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雪刃  作者: 琴乃つむぎ
4/17

第四章 射

 戦いをするにせよしないにせよ、緊急時を控えた夜というのは久しぶりである。

 興奮して眠れないのではないかという危惧きぐがあったのだが、それはあたらなかった。

 寝床に入ると、すぐに安らかな眠りがグレシオスを包みこんだのだ。

 神の恩寵おんちょうか、それともいくさに対して、身体からだの方が自然と準備をしたものかは判らぬが、有難ありがたいことではある。

 目覚めも自然とやってきた。気持ちよく朝を迎えられた。

 ――最後の朝かも知れぬがな。

 そんな事を考える。だがそこに自嘲の色はない。良い傾向だ。

 心の中に『傾き』があるのは良くない。

 上手くは言えぬが、戦場働きの中でグレシオスが確信したことである。


 ゾエ村からの使者は現れなかった。


 その事はたった一つの残酷な事実を、否応いやおうなく突きつけてくる。

 ゾエ村は全滅したのだ。昨晩使者に立ったあの若者を除いて。

 次はこのナウロス村だ。うかうかしてはおれぬ。

 すでに食事も軽く済ませてあった。

 これから村の中心にある神殿にまで行き、集まっているであろう村人に、話をしに行くのだ。

 男の姿は見えなかった。食事の後すぐに席を立ったから、おそらく馬を取りに行っているのであろう。

大殿おおとの

 タデアスが呼びに来た。

「村人は一人残らず集まっておるか?」

「はい。大殿のおおせの通りに」

 グレシオスは腰を上げた。タデアスから厚手の上着を受け取って着込むと、二人で館を出た。

 外はまだ心持ち薄暗かった。

 そろそろ日の出が見られるかという時間である。

 頬にあたる空気が冷たい。

 昨夜の内に降った雪が積もっていた。

 館の前に立って、白い息を吐きながらナウロス村の全景を見渡した。

 雪が光を映す所為せいか、それともたかぶった精神が五感を鋭くしているのかは分からないが、グレシオスの目には村の様子がはっきりと入ってきた。

 戦場になる場合、地形や建物をどう使うか、どう考えるかということが重要になってくる。

 今までは何も考えずに見てきた景色である。

 長閑のどかな小村の風景が、まさかこういう意味を持って己に迫ってくるとは、グレシオスは考えた事がなかった。

 雪を踏みながら坂路を下りた。

 途中、自然とあちこちに目がいってしまう。

 戦場にするとなれば、どこをどう使うか、どこにどれだけ手を加えることができるかなどを考えてしまうのだ。

 道の幅が気になる。傾斜の度合いが気になる。家と家の間隔が気になる。

 普通の者からすれば、神経質なくらいの意識の向け方であるが、この程度の観察眼は戦士の常識である。

 だから気疲れするということもない。この程度で神経をささくれ立てるような者は、早々と戦闘で命を落とすか、戦場から身を退いてしまう者である。

 村の広場に着くまでの間、グレシオスはそうやってあちこちに目を向けていたが、肩に力の入ることなく、ごく自然に状況を心に刻み込んでいった。

 だが何よりも重要なのは、戦いになった場合、馬が使えぬということである。

 グレシオスもタデアスも騎士であるから、本来、騎馬を得意としている。だがナウロス村で戦闘に使える馬は三頭しかいない。

 残りの馬は戦用の訓練を受けたことのない、ただの馬である。

 となればこちらが用意できる騎兵は三人ということになる。数が足りなすぎる。

 しかも村内で戦わなければならない。動きが制限される。

 騎兵は防禦ぼうぎょに劣る。攻撃重視の突撃兵団だからだ。たった三人では、すぐに討ち取られてしまうおそれがある。

 ゆえに戦う場合には、徒歩かちの戦いになる。その方が村人も動きやすかろうが、問題は敵にイゴールが居た場合である。

