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雪刃  作者: 琴乃つむぎ
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第一章 旗

 日輪にちりんの輝きに十字をあしらった旗が、風の中に翩飜へんぽんひるがえっている。アラトナ教徒の紋章である聖光十字章せいこうじゅうじしょうだ。

 赤い旗が幾本も並び立ち、その下にレメンテム帝国の軍勢が大きくひろがっていた。

 距離は、まだある。

 敵兵の顔を判別するには到らないが、整然とした陣容じんようはここからでも充分にて取ることができた。

 中央には歩兵部隊。体の前に大盾を置き、槍を立てた兵士達が並ぶ。

 長大な陣の左右には騎兵部隊。主にレメンテム帝国の貴族からなる部隊であるという。

 歩兵が平民、騎兵が貴族という図式は、どうやらどこの国でも同じようだ。

 陣の間を時折、連絡と思しき騎馬が駆けてゆくのが見える。

 間違いなくそこに『敵』がいた。

「奴ら考えていたよりも足が速いですな」

 脇に立った従士のタデアスが半ば感心したように、しかし侮蔑ぶべつめた口調でそうつぶやいた。

 グレシオスは顔を向けてタデアスを見た。

 若い。髪の毛もひげも銀色だ。

 お互い今では髪にも鬚にも、もうすっかり白い物が混じってしまっているのに。

 こうして夢の中で見る姿は、やはり当時のままに若い。

 この戦いの時、グレシオスもタデアスもまだ二十才だった。

「……信仰心のなせるわざかも知れんな」

 答える己の声も若く聞こえ、のどにも力を感じた。

 グレシオスの言葉にタデアスはしっかりとしたうなずきを返し、それからまた挑戦的な眼差まなざしをレメンテムの軍勢に据え直した。

 両軍が対峙たいじしているのは平原だった。

 このいくさの後に、その名も広く知られることになるベルガイアの平原である。

 朝靄あさもやがゆっくりと動いている。

 かすかながら風があるのだ。

 朝の穏やかな風は草の上を渡り、そのままグレシオスたちの髪の毛までを軽く揺らしてくる。

 耳に聞こえるのは甲冑かっちゅうの鳴る音と、馬の吐く息、そして味方の旗が風にひるがえる音。

 余計な口を利く者はない。それは敵側も同じだったろうと思う。

 しかし自分たちは会話をした。その事を憶えている。

 今にして思えば興奮していたのだろう。

 初めての戦ではない。

 にもかかわらず血がはやったのは、この戦の時、グレシオスは初めて、先槍をつける役目を王から与えられたからだ。

 静粛の中、えてタデアスと言葉を交わしたのは、自らを落ち着かせるため。

 大いなる名誉のために、どうにも身が落ち着かなかったからではなかったろうか。


 ベルガイアの戦い――。


 今より四十年以上も昔のことだ。

 西方レメンテム帝国の軍勢が、エリュオーン海に深く入り込み、ガレノス陸橋りくきょうを目指して我がローゼンディア王国に攻めてきた事があった。

 ガレノス陸橋とは王都を含む地域一帯を呼び慣わしたものである。

 王都ガレノスは北にフェルシナ大内海を、南にゼレーア海を控える大陸橋上に存在しているからだ。

 陸橋の地下深くには海流が流れ、フェルシナ海とゼレーア海とは実は地下深くでつながっているのだという伝説もあるが、真偽のほどは判らない。

 ゼレーア海はドライデース半島を越えたところからエリュオーン海に入る。

 半島突端のみさきには、神話の時代に天の雄羊が幼い兄妹を背に乗せて駆け渡ったという物語が伝わっており、ローゼンディア人にとっては馴染みの深い場所である。ここより先がエリュオーン海になる。

 そしてエリュオーン海こそはローゼンディアの海である。

 古来より数多あまたの伝説、そして物語の舞台となってきた海である。

 エリュオーン海はまた、より宏大こうだいなミスタリア海の一部を成している。

 ローゼンディアもレメンテムも、ミスタリア海に面し、それを中心とする世界の中に存在している。海に面する全ての国がミスタリア海に連なっていると言っていい。

 今より四十年以上も昔のことだ。

 西方レメンテム帝国が、大軍を動員してローゼンディアに攻めてきた。

 それも今までのように西方の大河アルギオンを渡渉としょうせずに、多数の船団を組織してエリュオーン海を東に進み、ローゼンディア王国の西部アズベルタ地方に上陸、そこから直接に王都のあるガレノス陸橋を目指すという大胆な作戦であった。

