エピローグ セウェルス
マイアスがなかなか上手く結べないので、タデアスが代わった。
やはり自分でなければ駄目だと。
そういう得意気な雰囲気である。そして得意になるだけあって一回で上手く結んだ。
「いかがですかな？」
「うむ。具合がよい」
靴の具合を確かめてグレシオスは答えた。タデアスは満足そうに笑んだ。
もっとも得意なのは当たり前であるが。少年の日からタデアスがいつも担当してきた仕事なのだから。
今回にしてもマイアスが、
「上位の騎士であるあなたに、そのような仕事をさせるのは心苦しい」
などと言い出さなければ始めからタデアスがやったのである。
靴紐に関してはグレシオスは注文が多い。いつも膝下の裏で綺麗に結ばなくては気分が悪いのだ。自分でやるときは三度は締め直すことになる。
最初の頃はそれでタデアスにも苦労をさせたが、一年もしない内にタデアスは骨をつかんでしまった。
以来、一度で満足のゆくように結んでくれるのである。
マイアスはヨルスの孫である。
物見櫓で鉦を敲いていた子供である。
今では立派な若武者に成長し、ヘクトリアスの下で腕を磨いている。
あの決死だったナウロス村の攻防から七年が経っていた。
村長だったヨルスはすでに亡く、今は娘夫婦が村を取り仕切っている。
マイアスは本人の希望もあってギルテの戦士団に入隊した。推薦はグレシオスが務めた。
以来武技と学問とに励むこと一方ならず、若くして騎士の称号を獲得するに到った。
今回の旅に加えたのはマイアスが王都の兵団に参加するためである。
直接王の麾下に入るわけであるが、マイアスならばどこに出しても間違いはないだろう。
セウェルス族の名を辱めぬ戦士として尊敬されることであろう。
グレシオスは今、王都に向かう旅の途上である。
道はまだ遠い。王都ガレノスまでは半分と言ったところだろう。
何となく、これが最後の旅になるような気がした。
あの激しい戦いから七年。月日は確実にグレシオスの身体に老いをもたらした。
もはやあのように戦うことはできない。
あの日に引けた弓も引けぬ。槍も刀も、あの頃のようには扱えなくなった。
タデアスも老いた。
歩き方ももっさりとし、鬚も髪も、眉までも完全に白くなり、心なしか背も少し縮んできた。
だがお互い、その事を慨く思いはなかった。これは仕方のないことなのだ。
不死を楽しむのは天上の神々だけである。
全て地上にある定命のものは、生まれ、栄えるとき衰えるときを過ごし、死んでゆく――さながら季節の如くに。
そのことを敗北だとは思わない。今はもう、決して。
あの戦いのあと不思議な男は二度と現れることがなかった。
「昼頃でしたろうか。突然門の前に現れたのです」
ヘクトリアスはそう語った。
グレシオスが持たせた書状と貸した弓を門番に渡すと、男はヘクトリアスに会いもせずにそのまま立ち去ったという。
グレシオスは肩すかしを食らったと思った。てっきり男は館にとどまっていて、戦いが済んだ後、酒でも酌み交わそうかと思っていたのだ。
その時にこそ男の真の名前を聞き出してやろうと思っていたのである。
だが男はグレシオスを待ってはくれなかった。
風のように立ち去ったのだ。
その後グレシオスは男の素姓をつかむために色々と調べたりもした。
好奇心よりも、むしろ恩義を感じていたからである。
あの男はグレシオスの愚かさを払い、勇気を吹き込んでくれた。
それがなければ戦い抜くことはできなかったろうし、最後に来た援軍にしても男が呼んでくれたのである。
何とか会って感謝を告げたい――。
だがどの一族、いずれの家に問い合わせても、そのような者はおらぬとのことだった。
あれほどの男である。無名というわけはないと思い、随分といぶかしんだが、ひょっとすると西方ヴァルゲンの人間であるのかもしれぬ。
外国人ならば見つけ出せないということもあり得る。
残念だが再び会いに来てくれることを希望しつつ、グレシオスは男の捜索を打ち切った。
「では行ってくる」
「本当にお一人でゆかれるのですか？」
やや心配げにタデアスが聞いてきた。
「はは、心配するな。これでもまだ足は達者だ。あの程度の岩場、登るのにどうということはない」
グレシオス達一行は中央高原ローゼリア地方にまで来ていた。
デルギリアと王都を結ぶ距離で言えば丁度半ばと言った位置に当たるだろう。
そして街道からは逸れ、ローゼリアの奥地へと入ってきていた。
目指すはローゼリアの中心、トリュオネ湖である。
遥かな昔、セウェルス族はこの土地より始まった。
聖賢リュベイオーンの導きにより、黄金の瞳の姫と共に遠くイオルテスの涯、デルギリアにまで東遷したのだ。
