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雪刃  作者: 琴乃つむぎ
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第二章 急報

 ジャグルというのは人によく似た、しかし人ではない獣である。

 人よりも小柄であるが怪力を持ち、邪悪なる存在として人々に広く知られている。

 遥かな昔から人間たちに敵対するものとして恐れられ、み嫌われてきた種族である。

 神話によれば、ジャグル達は太古の昔に邪神ゲオルギウによって創り出されたという。

 かつて創世の時代、地上に現れた人間たちを見て、ゲオルギウは激しい嫉妬を抱いたのだという。

 そして己が力を示すべく、人間たち以上の存在を作り出すべく、ゲオルギウはただ一神でもって創造の行為にいどんだのだという。

 だが、生まれてきたのはジャグル達であった。

 みにくい外見、邪悪な嗜好しこう……呪われた存在としか言いようのないジャグル達を見て、ゲオルギウは叫んだという。


「地の底へ消えてしまえ!」


 以来、ジャグル達は地の底にむようになった。

 丘や山の内部、または地面の下に、ありのように縦横に部屋と通路をめぐらせた棲処すみかを持っている。

 ジャグルに限らず、イゴールやゴロドといった他の種族もそうであるが、悪神たちによって生み出された種族は、いずれも人間たちに敵対している。

 そこには和解の生じる余地は全く無い。どこまでも敵対するほか無いのである。

 何となれば、人間たちは神々の協力によって、その祝福によって生み出された存在であるが、彼らは違う。

 善なる神々への嫉妬や対抗心、人間たちへの呪いから生み出された存在である。

 祝福はなく、喜びもなく、嫉妬と呪いのみによって作り出されたものたちは、醜く、邪悪な存在であるのが道理だろう。

 少なくともヴァリア教の教典はそう教える。

 グレシオスは他の宗教に触れたことはないが、かつて足を伸ばした南方アウラシールでも、西方のヴァルゲン人の王達にあっても、ジャグルを含め、悪の種族たちに対して友好的な者は居なかった。

 もちろん悪の種族をどう思うかなど、聞いて回ったわけではない。聞くまでもないことだからである。

 そんなことをせずとも分かるのだ。

 どこに行っても、人間たちは悪の種族に備え、現れたと聞けば真剣に対策を練り、戦うとなれば、一匹残らず皆殺しにして焼き捨てることを心がけていたのだから。

 それは人間として当たり前の判断なのだ。

 悪の種族に好意を持つ者はない。ただの一人も。

 全ての者が嫌悪と恐怖、憎しみを示すはずなのだ。

 もっとも、かつての大戦においては、悪の種族側に回った人間たちもいたと、歴史書には記されている。

 遠く、ミスタリア海を越えてなお遠く南方へ向かうと、ジャグルと同じように呪われた人間たちが棲むという。彼らは伝説の大戦において、悪神たちの下僕げぼくとなった者たちの末裔であると言われている。

 ここ数百年間は、悪の種族との大きな戦はローゼンディアでは生じていないものの、現在でも散発的ではあるが、連中との戦闘が発生することはある。

 連中が根城ねじろとする北のヌーガ、そして雲居くもい山脈、これらの地域からい出してくるためだ。

 大体においてジャグル達による少数の部隊であるが、被害は馬鹿にはならない。

 ジャグル達が襲うのは辺境の小村である場合が多く、たいていは近くに領主館などなく、とりでもないことが多い。

 報告を受けて兵を出しても救援が間に合わないことがほとんどで、やっと救援の兵が駆けつけた頃には住民は皆殺しにされているのが常だった。

 そしてこのナウロス村も含め、セウェルス家所領であるデルギリアは、東部イオルテス地方の最涯さいはて、北に雲居山脈がかぶさるように伸びてきている位置にある。

 必然的に、悪の種族との戦闘の回数は多く、それに対する憎しみや備えも、人々の間に敷衍ふえんしていると言えるが、だからと言って安心していいわけではない。

 今、タデアスはゾエ村がジャグルに襲われたと言った。それは同じ人間たち、例えば野盗などに襲われるというのとは、わけが違う。

 人間たちがジャグルの存在を認めないように、ジャグル達もまた、人間たちの存在を認めてはいない。だから捕虜ほりょを作るという発想がない。ここは同じである。

 つまりジャグルに破れると言うことは全滅を意味するのだ。

 敗北は酸鼻さんびを極める状況を意味する。

 ……正確には、ジャグル達が捕虜を作ることはある。だがそれは奴隷として働かせるためではない。

 我がローゼンディアでは決して認められていることではないが、西方レメンテム帝国ならば、戦争の敗者を奴隷にすることは普通である。アウラシールでもよく見られることである。