 レメンテムとローゼンディアでは奉ずる宗教が違う。レメンテムはアラトナ教を、ローゼンディアではヴァリア教を信教している。

 アラトナ教は異教の存在を認めない。

 そのためレメンテムは事ある毎にローゼンディアに対して『聖戦』を名告なのる侵略を繰り返していたが、この時の軍勢はそれまでの規模を大きく超えるものであり、しかも王都を直接目懸(めが)けて侵攻してきたので、ローゼンディアではかなりの危機意識を持ってむかったのだった。

 結果として戦いはローゼンディアの大勝で幕を閉じ、レメンテムは死者六万五千人、捕虜一万人以上の犠牲を出すこととなった。

 ローゼンディア軍を指揮したのはゼメレス公クレオラ。

 輪廻りんねの輪を支配する偉大なる狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)、角持つ一族の、東の宗主。

 ゼメレス族をたばねるゼメレス宗家は、王国貴族の頂点に立つ七宗家の一つである。

 数ある王国貴族の中にあっても、七宗家は別格の存在として絶大な尊敬を受けている。

 王家やグレシオスのセウェルス家を含めて、ゼメレス家もその七宗家の一つなのだ。

 狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)には、東のゼメレス家と西のヘカリオス家が並び立っているが、ゼメレス家では家長に女性が立つことが普通である。時には男性が家督を相続することもあるが、かなりまれなことであると言われている。