 昨夜受けた報告ではイゴールは居ないとのことだったが、まだ判らない。

 安心は禁物だった。

 村人が集まっている神殿は無論、ヴァリア教の神殿である。

 小村であるから豪華とは言えないが、しっかりした造りである。大きさも申し分ない。

 イオルテス地方にしては珍しく、全て木材による建築であるが、それは近くにテラモン大森林があるためである。

 デルギリアの北西部地域は、ほぼ全域が広大なテラモン森林に接しているため、建築材としては石を選択するよりも、木を選ぶ方が自然なのである。

 イオルテス地方は大体において、ただ広大な高原が拡がっているだけであるから、これは恵まれていると言える。

 神殿には王都から派遣されてきたメグレイスという神官が居て、村人に聖言を伝え、正しい道を教えている。

 彼を助けるのはアルテーアという名の神官と、モイラスという名の神官である。

 彼らの正確な年齢は判らぬが、グレシオスが接した感じでは、メグレイスは三十代半ばと思え、アルテーアとモイラスは二十を超えたかどうかというところであろう。

 メグレイスは長神官である。小さくとも立派に一つの神殿であるから、当然のことではある。

 たった三人の小さな所帯ではあるが、彼らはよく勤めていると思う。

 神殿内部、祭壇の中心には至高のヴァリアを、そしてイスターリスとメーサーとが併祀へいしされてある。

 ここはデルギリアであるから、イスターリス信仰はあつい。メグレイスもイスターリス神殿に属する神官である。

 そのためか、メグレイスは屈強な肉体を有している。その力を示したことこそないが、グレシオスには判る。体つきや身のこなしなどからも、戦士としての力量がうかがえるのだ。

 一方メグレイスを輔佐ほさする二人はと言うと、アルテーアはデルギリアの出身ではあるが、女性であり、王都で学問を積んだ人間である。弓馬の術に優れているとは思えない。

 モイラスも同じく王都で学問を学んだ者であるが、彼は南部沿岸地方の人間であり、今までに聞いた話や接した印象からすると、およそ戦闘とは縁のないたぐいの人種である。

 神殿の前には広場があり、坂の途中からも集まっている人々を見ることができた。

 ざわついている。

 こんなに朝早くから招集をかけられれば当然であろう。

 広場の入口にはメグレイスが迎えに出て来ていた。彼はグレシオスには深い尊敬の念を抱いている様子であり、グレシオスに接する態度にはいつも恐縮しているというか、どこか己を恥じるような気配をにじませているのだった。

 なんとなく、グレシオスはこの屈強な神官が苦手であった。

「大殿にはご機嫌御宜きげんおよろしゅう」

「うむ。長神官殿もな」

「タデアス殿、おはようございます」

「はい。おはようございます長神官様」

 簡単に挨拶を返すと、グレシオスは広場に入った。

 だんそばにはヨルスが立っており、アルテーアとモイラスは村人の間を歩き回っていた。

 特にモイラスはすぐに目についた。くせの強い金褐色きんかっしょくの巻き毛が、長身と相俟あいまってすごく目立つのである。

「皆静かにせよ。これからギルテの大殿が大切なお話をなさる!」

 ヨルスが大きな声でそう呼びかけると、ささやき交わしていた村人達も口を閉じ、壇上のグレシオスを注視した。

「皆、良く聞いてもらいたい――」

 昨晩ヨルスに説明をしたとき以上に丁寧に、言葉を選んで説明をした。

 ジャグルの群が迫っていること。その中にはゴロドが含まれているかも知れぬこと。

 選択肢は二つあること。村を捨てて逃げるか、それとも踏み止まって戦うか。

 村を捨てる場合、パラケウス街道に出るまでに、かなりの犠牲者が出るだろうということ。まず老人病人、幼児は命の危険が極めて大きいだろうこと。さらに街道に出ても、まだ助かるとは言い切れぬことまで詳しく説明をした。

