第十二章 影
広場に向かう途中、雪が降り始めた。
恐れていた雪だが、いざ降り始めてみると不思議と恐怖や危機感は感じなかった。
風さえ、吹雪さえ吹かなければいいのだ。ならば雪は暖かさを齎らしてくれる。
デルギリアの雪は水気が少なく、さらっとしている。
音もなく天の闇から雪が降りてくる。
はらはらと軽く降りかかってくる。
それが何故だかひどく物寂しく感じられた。
広場では動ける者達が負傷者の治療にあたっていた。見ていて手際が良いとは言えなかったが、治療にあたる村人達は真剣に黙々と作業をしていた。
薬草を煮る臭いが辺りに漂っており、神殿からは呻き声や泣き声のようなものも漏れ聞こえていた。
「御領主様!」
見張りに立っていた村人が気付いて駆け寄ってきた。
「何人、犠牲になった?」
グレシオスの言葉に村人は辛そうな顔をした。
「……十人です」
予想していたよりも多い。グレシオスは瞑目した。
「そうか……皆よく頑張った」
「はい」
タデアスが労うように村人の肩に手を置いた。村人はこみ上げる思いを堪えるような表情をした。
「……みんなの様子をみてやって下さい。俺たちではよくわからねえこともありますんで」
「判った」
遣り取りを見ていた他の村人が寄ってきた。グレシオスとタデアスはその者達に自分達の槍と盾を渡した。
神殿の中には負傷者が並べて寝かされていた。その間を、やはり治療役の村人達が動き回っている。中にはグレシオスの館から呼び出された女達もいる。メグレイスの指示によるものだろう。
負傷者の横に坐り込んで泣いている女がいた。女の背後に隠れてよく見えないが、様子からしてもう死んでいるのではないかと思えた。
多分、息子であろう。床に寝かされた姿はまだ若く、骨も細そうな頼りない体つきだった。
女は声を上げて泣くのではなく呻くように泣いていた。
しばらくグレシオスはその姿から目が離せなかった。
「御領主様……」
治療にあたっていた村人が指示を受けるべく話しかけてきた。
「血止めを優先しろ。それとモイラスを呼んでくるように。子供と老人はそのまま館で待機させろ。それともう数人、女達に降りてきてもらえ」
村人が頷く。
「男達には村内の見回りをさせろ。まだジャグルが残っているかもしれん」
「そんな……」
「油断するな。特に村の境をよく見回れ。最低でも二人一組でな。決して一人で見回ってはならぬ。タデアス」
「はい」
「見回りの指揮を執れ。儂は負傷者を見て回りたい」
「かしこまりました」
話しかけてきた村人を連れてタデアスは外に出て行った。
グレシオスは負傷者の間を歩いた。
血の臭いと薬草の臭いが混じり合って漂い、苦悶の呻き声が耳に入ってくる。
見知った顔の者達が苦痛に呻き、あるいは死して寝かされている様を見るのは辛い。
立場上こうした状況に多く接してはいる。だが慣れることは無い。いつになってもやはり胸の奥には痛みのようなものが走るのだ。
それは変わらないが、今回の戦いは常にも増して辛かった。
戦場では日常的な光景であっても、ここに傷つき死しているのは、戦士ではない村人なのである。
そのことが今までよりもグレシオスの気持ちを暗くさせているのだった。
「ご、御領主様……」
ひび割れたような声で呼ばれた。柱の陰になっているのですぐには誰だか判らなかった。
「……ダイオン」
変わり果てた姿であった。全身に包帯が巻かれているがあちこちに血が滲んでいる。
一目見て助からないと判った。
「やりましたぞ……一匹残らず……」
「無理をするな」
云ってダイオンの傍に膝を着いた。
「……ハノンがやられちまいました」
「そうか」
グレシオスは頷いた。ハノンはダイオンの真ん中の息子である。
「ネモンとイドンは?」
ネモンが長男、イドンは末の息子である。
「ネモンが……俺を、担いできたそうです……イドンは……しらねえ」
「二人とも無事であろうよ」
気休めだと思いつつ云ってやると、ダイオンは顔を歪めて笑った。
「あいつらには……まだまだ、教えてやらにゃいけねえ」
「そうだな。武具の修理もして貰わねばならぬし、何よりもこの戦いが終われば沢山の仕事が待っているぞ」
「まかせて貰いましょう……そう言いてえが……」
「うむ。頼むぞ」