 事実、先代はクレオラの母であり、そのまた先代はその母であり、クレオラもまた女性である。

 ゼメレス宗家は女子直系の名門であった。

 目の前に兵を拡げるレメンテム帝国にあっては、考えられないことであろう。

 聞くところによるとアラトナ教の教えでは、女性は知能的にも能力的にも問題のある、男性以下の存在であり、男性による保護と管理が必要なのだという。

 これを聞くとローゼンディアの男たちは口を開け、女たちは目を丸くすると言われているが、グレシオスもそうであった。驚くべき教義と言わねばならない。

 であるから女性が家督に立つなど、ましてや一国の軍勢をひきいることなど、レメンテム帝国にあっては到底信じられない事であろう。

 だがローゼンディアにあってはそれが起こるのだ。

 事実、王の左に馬を並べるクレオラは、ゼメレス家長であり、大軍を指揮する将軍であった。

 無論、軍の最高位にあるのは王である。

 だがこの戦では、王はむしろ象徴的な存在であり、実際に全軍を動かしていたのはクレオラだった。

 今、クレオラは王の左にくつわを並べているが、これは無礼にはあたらない。

 七宗家は王家に匹敵する名族であり、古くは七王宗家とも呼ばれていた時代すらあるのだ。

 だから臣従していると言うよりも、諸侯の盟主としての王家に協力していると言った方が正しい。

 これはヴァリア教の教えによる。聖典によれば主神であるヴァリアを除き、神々の間に序列の差はないと記述されているからである。

 ゆえ太陽神の末裔(アクスヘーレイ)たる王家と、他の六宗家との間には序列の差はない。

 とはいえ王は王である。

 グレシオスを含め、全ての兵士が太陽を仰ぎ見るが如く感じ、まぶしい眼差しを向けている。

 クレオラが王に何かささやいた。聞こえはせぬが、何を言ったかの見当はつく。

 その優美な肩に掛かった緑のフェトゥーラが朝の風を受けて揺れている。ほどこされた銀の縫い取りが光を反射して、ちらちらと踊るように見えた。

 フェトゥーラは外套がいとうの一種である。袖なしのゆったりした外衣で、衣服や鎧の上からでも羽織って着る事ができる。

 彼女のフェトゥーラの中央には大きく、骨を組み合わせて作られた車輪の図案が、銀糸で刺繍ししゅうしてあった。

 ゼメレス族の聖章たる『銀の車輪』である。

 振り返って自分達の陣に立つ旗を見上げた。セウェルス族の聖章たる『ワタリガラス』である。

 味方の戦列を見渡すと、他にも『金鎚かなづち』や『三叉銛さんさもり』といった七宗家の聖章が立てられている。

 急な戦でもあるし、動員できる兵には限りがある。

 しかも全兵力をガレノス陸橋に集めるわけにもいかぬ。敵はレメンテムだけではないのだ。豊かなるローゼンディアを狙う国は多い。

 故に軍勢の数としては王国の全兵力を動員できたわけではない。

 だがこのように諸侯はほとんど全てが参集していた。

 歴史的な一戦であったと言っていいだろう。

 ゼメレス公クレオラはこの時二十四才。

 この時点では、王国内でもクレオラの能力を知る者はほとんど居なかったであろうが、ベルガイアの戦い以後、彼女の名はミスタリア海を中心とする周辺世界にとどろき渡ることになった。

