第十五章 雪刃
激しく扉を敲く音で目が覚めた。
「一刻経ったか?」
答えざま、気合いを掛けて身を起こした。思っていたよりも身体が軽い。
寝起きは身体が重いのが常なのだがどういうわけか調子がよい。
背中と肩の付け根にはまだ疲れを感じたが、あれだけ激しく動いた割には気味悪いくらい具合が良かった。
短い睡眠ではあったが、かなりの効果があったようである。
「構わぬ。入れ」
「奴らが現れたようです」
ヨルスが扉を開け、早口で言った。
「あれからどのぐらい経った?」
グレシオスは立ち上がり、軽く首や肩を回しながら尋ねた。
「もうすぐ夜明けでございましょう」
これも半ば予想していた答えであった。
メグレイスはわざと起こさなかったのだ。始めからそうするつもりだったに相違無い。
問い詰めた所でもっともらしい言い訳を答えるだろう。メグレイスに限らず昔からこういう事はあった。
必要以上に気を遣われたり、大切にされるのは仕方ない。
それはセウェルス氏族の長としては立場上受け入れるしかない面もあるのだ。
メグレイスにしてもグレシオスの血筋をあまりに尊貴に考えすぎた故か、それとも老人の体力を慮ったのかは定かでないが、今更文句を言っても仕方がない。
腹立たしいが、今はそのことを怒っている暇もなかった。
この割り切りも昔から変わらない。状況に怒る余裕が出てくる頃にはどうでもよくなってしまうのだ。
広間に出るとタデアスが鎧を身に着けているところだった。
「お前もか!」
「してやられました」
ばつが悪そうに苦笑いを浮かべている。
「なに、お前が散々儂にやってきたことではないか。今度ばかりは我が身に返ってきても仕方がないであろうよ」
「これはまた意地の悪いお言葉」
「はは。それよりも疲れは取れたか?」
「おかげさまで」
「よし。急ぐぞ」
グレシオスも手早く臑当てをつけ、リオプを着込み、フェトゥーラを身に着けた。
太刀を佩き、槍を手に取ると、タデアスと共に広場へ向かった。
防壁の前にはメグレイスが居た。
その他村人が三人。ブロス、ザビオス、ハサデルスである。皆、槍投げに秀でた者たちだ。
彼らが先の戦いを生き残ってくれたのは僥倖だったと思う。
非礼な考えであるかもしれぬが今はそう考えざるを得なかった。
「ゴロドがおります」
開口一番、メグレイスは最も聞きたくなかった言葉を口にした。
グレシオスは正門の方へ目を向けた。まだ正門は聳えている。先程と何も変わった所は見られない。
おそらく門の直ぐ外に奴等は集まっているのであろう。
「間違いないのだな?」
「私が確認いたしました」
ならば間違いはあるまい。
「ゴロドは一匹か?」
「一匹です」
グレシオスは皆を見渡した。
――この六人で相手しなければならぬわけか。
覚悟はしていたが、こうして考えてもかなり苦しい事態である。
「接近戦は避ける。お前達はひたすら槍を投げろ。決してゴロドに近附いてはならぬ。突進してきたら、ひたすら逃げるのだぞ」
グレシオスは三人の村人に言い聞かせた。
「手持ちの槍が無くなったら坂の入口に居る者達と合流しろ」
ここ第一の防壁の近くには予備の槍の約半分が集めてある。
全て、対ゴロド用に用意した物だ。
「長神官殿はゴロドの足を止めて欲しい。足を殺せれば大分楽になる。止めを刺すのはその後でも良い」
「かしこまりました」
「手順はこうだ。まず全員でひたすら槍を投げる。槍が盡きたらお前たちは逃げよ」
「御領主様がたは戦われるので?」
ブロスが聞いてきた。タデアスが軽く笑った。
「儂等が戦わねば誰がゴロドを斃すのだ?」
そのとおりである。
「あとは我等三人に任せよ」
「……儂とタデアス、長神官殿とでゴロドの気を惹く。その隙に逃げよ」
ブロスは何か言いかけたが口を噤んでしまった。かけるべき言葉がなかったのだろう。