今から千七百年程前の話になる。
以来セウェルス族は王国の東の涯を護り続けてきた。西のエンデュオス族と並び、王国最強の戦士として。
グレシオスは若い頃にも幾度かトリュオネ湖を訪れたことはある。
トリュオネ湖はセウェルス氏族の聖地である。あのヴェルデスもこの土地に生まれたのだ。
セウェルス族の英雄達の多くがこのローゼリアを故郷としている。
銀嶺の髪、トリュオネ湖の瞳――それがセウェルス族の勇士や、乙女を讃える形容としてよく使われる。
それは遠くデルギリアに遷った今となっても変わらない。
「ではくれぐれもお気を付けて……」
タデアスは頭を下げた。股肱の臣たるタデアスがついて行かぬということで、他の誰もついてこようとはしなかった。
グレシオスは一人で神殿を出た。一行が宿泊しているのはトリュオネ湖の近くにあるイスターリス神殿であった。
この近辺には他に村などない。一番近くの村であっても馬で一日はかかるのだ。
神官達は突然の訪問には驚いたものの心良くグレシオス一行を迎え入れてくれた。
何と言ってもセウェルス氏族の宗家である。それがイスターリスの聖地を訪れたというのだから神殿としても嬉しかったのだろう。
孫を紹介すると長神官は大層な喜びようであった。
日はまだ昇ってはいない。早朝である。
トリュオネ湖に着く頃には太陽神も天を駆けていることだろう。
ただしトリュオネ湖は山の上にあるため、用心のために杖を持った。途中の岩場で転んだりしてはつまらない。
いや、つまらないどころか大事になるかもしれぬ。
――やれやれ。
グレシオスは軽く溜息を吐いて歩き出した。
空気は冷涼だった。御陰で汗を掻かなくてすむが、疲れることには変わりがない。
岩場の坂道は思ったよりも難所だった。この前に来たのは随分と前である。その時に比べて己の衰えているのを見せ附けられる恰好だった。
「やれやれ……」
グレシオスは呟いた。困ったものだ、という風に。
悲しいとは思わなかった。心の中は妙に明るく、むしろ再びトリュオネ湖を目にする期待に胸が膨らんでいた。
できるだけ無理をしないようにゆっくりと登った。
そのため山の中腹を過ぎた辺りで日が昇ってしまった。
「おお。追い越されてしまいましたな」
日輪を見上げ、目を眇めてグレシオスは呟いた。
そして再び、岩場を登り始めた。
足元を見ながら黙々と歩いた。
息が上がりそうになると少し休み、再び登るときにはなるたけ無理がかからぬように心がけた。
やがて山頂に着いた。
目の前にはトリュオネ湖が拡がっていた。
貧しい森に囲まれた、山頂の湖である。
ただし閉ざされた湖ではなく、周りの山脈より流れ込む豊かな水に恵まれている。
湖面は冷たく、青く澄んでいる。
斑のない青一色の湖面に周囲の木々や、雲が映りこんでいる。
さながら鏡のように空をゆく雲の流れや、鳥の姿をくっきりと映し出すのだ。
グレシオスは無言でその様を見つめた。
――美しい。
そう思った。
柔らかな、しかし冷たい風が湖面を渡って静かにグレシオスに吹き寄せてきた。
「おじいさまー……」
遠くで、子供の呼ぶ声が聞こえた。
少年が岩場を駆け上がってくる。若い鹿の如く、敏捷に、力強く。
「ステファノス」
孫の名前を呼んだ。
「非道いではありませんか。この私を置いていくなんて」
近くに来ると、ステファノスは息をあげなら苦情を言った。
「早かったのでな。無理に起こすこともないと思うたのよ」
グレシオスは微笑んだ。ステファノスはこの先、いくらでもここを訪れることができるのだから。
「何故、トリュオネ湖にお寄りになったのですか？」
ステファノスが聞いてきた。グレシオスは考えた。
「何故かな……儂にも、よう判らぬよ」
「おじいさまにもお判りにならぬ事があるのですか？」
意外なようにステファノスは言った。
「はは。判らぬことだらけよ。しかも年々、それが増える。まったく生きるということは退屈はせぬものじゃて……」
グレシオスはトリュオネ湖を見ていた。なんと美しく寂しい光景だろう。
父祖達がこの湖を愛し、神聖な場所と崇めたのがつくづくと理解できる。
「あのお方のことも判らないのですね」
ステファノスが呟いた。
「あのお方？」
「はい。おじいさまがゴロドをお斃しになったとき、館へと報せをお持ちになった騎士のことです」
不意に閃くものがあった。
あの男は、どこからやって来たのだ？
近くに逗留先などなかったのだ。
当時はどこかに小屋なり洞窟なりがあるのだろうと思っていたが、後になって調べてみたらなかった。馬や、従者を待たせておけるような小屋も必要だったろうに一切無い。