 戦う場合には犠牲者が出るのみならず、敗れれば間違いなく全滅するということ。敵にゴロドがいる場合、勝利を得るのが極めて難しいであろうということも正直に説明した。

 話し終えて広場を見渡すと、誰もが暗い顔をしていた。当然だと思った。

「……すまぬが時間がない。長く話し合うことはできぬのだ。できるだけ早く決めて欲しい。どちらの道を選ぶにせよ、わしはお前達を助けたいと思っておる」

 広場はしんと静まり返っていた。

 質問をする者は無かった。

 事態の重さを理解しきれていないのか、それとも深く理解しているかのどちらかであろうが、後者であるとグレシオスは思うことにした。

「村長、話がまとまったら呼びに来てくれ」

 壇を下りると、グレシオスは神殿の中に入った。列柱室の中を歩いていると、後ろからタデアスとメグレイスがついて来た。

「大殿」

「前室で待つ。結論が出たら呼びに来てくれ」

「しかし、話が割れたら如何いかが致しますか?」

 メグレイスがあわて気味に言った。

「ふむ」

 グレシオスは足を止めた。少し考える。

 普通ならあり得ぬ事である。戦場ではと言った方が良いか。

 纏まりとはすなわち激突力であり、意思の統一がその根源である。そこでは納得できるかどうかというよりも、納得するかどうかの方が重要になる。

 だが、村人達がそこまで理解しているかどうかは怪しい。

「では村にとどまる者達の指揮は儂が務めよう。村を離れる者達には、自分たちでパラケウス街道を目指してもらうことにするしかあるまい」

「村が割れることをお認めになるのですか!?」

 タデアスが驚いたような声を上げた。無理もない。

 だがグレシオスとしては、たとえ一人であっても、己が望まない選択に従う者を出したくはなかった。

 逃げたい者は逃げればよい。戦う者は残ればよいのだ。

 それに戦う者達は、逃げる者達の時を稼ぐことにもなる。逃げる方はひたすらパラケウス街道を目指せばよいわけだから、軍略をめぐらす必要もない。

 故にグレシオスは戦う側に残る。逃げる者達には自力で頑張ってもらう。

 こくなようだが、両者の実情を考えた結果である。

「逃げたいという者を引き留めて戦わせるわけにはいくまい。我等の理屈で村人を縛るわけにもいかんだろう?」

「それは……そうでありますが」

 タデアスは困ったような顔をした。気持ちは分かる。戦力の分散を危惧しているのだろう。

「とにかく全ての者になるべく早く、いずれか一つの道を必ず選ぶようにさせよ。無論、一つに纏まってくれた方が有難いがな」

「かしこまりました。そのように致します」

 メグレイスは頷くと、小走りに広場へ戻っていった。

「ところであのお客人はどうしたのでしょう? 広場にも姿が見えませんでしたが……」

「ひょっとすると、もうギルテへ向かったのかも知れぬな」

 タデアスはぎょっとした。無理もない。

「ジャグルどもがこちらに向かっているではありませぬか! 鉢合わせになりますぞ!」

「そうだな」

 だがあの男は言ったのだ。やってみねば判らない、と。

「なに、おそらくそろそろ姿を見せるであろうよ。儂等に一言もなく出発するとは思えぬ」

 そこで人の気配を感じた。グレシオスは気配の方、神殿の奥を見つめた。

 あの男が歩いてくる。ちょうど前室から出てきたところだった。

 何故なぜ神殿に居たのか。何となく不思議ではあった。

 見ると見事なよろいを身に着けている。銀色に輝くリオプであった。

 一見してグレシオスには、男のリオプが、並の職人に作れるようなしなではない事が判った。

 簡単に手に入るような代物ではない。

 実はこの男、かなり身分のある出なのではないだろうか?

 その名を聞けば、すぐにそれと判るような名門の人間なのではないか?