あとの二人も同じような様子だった。三人とも不安げである。
だが他に方法はない。
ふと気付いてグレシオスは東の空を見上げた。
暗く雲に蓋われた空だが、確かに色が変わり始めている。
太陽神が東の島を出発する時が迫っているのだ。
雪は相変わらず降り続けている。大雪になってきた。足元の積もり具合も馬鹿にならぬ。
下手をすれば戦いの最中、足場の安定を失うのではないか。
己やタデアスはともかく、あとの者たちは危ないのではないか。
そんな不安がグレシオスの胸中をわずかに掠めた。
「……もうすぐ夜が明けますな」
そうタデアスが呟いたとき、轟音がした。
皆が一斉に音のした方に目を向けた。
正門が大きく軋み、内側に向けて倒れてくる。常軌を逸した力が加わったのだ。
重い倒壊音と同時に雪が舞い上がった。衝撃で爆ぜた篝火の火の粉と混じり合い、宙に舞う。
その向こうに巨大な影が佇んでいた。
一瞬、樹ではないかと思える。だが樹の形をしていない。
ひどく伸びた人の影のように見える。
全体に細く、長い。
影が一歩踏み出した。重い足音と共に振動が伝わってきた。家の軒先から雪が落ちる音がした。
篝火の光を受けてその姿が浮かび上がった。
黒ずんだ生気のない皮膚と節くれ立った長い手足。落ちくぼんだ眼窩の奥で、炭のように暗く燃える赤い瞳。
ジャグルと同じく黒目と白目の区別が無く、ただ穿たれた穴の奥で不吉な光を放っているだけの瞳だ。
ゴロドである。
やや前屈みになりながらゆっくりと歩を進めてくる。
胸から上が軽く家の屋根を越えてしまっている。頭は二階屋にまで優に届くのではないか。
やはり大きい。
随分と久しぶりに目にするが、記憶にあったよりも大きく見える。
手には巨大な丸太を持っている。家の柱か何かであろうか? いや、あの大きさからして神殿の建材かもしれない。そんな物さえゴロドの手にあっては驚異的な武器となるのだ。
あれが当たれば人の身などひとたまりもない。即死だろう。
歩いてくるゴロドの向こうには幾つものジャグルたちの影がある。
それが動き出した。
ゴロドに遅れて村に入って来ると、すぐに左右二手に分かれた。予想通りである。
決してゴロドと歩を合わせることはない。
戦闘に巻きこまれることを恐れているのだ。
「笛を」
グレシオスは短く命じた。坂の入口を守る村人に合図を送るためである。
『ジャグルは東西から襲ってくる。それに備えよ』
そう報せる笛である。
笛を吹くのはザビオスの役目である。だが命じたにもかかわらず笛の音が聞こえない。
「どうした?」
グレシオスは振り向いた。命令が実行されない理由が分かった。
ザビオスは目を見開き、ゴロドを見上げていた。
その表情が細かく震えている。驚きと恐怖で目が離せないのだ。
「笛を吹かぬか!」
タデアスが叱咤した。ザビオスははっとしたように慌てて笛を取り出すと危なっかしい仕草で口に持っていき、吹いた。
すぐに応える笛があった。こちらの報せは正しく伝わったようだった。
「恐いか?」
グレシオスは静かに尋ねた。三人の村人に向けてである。
三人はじっとグレシオスの方を見た。その顔には緊張と恐れとがあったが、なお戦う意思を残しているように見えた。
「儂とて恐い」
グレシオスは微笑んだ。顔の皺が深くなる。穏やかな笑みであった。
「戦場ではな、命は皆同じく危険に曝される。そこには貴族も平民もない。生きるか死ぬかは皆同じよ。誰もが恐ろしいのだ……むしろ恐れを感じないようになったらお終いよ。恐怖を知らぬ者は長生きできぬ――」
グレシオスは白い息を吐いた。体が冷える。冷たさが染みこんでくる。
だがもうすぐ火のように熱くなるだろう。
「恐れに捕らわれるな。恐れを支配せよ。さすれば恐れは身を守る鎧となる」
叔父の言葉が自然と口から滑り出た。
誰一人返事はしなかった。だがタデアスを含め、全員が強く頷いた。