ましてやゾエ村はジャグルに襲われ破壊されていた。
襲撃があるまではゾエ村を利用していたとしよう。
だが最後に会ったときに連れていた見事な馬達は、どこに繋いでいたのだ？
何よりも不思議なことがある。
男はどうやってギルテに到着したのだ？
ヘクトリアスが駆け付けた時間から逆算して、男がギルテに到着したのは昼の手前でないとおかしい。事実ヘクトリアスも「昼頃に館に現れた」と言っていた。
とすれば、男は僅か数刻でナウロス村からギルテへと駆けたことになる。
あり得ない。
それは信じられぬことである。絶対と言っても良い。
再び閃くものがあった。
出発の前、男は神殿から現れた。
何をしていたのかという問に対し、
「何、神に祈りを捧げておったのよ」
男はそう答えた。何でもないように言ったが、妙な違和感を持ったことを憶えている。
そうだ。
輝くリオプを纏っていた。この上もなく立派な銀の――。
グレシオスは反射的に腰の後ろに手をやった。槍投げ機をまさぐった。
「おじいさま……？」
手が震えてきた。少しもたついた。
槍投げ機を手に取ると顔の前に持っていって意匠を確認した。
もちろん何が彫られているかは見る前から判っている。特に気に入りの品なのでヘクトリアスにもやらずに持っている程なのだから。
そこにはイスターリスの姿が浮彫りになっていた。
巨大な目を見開き、黒い舌が頤にまで垂れている。驚愕と滑稽さと、何か突き抜けたような異常な、表情。
それは子供たちに対して見せたあの男の面相芸に似ている――いや、そのものであった。
あの男は目の前のトリュオネ湖のように青く澄んだ瞳をしていた。
老人ながら屈強な肉体を持ち、詩と物語に秀で、そして多くの呼名を持っていた。
そういう不思議な旅人が現れる、よく似た話をグレシオスは知っている。
知識豊かで詩と物語に通じ、そして決して、自分の名を明かさなかった旅人が出てくる伝説である。
どこからともなく現れた彼はオルシロスと名告ったという。
彼は武芸競技で見事優勝を収め、王の娘を妻にした。二人の間に子供が産まれると、アリィアスと名附けた。
そして姿を消した。だがその子が少年へと成長した頃に再び姿を現した。
己が息子に刀槍戦斧を振るう術を教え、それから生と死の境を超える不思議な旅へと息子を連れ出した。
そして不死身の肉体と、鳥や獣の言葉を解する能力、詩と魔術の秘儀を授けた。
アリィアスはその後数々の偉業を樹ち立てた。
アリィアスとは幼名である。長じて後は別の名前で呼ばれるようになった。
彼の名はヴェルデス。
セウェルス族の祖である。
「おお……」
震える声が漏れた。まさか、まさか、まさか……！
あの男は、いや、あのお方は……！
恐るべき道化師。
生と死を、ともに笑う。
知るがゆえに。慈しむがゆえに。
飛び越える者である。
吊り下げられた者である。
死と、魔術と、予言の神。
影が――落ちてきた。
グレシオスは頭上を見上げた。黒い鳥が見えた。
ワタリガラスである。
巨大なワタリガラスが飛んでいる。どこから現れたのだろう。
「おじいさま！ ワタリガラスが！」
ステファノスが歓声をあげた。ワタリガラスはセウェルス族の聖章。
そして、イスターリスの遣い――。
「おお……」
言葉が出てこなかった。恐るべき神秘に、グレシオスは打ち震えていた。
己の到達した結論にグレシオスは眩暈がした。
そんなことはあるはずがないと思うだろう。
人に話せば誰もが笑うか、鼻白むに違いない。
だがあの戦いを潜り抜けた者ならば判ってくれる。
そして同意するはずだ。
紛れもなくあのお方は――！
震える息を吐いた。言葉にはすまい。人には語るまい。
語るべきことではない。
あのお方は儂の愚かさを打ち砕いて下さった。
かつて嵐神が、息子の求めに応じて西の空に雷を投じたように、己が血の流れをお忘れになることはなかったのだ。
ジャグルやゴロドの襲撃を目前にしながら、未だ戦う準備のできぬグレシオスに力を授けに来てくれたのだ。
そうグレシオスは信じた。そう確信した。
それだけで十分だった。
「ドリアス山脈の方へ飛んでゆくようです」
ステファノスが指差して言った。
ワタリガラスは二人の頭上を廻り、それからトリュオネ湖の岸に沿って大きく旋廻した。
最後に一声鳴くと、南の方、ドリアス山脈を目指して飛び去っていった。
グレシオスはその姿を見つめた。
いつまでも、長いこと見つめていた。
【了】
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