 知識の深さもさることながら、ぞんざいな口調や態度とは裏腹に、身ごなしには堂々とした威と、優雅さとがある。

 男はグレシオスの前で足を止めた。

「よく眠れたか?」

「ぐっすりとな」

 自分でも不思議ではあるが。

「馬は連れて来てあるのか?」

「もう広場に来ている頃だろうさ」

 先程は馬の姿はなかった。

 馬を引いてくるのを宿泊先の者に頼んだとしても、その者とて広場に来ているはずである。

 ところが馬の姿が見えなかった以上、グレシオスが会っていないだけで、この男は、従者を連れて旅をしているのかもしれなかった。

「して、神殿で何をしておったのだ?」

「何、神に祈りをささげておったのよ」

 男の返答はグレシオスの予期しないものであった。

「なんと……お主がそのようなことをするとはなあ」

「儂が神に祈るのはおかしいかね?」

「いや、そこまでは言わぬが……」

 男が歩き出したので、グレシオスもついて歩いた。タデアスもついてくる。

「猶予はあるまい。急がねばならぬぞ」

 その割にはあまり急いでいる風には見えない。

 相変わらず、つかみどころがない男である。

 広場に出ると、村人達の視線が一斉に向けられるのを感じた。

 話はまだ纏まってはおるまい。かしに出てきたわけではないので、グレシオスは手を挙げて、村人達の緊張を軽く制した。

 広場の入り口には三頭の馬が来ていた。いずれも大きく、毛色は青毛、黒鹿毛くろかげ蘆毛あしげであったが、不思議なことに世話をする馬丁や従者の姿が見えない。

 男が招くと青毛が神殿の入り口まで歩いてきた。よく馴れているようだった。

 近くでよく見ると素晴しく立派である。イオルテスの青毛であり、並の馬よりも大きさがあった。

 主人も大男であるから、釣り合いが取れているとも言えた。

 馬は静かな、しかし力強い光をたたえた瞳で、グレシオスをじっと見ていた。

 漆黒の馬体が光を吸い込むようであり、大きな力を内に秘めていることをうかがわせた。

「良い馬ですなあ」

 タデアスが感嘆のつぶやきを漏らした。村人も何人か集まってきた。

 何と言ってもデルギリアである。イオルテス地方である。馬に興味がない人間の方が珍しい。

「替え馬は二頭か」

「なに、これで足りるさ」

 グレシオスとしてはせめてあと一頭欲しかったが口には出さなかった。

「村に三頭の馬がある。それを連れて行ってくれ」

「ふむ……」

 男は少し考えるような目をした。

「では一頭だけ借り受けよう」

「それでは足りぬだろう」

「いや、何とかなるさ。それに何が起こるか判らぬ。村にも軍馬が二頭は残っていた方が良い」

 そう言われるとグレシオスとしては返す言葉がない。訓練済みの馬は三頭、それで全てなのである。

 その他にも村に馬はいるが訓練を受けていないので役に立たない。つまり男は四頭でギルテまで駆けるしかないのだ。

 集まる村人を一向気にする風もなく、男はくらにかけていた弓を取り出した。

 大きい。相当な強弓であろう。そう思ってグレシオスが見ていると、なんと自分の弓ではないか。

 怒るよりもあきれた。

「それは儂の弓ではないか」

 グレシオスが驚いて言うと、

「おう。昨日見かけたのでな。今少し借りるぞ」

「まさか持っていくつもりではあるまいな?」

「弓は不要よ」

「ならば何故?」

「出発の前にせねばならぬ事があってな」

 言いながら、男は弓につるを張った。グレシオスは驚いた。

 この弓はヘカリオス公から贈られた物である。ブランディス式の強弓であり、滅多な者では扱うことはできない。

 グレシオスが最後にこの弓を使ったのは十年以上前である。

 今では自在に扱うのは無理かもしれない。

 それをこの男は易々(やすやす)と弦を張ったのである。さながら、熟練の楽師が竪琴たてごとに弦を張るがごとくに。

 グレシオスは驚くと同時に羨望を感じた。

 何故、この男には老いがないのか?

 違う。この男は確かに老いている。

 この男は力を失っていないのだ。

 そのことが、グレシオスには理不盡りふじんに感じられた。

 己の腕が、己のももが、段々と力を失っていくのを日々感じている。目も随分ずいぶんと暗くなった。息が切れるのも、早くなった。

 人の体は老いる物である。

 そのことはよく分かっている。いや、「よく分かっているつもりである」と言った方がよいか。

 ただ「分かる」という事と「納得する」という事とは違う。

 同じだという者もある。昔アウラシールの賢者にそう教えられたことがある。

 真に知る者は、それが行為となって現れる。知る事は体現する事。そこに在って定まる事であると。

 理解はすなわち十全なり――。

 何となく分かるような気もするが、分からない気もする。

 深遠な言葉というものには、元々迂遠(うえん)なところがあるし、自分は刀槍を振るう術には熟達していても、言葉や思索によって真理をとらえようなどと思った事はないのである。