「これが最後の戦いとなろう。皆、死ぬでないぞ。そして語ろうではないか。この戦いを子等に。いや孫たちにまでな。語り草になるぞ」
冗談のように云うとグレシオスは眉を上げた。滑稽な顔になった。
「……自慢になりますだね」
ハサデルスが応じて笑い、白い歯を見せた。
「我等全てに大神の御加護がありますように――」
メグレイスが厳かに呟いた。
「魔術を司どる猛き神、飛び越える神、天を駆ける神よ、胸板広き戦士、詩と魔術の達人、勇者の館の支配者、死の道化イスターリスよ! 我等に力を!」
唸るようにグレシオスは唱え、槍を天に向けた。
「もしも御身が我が父祖であるならば、この槍に祝福を、我が戦士達に勇気を、そして我等に勝利をお与え下さい!」
天を見上げた。太陽神が駆ける蒼穹は、イスターリスの駆ける蒼穹でもある。
ある時は槍につかまり、ある時は天馬に跨がり、またある時はワタリガラスに姿を変えてイスターリスは天を駆ける。
誰が言うともなく男たちは槍を重ね合わせた。
「イーザイッ!」
唱和し、槍の石突きで地を打った。
ゴロドが迫っていた。篝火に照らされて、その異様な姿がはっきりと見て取れる。
アオオオオオオオンンン……。
ゴロドが叫き声を上げた。不気味な声である。冷たい大気を重く振るわせる。
聞けば、誰もが恐怖を感じるだろう。
グレシオスも恐ろしいと思った。他の者たちも同じく感じているに違いない。
だが戦う。
――儂は最後まで戦う。
覚悟はできている。
「ゆくぞっ!」
槍を構え、グレシオスは防壁から飛び出した。タデアスとメグレイスがすぐに続いた。
グレシオスの頭上を越えて槍が飛んでゆく。ブロスたちの攻撃である。
鈍い音とともに槍はゴロドの腕や胸に突き立った。
だが一向に効いていないようである。全く頓着する様子もなしに、ゴロドはこちらに向かってくる。メグレイスが身を低くして神殿伝いに走った。
突然ゴロドの手が動き、メグレイス目懸けて横薙ぎの一閃が走った。尋常な速さではない。
手に持った丸太による一撃である。幸い空を切ったが途轍も無い風切り音がした。
当然であろう。
神殿を支えられる程の頑丈な丸太が目にも止らぬ速さで繰り出されたのだ。
当たればどうなるかなど考えるまでもない。
一撃目を外したことが気に入らないのか、それともメグレイスが気になるのか、ともかくゴロドはメグレイスを殺すことに決めたようだ。向かってくる方向を変え、神殿の方に歩き始めた。
「気をつけよ!」
グレシオスは大声で注意を促した。
タデアスはメグレイスとは反対の方向に駆けている。グレシオスたち三人はゴロドの周囲を回りながら戦うつもりである。かつての戦いもそうであった。子供の頃に見た、アウラシールの獣騎兵もそうであった。
ゴロドに比して小さい我々はそうするより他無いからだ。
人が勝っているのは小回りの利く動きだけなのだから。
タデアスが槍を投じた。ゴロドの首の近くに突き立った。
ゴロドは呻き、少し体を傾けた。
さすが村人とは狙いの正確さも、強さも違う。
だがその所為で今度はタデアスがゴロドの注意を引いてしまったようだった。
ゴロドがタデアスに向かっていく。グレシオスに背を向ける恰好になった。
好機である。グレシオスは槍を肩上に担ぎ、走り込んで思い切り投じた。
逞しい音とともに槍は夜空を飛び、ゴロドの背中に突き刺さった。
その間にも村人たちの槍が投じられている。
ゴロドの体に槍が幾筋も立ち始めた。
メグレイスが走ってきた。
「ぬうりゃああっっ!!」
身を低くしたまま走り寄るとゴロドの足を目懸けて斧槍を振った。
濡れた木に斧を打ち込むような音がした。斧槍の刃はゴロドの左足、横臑に食い込み、どす黒い血が噴き出した。
グレシオスは二筋目の槍を投じた。これも背中に命中した。
