第十三章 覚悟
怪我人はメグレイス達の神官館に残すことにした。重傷のため、動かせない者がいるからである。
戦える者達は全員でヨルスの館に移った。ここが新たな陣屋となった。
屍体は神殿にそのまま残した。
今は動かしている時間が取れないというのもあるが、すぐ近くに負傷者達がいるためである。
つまり屍体に『紛れ』を期待しているわけである。近くに屍体が有れば、負傷者が息を潜めて隠れていれば、ジャグルをやり過ごせるかもしれぬというわけである。
連中にとって人間の屍体は御馳走に違いないが屍体は歩いて逃げることはない。
ジャグル共が勝利の宴会を始めるにしろ、先に村人を皆殺しにする方を選ぶであろうから。そのぐらいの智恵はある連中だとグレシオスは考えている。
ヨルスの館に集まると、まず鎧を脱いだ。それから軽い食事を摂った。
麺である。それもごく簡単に調理されたものだった。
ローゼンディアの食文化は非常に豊かであり、その内容は多岐に亘るが、ここイオルテス地方では麺が一般的な食事なのである。
ただし騎乗でも片手で食べられるように具材を挟んだパンや、肉や煮野菜などの餡を詰め、蒸し上げた饅頭というものもあり、こちらも麺と同じくらい食べられている。
尚、西方レメンテム帝国では主食はパン、または粥である。更にその辺境で暮らすヴァルゲン人は魚を主食としていると聞く。
しかしローゼンディア人はと言うと一定しないのだ。
各地方によって色々なものを食べ、食文化を発達させている。
ここでも豊かなるローゼンディアという常套句が成り立つわけであった。
器に入っている麺は温かい湯気を上げていた。温麺と呼ばれるものであり、スープの中に麺を浸すのである。
このスープの味付けにも様々なものがあり、麺の方にも太さや形だけでなく風味付けの有る無しなどの様々な違いがある。
つまりは一口に麺と言っても実に多様な種類があるのだが、今出てきた麺は一般的なパリエと呼ばれる味なし素打ちのものであり、スープは塩味であった。
もっとも料理人もパリエだけではさすがに見映えが悪いと感じたらしく、ビエーロと呼ばれる豚ばら肉の燻製と、彩りと香料を兼ねた香草が入ってはいたが、いまいちの感は拭いきれなかった。
しかしあまり重い物を食べるわけにはいかない。敵の襲撃を前提しているのである。
こんな時レメンテム人ならば塩水で味付けした粥でも掻き込むのであろうが、ローゼンディア人、それもデルギリアの人間ならばこのぐらいが妥当だろう。
蜂蜜を溶かした紅トラナ茶を飲みながら皆で静かに食事を摂った。
トラナ茶はローゼンディアでは一般的に飲まれるお茶であり、いくつかの種類があるが、紅トラナ茶は蜂蜜や砂糖、牛乳などを加えて飲む事が多い。
黙々と麺を食べる。暖かい湯気が顔に当たるのが大層心地好い。
匙を使いながら丁寧に麺を受け、口に運ぶ。
その合間に熱い汁を胃に流し込む。スープはあっさりとした塩味に香草の香りが混じっていてとても美味だった。
ビエーロは柔らかく歯の間で崩れる。スープに旨みを吸い取られていたが十分いい味をしている。
腹の中に温かさが、力が満ちてくるのを感じた。
それとなく辺りの様子に目を走らせると、皆、浮かない様子で麺を口に運んでいるのが見えた。
戦いが終わったのに解散もさせず、再びこのように集まっている時点で誰もが嫌な予感を抱いているのだろう。
その予感は正しい。そしてその正しさを言葉にして発するのが自分の役目だとグレシオスは心得ていたし、覚悟もしていた。
「――皆そのままで聞いてくれ……」
再びジャグルが攻めてくるかもしれぬと告げると、村人の間に驚きと苦悶の空気が拡がった。頭を抱えて呻き声を上げる者さえあった。
「……間違いないのでしょうか?」
メグレイスが静かに言った。動揺の様子は見られない。さすがである。
「奴等は来る」
敢えて、グレシオスは断言した。
実際は確証があるわけではない。先程の影にしたところでジャグルではないかもしれず、ジャグルであったにしても再び襲って来るとは言い切れないのである。
だから本来は断言などできないし、するべきでもない。
にもかかわらずグレシオスは断言した。それは間違いなく再び襲撃があると直感したからである。
無論、実際の状況は判っている。襲撃に備えるのならば正しくはまず第一に先程見かけた影がジャグルであると仮定すること、次にその上で再び村を襲ってきた場合を考えて対策するべきなのだろう。