 ジャグル達は違う。

 ジャグルは人間を食糧にするのだ。好んで食すと言っていい。

 やつらはつぶす予定の蓄獣ちくじゅうを扱うように人間を扱う。

 どれほどの数に襲われたのかは分からぬが、ゾエ村もこのナウロス村と同じ、小さな村である。

 仮に百匹もジャグルが集まっていたとしたら、あっという間に滅ぼされてしまう。

 その半分の五十匹だったとしても、半日も保たないだろう。

 グレシオスの今までの経験では、ジャグル達の戦闘集団は小さければ五匹ほど、大きければ三十匹から五十匹ほどの規模だった。

 大概が、近くの村を襲撃した帰りであるとか、偵察か何かで地上に這い出てきた斥候せっこうのような連中だった。

 味方に犠牲を出したことはあるが、それでも今までの戦いでは破れたことはない。もっとも破れていれば、今頃暢気(のんき)に隠居生活を送っているはずもなく、どこぞのジャグルの胃袋に収まっていたことだろう。

 油断するつもりはないが、不意を討たれぬ限りは負けぬ自信はある。

 イゴールの毒やゴロドの法外な膂力りょりょくには、最大の注意を払う必要があるが、薄汚い地虫共ジャグルなど、憎みこそすれ、恐れるには値しない。

 しかし意外に思う点も無いでは無い。

 まだ本格的ではないとはいえ、今は冬である。

 こんなことにも時季があると言っては何だが、ジャグルが這い出てくるのは珍しい。

 ナウロス村はデルギリアの東北部にある。冬場ともなればかなりの雪が積もることが多く、言わば豪雪地帯なのである。

 冬場に出てくれば移動にも戦闘にも邪魔になる雪を相手にせねばならず、そんな時季に何故、地虫共は這い出てきたのか? まだ冬の初めで雪が少ないからか?

 そう言えば、ギルテの神官が「今年は雪が少ないだろう」と予想していたことをグレシオスは思い出した。

 去年の今頃は膝丈半ばほどの雪があったものだが、今年はまだ地面のところどころに土や草が見えている。

 地下で暮らしているくせに、地虫共はそんなことまでわかるのだろうか?