いまやゴロドは全身から血を流していた。血は足元にまで流れ、雪の色を大きく変えていた。
だがゴロドの動きに変化はなかった。声を上げることもない。
傷を受けていることも気になっていないようである。
そしてタデアスやメグレイス、時には己目懸けて恐るべき一撃を繰り出してくる。
攻撃の前動作が大きいために何とか逃れられるが速度自体は尋常ではない。
何よりも攻撃の範囲が広い。神殿に使うような丸太を振り回しているのだから当然である。
村人の槍が盡きた。
グレシオスは振り返った。ブロスたち三人は、まだ防壁の背後に居た。
「何をしている! 早く逃げぬか!」
怒鳴ったが、三人は逃げる気配がない。手持ちの槍を握りしめている。
――いかん。
「馬鹿なことは考えるな!」
グレシオスは三人の元へと走った。
その時ゴロドが動いた。グレシオスの後を追ってきた。突進である。
巨大な影が覆さってきた瞬間、グレシオスは逆にゴロドに向かい、ぶつかる寸前で横に飛んだ。雪上に体を投げ出すようにして転がり素速く起きあがる。
凄じい破壊音がした。
防壁が踏み潰されている。
三人と共に。
ゴロドが丸太を振り上げ、振り下ろした。
叩き潰す音。逃げる間もない。再び丸太を振り上げる。悲鳴さえ聞こえぬ。そして振り下ろす。
それから足で踏み砕いた。
ゴロドは雄叫びもあげることなく殺戮を行ない、村人は悲鳴を上げる間も無く死んでいった。
ただ破壊の音だけがしていた。木材を砕き、肉を踏み潰す音だけが。
僅かの間に防壁のあった辺りは砕けた木材と血の海に変わっていた。
三人の村人は一瞬の内に挽肉と化したのである。
雪煙の舞う視界の隅で、メグレイスが立ち上がっていた。急なゴロドの突進を避けて伏せていたのかもしれない。グレシオスも立ち上がった。タデアスがこちらに走ってくるのが見える。
来るなと言おうとしたが声が出ない。息が上がっている。
心臓がどくどくと動くのを感じる。
まるで戦闘速度を出してるバラカー船の太鼓のようだ。
休みなく胸の中で動いている。
出せぬ言葉の代わりに手を突き出してタデアスを制した。
固まればやられやすくなる。散開していた方がいいのだ。
深呼吸をする。心臓を落ち着けなくては。
ゴロドがこちらに向き直った。グレシオスの方へと歩き出す。
手持ちの槍はない。防壁を飛び出すときに持った二筋は既に打ち込んでしまった。
広場周辺には対ゴロド戦を考えて、あらかじめ家の壁に立て掛けるなどして用意してある槍があるが、それを取りに行かねばならない。
グレシオスは敢えてゴロドの正面に身を曝した。注意を惹くためである。
その間にメグレイスとタデアスが攻撃するのだ。
二人の攻撃の直後に、今度はグレシオスがゴロドの視界から消え攻撃に回る。これを繰り返す。車懸りの戦法である。
地響きを立ててゴロドが迫る。巨大な足をつくたびに大きく雪が舞い上がる。
再び左足を狙うべくメグレイスが横手に回り込んだ。
「さあ、来い!」
グレシオスは両手を掲げてゴロドに怒鳴った。
ゴロドが見下ろしてくる。半開きの口の間から白い息が漏れている。だが声はない。
ゆったりとした動作で丸太を振りかぶってくる。すぐに飛び退けるよう、グレシオスは軽く腰を沈めた。
巨大な丸太が振り下ろされた。振りかぶるのは鷹揚とさえ云える動きであったが、攻撃に転じると速い、速すぎる。
グレシオスは大きく後ろに飛んだ。飛びながら、しかし驚いた。
丸太はグレシオスを狙ったものではなかった。右斜め上から大きく弧を描いて足元に振り下ろされた。ほとんど真横を薙ぎ払うほどの一撃である。
「長神官っ!」
叫んだ。だが忌まわしき光景は目に入ってはこなかった。すんでのところでメグレイスは躱したのだ。
そして素速く身を翻し、神殿の方へと走った。ゴロドが後を追う。
グレシオスは一瞬唖然とした。
――何という奴!