しかしそれは判らない事を判らないままに放置した上での正しさでしかない。
現実の戦場にあってはそれは通らない。というのは、こちらが判ろうと判るまいと関係なく敵は自らの意思と目的によって行動するからである。
つまり情報不足であっても判断を下し、行動せねばならぬ事など戦場にはいくらでもあるのだ。
その結果失敗すれば死ぬ。成功すれば生きる。ただそれだけのことである。
しかしそこまで含めて今、村人達に説明をしたところでそれは無駄というものであろう。
判る者はいるかもしれない。だがほとんどの者には通じまい。
そして無用の混乱や恐怖、おそらくは厭戦気分を呼び起こすだけになろう。
今指揮しているのは歴戦の兵達ではない。
いかなる場合でも冷静に話を聞き、適確に行動できる相手ではないのである。
ならば必ず襲撃があると断言してしまい、緊張感を維持しておく方が良い。
とにかく重要なのは皆が生き残ることだ。
村人に重要な選択を迫りながら、時によって真実を話したり、またはこのように話したりはせぬと言うのは卑怯であるとは思う。
その姿勢は決して褒められたものではない。が、今は最善と信じて迅速に判断を下していくしかない。
考える事は後でもできるのだ。
「数はどの程度になるでしょうか?」
「どうかな……」
メグレイスの問にグレシオスは曖昧な答え方をした。
正確な数は無論判らない。それもある。
だがもしも先程と同数、いやそれ以上の数が襲ってきた場合、全滅は免れないのではないか。
必ず全滅するとまでは思わない。先程の戦いで村人の動きは大体つかめた。
想定していたよりも戦力は低かったが絶望的な程ではない。
ゴロドが混じっていれば別だが、敵がジャグルのみならば仮に三十程度の数がいたところで現有戦力でもどうにかなるかもしれない。
それはほとんど相打ちに近い状態であるにしてもだ。
極言すれば丘の上の館に避難している者達さえ無事ならば、後は全て死んでしまっても仕方がないという気はしている。
己自身、そしておそらくタデアスも、ここで死ぬことには抵抗はない。
ただしそれは村人の命と秤に掛けてのことであって、無駄死にをするつもりはないし、元より死にたいわけではない。
その先に生き残れる見込みがあるならば、たとえ危険なことであっても挑戦する覚悟はあるが、最初から死ぬと判っていることを実行するのは嫌である。
ゆえに現状でも生き残れる目を摸索すること――そのことが大事なのだが、どうにも良い思案が浮かんでこないのだった。
「だが先程よりも多いという事はあるまいよ」
「何故でしょうか?」
メグレイスは質問を重ねてきた。おそらく周囲の村人に聞かせるためだろう。
村人達を安心させたいのだ。メグレイスは。
敵について情報があり、しかも何とかなりそうだとの予測が立てば村人も気力を奮い立たせるのではないかと期待したのか。
となれば、そのように答える必要があるだろう。
敵の規模をある程度推定できること、そしてその事を兵達が知っておくことは重要だが、それは内容によるからだ。
敵があまりにも強大で勝算が無さそうな場合には、むしろ逆効果になることがあるのだ。
「もしも先程以上の数となれば、ゾエ村からこちらへ向かうまでの時間を、説明しにくくなる」
「どういうことでしょうか?」
やはりメグレイスは村人たちに聞かせたがっているのだ。
彼に判らぬはずがないからである。
「……もしも先程の倍、ジャグルがいたとする。それがゾエ村を襲ったとすれば、ゾエ村の住人達では、ジャグルの胃袋を満たしきれまい」
「ジャグルの数が多ければ、あっという間に全ての住民を食いつくしてしまうということよ」
タデアスが補足した。
普段ならばこのように口を挟んでくる事はない。意外に感じて目を向けると、タデアスもグレシオスを見て僅かに頭を下げた。
差し出口をして申しわけございません、とでも言いたげである。
何か考えがあるようだ。
「ここからゾエ村までは徒歩で二刻半ほどだろう。ジャグルどもが襲ってきた時間から考えて、ゾエ村を発ったのは今日の昼頃であろう。ゾエ村を襲ったのは昨日の夜、となればその間は何をしていた?」
「酒盛りですかな」
再びタデアスが口を挟んだ。わざと、嫌みになるような言い方をしている。