 いくつかの疑問がグレシオスの頭に浮かんだが、いずれにしても生かして帰すつもりはない。

 一匹残らず殺して、焼き捨てる。

「どれほどの数なのか? そして編制は? ゴロドやイゴールは混じっておるのか?」

「ゾエ村の者を待たせております。話はその者からじかにお聞き下さい」

 言ってタデアスは腰を折った。ここに急を知らせに来た本人が、待っているというなら話は早い。会うことにしよう。

 グレシオスは腰を上げた。突然の事態とはいえ失礼かと思い、男の方に目をやったが、気にするな、という風に目顔で答えてきた。

「その者をここに通せ」

 グレシオスが言うが早いか、タデアスはすぐに玄関の方へと呼びに向かった。

 ゾエ村の使者というのは若者だった。齢は十六かそこらといったところだろう。

 充血した目、細かくふるえる膝、肩、グレシオスを前にしても、膝を着いて礼をすることさえ忘れている。

 どれほど恐ろしい思いをしてきたのか、一見して推察できる様子だった。

 グレシオスにはおおよその見当がつくのだ。

 四十年以上もの長きにわたって戦場を駆け続けてきた経験が、グレシオスに若者が見てきた地獄を想像させた。

「恐れることはない。ここはもう人の領域ぞ」

 若者の目を見据え、グレシオスはゆっくりと言った。

大殿おおとのの御前だ。きちんと礼をせぬか」

 優しい口調でタデアスが言い、若者の肩に手をやった。無論、その緊張をほぐす気遣いを兼ねている。

 その狙いどおりに、若者はいくらか自分を取り戻したのだろう。

 急いで礼の姿勢を取った。

「ごっ、御領主様にもうしあげまっす!」

「うむ」

 無用だと思いつつもグレシオスは返事をした。

 本当は前置きなどせずに敵の数や編成、動きの雰囲気などの報告に入ってもらいたかったが、相手はただの村人、しかも齢若い上、混乱しているときている。

 できうる限り相手の調子を崩さずに、聞き役に回るのが良いだろうと考えたのだ。

「ゾエ村がジャグルに襲われました。御領主様にお知らまするべと思い、ここまで駆けてめえりました」

 グレシオスは隠居であるから領主ではない。本来ならばギルテの領主館を目指すべきだったのである。

 しかし今更そんなことを言っても始まらぬ。近隣の住民が自分を頼ってくるのは今に始まったことではない。

「ジャグルの数はどれぐらいか?」

「はいっ!? そ、それはよくはわからねえけども……多分三十匹くらいではねえかと」

 かなりの大人数である。となれば偵察のたぐいではなく、戦闘が目的であろう。

 それで村を襲ったと言うことは……グレシオスは胸がむかつくような気がした。

 ジャグル達の目的が分かったからだ。おそらく、食糧確保のために村を襲ったのだろう。

「ゾエ村の方はどうなっておるのか? 戦いはまだ続いておるのか?」

「そいつはわかりませんです。ジャグルにわーっと攻めてきて、みんな大騒ぎになって、それでおれと、御領主様にお知らませねばなんねえと村長に言われて……」

 必死になって話しているためだろう。若者の発言は名詞の格変化が怪しかった。

 とはいえ、その言わんとするところは判った。

「ゾエ村では誰が指揮をっているのか? 村長のボイオンか?」

 ゾエ村村長のボイオンは数えで七十になるよわいながら、いまだ矍鑠かくしゃくとしている老翁ろうおうである。

 さすがに杖は手放せないが、頭はもちろん、目も耳もしっかりとしている。

 その判断力には信頼が置けるが、しかし問題がないわけではない。ことはいくさである。

 阿鼻叫喚あびきょうかんちまたにあって、迅速かつ的確に判断を下し、戦闘指揮を執れるかどうかと言うと、まったく判らないと言わざるをえないだろう。

「ジャグル以外に敵の姿はあったか? イゴールは?」

 イゴールは悪の種族につらなる獣である。ジャグルも獣であるが、こちらが曲がりなりにも人間に近い存在であるのに対して、イゴールは完全に獣の姿をしている。

 外見はイタチによく似ており、血のように赤い三つの眼と、茶褐色の体毛を持ち、背筋に沿って二本の黒いすじが走っているのが特徴である。

 大きさから言えば中型獣と言えるが、立ち上がれば、人間の背丈をいくぶん超える高さがある。

 悪の種族の例に漏れず、イゴールも極めて凶悪な性質を持ち、人間に対して攻撃的である。

 鋭い爪と牙は、それ自身十分に危険ではあるが、特に危険なのは牙である。毒を持っているのだ。

 イゴールのみ付きは、最も注意を要する攻撃なのである。

 この魔獣に刀斧で立ち向かうのは愚かというより外ない。ましてや一人で立ち向かえるものでもない。

 ゆえにイゴール狩りの際には必ず部隊を編成し、計画的に行なうようにしている。

 デルギリアでは矢による攻撃、そして投槍による攻撃を規準として、とどめを刺すときのみ、槍による直接攻撃を行なうようにしているが、おそらく他の地域でも似たようなものであろう。

 毒を持つ分、ジャグルよりも余程よほど危険な相手だと言えた。

「……イゴールはおらなかったです。ただ――」

 若者は躊躇ためらうように言葉をにごした。

 グレシオスは不吉なものを感じた。

「何を見た?」

「あのう、おれの見間違いかもしれねえですが、なんかやたらとでかい、樹みてえな影が……。それがのっそりと歩いていたみてえです……」

 思い出すように語る若者の横で、タデアスが表情を硬くした。そしてグレシオスに緊張した目を向けてきた。

 グレシオスには、タデアスが何を考えたかが分かっていた。

 無言で頷くと、若者に目を戻して質問を続けた。

「そのやたらとでかいものというのは、村を襲ってきたのか?」

「いえ、だからおれの見間違いかも」

 若者は首を振った。

「獣()けの篝火かがりびの向こうにやつらが現れたときに、ちらっと見えたような気がしたんです。でもおれは戦いが始まってすぐに、北の木戸から馬で出て、ここまで駆けてきたんで。馬は村長が……」