 大神イスターリスをその始めにいただくとはいえ、己が我が身は定命じょうみょうのものである。

 老いにさらされ、病におびえ、人の手による武器に傷つく物である。

 あの偉大なるヴェルデスでさえ死んだのだ。

 戦神イスターリスの子にして、比類ひるい無き英雄であったヴェルデスでさえ、人の世の悪意と刃によって命を落としたのである。

 死は必然である。

 いかなる出自を持とうと人の身は滅びる物、死する物である。

 だが、老いる事だけは我慢ならぬ。

 己れの体が、生きながら腐敗していく事には耐えられぬ。

 無様ぶざまな泣き言である。それは分かっている。だから口に出した事は一度もない。

 しかし、老いの足音を聞くようになってから、グレシオスは常に恐怖に晒されてきたのである。

 ――これであったか……。

 息子に家督をゆずり、父祖の霊にその報告を済ませたあの日から、ずっと心に引っ懸かっていたものの姿が見えた。正体が分かった。

 己は、老いを憎んでいたのだ。

 執務を執らなくなったあの日から、ずっと。

 広間の椅子を失ったからではない。ヘクトリアスが領主の席に着いた時は、誇らしくすらあったのだ。

 にもかかわらず何かが欠落した。いや欠落したと感じた。

 誰も、己からは何も、居場所を奪ったりなどしていないのにだ。

 己が老いるのが恐ろしかった。この四肢ししから力が失われるのが、覇気はきが衰えることが恐ろしかったのだ。

 ――せん無いことを。

 願ったところで若さは返らない。季節がめぐるのと同じく、人の一生にも夏があり冬がある。

 己は、冬だ。

 既に人として新たに成す事など何もあるまい。あとはメーサーの御手みてに抱かれて眠りにくだけの老人である。

 だがそれは仕方のない事なのだ。

 あらがってどうにかなるようなものではない。

「何を考えている?」

 男の声に呼び戻された。

 男は張った弦の具合を確かめるように、軽く指先で弾いている。硬い音が鳴っていた。

「いや……詮無い欲を持っていたと思うてな」

 苦笑が漏れた。己の弱さに、臆病さと幼さにわらうしかない。

 望むことに意味のない欲ではないか。

 だからこそ、今まではっきりと気付くこともなかったのだろう。

 情けない。哂うしかない。

「ほう……」

 男はそう云っただけで、質問を重ねては来なかった。

 矢を一手いって取ると、弓を持ってずんずんと歩き出した。

 一手というのは二(せき)の矢である。ローゼンディア語ではクレスという。

 一手、ないし二手が、射の基本単位であり、古くはクァースと言って数えたというが、これは元々ナーラキア語であり、両数である。

 ローゼンディア語はナーラキア語からの影響を強く受けているから、そう呼んだのだろう。

 両数というのは、二つそろった物を数える時の表現であり、ナーラキア系諸語、アウラシール系諸語に存在する表現である。

 これらの言語では名詞は性別に加えて、単数、複数、両数、を区別するのである。

 ともあれ男は何かを射るつもりらしかった。

「どこに行くのだ?」

物見櫓ものみやぐらさ」

 男を追いかける形でグレシオスも物見櫓の下までやって来た。

 男はグレシオスに矢を渡すと、自分は弓を抱え、櫓を登って行く。仕方がないのでグレシオスも続いて登った。

 櫓の上からは村全体が一望できた。床は決して広くはないが、人が三人横になって眠れるくらいの空間はある。

 南西側の柱には急をしらせるかねが掛かっている。その他には何もない場所だった。

 ジャグルどもが現れるまでは見張りを立てる必要があるので、その者のために、寒さをしのぐための掻巻かいまきでも用意しなくてはならないと思った。

 男は村の入口の方を向いて目を凝らしている。

「何を見ているのだ?」

「大したことではない。ただ、昨夜から気にはなっていたし、これを片附けてからでないと出立できぬからな」

 言いながら矢をつがえて弓を引きしぼった。ゆっくりと引いていく。

 これだけの強弓である。当然、全身から力を絞り出す様子が現れるとグレシオスは思っていたのだが、それが全く無い。

 男は実に自然な動作で、しかも軽々と弓を引いていく。

 グレシオスには信じられなかった。

 とてつもない膂力りょりょくであると言わねばならない。

 よく見ると確かに腕の筋肉にははりがある。肩も盛り上がっている。それでいて力みが無い。

 弓を十分に引くと、男はぴたりと動きを止めた。

 見事な姿勢であった。

 腕を素直に伸ばし、胸を開いている。

 全身をくま無く使っていながらも、無理を感じさせない姿勢だった。

 その姿を見ただけで、この男が尋常ではない射術を身につけていることをうかがわせるに十分だった。

 放った。

 旋風せんぷうが生じたようであった。

 男の指が、矢筈やはずから離れると同時に生じた旋風である。

 矢が見えぬ。

 飛んだとおぼしき方向を目で追うと、村の外、入口の柵から少し離れた樹から、子供のような影がぼたりと落ちるところだった。

「うむ」

 低くつぶやくと、男は弓を下した。

「今のは……」

「村を見張っておったジャグルよ。昨夜遅く現れた。ずっとあの樹の上におったのだが、鬱陶うっとうしくてかなわぬ。いずれ帰すわけにもいかぬし、出立の前に始末しておこうと思うてな」

 グレシオスはほうけた。己が呆けた表情をしていることはうっすらと気付いてはいたが、それに気を回せなかった。

 ――なんという業前わざまえか!