ダイオンは呻いた。血を吐いた。その様子に気付いた者が急ぎ寄ってくる。治療役の娘だ。グレシオスは手で制した。
「俺は、もう……駄目みてえです」
「そんなことはないぞ。傷は浅いとは言えぬが助からぬと決まったわけでもあるまい。気持ちをしっかり持て」
「人使いの荒え、お方だとは思ってましたが……」
「性分だ」
知らずダイオンの手を握っていた。大きく分厚い頑丈な手だが、やけに冷たかった。
ダイオンの呼吸が怪しくなってきた。近くに立った娘が狼狽している。
「あの世でも……鍛冶の仕事は、ありますかね……」
「儂の父祖達が坐す。武具の修理が山ほど有るぞ」
イスターリスの信者の内、特に剛勇傑れた者は死後冥界において特別の待遇を与えられるのだと信じられている。
その者達はイスターリス自らによって『勇者の館』と言われる宮殿に集められ、日夜武技の訓練に明け暮れているのだという。
やがて来る戦いに備えて、戦神の下で再びその武勇を振るうために。
グレシオスの父祖達はそのほとんど全てが勇者の館の住人となっているはずである。
グレシオスはそう信じているし、セウェルス族の者達もみな同じように信じているであろう。
「……そりゃあ、名誉なことだ……」
「お前の手で剣を打ち、鎧を直して差し上げてくれるか?」
「……俺は、勇者の館に……呼んで貰えるんですね?」
「お前が嫌だと言ってもな」
ダイオンは苦しそうに笑った。再び血を吐いた。
「名誉な……ことだ……」
その言葉を最後にダイオンは静かに息を吐き、動かなくなった。
グレシオスは目を閉じた。
祈った。このような時、そうしてきたように心底祈った。
――我が父祖たる大神イスターリスよ。この者を何卒、勇士の列にお加え下され……。
ダイオンの目を閉じさせてやった。
「あの……」
立っていた娘が怖々話しかけてきた。
「……死んだ。必ずや勇者の館に向かったことであろう」
グレシオスは立ち上がろうとした。大きな力が必要だった。肉体的な力だけではなく、気持ちの上でも力が必要だった。
「引き続き治療にあたれ。死んだ者はそのままでよい。葬儀は後で行なうゆえな」
「はい」
娘は既に啜りあげていた。
一当たり順に負傷者を見て回るとグレシオスは神殿の外に出た。
雪が降っていた。篝火はまだ燃えている。この程度の雪ならば大丈夫だろう。
「御領主様……」
雪の中にイドナが立っていた。
「無事だったか」
「……はい」
イドナは俯いて、消え入りそうな声で答えた。
理由は分かった。おそらくイドナは連れていた弓隊やアルテーア達を置いて逃げ出したのだろう。
メグレイスの所へ向かわせたフィオレや、アルテーア達の屍体のあった様子からそれは想像がついた。
「お前はよく戦った」
「……」
「自分を責めるな。生き残った者達の手当てを手伝ってやれ」
「……はい」
イドナは洟を啜った。グレシオスはイドナの肩を叩き、その頭を撫でてやった。
「お前は十分に戦った」
イドナは泣きながら頷いた。弓をしっかりと握りしめている。手は返り血にまみれていた。
グレシオスはイドナを連れて神殿近くにあるメグレイス達の館に向かった。
神官達が起居する施設であるが、今は前線基地というか、治療所として機能している。
湯を沸かしに来る者、切り取った衣服や包帯を持ってくる者が繁茂に出入りしていた。
イドナは入り口に立ち、やや戸惑うような表情でその様子を見ていた。近くに懸かった夜光燈の燈りがその顔を照らしていた。
「手伝えるか?」
イドナに聞いた。
「はい。手伝わせて下さい」
「そうか。だが疲れているようなら休んでもよいぞ。あまり無理はせぬようにな」
イドナは頷いた。
「御領主様は……」
「儂はこれからやることがある」
答えながらカトールを脱いだ。大分返り血を浴びたので濡れてしまって少々脱ぎにくい。イドナが手伝ってくれた。
カトールと一緒に兜も脱いだ。近くのテーブルの上に置いた。雪が降ってはきたが、このままだと寒いので壁に掛けてあったフェトゥーラを取った。
肩の周りにフェトゥーラを巻き付け、固定すると、椅子を引いて腰を下ろした。
途端、疲れがずしっと身体にかかってきた。口から軽く溜息が漏れた。
イドナが湯を持ってきてくれた。
「すまんな」