己を攻撃すると見せかけて、実は足元を脅かすメグレイスを殺すつもりだったのだ。
昔戦ったゴロドはこんな真似はしなかった。闇雲に暴れ、そして死んでいった。
多くの犠牲を払いながらも斃すことができたのは、そのような考えなしの怪物だったからである。
このゴロドは違う。
嫌な予感が首筋を駆け抜けた。だがとにかく武器を取らねば。
グレシオスは槍のある場所まで走った。タデアスがゴロドの後ろから槍を投げているのが見えた。
一番近くにある槍は広場に面した家の裏手にあった。
小道を入り込み、軒下に掛けてある槍を二筋取ったとき、神殿から轟音が聞こえてきた。
広場に出てみるとこちら側に面した列柱が叩き折られている。爆発するように雪が舞い上がり、ゴロドの姿しか見えぬ。メグレイスは無事か、どうか。
ゴロドは丸太を振り上げて再び神殿を打った。
「罰当たりな真似をしおる」
距離を測りながらグレシオスは近附いた。迂闊に槍を使うわけにはいかない。村人は斃され、もはや援護は受けられぬ。
戦いの局面は変化している。注意しなければ。
神殿が叩き壊され破片が辺りに飛び散っている。柱が幾本か続けて倒れ、重い地響きが足裏に伝わってきた。
風が吹いた。
北から吹き下ろしてくる風である。雪が炎のように舞い上がった。
メグレイスが姿を現した。雪煙を巻いて飛び出してくる。
「おおおおおっ!!」
素速くゴロドの後ろに回り込むと雄叫びを上げながら斧槍を振った。
体を大きく廻し、低い姿勢から伸び上がるようにして大上段を打ち払う。
本来は地上から騎士を叩き落とすための技だが、こうでもしない限り人の身ではゴロドの足しか攻撃できぬ。
鈍い音とともに斧槍はゴロドの腰の後ろに命中した。人間ならば致命傷だが、あまり堪えていないようである。
「むうん!」
グレシオスも槍を放った。肩の後ろに突き立った。
ゴロドは気付いてすらいないようだった。もう一筋も投じた。背中に突き刺さった。
その衝撃で近くに刺さっていた槍が二筋抜けて落ちてきた。当たりが浅かった槍であろう。
ゴロドが鬱陶しそうにグレシオスの方を振り向いた。口を開けてこちらを見ている。
ジャグルよりも遥かに人間に近いその顔がグレシオスを見下ろしている。
顔色の悪いぼんやりとした表情、炭火のような瞳、意思も思考も感じさせないようでありながら邪悪さだけは強烈に感じさせる、その顔。
僅かの時間、グレシオスはその顔に見入った。息を詰めて見た。
限りない不吉さだけがひたひたと伝わってきた。
――こやつを生かしてはおけぬ。
「大殿!」
メグレイスが槍を投げ渡してきた。近くに落ちたそれを拾う。
その時に気付いた。
タデアスの姿がない。
「タデアスはどうしたっ!」
グレシオスは怒鳴るように尋ねた。
メグレイスは答えなかった。ただ腕を伸ばして破壊された神殿の方を示した。
どういう意味か。
あそこに何があるのか。
グレシオスは問おうと思った。だが口が震えて言葉が出てこない。
寒さの所為か。
広場は風を遮らぬ。戦いの間に随分と体が冷えてしまったのか。
いや、それとも疲労の所為かもしれぬ。槍を持つ手が震えて仕方がない。
「大殿っ!」
メグレイスが叫いた。はっと我に返った。ゴロドが目の前に迫っていた。
反射的に横に逃げた。地を蹴って体を大きく横に逃がす。
両足を下から掬い上げられる感触があった。恐ろしい予感が全身を走り抜けたが、すぐに足は自由になった。
グレシオスは前回りをする恰好で雪上に足を着いた。リオプを纏っているので肩と背骨に痛いほどの衝撃が掛かった。
だがそれどころではない。メグレイスに聞かなくては。
グレシオスは目を上げた。ゴロドが丸太を振り回しているのが見えた。ぎりぎりのところでメグレイスは躱している。勢い余った丸太が地を打った拍子に雪と土とが波のように砕けて散った。
「大殿おーーーっ!!」
メグレイスが叫んでいる。
「タデアス殿はっ!」
言うな。
「神殿の下敷きにっ!」
「何を言うかあーっ!」
咄嗟に叫び返した。馬鹿な。そんなはずがあるわけがない。
あのタデアスがそんな……。
崩れる柱に埋れてしまうなど、あるわけがない。
「出鱈目を言うなっ!」
槍を拾いあげ、槍投げ機に噛ませた。大きく振りかぶってゴロドに投じる。全身の力を槍に乗せて放った。
槍はゴロドの首の後ろに命中した。ゴロドがたたらを踏んで動きを止めた。低い、唸るような呻きをあげ、周囲を見回している。
「出鱈目を言うな。タデアスがやられることなど……」