 なるほど。ではこの若者は戦いの模様はまるで知らぬというわけだ。

 先程のおびえは地獄を見た所為せいではなく、村を案ずる気持ちから出てきたものか。

 でなければ、元々臆病な若者なのだろう。

 それにしてもジャグル達が押し寄せて来てから、ほとんど間を置かずに使者を脱出させたのは、さすがはボイオンだと言えた。

 だが、篝火の向こうに見えたという大きな影が、自分とタデアスの考えるとおりのものだとしたら……。

 おそらく、ゾエ村は今頃壊滅しているだろう――。

 いやもし己が予測が外れていたとしても、ジャグルの数が三十匹ほどだというのは大きい。

 ゾエ村の安否が気遣われるが、希望を差し引いて考えれば、全滅の可能性はかなり高いと言わざるを得まい。

 だがそんな嫌な予感は口にするわけにいかぬ。無言でタデアスに目を向けた。緊張を宿した瞳には、自分と同じ考えが宿っているのが認められた。

「この村の村長は知っているか? ヨルスという名の者だが」

「はい。なんどかお話したことがあります」

「では今からそこへ行き、わしが呼んでいると伝えてくるのだ。そしてお前は、今夜ヨルスの家に泊めてもらえ。そのことも伝えろ」

「はい!」

 若者は深くこうべを垂れ、それから立ち上がり、慌てた様子で礼をすると、急いで部屋を出て行った。

 玄関の戸が閉まる音を聞いてから、グレシオスはタデアスに話しかけた。

「お前はどう思う?」

「ゴロドであろうな」

 答えたのはタデアスではなく、胡坐あぐらをかいていた男であった。謎の男、いまだ本名明かさぬ旅人である。

「お客人、不吉なことは言わないでいただきたい」

 タデアスがつぶやいた。若干の非難が感じられる口調だった。

「そうかな? お主等も儂と同じ考えではないのか?」

 男は皮肉げに口を歪め、首を少し傾げた。

 ……もしもゴロドであれば、極めて珍しい事態だと言える。

 ゴロドが地上に現れるのは滅多めったにあることではない。グレシオスにしても、ゴロドを見たことは二度しかない。

 このたび相見あいまみえることあらば、それが三度目ということになる。その場合は、四度目があるとは思えない。これには二つの理由がある。

 一つ、再びゴロドが地上に姿を現す頃には、己の命数がつきている可能性が高い。

 二つ、もし今ゴロドと戦うことになった場合、己が生き残れる自信はない。

「ゴロドが地上に姿を現すなど、滅多にあることではありません。ここデルギリアでも、最後に姿を現したのは二十六年前ですぞ」

 そう。タデアスの言うとおりであった。そして、その最後に姿を現した際に、グレシオスは居合わせた。タデアスもである。

 領民からの知らせを受けたグレシオスは、館に兵を参集させ、即座に連絡のあった場所に向かった。

 ゴロドは二匹。

 兵三十五人で襲いかかった。いずれも経験豊富なつわものである。

 装備は万全だった。従者も連れ、槍も余分に持ち、鉤縄かぎなわまで用意した。

 それでいて死者二十三人。

 重傷が三人。無事なのはグレシオスとタデアスを含め、九人という有り様だった。

 初めてゴロドを目にしたのは、父親に連れられて旅行をした際だった。アウラシールの獣騎兵が、一匹のゴロドを相手にしていた。

 諸国に名の聞こえたアウラシールの獣騎兵は、さすがに見事な動きでゴロドを翻弄ほんろうし、綺麗にとどめを刺していた。

 今でも憶えている。飛槍弓ひそうきゅうてる軽い弦音つるおと、砂を蹴立けたてて走る南方種の大蜥蜴ジビルアヌ。ゴロドの皮膚すら貫くドゥミウルバの矢。

 その時の印象がいけなかった。

 いかにも容易にたおせそうな印象を持ってしまったからである。

 信じるべきは父祖達から語り伝えられた教訓、そしてデルギリアに伝わる伝承の方であるべきだったのだ。

 ゴロドは悪の種族の中でも最も危険な存在であり、神話によれば、暴虐神ゴルドスのしかばねから生まれ出たという巨人である。

 かつてこの世界には巨人族という者たちが存在した。

 正確に言えば今でも存在はしているのだが、彼らが暮らすのは巨人界である。

 それは人間界とは異なる世界であり、そのため人は巨人たちと直接交流をすることはできない。

 神話には人間に敵対的な巨人、友好的な巨人、そのどちらでもない巨人など、様々な巨人族が登場するが、ゴロドはその中でも最後に誕生した巨人であり、本来は神々と同じ存在に属する巨人たちにあって唯一、生まれた時から悪の種族に属している。

 つまりゴロドは、他の巨人族とは本質的に異なる存在なのである。

 神話の語るところによれば、全ての巨人たちは己が取り分である世界、巨人界へとその住居すまいを移したという。

 しかしゴロドのみは、今もなおこの世界にとどまり、恐怖と厄災をばらいている。

 この事が、ゴロドが本来の意味では巨人ではないこと、呪われた悪の種族に連なる眷属けんぞくであることを示している。

 それでもゴロドを巨人というのは、その外見が巨人としか言い様がないからである。

 背は二階屋に届くほどであり、一言で言えば枯木のような巨体である。

 ふしくれ立った蜘蛛くものように長い手足を持ち、やや前傾した姿勢をしている。

 面長な顔をしており、目鼻の造作は人間に近い。ジャグルが犬や豚に似た面構えをしていることに比べれば、遥かに人間によく似た顔立ちをしているのだが、そういう印象はない。

 ただし瞳はジャグルと同じく、黒目と白目の区別が無く、燃える熾火おきびのような赤色をしているので、人間と見間違えることはない。

 ゴロドには表情というものがほとんどなく、生気と言えるものは全く感じられないが、その心中には常に呪われた思いが渦巻いており、極めて危険である。

 皮膚の色はジャグルと大差なく、土気色から黒であるが、生物の皮膚と言うよりも、木や石に近い質感を持っている。

 遠目に見れば、まるで沼から這い出てきた浮浪者か、あるいは逃亡中の脱獄者のように見えるかもしれない。だがよく見れば、明らかに人間とは違う雰囲気を持っていることに気づくはずだ。