道化のような役回りを買って出るつもりかもしれない。それで戦意を落とさせずに村人の理解を促そうというつもりか。
タデアスらしいとは思った。
「つまりジャグルの襲ってきた時間から考えて、次の襲撃はそれほどの規模にはならないということでありましょうか?」
メグレイスが分かりやすくまとめた。おそらく言いたかったであろう言葉である。
「うむ」
グレシオスは頷いた。
「どんなに多くとも二十といったところでしょうかなあ……今の我々でも十分相手できる数ですわい」
タデアスもまた、言いたかったであろう言葉を言った。
ややもったいぶるような印象を受けたが、それは己がタデアスの考えていることを読み取っている所為か。
「この戦いを凌げば援軍が来る。次の戦いだ。次の戦いが勝負になる。皆、疲れもあり恐れもあろう……だがもう一踏ん張りだ。明日、太陽神が天を駆ける頃には全てが終わる」
グレシオスが静かな口調でそう告げると、誰もが頷いた。項垂れていた者でさえ目を上げて頷いた。
――だがこれ以上には耐えられまい。
グレシオスはそうも感じていた。
実際に援軍が来るのは明日の日没後になるだろう。
使いに出てくれた男の馬の早さ次第だが、日のある内に援軍が来るということは考えにくい。
だがその事実をここで村人に告げる気にはとてもなれなかった。
「見張りを交替で出せ。間隔や人選は長神官殿に任せる」
外の空気を吸いたいと思い、グレシオスは毛皮を取って立ち上がった。タデアスも立ち上がる。
鬱陶しいほどの貼り附き様であるが、普段ならばここまで一緒にいることはない。
戦場だからである。
戦場では、タデアスは片時もグレシオスの傍を離れることはない。
グレシオスが何か命じるなどして単独行動している場合を除けば、常に身辺を護るように付き従ってくれるのだ。
雪はまだ降っていた。
風がないため、ほとんど真っ直ぐ地面に落ちてきている。
この分だとそれなりに積もるかもしれない。ここデルギリアの北部ではそれほど珍しくもないことだが東部の方はあまり多く雪は降らない。
そもそもデルギリアが属するイオルテス地方全体について言えば、内陸高原であるために雨や雪は少ない地域なのだ。ナウロス村はそれでも北にテラモン森林を臨むように、デルギリアでも比較的降水の多い地域だからだろうか。
年による差はあるものの冬場は結構な積雪があるのだ。
ヨルスの館から少し歩いた所でグレシオスは手近な雪をすくい取り、それで顔をこすった。鋭い冷たさが眠くもない目を覚まさせてくれるようで心地好い。タデアスが差し出した布で濡れた顔や首筋を拭いた。
「……ゴロドは来るでしょうか?」
囁くような声でタデアスが云った。
「判らぬ。だが敵にゴロドが混じっている場合、次の襲撃には姿を現すだろう」
「……」
「不安か?」
「正直を申せば不安であります。この人数でゴロドを相手にできるのかどうか……」
「だがやるしかない。もしもゴロドが現れたら我等とメグレイスが中心になって戦う。それと槍投げに秀でた者が幾人か欲しい」
それで斃せるかどうかは疑問ではあるが、他に手はなかった。
「ジャグルの方はいかが致しますか?」
「坂の入口さえ塞いでおけば、ほうっておいてよい」
坂の入口へ通じる道は三つしかない。その内、村の正門へと向かう正面の道は広場に続いている。
広場は引き続きグレシオス達が守備することになるから残るは二つである。
その両方向からジャグルが襲って来るとしても、障害を置いて対すれば何とかなるかもしれない。
もっとも敵にゴロドがいるかどうかで、大分想定が変わってくるわけだが。
「……ゴロドが居るとすれば、ジャグルどもはすぐには襲ってきまい」
「ですな」
タデアスも同意した。
ゴロドの戦い振りは凄じい。敵も味方もない。目先で動いている者には全て襲いかかると言って良い。例外は同族だけである。ゴロドはゴロドを襲うことはない。少なくとも襲ったという話は聞かない。
しかし味方のジャグルが足元で戦っていても一向気にする気配はなく、踏み殺したり、空振った武器で撃ち殺したりといったことを、よくしでかす。
それゆえジャグルたちはゴロドの戦闘圏内に入ることがないよう、協同で動くときには気を遣っているのである。それでも犠牲になるジャグルが結構いるようではあるが。
要するにゴロドは味方から頼りにされる反面、恐れられているようなところがある。