 尋常な射術ではない。これだけ距離の離れた的にてるなど、しかもその敵の気配を頼りに放つなど、目にした今でも信じられぬ。

「おお……もう一匹が逃げていくわ」

 笑いを含んだ声で男が言った。

 目をると、樹からするすると下りてくるものがある。

 グレシオスの目の前に、ぬっとばかりに弓が突き出された。

「お主にゆずろう」

 冗談ではない。どうかしている。

「この距離ではあたらぬ」

「中ったが」

 首を振るグレシオスに対し、男は笑いながら樹下に転がっているジャグルとおぼしき影を指差した。

「儂にできてお主にできぬこともあるまい」

 無茶である。

「お主の技には遠く及ばぬ」

 くやしさすら感じなかった。ただ驚きがあるばかりである。

 全盛時の己でさえ、この距離で敵を射殺すことは難しいだろう。

 それをこの男は、しかも樹の間隠れの相手を、その気配だけを頼りに射落として見せたのだ。

「やってみねば判るまい」

 男は首を振ってグレシオスの言葉を否定した。

 目の前に弓がある。

 ベルガイアの戦いの後、ヘカリオス公デュレスから送られた強弓である。

 初めて引いた時には余りの強さに驚いたものだった。

 甲冑かっちゅうを三つ重ねて立てて射たところ、矢は突き抜けた。無論甲冑は吹き飛んでばらばらになった。尋常な弓ではない。

 だが何事も鍛錬と慣れである。やがてグレシオスはこの強弓を自在に扱えるようになった。

 しかし十年前ならまだしも、今の自分では、この強弓を扱うことは難しかろう。

 ひょっとすると引く事すらできぬかも知れぬ。

 己の衰えを見られたくない。いや、何より己自身にそのことを知らせたくない……。

 ちらりと、そんな考えが頭をかすめた。

「儂にはもうこの弓を扱うことはできぬよ」

 はっきりと言った。区切りをつけねばならなかった。

 燃え盛る時は終わったのだ。現実を認め、そのたけに合わせて生きなければならない。

 未練はある。

 だがそれが如何いかに無様かを、自分はたった今悟ったばかりではないか。

 だからもう終わりにしよう。

 ところが――。

 グレシオスの手は自然と伸びて、弓束ゆづかをつかんでいた。

 なぜだかは解らない。

「イスターリスのすえたる、レオンティウスの子グレシオスよ。お主はもう少し自分のことを、よく知る必要があるようだな」

「どういう、意味か」

「お主は、自分は老いていると言った。だがひげの長さならば儂の方がまさっておるぞ」

「確かにそうだが」

 この男を並の規格で考えることは、妥当だとうであるとは思われない。

「お主は特別であろう。無双の剛力を持っておるではないか」

「かも知れぬ。だがその弓を引くのに、それほどの剛力を必要とはせぬよ」

 グレシオスは黙って弓を見つめた。

「逃げるぞ」

 男が言った。樹から下りてきたジャグルであろう影が、仲間の屍体したいに向かってかがみ込んだ。何かをあさっているようだったが、すぐに身を起こして逃走に移った。

 ――射らねばならぬ。

 思うと同時に身体からだが動いた。背骨を中心に大きな力が生まれ、それがすみやかに両腕に流れるのを感じた。

 気がつくと弓を構えていた。いつの間にやら矢もつがえている。右手の指先に矢筈やはずの感触があるのが不思議であった。

 無様な、しかし力強さを感じさせる動きで影が遠ざかってゆく。

 人間にしては粗雑に過ぎ、足の悪い者のようであるが、猿にしては不自然な余裕のある動きだ。ジャグルの走りであった。

 己が眉間から目に見えぬ力が発しているように感じた。

 それはまっすぐにジャグルの背中へと伸びていた。

「おお。いい姿勢だ」

 男が感心したように言った。その言葉が合図になった。

 放った。