 ゴロドに対する最も適切な形容は、動くしかばねである。

 悪の種族とはいえ生物には違いないのだが、ゴロドにはどうしても屍体したいという印象がある。

 まるで餓死者が、何かの力を得て再び起きあがり、地上を彷徨さまよっているような雰囲気を持っている。

 通常動きはにぶいが、いざ戦闘となると不気味な俊敏さを見せる。

 その皮膚は分厚く、硬く、矢では通常大した傷を与えられない。

 何よりもゴロドは痛覚が鈍いので、どれほど傷を受けようとも、己が死する寸前まで戦闘力が衰えることがほとんどない。

 殺戮さつりくに特化した存在だと言えるだろう。

 悪の種族の中にあっても、これほど恐ろしく、おぞましい生物は他にはない。

 ゴロドは地上の生物を殺傷する悪意と攻撃力だけが、異常に、しかも無限に進化した帰結に他ならない。

 今から二十六年前のこと、雲居くもい山脈へと向かうゴロド二匹を、グレシオスひきいるデルギリアの兵達が追った。

 グレシオスの脳裡のうりには、子供の頃に見たアウラシールの獣騎兵の姿があった。

 砂獅子すなじしの皮をまとった戦士たちが、車掛かりの戦法でゴロドを追いつめていた。

 獣騎兵は飛槍弓ひそうきゅうを持っている。大蜥蜴ジビルアヌの骨と、ドゥミウルバの木から作り出された特殊な合成弓であり、同じドゥミウルバの木から作り出された矢を放つための弓である。

 強弓ではあるが、異常に強いというわけではない。ただし、矢と弓とが共に揃った時には、恐るべき武器となる。信じられぬほどの強さで的に突き刺さるのだ。

 その強さは『ふせげるよろいはなく、石壁に突立つ』と言われるほどであり、事実、そのとおりの威力を示す。

 並の矢など払い落として見せるほど、強靱きょうじんな皮膚を持つゴロドが、まるで子羊の肉に串を刺していくように、易々(やすやす)と矢を付けられていったのである。

 その名のとおり飛槍弓の矢は長い。並の矢よりも遥かに長く、そしてその長さの割には軽い。芯がなく、内部が中空になっているためだが、この矢を放てるのは専用の飛槍弓だけである。

 大柄である所為せいか、ドゥミウルバの矢はあまり遠くには届かない。

 その代わり、射程の内ならば素晴しい威力を発揮するのだ。獣騎兵はその特徴を熟知しており、当然ながらそれをかすような戦法を得意としている。

 基本的には一撃離脱戦法である。大蜥蜴ジビルアヌに乗って走り寄り、てる限りの矢をこむと、そのまま走り去る。

 トゥライ騎兵の戦法に似ていると言えるが、こちらはより徹底しており、敵の周辺を駆け回りながら幾度も矢を射こむのだ。

 グレシオスの見たゴロド狩りもそうであった。

 五騎、いや六騎だったかの獣騎兵が次々と襲いかかりながら、ゴロドの周囲を駆け回っていた。

 このゴロドは武器を持たず、グレシオスが目にした時には、すでに矢を幾隻いくせきも付けられていたが、後に相手にした二匹のゴロドは武器を持ち、しかも無傷であった。

 それだけでも大きな違いであるのに、最初の印象というのは恐ろしいものである。

 グレシオスは大した考えも無しに攻撃を仕掛け、その結果、どうにかたおしはしたものの、散々な目にったのであった。

 やかたに帰参すると、祖父の激怒が降ってきた。普段は館の奥に暮らしている人であり、滅多に怒りを見せることのない人であったが、この時には広間にまで出てきて、すさまじい怒りを見せた。

 タデアスや生き残りの兵達の取りなしがなければ、どのような罪に問われていたか分からない。

 しかし、罪に問われても仕方のないことをしでかしたのだという、自覚はあった。それは今でも同じ思いである。

「貴様を信じて命を預けた戦士たちを、貴様は使い捨てにしたかっ!」

 祖父の言葉は今もなお、胸の奥に刺さっている。

 自分は子供の時の印象を改めもせずに、軽い判断を下し、優秀な戦士たちを無駄に死なせてしまったのだ。

「……お前はどう思うか?」

 グレシオスは先ほど中断された質問を、再びタデアスに尋ねた。声の調子が自分でも意外なほど、慎重な色を帯びていると思った。

 重大事こそ、感情の色を含まないしゃべり方になるよう心掛けているはずなのに。

 過去への後悔が声音に表れてしまったのだろう。

 それは領主であった者としては恥ずべき事であるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「……ゴロドが地上に出てくることは滅多にありません。ですが見間違いとして片附けるのも、危険な気がいたします」