人の例で云えばイスルバルディスのようなものだ。イスルバルディスというのはイスターリス信者の内、特別な密儀に参入した戦士達のことである。
彼らは生肉を喰らい、狼のように吠える。そして戦闘になれば狂ったように戦うのだ。
極度の興奮状態のため戦闘中に味方を攻撃することも決してまれではない。
イスルバルディスが強力な戦士として尊敬される反面、恐れもされる所以である。
ゴロドの場合イスルバルディスほど上等なものではないが、ある面似通ったところがあるのは確かだ。
「もし同時に村に入ってくるとしてもゴロドとは別に行動するであろう。我等はゴロドに集中し、あとの者達でジャグルの相手をしてもらう」
「それでは残りの村人達には坂の入口を死守させておくのみ、ということになるわけでございますか?」
「そうだ」
タデアスは呑み込みが早い。
先程に比べこちらの戦力も減少している。細かく戦力を割いている余裕はないし、またゴロドが居る場合には、指揮能力のある三人が全員でゴロドにあたるわけであるから細かい兵の運用など出来ようはずもない。
ゴロドが居ない場合にはやはり先程に続いて正門先の広場が主戦場になるであろう。そこを守備するのは己とタデアスである。
となれば、坂の入口に面した東西二つの道をやって来るジャグルどもは大した数にはならないだろう。
この場合には主兵力をグレシオスの元に移し、全力でジャグルを叩く。
いずれにしても途中にあるのがヨルスの館である。敵を確認次第、ここを経由して連絡を走らせ、こちらの動きを決める。
「ゴロドが居なければ少しは楽になりますな」
「援軍が来なくとも凌げるかもしれぬな」
「頼もしいお言葉です」
「なに、空威張りよ。本当はどうなるものかと脅えておるさ」
グレシオスの言葉にタデアスは僅かに微笑んだ。
「何がおかしい?」
「失礼致しました。そのようなお言葉を口になさるとは思いませんでしたので」
「不安か?」
「いいえ。むしろ安心いたしました」
「ほう?」
問を向けたが、タデアスは困ったような顔をした。口にするのを躊躇っているようだった。
「構わぬ。何でも云え」
「はあ。でしたら口にいたしますが、どうもその、大殿はいつも気張っているように見えましたもので……」
「儂が無理をしていると?」
「私にはそのように見えることがよくあったのです」
「……」
云われると思い当たる気がしないでもない。もっともそう考えられるのはつい最近、いやさ今日になってからのことだが。
物見櫓からの一射によって、何かが大きく変わったのだ。
「それがここ数日、大殿は徐々に柔らかくなってまいりました。私にはそう感じられたのです。思うに、あのお客人の御陰ではありますまいか――」
グレシオスは答えなかった。答える必要がないと思ったからである。
そうなのだ。
あの男はいきなり現れ、僅か数日でグレシオスの中にあった何かを大きく変えてしまった。
それは何であるか? 今は判っている。
恐怖だ。気付かないようにしてきた恐怖である。
今は違う。あの一射は恐怖の正体を暴き出し、それと抗う必要のないこと、ただその正体を認識すればよいことを示した。
認識すれば、恐怖は去る。
そのためには正しい認識、人間精神の完全な自由さが必要だ。
まるで神官のごとき言い種だが、今のグレシオスには王都の神官たちが云う言葉の意味が身の内に響くように感じられた。
己だけではない。タデアスにも活力のようなものが漲っている。
あの男は主従の何かを大きく変えてしまったのだ。
ただし生きるか死ぬかの戦いの場に投げ込まれることがなくば、その変化には気付けなかったかもしれない。
それともこの戦い自体が変化の一部なのか……。
そこまでは判らない。タデアスにも判らないであろう。
運命は人智を越えている。運命の女神の支配する天秤は何者によっても動かされることはなく、ただ定めを告げるだけである。
「あのお客人は無事にギルテに着けましたでしょうか……」
「奴ならば問題はない。必ずギルテに辿り着く」
確信を持ってグレシオスは言った。タデアスが顔を窺ったが何も云うことはせず、二人は黙って歩いた。
足の下では雪がきしきしと鳴った。その下では氷が生まれている気配がある。
雪が降ってはいるものの、これから朝に向けて寒さはさらに厳しくなりそうであった。