 圧倒的に数にまさるレメンテム軍を完全に包囲殲滅ほういせんめつしたからである。

 レメンテム帝国はベルガイアの戦いで建国以来の大軍を送り込みながら、約半数のローゼンディア軍に徹底的に殲滅され、その死者六万五千人以上を数える事となった。

 しかしながらローゼンディア軍の損失は、わずか五千七百人に過ぎなかったと言う。

 ベルガイアの戦いは周辺諸国を震撼しんかんさせた。近隣の国々は、若き天才の出現に大きな衝撃を受けたのだった。

 そしてこの戦の後、レメンテムが大兵を動かすことはなく、平和は今に至るまで続いている――。


 兵の一人が、首に朱を巻いた投槍を捧げ持ってきて、静かにグレシオスに差し出した。

 古来よりのならわしにより、戦闘の開始を告げる最初の一槍を投じなくてはならないからだ。

 この役目を王より命じられた時は、さすがに身体がふるえた。

 すでに幾度か戦場いくさばに立ったとはいえ、これほどの大戦で、しかもそれほどの大役を命じられるとは思っていなかったからだ。

 年齢的には問題ない。立派に戦士として認められるとしに達してはいるし、これまでの幾つかの戦いで、おのれの勇敢さを示してきたと自負してもいる。

 しかしグレシオスはやはり、まだ若かった。

 槍を受け取ったてのひらや指に、細かいしびれのようなものを感じた。きっと汗も掻いていたことだろう。

 軽く周囲を見回して始めて、周囲の者がみな、自分を見つめているのに気付いた。

 すぐ近くには従士のタデアス、斜め後ろには叔父エウスタスが立っている。その他、近くにいる兵達の全てが、グレシオスを無言で見つめていた。

 王の招集にせ参じ、故郷デルギリアからずっと長い騎乗を共にしてきた家臣達だ。

 彼等は一人残らず、強い、しかしグレシオスを支えるような眼差しを向けてきている。

 そこには信頼と励ましとが籠められていると思った。

 不意に叔父が、グレシオスの肩に手を置いた。

 早くに亡くした父に代わってグレシオスを教え導き、平時戦時のいかなる場合においてもはんを示し続けた偉大なる叔父だった。

 生涯をかけてグレシオスを支えまもった人だった。

 深く敬愛した叔父は、今はもうこの世にはいない。

 叔父にとって最後の戦いとなったこの戦の時にも、やはりいつもの金猪きんじし飾兜かざりかぶとかぶっていた。

 そして叔父はこの時も、やはりいつものように誇らしげな、暖かい眼差しをグレシオスに向けてくれていた。

 それで気持ちが落ちついた。胸の奥に力のかたまりのような物が生じるのを感じ、無言で数歩前へ出た。

 その途端、グレシオスはローゼンディアの全軍勢の中で、もっとも敵に近い場所に立っていた。

 そのまま投擲とうてき姿勢を取った。全身の偉大な筋肉が隆々(りゅうりゅう)と盛り上がるのを自覚した。

 味方は、声一つ立てずに静まりかえっている。

 敵は、揺れる旗の下でわずかな動きを見せている。

 緊張があった。

 それは人の世の緊張だった。朝の平原はどこまでも静謐せいひつで、涼やかな大気がただ静かに拡がり流れているだけだ。

 頬をでる風が心地よい。

 遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。

「おおおおおおっっっ!!!」

 グレシオスははらの底からの叫びを上げた。

 地を蹴った。走った。そして全身の力を込めた一投を放った。

 己が砕け散るような高揚の中、槍が手を離れ、朝の空に吸い込まれていく――。

 その光景を憶えている。

 今でもはっきりと……。


   *


「…………大殿おおとの

 ためらいがちに呼びかけられる声でグレシオスは目覚めた。タデアスが近くに立っていた。

 どうやら椅子にすわっている内に、うたた寝をしていたらしい。

「お休みのところ申しわけございません」

 タデアスは頭を下げた。夢の中とは違い、すっかり白髪になってしまっている。

 それは己も同じだが。

 グレシオスは頭を振って目頭をんだ。そうして夢の残りを追い払うと、タデアスに用向きを言うよううながした。

「何があった?」

「はい。また例のお客人が訪ねておいでです」

 またか、と思った。ここ数日グレシオスの屋敷を訪ねてくる男がいる。

 夜になるとやって来て、遅くまで話し込んでは朝方に帰っていく。

 泊まるように勧めても男は首肯しゅこうしない。必ず、朝が来る頃になると腰を上げて元来た道を帰ってしまう。

 一体何処(どこ)に帰っているのか。

 この屋敷を除けば近辺には泊まれるような民家などそうはない。ここはテラモン大森林を北に控えた、寂しい寒村なのだ。

 隣村から来ているということも考えたが、それでは朝が来てから辞去する理由が分からないし、こんな目立つ男が逗留とうりゅうしていれば噂話の一つも聞こえてくるはずだった。

 いったいどこから来ている者なのか皆目見当がつかぬ。

 その意味では、薄気味の悪さも無いとは言えなかった。

「いつも通り暖炉の前に坐って待っておいでです」

「分かった。すぐ行く」

 グレシオスは腰を上げた。


   *


 男はいつも同じ恰好かっこうをして訪れる。

 深い青のフェトゥーラを身につけ、鍔広つばひろのウェムノン帽をかぶっている。

 ウェムノンは羊毛で作った不織布ふしょくふであり、毛氈もうせんともいう。

 簡単に言えば毛織物の仲間であるが、織らないで作る点が違う。薄く板状に加工でき、保温性に優れているが、織っていないので引っ張りなどの力に弱く簡単に裂けてしまうのが難点である。