負傷者に使う湯を分けて貰ってきたのだろう。今は酒よりもありがたかった。
熱い湯を啜っていると神殿の方から人の気配が近づいてきた。
「ここに坐しましたか」
タデアスだった。
「ごくろう。ジャグルは?」
タデアスが兜を取り、近くの椅子に腰掛けるのを待ってからグレシオスは尋ねた。
「予想よりも多くいたようですな」
グレシオスは頷いた。それはアルテーアがやられた時に薄々感じていたことでもある。
「逃げ去るジャグルなど見なかったか?」
「姿は。ただし北東の柵の下に穴が掘られておりました」
進入用の穴であろうが逃げ出すのにも使われたかもしれぬ、ということである。
「そうか……ところでネモンとイドンを見なかったか?」
「ダイオンの倅ですな」
タデアスの表情が曇った。
「ネモンは無事だと聞いている」
「はい。今、広場におります」
「……イドンは?」
「残念ながら……」
僅かな沈黙があった。
「そうか」
グレシオスは呟くようにそれだけを云った。
「……一応、正門を見てこよう」
「屍体の山の他は何もありませんぞ」
腰を上げかけるとそれを制するようにタデアスが言った。無駄足をする必要はないと云いたいのだろう。
「なに、気分的なものよ」
「では私も」
タデアスも立ち上がった。
「お前は休んでいるがよい」
「いいえ。大殿がゆかれるのですから」
万が一があっては、とでも言いたげである。
「屍体の山しかないと云ったではないか」
呆れて指摘してやると、タデアスは困ったような顔をした。
「ですが……」
「判った。取り敢えずカトールを脱いでフェトゥーラを羽織れ」
諦めて手を振った。タデアスはいそいそとカトールを脱ぎ、丸めて床の端に投げた。雑な扱いだが、どのみち返り血が酷くてもう着られたものではないからだ。
壁に歩み寄るとフェトゥーラを取り、手早く身に着けた。それから今脱いだばかりの兜を手に取った。
「参りましょう」
グレシオスはタデアスを連れて外に出た。
神殿の入り口で火にあたっている村人から、それぞれ槍と松明を受け取った。盾は持たなかった。
正門に向けて歩き出した。広場に出るとすぐにあちこちに戦いの跡が見いだされた。ジャグルの屍体は一纏めに積み上げられており、武器は回収してあった。
村人の遺体は一つもなかった。
広場を抜けると道は綺麗になった。と言っても血の汚れがなくなっただけで、踏み荒らされた跡は依然残っているのだが。
しかしその上にも雪が積もってきており、明日の朝には真っ白に蓋われることだろう。
手元の松明がぱちりと音を立てた。火の粉が僅かに舞う。
村の正門が見えてきた。
「ドーロスは無事だったのであろうか」
呟くと、タデアスが後ろから答えた。
「戦死いたしました」
「……そうか」
再び二人とも黙り込んだ。交わすべき言葉がなかった。
今は何かを云って気分を紛れさせるよりも、じっとこの沈黙に耐え続ける方が良いという気がした。タデアスもそうであろうと思った。
「上に登ったか?」
「いいえ」
「それでは意味がないではないか」
「申しわけございません」
たしかに今さら門に登ったところで何も見えはすまい。逃げたジャグルの背中すら見えないだろう。
そう思ってはいたがグレシオスは梯子に手を掛けた。手のつく辺り、軽く雪を払う。
槍を立てかけて梯子を登った。
足場上にも雪が薄く積もっていた。デルギリアの雪は融けない限り滑る事はそうないが、高所でもあるし、一応用心して立った。
村へと続くブレイオン街道へと目を遣った。松明を翳してみるが無論ほとんど先は見えぬ――はずだった。
道の先。
木の傍に、小柄な影が立っている。
赤い瞳がこちらを見ている。
グレシオスは総毛立った。
すぐに考え直した。たかが松明の火でここから細部を確認できるわけがない。ひょっとしたらジャグルではないのかもしれぬ。何かの影がそう見えているだけかもしれぬ。
赤い瞳などそもそも見えてはいない。そう感じただけだ。
グレシオスはもう一度しっかりと、木の傍の影を見据えた。
影が動いた。
道に向かって歩き出す。すぐに闇に溶け込んで見えなくなった。
「如何いたしました?」
続いて上がったタデアスが傍に寄ってきて尋ねた。
「村人を集めろ」
グレシオスは短く、そう命じた。




