当時は気付かなかった。今となっては恥ずかしい限りである。

 タデアスが己の如き凡小ぼんしょうに、誠心誠意仕えてくれる事には感謝するのみである。得難えがたい家臣を持てる事を、感謝するのみである。

「お前には苦労ばかりかける」

「なんの。お気になさることはありません」

 ギルテにはタデアスの妻と息子夫婦、孫が暮らしている。そこはグレシオスと同じであるが、タデアスの場合、別に悩みを持って隠棲いんせいしているわけではないのだ。

 グレシオスがナウロス村に引っ越すというので、ついて来ただけである。

 一方的に迷惑をかけているわけだが、タデアスは嫌な顔一つせずに、よくくしてくれる。

「儂とて休みたかったのですよ。ギルテの御館と違い、我が家はせもうございましてな。孫達が走り回っていたりすると、おちおち昼寝もしてられんのです。その点、この村は静かで申し分もございません」

「だが家族には会えぬ」

「それはまあ……たまには寂しくもなりますかな」

 タデアスは目線を下げ、恥ずかしそうに微笑ほほえんだ。

 グレシオスは済まないと感じた。巻きこんでしまったからである。

 己が妙な気持ちに取りかれずに、大人しくギルテの領主館で暮らしておれば、このような事態にタデアスを遭遇させることには、ならなかったはずである。

 だがしかし、だからといってナウロス村に移ってきた事を、間違いだったとは思えぬ。

 では逆に正しかったろうか?

 グレシオスは目を閉じて、内に意念いねんを向けた。

 ――ナウロス村に移った事は、正しかったと言えるだろうか?

 すぐに答えは出た。目を開いた。

 今なら言える。正解だったと。ただ満点はやれぬ。

 何故正解だったか?

 もし己が居なければ、ナウロス村の住人達はジャグルの群に一呑ひとのみにつぶされてしまっていただろう。だが己が居る以上そうはさせぬ。

 たとえ敗れるにせよ、高い代償を支払わせる。絶対にだ。

 何故満点をやれぬか?

 ナウロス村に移住して二年である。危険な辺境の村に暮らしていながら、今まで備えらしい備えもせず、それに心を向けてきた事もなかった。愚かである。

 ゆえに満点はやれぬ。だが己が居る事でいくばくかの助けにはなろう。

 ゆえにこの村に暮らした事は間違いではない。

「大殿がお気になさる事ではありませんぞ」

 タデアスが気を遣って言うのを、グレシオスは手で制した。

「いや、儂がお前に面倒をかけているのは変わらぬよ。その事についてはお前に済まなく思っておる」

「もったいないお言葉です」

 タデアスは表情を引き締めた。

「だが済まなく思う反面、儂等が今ここにいるのは大神イスターリスのお導きかもしれぬとも思う。儂等の他に、村人達をまもってやれる者は居ないのだからな」

「はい」

「だから儂は間違っておるわけではないぞ。迷惑はかけたが儂の判断は正しいのだ」

 グレシオスは胸を張った。滑稽に見えるよう心がけた。

 タデアスがほうけた表情をしている。にやりと笑いかけてやると、タデアスは吹き出した。

 こらえようとするのだが、なかなか収まらないらしく、タデアスは一頻ひとしきり笑い続けた。

「あまり笑うな。情けなくなるではないか」

 いい加減恥ずかしくなってきて文句を言うと、タデアスはやっと笑いを収めた。

「……失礼を致しました。いやいや、大殿の御余裕にはこのタデアス、敬服いたしました」

「嫌味に聞こえるぞ」

「とんでもございません」

 タデアスは深妙な顔をしている。

 だがグレシオスがじろりと見ると、また吹き出した。

「ひどい従者もあったものよ」

「いや、これは……大殿が普段なさらぬような事をなさるからです」

「儂の所為せいか」

「いえ、そうは申しません。責任は私が、原因は大殿がおおさめになるということで、いかがでしょうか?」

狡猾こうかつな奴だ」

 タデアスの気が利いた返答に、グレシオスも吹き出した。

 二人して笑った。

 笑いが収まると会話が途切れた。二人で黙って村の門を見た。

 貧弱な門である。今日の夜には破壊され、火に包まれるかもしれぬ門である。

「……久しぶりでありますな」

 タデアスがぽつりと云った。

「そうだな」

 グレシオスもぽつりと返した。

 戦場に立つのは久しぶり。

 そしてこれが、最後になるかもしれなかった。

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