 タデアスもこちらの気持ちを察したのだろう、目を伏せるようにして答えた。

 もしも襲撃した部隊にゴロドが混じっているのであれば、ゾエ村は全滅だろう。救援も間に合うまい。

 もっとも、知らせに来た若者は「北の木戸」から馬で駆けてきたと言っていたから、おそらくジャグル達は村の南側から、正門から襲ってきたに違いない。

 となると奴らは、ブレイオン街道沿いに北上して来ているのかもしれぬ。

 大胆と言うしかない。身のほどわきまえぬと言ってもいい。

 汚らしい地虫じむしどもの分際で、人の世界の、それもれっきとした街道を堂々と歩いているなどゆるせぬ。

 ブレイオン街道というのは、デルギリアにある主要な往還おうかんの一つである。南からギルテに入り、ゾエ村、そしてナウロス村にまで続いている街道である。

 ただし利用する者のほとんどは、ギルテを折り返し点としている事だろう。

 ゾエ村もナウロス村も、特に必要がない限りは、訪れる理由の見当たらない小さな村だからだ。

 しかし、だからこそジャグルも襲ってきたのかもしれない。街道の事実上の起点であるギルテはデルギリアの中心である。そこを襲うほど連中は愚かではない。

 第一、ギルテを襲うとなれば、数千からの兵が必要になる。悪の種族がそれだけの動員をかけるのは並大抵のことではない。事実ここ数百年は一度も起こっていない。

 ともあれジャグル達が、どこから這い出してきたのかは知らぬが、およそ雲居山脈の裾野すそのであろう。だがそこからの道筋が分からぬ。

 襲う順番を考えるならば、ゾエ村よりも先に、このナウロス村が襲われて然るべきだからだ。

 というのは雲居山脈から出てきたジャグル達は、おそらくテラモン大森林の中を進んで来るであろうから。

 暢気のんきに道を歩いてくれば、たちまち人間たちに発見されてしまうからだ。

 そしてゾエ村よりもこのナウロス村の方が北にあり、テラモン大森林に近い。先に襲われる方が自然である。

 今までの例から言えば、連中が街道を使うとは考えにくいことだった。

 だからこそ、村の南から攻め寄せてきたという話には意外性があるわけだが、それはつまり、それだけ大胆な行動をらせるだけの理由があることを暗示しているとも言える。

 そこまで考えてグレシオスは嫌な予想に突き当たった。

 もしも部隊にゴロドが含まれているのならば、ジャグル達が意気軒昂いきけんこうに振る舞っていたとしても怪訝おかしくはない。

 嫌な想像であった。若者の「見間違いかもしれない」という話が、急に重要な意味を持って迫ってくるように感じた。

 となれば――。

 次に襲われるのはこのナウロス村であろう。

 ゾエ村を滅ぼした余勢を駆って襲いかかってくる……ありそうな話である。

 襲撃部隊にゴロドが含まれていれば、間違いなくそうなるだろう。

 そしてナウロス村を滅ぼした後はそのままテラモン大森林へ入り、森林内を進んで行って、雲居山脈に引き揚げていくのだろう。

 そう考えると中々よく出来た襲撃計画だと思える。ゴロドという強力な存在あってこその、大胆な計画だ。

「もしゴロドがおるなら、奴らは間違いなくこの村も襲うであろう」

「ですがまだ決まったわけではありますまい」

 タデアスは首を振った。ゴロドの恐ろしさを身をもって体験しているだけに、否定したいのだろう。その気持ちはグレシオスにも分かった。

「たしかにお前の言うとおりだ。ゴロドがいると決まったわけではない。だがこのまま手をこまねいておるわけにもいかぬぞ」

「誰か調べに行かせてはどうでしょうか?」

「誰が行くというのだ?」

「もしよろしければ私が行ってまいります」

 厳しい顔をしてタデアスが言った。

 偵察は危険な役目である。もしジャグル達が警戒していた場合、殺されるかもしれない。

 そんな役目をタデアスに命じる気には、とてもなれなかった。

「いや、偵察は無用であろう。どのみち地虫どもが巣穴に帰るためには、この村を通過せねばならぬ。明日の夜には嫌でも顔を合わせることになろうよ」

 連中は夜行性であるから、ナウロス村を襲ってくるとすれば、明日の夜になるだろうからである。

「大殿はゴロドがいるとお考えですか?」

 今度はタデアスが尋ねてきた。

「さてな……」

 グレシオスは言葉をにごした。男の方に目を向けると、意味ありげにこちらを見ていた。

 もしもゴロドが襲ってくれば、とんでもない事になるというのに、まるで恐れている風がない。いや、ジャグル達だけであったにせよ、明日の夜には襲ってくる公算は大きいのだ。

 不敵なのか、それとも単に事態を把握する頭がないのか、判断が難しいところだった。

「それにしても何故なぜ奴らはゾエ村を襲ったのでしょう? 襲われるべきはこのナウロス村であると思うのですが」

 タデアスも同じ疑問を持ったようだった。

「始めから二つとも襲うつもりであったのなら、先にゾエ村をつぶすであろうよ」

 男が再び口をはさんだ。

「何故でしょうか?」

 タデアスが不満げに男に問うた。多分、会話に口を挟まれるのが気に入らないと言うよりも、男の態度や、言い方が気に入らないのだろう。

「ナウロス村を先に襲えば、ゾエ村にしらせが行く。そこからギルテまではさえぎるものがない。連絡がまっすぐに届くではないか。首尾よくナウロス村を滅ぼしたとしても、その間にゾエ村がギルテからの援兵を得ていたら、攻めるのは難しくなるであろう。逆にゾエ村を先に滅ぼしておけばナウロス村は孤立する。つまりブレイオン街道を押さえられておるからギルテには報せを送れぬ。ナウロス村は自分たちだけで、ジャグルどもの相手をせねばならなくなるというわけよ。ゾエ村を襲った時点で、奴らが街道から攻め上がってきたのはそのためよ。ギルテに連絡をつけさせない為よ。万一ギルテがことの成りゆきを知って、急ぎ兵を送ってきたとしても、このナウロス村は連中にとっては帰り道にある。滅ぼすには至らなくとも、そのままナウロス村を蹂躪じゅうりんしてから、テラモン大森林に逃げ込めばよい。だから始めから二つの村を襲うつもりならば、ゾエ村から攻めるのが当然よ」