グレシオスの鼻が嫌な臭いを捉えた。素速く臭いのした方を見る。それで辺りが大分明るくなってきているのに気付いた。夜明けが近い。
薄紫色に変わり始めた空に向けて村のあちこちから煙が立ち昇っている。
「やりおったか……」
ジャグルたちが火を放ったのだ。雪のために火はつきにくいと思っていたが、それくらいでは放火を諦めなかったものと見える。
さすがにまだ炎は見えないが、じきにあちこちから火が上がることだろう。
「だが村人は殺させぬぞ」
唸るようにグレシオスは呟いた。
ゴロドは神殿の方へと歩き出した。何をするつもりなのか、己が打ち壊した神殿の柱を拾い上げている。
直感的に危険を感じた。
「いかん! 長神官っ!」
メグレイスに向けて警告を発した。ゴロドが両手に柱を持ち、それを肩上に振りかぶっている。
あれを投げつけるつもりなのだ。
メグレイスもそれを読み取ったらしい。一目散に広場から逃げ出した。路地に逃げ込むつもりなのだ。
グレシオスは槍を放ってしまった事を悔やんだ。今手元にあればメグレイスの援護ができるというのに!
先程ゴロドより抜け落ちた槍が目に入った。黒い影のように雪の上に横たわっている。
グレシオスは走った。
――間に合わん!
ゴロドがメグレイス目懸け柱を投げつけた。
轟音を発して巨大な柱が宙を飛ぶ。メグレイスは気配を察して右に避けた。
柱が地面に当たって跳ね、雪と土とを飛び散らせる。ゴロドはすぐに二本目の柱を投げつけた。
一本目を躱したことにより、メグレイスの逃げられる範囲は大きく限定されている。
冷水を浴びせかけられるような嫌な予感がした。
槍を目指して走りながらグレシオスは叫ぼうとした。だが叫んで何になるのか。
もはやメグレイスに逃れる手はない。
二本目の柱は背後からメグレイスに襲いかかった。
予感は現実になった。
大柄な神官は飛来する柱に跳ね飛ばされ宙を飛んだ。
二階屋を超えるほどの弧を描き、槍の間合よりも遠くへと落ちた。
斧槍もまた宙を飛んで地へと落下した。突き刺さりはせずに雪の上をグレシオスの方へと滑ってくる。
「長神官っ……」
グレシオスは歯軋りをした。眉間に力が入り、ぎりぎりと皺が寄った。
山から落ちてくる大木が激突したようなものだ。あれでは助かるまい。
骨は砕け、臓腑は潰れているだろう。息があったとしても苦しむだけだ。
ゴロドがグレシオスを見ている。
暗く燃える双眼が、じっとこちらに注がれている。
「……今度は儂というわけか」
呟くと、身の内が熱くなった。怒りである。怒りの力が全身に漲ってきた。
無論恐怖はある。だがそれよりも怒りの方が遥かに大きかった。
「貴様のおるべき世界へと送り帰してくれるわ」
云いながらもまた息が上がってきているのに気付いた。
息が苦しい。
腿が重く、リオプが肩に食い込むのを感じる。
歳相応に堪えているのだ。
ジャグルとの戦いよりも遥かに過酷な大きく激しい動きの連続が、この身に堪えているのだ。
直に動けなくなるだろう。
そうなれば死だ。
動けるように戦わなくては……。
そもそもゴロドが相手ならばリオプなど纏っていたところで何程のこともない。
その攻撃はたとえるならば巨岩が飛んでくるようなものなのであり、防具などほとんど意味が無いのだ。邪魔になるだけだ。
戦いの前にリオプを脱いでおくべきだった。今となっては詮無いことではあるが。
グレシオスは周囲に目を凝らした。何か、何かないか。
ゴロドを斃し、己が生き残れる暗示を探した。
目に入るのは、雪に覆われた広場である。雪は踏み荒らされ血で汚れ、ゴロドの投げつけた丸太によって抉られている。
広場の端の方にはまだ踏み荒らされていない雪が一面に紫がかって見える。
雪は降りやむ気配を見せている。朝日が昇る頃にはやむのではないだろうか。
メグレイスの斧槍が目についた。
ゴロドがゆっくりとこちらに歩いてくる。
グレシオスは意を決して斧槍を取った。本来は得意な武器ではない。
苦手と云うほどではないが槍の方が遥かに扱い慣れている。
だが斧槍を拾い上げた。これに賭ける事にした。
ゴロドが丸太を抱え上げた。投げつけてくるつもりかもしれない。一本しか持ってはいないが何を仕掛けてくるか判らぬ。
「ぬううううううっっ!!」
斧槍を引きずるようにしながらグレシオスは駆けた。
ゴロドが目前に迫った。向こうの方が早い。巨大な丸太が大きく振り上げられるのが見えた。
――やられる!