 男は背が高く、肩幅が広い。灰色の髪と長い灰色のひげを生やし、青い瞳をしている。

 齢はグレシオスとそう変わるまい。しかし、男にはグレシオスが失ってしまった活力のようなものが、まだみなぎっていた。

「眠っていたのか?」

 グレシオスが向かいに坐ると、男はそう尋ねてきた。

「少しな」

「まだ眠るには少し早い。子供ではないのだからな」

 男の、どこかからかうような口調がグレシオスには不愉快だった。

「子供でなくとも眠りたくなるときはある」

「そうか」

 男は軽く答えたが、しかしにやりと笑った。

 なんだかあなどられているような気持ちになり、グレシオスはますます不愉快になった。

「そんな話はいい。それよりも今日こそ、お主の名前を聞かせてくれ」

 不愉快さを誤魔化ごまかすようにグレシオスは手を振った。

わしはガルハーイスと呼ばれている」

 ガルハーイスは『灰色の鬚をした者』という意味である。

 確かに男は長い灰色の鬚をしているが、それがとても本名であるとは思えない。

「またか!」

 グレシオスは渋い顔をした。男は再び、にやりと笑った。

 男はまだ、グレシオスに本名を明かしていなかった。

 客人からその名を聞き出せないと言うのは面白くない。始めは何か、やむにやまれぬ理由があるのかと思ったが、そうではないらしい。

 どうやら男は、グレシオスが色々と想像するのを楽しんでいるフシがある。

「儂はロヴォスと言われている」

 始めはそう名告なのった。しかしロヴォスとは『物知り』という意味の古い言葉で、本名とは考えられない。そう問いただすと男はあっさりと認めた。

 しかし実際、男は物知りだった。

 グレシオスが聞いたこともないような話を数多く知っており、それを次々に語ってくれた。

 いずれも興味深く、時の経つのを忘れてしまいそうになる話ばかりであった。

「儂はコッフェスとも言われている」

 ある時はそう語った。コッフェスとは『吊られた者』という意味で、とうてい人に付けるような名前ではない。グレシオスが即座にそう言って否定しても、男は薄笑いを浮かべるだけで取り合おうとはしなかった。

 奇妙な客であった。

 不愉快な客でもある。もしグレシオスが二十年若ければ、戦いになっていたかも知れぬ。

 しかしグレシオスは老いていた。もはや四肢ししにはかつてのような力は残っていないと感じていた。

 さきほどの夢の中のような、燃え盛る若さはない。

 暑い季節はとうに過ぎ去り、彼の人生は老境に、冬の時期に入ってきている。

 暖炉の火がぜた。

「今日はどのような話を聞かせてくれるのだ?」

「お主が望むのなら、なんでも」

 男は不敵に答えた。この謎の男はいつも不敵さをただよわせている。

 自分と同じように老境に入っているというのに、まったく活力を失っていない。

 肩は広く胸は厚く、軽く動かしただけで腕の筋肉がうねる様が見て取れる。

 背丈も長身のグレシオスよりなお高い。

 闘ったとしても、今のグレシオスでは勝つことはできぬかもしれぬ。

 だがそれが、この男と闘うことを避けさせている理由ではない。

 この謎の男は不愉快な相手ではある。不遜ふそんと言ってもいい。

 現在は隠退して家督を息子に譲っているとはいえ、グレシオスはローゼンディアの貴族なのだ。それも東方の要衝ようしょうデルギリアを支配する名門、セウェルス氏族の長である。

 ローゼンディア王国の貴族たちはみな、例外なく神々や英雄の末裔につらなっている。

 その中でもセウェルス氏族は、その遠祖を戦神イスターリスに求める戦神の末裔(イスタリヘーレイ)である。

 当然セウェルス氏族の身内たちは、俗称が家名へと転じた者達を除けば、全ての者がセウェルス姓を名告っているが、中でもグレシオスはイスターリスの子、英雄ヴェルデスから直系に血筋を辿たどれる家の人間であった。

 つまりはセウェルス姓の本宗家である。

 王国でも最高位を形成する七宗家の一つであり、数あるローゼンディア貴族の中でも、屈指の名族といっていい。

 だから男の態度は本来は許されるべきものではない。しかしグレシオスは何故か、そのことで男に怒りを感じたことはない。

 どこか挑戦的なものを感じさせる男の態度には、どういうわけかグレシオスを安心させ、何か大切なことを思い出させるような雰囲気があったからだ。

 とはいえからかうような言葉や、態度を示されるのは面白くない。

 そのたびにグレシオスは奇妙な反発感を持ってしまう。

 自分がこの男に齢若い相手として扱われているような気分になるのだ。

 齢を尋ねたことはないが、おそらく年齢は自分とそうは変わらないはずなのだ。

 男の態度には、どこか明らかに齢若い者を相手にするような雰囲気がある。それがグレシオスを刺激するのである。

 腹立たしさに似てはいるが懐かしいような、どこか不思議な感情を、男はグレシオスに抱かせた。

「齢を取った狼の話をしよう」

 おもむろに、男はそう言った。

 タデアスが盆に酒肴しゅこうを載せて入ってきた。干し肉とチーズ、果物、それと林檎の焼き菓子が盆の上に載っている。

 それらをテーブル上に手際良く並べると、火の具合を見、それから一礼してタデアスは部屋を出て行った。

 息子のヘクトリアスに家督をゆずったのを機に、グレシオスがこの寒村ナウロスに移ったのは二年前になる。

 以来、身の回りの世話は通いの老女と、このタデアスに任せきりであった。

 妻のディフォネは息子夫婦と、そして孫と一緒にやかたで暮している。時々様子を見に来るし、便たよりも繁茂はんも寄越よこしてくるが、グレシオスは館に帰ろうとは思わなかった。