 旋風が生じたようであった。

 己の指が、矢筈から離れると同時に生じた旋風である。

 矢が見えぬ。

 ただ、胸の中から旋風を生み出したような感触だけがある。

 視線の先でジャグルがんのめり、倒れた。

 動く気配はない。

「うむ」

 低く呟くと、グレシオスは弓をおろした。

「まだ自分が衰えていると思うかね?」

 男が意地悪く聞いてきた。

 グレシオスは返答ができなかった。

 気分は良かった。己の業前が信じられぬ。快哉かいさいを叫びたいくらいである。

 だがこらえた。

 今の今まで分別臭いことを考え、かつ話し、自分とは違う者だと決めてかかって男を見ていたのだ。

 今更、喜ぶわけにはいかぬ。

 子供ならともかく、いい歳をこいた大人である。孫まで居る老人である。

 なので、にやつきそうになる頬に力を入れ、グレシオスはわざと不満そうな顔を作った。むっとして見せた。

「あまり、嬉しそうではないな」

 がっかりしたように男が眉を下げた。それが何とも滑稽で、グレシオスは耐えきれずに失笑した。

 一度笑い出すと止められぬ。声を上げて笑った。

 すがしい。

 久しく忘れていた、気持ちのいい笑いであった。

「グレシオスよ」

 グレシオスが笑い終わるのを待って、男が穏やかに口を開いた。

「老いは必定である。そのことについてはお主の考えは正しい。だが老い方は人それぞれであるし、必ずしも老いに屈服する必要はない」

 グレシオスはうなずいた。

「力はいつか失われる。そのことについてもお主の考えは正しい。だがそれが必ずしも老いと結びついているわけではない。失われぬ力というものもあるし、失っても取り戻せる力というものも、ある」

 再び、グレシオスは頷いた。

「現にお主は今示したではないか。自らの剛勇を。その射術のすぐれたる事を今まさに。それでもなお、「自分は老人である」などと、離れの隠居爺いんきょじじいのような言葉を口にするかね?」

 グレシオスは苦笑した。照れの混じった笑いである。

「確かに老いは、運命の女神が下す贈物の中でも、もっとも望まれざるものの一つだろう。あのメーサートゥエーンでさえ、老齢との試合においては膝を屈したのだから」

 メーサートゥエーンはローゼンディア世界最大の英雄である。

 あらゆる偉業を成し遂げて、最後は天界に昇って神々の席に連なった。

 大英雄は、かつて人間の身であった頃、巨人族の城でグラティオンを行なったという。

 その時の相手が『老齢』であった。

 小柄な老人の姿をした『老齢』に対し、メーサートゥエーンは死力をくして立ち向かうが、ついには敗れてしまう。

「だがな。メーサートゥエーンは片膝をついたのみでしのいだ。決して、投げ飛ばされはしておらぬぞ」

 なるほど。

 そういう見方も、あるか。

 なんと愚かで、しかし気持ちの良い見方であろう。

 だが――。

 力を示せば、それは真実になる……。

 思った途端、身体の奥から何か、めるような火が燃え拡がってくるのを感じた。

「おう。顔つきが変わったのう」

 男がにやりと、どこか危険さを感じさせる笑みを浮かべた。

 グレシオスは自分が射殺したジャグルに目を向けた。

 先程倒れたまま、俯伏うつぶせになって動いていない。

 この場合、死んだふりという事もなきにしもあらずだが、何故だかそれはないと思った。

 自分は間違いなく、あのジャグルの背中を射抜いたと感じていた。

 グレシオスは弓を脇身に抱え、男の方を向いた。

「……広場に戻ろう。寄合よりあいの決が出ているかも知れぬ」

 射の余韻よいんが、まだ残っていた。

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