思った瞬間、ゴロドの頭がびくんと動いた。同時に体の釣り合いを崩したように蹌踉いて動きを止めた。それから巨大な手を顔の辺りにもっていった。
矢が立っている。
ゴロドの左目に矢が立っていた。
「御領主様っ!」
若い娘の声だった。イドナである。広場へと走り出てきた。
「今の内に!」
言いながら二の矢を番えた。放った。ゴロドの頬に突き立った。
「何をしているっ!」
馬鹿な。ゴロドは矢でどうにかできる相手ではない。
無駄死には目に見えている。そんな真似はさせられぬ。
「逃げよ! 今すぐに逃げよ!」
グレシオスは怒鳴った。
「逃げねえ!」
イドナは怒鳴り返してきた。
「あたしは逃げねえぞ!」
三隻目の矢を指で取った。弓に番える。イドナは泣いていた。
「くたばれ!」
叫びながら矢を放った。矢は再びゴロドの顔に突き立った。
イドナの方を向こうとしてゴロドは蹌踉いた。血が噴き出す音がした。左足から出血している。
斧槍の傷であった。
先程メグレイスが打ち込んだ斧槍の傷であった。
閃くものがあった。グレシオスは身を低くし、ゴロドの左側へと回り込んだ。具合の良い事にゴロドは左目を失っているため死角に入ることになった。
大きく身を引いて構えた。メグレイスと同じように低い姿勢からほとんど一回転するほどに体を回転させた。
「ぬおおおおおっ!」
雄叫びを上げながら斧槍をぶん廻した。思い切り加速をつけてゴロドの左足目懸けて打ち込んだ。
反動はなく、衝撃が吸い込まれるような感じがあった。
刃は深く食い込んでいた。骨の奥まで達した感触があった。どっと血が溢れてきた。
余りに深く食い込んだために斧槍を抜くことができない。
グレシオスは斧槍を手放し、死角から出ないようにしつつゴロドから少し離れた。
ゴロドが己を捜している。体をこちらに向けようとした途端、めりめりと生木が折れるような音がした。ゴロドの足が折れたのだ。
巨体が大きく傾いだ。倒れる。
グレシオスは慌てて後退した。下敷きになっては堪らない。
ゴロドは緩慢な動作で手を動かし、なにやら宙を藻掻くように見えたが、上手く体を支えることができず轟音を立てて転倒した。
地響きで雪が舞い上がった。近くであった所為かグレシオスの体まで浮き上がるかと思われた。
「御領主様!」
イドナが駆け寄ってくる。グレシオスは無言で手で制し、ゴロドの様子を観察した。
ゴロドの背中から幾本もの槍が飛び出していた。
背中に打たれた槍ではない。正面に打たれた槍が、うつ伏せに倒れた拍子に体を突き抜けたのだ。
グレシオスだけではない。三人の村人が、タデアスが、メグレイスが打った槍である。
幾度打ってもゴロドには効果がないように見えた。
だが諦めなかった。
そして今、皆が必殺の気魄を持って放ち続けてきた槍が、ついにその威力を発揮したのだ。
巨体の下には凄じい量の血が拡がり始めている。
だがゴロドは生きていた。いまだ右手に丸太を持っているためにゴロドは左手で体を支えようとし、起きあがろうとしていた。
ゴロドが呻き、夥しい量の血を吐いた。そうしてグレシオスの方に顔を向けた。
一つとなった燃える瞳がぼんやりとこちらを見つめている。
グレシオスは無言で刀を抜いた。刃を上にしてゴロドに向けて突き出すようにし、半身に構えた。突進する猛牛と呼ばれる構えである。
「死ぬがよい」