 別段不満はない。家族に対してわだかまりがあるわけではない。

 ただ、家督を息子に譲り、父祖の霊にその報告をすませると、身体から何かが抜け落ちたように感じてしまったのだった。

 それまで自分を支えてきたはりのようなものが、消えて無くなってしまったのである。

 別段何もすることが無くなってしまったわけではない。館に居ればいくらでもするべきことは見つけられただろう。

 だがどこか己の役目が終わってしまったような、ばくとした寂しさがあるばかりであり、日常過ごしていても、ただ漫然と時の移ろいの中に身を置いているだけのように思えてしまう。

 まるで本来あっという間に過ぎ去るものがずっと続いているような、たとえるならば暖かな冬の午後の中に、いつまでも留まっているような気分であった。

 それは戦士として、領主として気を張って生きてきたグレシオスには耐えられぬことだった。

 穏やかな日々が苦痛にも近くなった頃、グレシオスはここナウロス村に移った。二年前の話である。

 村を見下ろす丘の上に小さな館を建て、そこに住むようになった。

 ギルテの領主館からは馬で三日ほどの距離である。それほど遠いというわけではないし、さりとて近いというわけでもない。そこが気に入ったのである。

 妻や息子達は、そんな自分を扱いかねているようだった。

「父上は急に偏屈になられた」

 たまに挨拶に来ると決まって、息子は困ったようにそう言うのだが、グレシオスにはそんな自覚はない。

 己が偏屈者かどうかと言われれば、いささか返答にはきゅうするものの、家督を譲ってから急激に偏屈者となったわけではない。

 人は齢を取れば、自然と偏屈者の仲間入りをするものだと言う者もある。

 だがグレシオスはそうは思わない。

 人が偏屈になるとすれば、やはりそれには何らかの理由があり、必然であると考えている。

 野山を駆け回る獣ではあるまいし、神々が特別に創りたもうた我々人間が、時の流れに応じてその有り様を変える事など、あるとは思えない。

 神官達も言っているではないか。

 人間には特有の属性として、精神が与えられている、と。

 人の性向こそは、その精神の働きを示すものに他なるまい。となれば偏屈さというものは、やはり人間精神特有の事柄ではないのか。

 人は、春になったらつがいの相手を探し、冬になったら眠りにく山谷の獣とは違うのである。

 そう考えているのだが、この事を他人に説明した事はない。

 いざ言葉にしようとすると上手くまとまらぬし、神官であるわけでもない己が、わざわざそんな講釈をするのも、おかしいのではないかと考えたからである。

 とまれグレシオスは、生まれ育ち、それまで暮したギルテの領主館を離れ、この村に移って来た。

 今でも村の連中は「御領主様」と呼んで有り難がってくれるが、自分ではもう隠居のつもりである。

 相談事や祝事のたびに、誰もが丘の上に住むグレシオスの元までやって来る。

 最近では隠居話を聞きつけたのか、近在の村からまで人がやって来る。

 まったく困ったものではあるが、だからといって、自分をしたってくる者たちが憎かろうはずもなく、館を訪れる者があるたびに、グレシオスはできるだけ丁寧に応対をするようにしていた。

 そんな自分が偏屈者だというのは、どうも納得がいかないのである。

 ただ、自分は何か大事なものが欠落してしまったのではないかとは思っている。

 それが何なのかは分からない。ひょっとすると単に老いただけであるのかも知れぬ。

 身体からだは、動く。

 もはや武器を手に持つことは少なくなったが、馬の遠乗りなど、領主館に暮した頃から変わらぬ日課に加え、この村に来てからはまき割りなどもやるようになった。

「そのようなことは私がいたします」

 グレシオスが薪割りをしていると、始めの頃はタデアスがそう言って、あわてて走り寄ってきたものだった。

 しかしここではあまりやる事がない。薪割りくらいはかえって気晴らしになるのだと答えると、やがてあきらめた。

 今は冬だが、春になれば釣にも行くし、狩もする。

 いささかおとなう人の数は多いものの、そういうわけで、傍目はためから見ればグレシオスは隠居暮しを満喫していると思えるかもしれなかった。

 が、それはあくまで外から見た話であって、内心はそうではない。

 寂しいような、あせるような気持ちが日増しに強くなってくる。

 さすがにタデアスは敏感にそれを感じているようであるが、どうにかできるたぐいのものでもなく、主従は一見平穏な、しかし内心納得できないものを抱えた毎日を送っているのであった。