 正論だった。文句のつけようがないと言えた。

 この男は知識があるだけでなく、軍略にも通じているのだった。

 そのことが意外だったのだろう、タデアスは驚いたような表情をしていた。

「お主の言うとおりだ。して、先ほどの若者の見たものがゴロドであると確証できる理由の方も話してほしい」

 グレシオスはそちらの方の根拠も聞いておきたかった。男はうなずくと、話を続けた。

「このような大胆な策を実行に移すからには、それだけの力がる。先ほどの若者はジャグルの数は三十匹ぐらいではないかと言った。少ないとは言わぬが、二つの村を襲うには数が足りぬと思える。無論、あの若者が見ていないだけで、もっと多くいるのかもしれぬ。だが樹みたいだという、その大きな影がゴロドだと考えれば、少ない手勢にも納得がいくのではないかな?」

 これまた納得できる予測内容であったが、タデアスが反論した。

「たしかに。だがそれでは、単にジャグルの数が多いというだけでも構わないではありませぬか。ゾエ村にしてもナウロス村にしても、ジャグルが数十も集まればふせぎきることはできぬでしょう。滅多に地上に現れることのないゴロドを、わざわざ考える必要はないのではないでしょうか。先ほどの若者自身、確証が持てないという言い方だったではありませぬか。ここはゴロドというよりも、ジャグルの集団と考えた方が良いと思えます」