一言呟くと、ゴロドに向けて走った。
「おあああああああああっっっ!!」
ゴロドの顔が迫る。呪われた表情が視界に拡がってゆく。
その中心、燃える炭火の輝きの中へとグレシオスは刀を突き入れた。
「イーザイッ!」
刀を押し込んでゆく。刃が止まると見えても、まだ押し込んでいった。足が雪を掘り返し、肩が震えだしてもまだ押し込んでゆく。
「ぬうう……」
籠められた力に震えながらも刀はずぶずぶとめり込んでいった。柄まで拳二つ分というところで、ようやくグレシオスは刀を止めた。
ゴロドは動かない。相変わらず血は流れ出ているがゴロドはもはや動かなかった。
それでも用心しながらグレシオスは退がった。ゴロドの攻撃範囲の外まで来ると、そこからじっと観察した。
もはやゴロドからは何も感じられなかった。あの凶々しい、呪われた気配がない。
死んだのだ。やっと。
「……御領主様?」
おずおずとイドナが話しかけてきた。
「……終わったようだぞ」
グレシオスは静かに、呟くように告げた。
「感謝する。お前の矢がなければ、儂は死んでいた」
言いながら振り返った。イドナは泣いていた。弓を握りしめて、拳を振るわせるようにして泣いている。
グレシオスはイドナの肩を抱いてやった。細いが逞しい肩をしている。
「よくやったぞ」
柔らかな銀髪を撫でてやるとイドナは顔を歪め、声をあげて泣いた。
なんだか子供のようであるが、この娘には似つかわしい気もした。
ふと己の手が血まみれなのに気付いた。イドナの髪の毛を大分汚してしまった。
そのことが判る程度に辺りは明るくなってきていた。時が過ぎている。
「……皆を助けに行くぞ」
グレシオスが言うとイドナは意外そうな顔をした。その事を失念していたという風だった。
「まだジャグルが残っておろう。お前がこちらに来たとき戦いは始まっていたか?」
「いいえ」
イドナは首を振った。言われて思いだしたのか、その顔に緊張が蘇った。
「そうか」
となれば今頃、激しい戦いが始まっているかもしれない。
「御領主様! 家が!」
はっとしたようにイドナが叫んだ。煙の出ている方を指差している。
「ジャグルどもだ」
「火を消さないと!」
「後でよい」
槍を拾おうとして腰をかがめると重い疲労が身体にかかってきた。ゆっくりと息を吐き、膝を手で支えた。
無理をしているのは自覚しているが、あと僅かの間、保って欲しい。
もう一踏ん張りなのだ。
心の中心に意識を凝らしていく。まだ休むわけにはいかない。
背中を伸ばすのがきつかった。
グレシオスは歯を食い縛り、拾いあげた槍を杖のようについてどうにか身を起こした。
「さあ、ゆくぞ」
「……大丈夫ですか?」
イドナが心配そうに聞いてきた。
「大丈夫だ」
頷いて見せた。他に答えようはない。
戦わなくてはならぬ。
グレシオスは背筋を伸ばした。
とその時、遠くから地響きが聞こえてきた。段々と、いや急激に近附いてくる。
村の正門の方からだ。
多数の馬が駆ける音である。道の向こうに多くの松明が並んで見えた。
「燈りが――」
イドナが呟いた。
「ギルテの軍勢だ」
グレシオスが教えた。
すぐに騎兵の姿が見分けられるようになった。皆がフェトゥーラを身に着けている。薄紫の大気の中、色は判別できないが、それが青であることは判っている。
イドナが歓声をあげた。
いつの間にか雪はやんでいた。