「……昔あるところに三匹の狼がいた。三匹とも同じ齢だった。みな齢老いていた――」

 男は話し出した。

 いつものようにグレシオスは聴き役に回った。余計な口は挟まずに、ひたすら男の語るままを聴き続けるのである。

 酒はお互い手酌てじゃくだった。さかなも好きに手を伸ばして食う。

 それにしても片方だけがひたすらしゃべり、もう片方は黙ったままというのは、ちょっと変わった光景である。

 老境に差しかかった男二人が向きあって、酒を飲みつつ歓談するというのなら分かる。またはお互いに無言で酒を飲むというのならば、これも分かる。

 この二人はそうではない。ひたすら、片方の男だけが喋るのである。

 ちょっと珍しい光景だと言えるだろう。

 多くの知識を持ち、話題がつきないというだけでなく、男の語り口は絶妙だった。

 それだけではなく、詩を朗読したり、即興そっきょうで作ったりすることにもけていた。

 全くもって謎の男である。

「――こうして三番目の狼は星になった。イスターリスの連れている二匹の狼は、この狼の子供たちである」

 これも、初めて聞く話であった。

 しかもイスターリスに関係している話である。

 にもかかわらず、グレシオスはこの話を知らなかった。そしてその事を恥ずかしいと感じた。

 己の立場からして、当然知っているべき話であると考えたからである。

 無論広大なローゼンディア国土において、イスターリスに関係する話がどれほどあるのかなど、そういう話を調べて回る神官でもない限りは知り得ないだろう。

 だがグレシオスは、この地上でイスターリスに最も近い人間の一人として、何となく後ろめたいものを感じてしまうのだった。

「……お主の博識振りには頭が下がる。王都の神官たちでさえ、お主ほどに、ものをよく知る者は多くないであろう」

 グレシオスの賛辞を、男は微笑ほほえみで受けた。

 素直に喜んでいるようであるが、どこか冷めたような、落ち着いた雰囲気もただよわせているように感じる。

 これまでの付き合いからか、どうもそんな風に感じてしまう。グレシオスが勝手にそう思うだけなのかもしれないが。

 いずれにせよ、あまりこの男のことを深く考えてしまおうとするのは良くない。

 明日には来なくなる相手かもしれないのだし、何よりも、そんな風に相手を見るのは自分の流儀に反している。

 グレシオスは左手で果実酒のつぼを取り、空になった酒杯に注いだ。

 口に運び、ゆっくりと飲む。タデアスなどは一気にあおることが多いが、グレシオスはそうはしない。酒に限らず、飲み物はいつもゆっくりと飲み干すようにしているのだ。特に理由があるわけでなく、好みの問題である。

 男もまた、話し終えた後はゆっくりと果実酒を楽しんでいた。

 肴は十分に用意してあるが、この分だと酒の方が先になくなるかもしれない。だがタデアスは、よく心付く男であるから、何も言わなくてもその辺を見越して、酒を持って来るであろう。

「大殿」

 ほれ、思ったとおりだ。グレシオスは感心しながら振り向いた。

 ところがタデアスは酒壺をげてはいず、手ぶらであった。

 様子がおかしい。

 客をもてなす時の顔ではない。緊張した表情を浮かべている。

「どうした?」

 客人をおもんぱかっているのか、わずかの時間、タデアスは逡巡しゅんじゅんを見せた。

 だが重要なことなのであろう、すぐに強い眼差しをグレシオスに向けた。

「構わぬ。話せ」

「……ゾエ村がジャグルに襲われたそうです」

 ぽつんと呟くような、しかしはっきりとした声音でタデアスは言った。

 それで、場の空気が変わった。

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