 男はタデアスの反論には答えず、持っていたさかづきを口に運び、酒を飲んだだけだった。

 タデアスは男の答えを待っている様子だったが、男にそのつもりがないのを看て取ったのだろうか、グレシオスの方に目を向けてきた。

 ゴロドの参加を認めたくないであろう気持ちを差し引いても、タデアスの意見には採るべきところがある。

 というのは、敵にゴロドが居るか居ないかで、こちらの防衛方針に変化が生じてくるからだ。

 もしゴロドが居るなら戦いは出来るだけけるべきだ。

 たとえ一匹であっても、今のナウロス村にはたおせるだけの戦力はないと思える。

 ゴロドが居ないのであれば、まだ打つ手はある。

 さすがにジャグルが百匹ということはあるまいが、たとえそれなりのジャグルが集まっていたとしても、ゴロドに比べればまだ相手をしやすいと言える。

 ナウロスやゾエなど守備兵の居ない小村では、三十匹のジャグルでも十分全滅の脅威ではあるが、それでもまだ手を打てないことはないだろう。

 それにジャグルが五十を超えるような数で集まっているとしたら、一度にその数で移動するのは人目に立ちすぎる。

 ゾエ村に辿たどり着く前に、既に誰かがギルテへと報を運んでいるはずだ。

 しぶとく戦いながら救援を待つという選択もあり得る。

 もちろん村に備えが無く、いきなりジャグルに襲われた、という事態であればジャグルに一呑ひとのみにされてしまうだろう。

 タデアスはジャグルが数十匹も集まれば、禦ぎきることは出来ないと考えているようだが、グレシオスはそうは思わない。

 たとえ百のジャグルであっても、優秀な指揮官がいくさを動かし、村人一丸死に物狂いとなって戦えば一日、ひょっとすると二日ならば禦ぎきれると思う。

 その間に、ギルテから救援が来るであろう。

 なんとなれば、それだけあればブレイオンの往還おうかんを使う行商人が異常に気づくからだ。

 ジャグル達の足跡にも気づくだろうし、またはギルテの側で村からの人間が来ないことを不審がるかもしれない。

 どちらにしても急を聞けば息子が、現デルギリア領主のヘクトリアスが兵を率いて駆け付けてくるだろう。

 まだまだ未熟なところのある息子ではあるが、領主館は五百からの兵が即座に集められる体勢になっている。百匹程度のジャグルなど物の数ではない。

 もちろん、ジャグルの数がもっと多い場合や、自分が思うように戦の指揮ができない、または手を負うなどして指揮ができなくなった場合は考えていない。

 これから生き残るための戦いを始めようと言うのに、死ぬ場合のことを考えるのは無意味だからだ。

 想定外のことが起これば死ぬ。

 それは戦場における真理である。予想外の事態が起きた時点で、生き残れるかどうかは、人の努力よりも運命の三女神(デューノイ)の天秤に支配されることになるからだ。

 無論、だからといって、生き残るための努力を放棄してもよいというわけではない。

 最大限の努力を重ねてもなお、戦場で己の成すべきこと、働くべき位置を見失うような状態におちいれば、後は全て運である。

 努力が不要なのではなく、極限の努力に加算して、さらに運命の女神が味方してくれることが必要なのである。

 それをいやと言うほどグレシオスは見てきた。体験してきた。

 だから集められる限りの情報を集めた後は、迷いを持たずにひたすら戦闘に集中する。

 後は我が父祖の守り手、忿怒ふんぬせるイスターリスの加護を願うのみである。

 今問題なのは敵の戦力がどれ位なのか、またその構成にゴロドという怪物が含まれているかどうかである。

 グレシオスとしてはゴロドが居るのではないかという気分は強い。タデアスよりも、男の意見により説得力を感じるからである。

 ゴロドが居るのであれば、村を捨てて逃げる他ない。明日の日が昇り始める頃、村人を率いて出発するしかないであろう。

 ただしその場合には、逃避行の途中で多くの者が死ぬであろう。

 今の季節は冬である。イオルテス地方の例に漏れず、デルギリアの冬は厳しい。

 道なき道を、ジャグルの部隊に追い着かれぬよう急がなければならないわけだが、その中には女子供や老人、病人までが含まれる。

 誰もが十分な防寒具を持っているとも思えない。

 恐ろしい敵に追われ、厳しい寒さの中を、昼夜を徹して行進しなければならなくなる。

 寒さにおいて、最も恐ろしいのは「冬の老人(ザヒーラ)」である。

 これは死の嵐とも呼ばれる極寒の吹雪であり、たとえ十分な装備をしていても、とてもではないがその中に止まれるものではない。

 冬の老人(ザヒーラ)が吹けば終わりである。全滅してしまうだろう。

 本格的に冬の老人(ザヒーラ)が訪れるのは年を越えてからだが、だからと言って吹かないという保証は無い。

 一旦いったん大きく西に向かい、そこから南に向かってパラケウス街道を目指すのが最も現実的な逃避の案だが、冷静に考えて、パラケウス街道に出るまでにかなりの者が死ぬであろう。

 しかも途中でジャグルに追い着かれたら、これまた全てが終わりである。

 そう考えると村を捨てるというのは上策とは言えなかった。確実に助かる方策とまでは言わなくても、もっと良い手を求めたいものだ。

 それでもゴロドと戦うよりは、生き残れる者が出てくる見込みがある分、ましだと思える。

 ゴロドが居なければ、これはもう籠城ろうじょうして抗戦した方が良いであろう。

 ジャグルの数という問題を考えても、五百だ千だということは、さすがにありえない。どんなに最大でも百というところだろう。

 ならば一日、いや二日は支えきれる。その間にギルテから援兵が来る。

 だが、どちらにしても鍵になるのはゴロドである。果たして今度の来襲に参加しているのか居ないのか。

 これはもう実際に調べに行くしか方法はないし、その必要もある事柄であった。

 そうなると前言をひるがえして偵察が必要になってくる。

 先にタデアスがその役を買って出たが、行かせるつもりはない。そんな危険な役目を命じる気にはとてもなれぬし、もし籠城戦を行なうことになった場合、タデアスは絶対に必要である。

 危険な偵察を命じて万一死なせたり、でなくとも傷を負わせるなどしてはならない。

 情の問題だけでなく、戦略上もタデアスを失う愚はおかせない。

 となれば村の中にいる者の中で、眼が良く、馬術の巧みな若者に命じるしかあるまい。

「この村には今、渡りの猟師はいるか?」

 グレシオスはタデアスに尋ねた。渡りの猟師というのは特定の村に定住せず、村から村へと渡り歩く者のことである。

 元々猟師は眼がよい。気配にも敏感だ。偵察に行かせても無事に帰ってくる見込みがある。

 そして渡りの猟師であれば、馬術に秀でている事が期待できる。

 偵察を命じるには一番適した人材だと考えたのだ。

 というのは、デルギリアの属するイオルテス地方は元々、良馬の産地としてローゼンディアでも有名で、事実この地方は『馬(はや)きイオルテス』と呼ばれてもいる。

 だから王国全体で言えば他の地域に比べ、馬術が巧みな者は多いのであるが、渡りの猟師ならば、他の猟師よりもさらに、騎乗の経験が豊富であろうと思ったのである。

 無論、偵察、それも長距離偵察の経験を持つ兵が居ればそれに越したことはないが、そんな者が、このナウロス村に居るとは思えなかった。

「どうでしょうか。もうすぐヨルスが来るでしょうから、じかにお聞きになるのがよろしいでしょう」

 もっともな答えである。グレシオスは男の方に目をった。

 男は一人で酒を飲み、さかなに手を伸ばしている。

 先ほどのタデアスの反論で気分を害したのかとも思ったが、どうも違うらしい。

 むしろあれで「言うべき事は言った」とばかりに、気持ちを綺麗に切り替えて、酒と肴を楽しむことにしている様子だった。

 グレシオスはあきれた。

 きもが太いという話ではない。むしろ現実感覚がおかしいと言った方がよい。

 今、目前に大きな脅威が迫っているというのに、男のこの態度はどうにも理解しがたかった。

「……村長が来たようだぞ」

 ふと男が杯を口から離し、ちらりとグレシオスの方を見て言った。

 タデアスが玄関に向かった。

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