旅の終わりは猫の町
不意に旅に出たくなる。そんなときは、たいてい現実が嫌になったときだ。今回も、現実が嫌になったのだろう。自分の事なのに、案外、明確に理由付けすることも説明することも難しかった。幸い、明日からは連休。あたしは会社帰りの足で、適当な電車に乗った。終点の駅は、無人駅だったがICカードが使えたので、改札はなんなく通れた。
問題は今夜の宿だ。ついた先は海の近く。波の音が穏やかに聞こえてくる。どこか泊めてくれるとこはないだろうかとしばらく歩いていると、民宿が一軒目についた。
(……ここできいてみるかなぁ)
とりあえず、チャイムをならす。出てきたのは予想に反して、大学生くらいの青年だった。
「あの、一晩の宿をさがしているんですが……」
あたしは営業スマイルで、そう彼に話す。彼の方は、頬を掻いて思案しているようすで、即答しなかった。
「ちょっと、待ってて。今さ、ここのおかみさんぎっくり腰で動けないんだ。聞いてくるから」
そういってあたしを玄関に残したまま、彼は奥の部屋へ姿を消した。
(ああ、迷惑な客になっちゃったかな……)
そんなことを思いながら待っていると青年は戻ってきて、一晩くらいなら泊まっていっていいけど、何もできないからそれでいいかって言ってるよというので、かまいませんと笑う。
そして宿泊名簿に名前を書いた。
「夕飯、食べた?」
青年が聞くので、まだですと答えるとじゃあいっしょに近所の食事処へいこうと誘われた。
親切なのか、下心なのか。まあ、そんなことはどうでもよかったあたしは、助かりますと言ってとりあえず、部屋に案内してもらった。そこは四畳半の狭い部屋。
「ここさ、釣り客がよく使うんだ。だから、普通の旅館みたいにテレビとかないけど、いいよね?」
「ええ、眠る場所があれば十分……ああ、そうだ。おかみさんに挨拶したいのだけど、大丈夫かしら」
そういうと青年はおかみさんのところへ案内してくれた。
「横になったままで、ごめんなさいね」
「いえ、泊めてただけると聞いて、すごく助かりました。うっかり電車を乗り過ごして終点まできちゃったので」
あたしはそんな嘘をついた。
「あら、そうだったの。疲れてるのに何もしてあげられなくてごめんなさいね」
「いえ、おかみさんこそ、ぎっくり腰、つらいでしょ」
「まあ、今は傷み止めが少しきいてるから、動こうと思えば動けなくもないんだけど」
おかみさんはちらりと青年をみる。
「ダメだよ。ちよさん。先生が絶対安静っていってたんだからさ。この人のことは俺にまかせてよ」
「はいはい、四郎君のいうことはちゃんと聞きますよ。うちの大事な常連さんですからね」
なるほどとあたしは思った。四郎君なる青年はここを定宿としているわかけだ。だから、勝手知ったる他人の家のごとく、あたしを案内できたのだとわかった。
そういうわけで、あたしは一晩、【民宿ちよ】にご厄介になることになった。食事はまかなえないというのがわかったっていたので、青年と外食することをつたえたら、ちよさんはよかったと安心してくれた。
「それじゃあ行こうか……えっと」
四郎君はあたしの名前が読めなかったようだ。笛吹と書いてうすいと読むのだから、読めないことはよくあることだった。
「笛吹って書いて【うすい】っていうの。笛吹蒼だよ。君は何四郎なの?」
「ああ、俺は木島四郎。趣味は釣り」
ぽつぽつとお互いのことを話しながら、食事処についた。四郎君はこんばんはといって店に入る。ここも常連なのだろうか。
「おお、いらっしゃい……お、なんだ四郎。彼女か?」
「ちょっといきなりそれ失礼だよ。重さん」
「ああ、そうだな。お嬢さんすまんね」
重さんはにこりと笑う。
あたしは別段気にもしてなかったので、こんばんはと返す。そして、カウンターに座ると重さんはお茶をだしてくれた。普通は水なのに、いい香りのするお茶だった。
「で?お嬢さんはどこに泊まってるんだい?」
「ちよさんのところです。電車乗り過ごして……一晩泊めてもらおうと」
「ああ、それで四郎がつれてきたわけか」
「そのとおり」
「じゃ、あとできよさんの飯詰めてやるよ」
「さすが、重さん助かるよ」
あたしは、なんだかほっとするような気分だった。今日知り合ったばかりの人たちなのに。
食事をしながら、おしゃべりしていてわかったことは、四郎君こと木島四郎は大学院生で社会学を専攻しているという。ここの町でフィールドワークという名の釣りを楽しんでいるそうだ。
「ここね。すごく面白い町なんだよ」
お酒が少し入った四郎は饒舌になる。あたしは面白そうなので黙って聞きながら、重さんおすすめの日本酒を手酌で呑んでいた。
「過疎化で高齢化がすすんでるんだけど、みんな元気に仕事してるんだ。でね、観光資源がなんだと思う」
「釣りかな?」
「うん、それも一つだけど、最大の資源がなんと猫なんだよ」
あたしはふっと思い出した。
「ああ、猫島みたいなことね。そういえば、結構、みかけたわね」
「あそこほど、猫の数は多くないけどね。ここ今は島ケ嶺市だけど、区長さんが40代で若いんだ。その上、無類の猫好きでここに越してきた人なんだよ。合併まえの町名が猫井居町だし、今は猫井区で猫好きの間では結構有名なんだ」
四郎はうれしそうに話す。どうやら、彼も猫好きらしい。
「じゃあ、町ぐるみで猫を飼ってるの?」
「飼ってるっていうよりゃ、共生してるって感じだね」
そうそうと重さんの言葉に四郎がうなずく。あたしは猫は嫌いじゃないが、猫好きというほどでもない。動物はインコくらいしか飼ったことがないから、この地区での取り組みにちょっと興味がわいた。
「猫が嫌いな人もいるんじゃないですか?」
重さんにたずねると、そうでもないよと笑う。笑うとちょっと強面がとてもいい顔になる。
「もともと居たからな。風景の一部みたいなもんだよ。苦手だから近づかないって奴はいるが、保健所に連絡しようなんてやからはいないね」
「なるほど。ああ、そういえば結構前に脳科学の研究で猫に関心がないひとでも、猫をみると癒しの効果があるって言ってたかな。どっかのワイドショーで」
「そう、それそれ。区長さんはそれで市を説得したんだよ。この地区の猫は保健所にいれないってね」
「区名も猫井をのこしてもらったんだっけなぁ。懐かしいねぇ」
重さんは釣り目を細めてた。
「だけど、数が増えすぎて困ったりはしないんですか?」
「うん、そのへんネックになったけど市と区を繋ぐ道路の建設をやめて、猫基金を設立したんだ。だから区役所には猫課があるんだよ。おもしろいでしょ」
四郎はにやにや笑う。だいぶお酒がまわっている様子だった。
「基金だと、収入が安定しないんじゃないの?」
「うん、しない。だから、雌猫は一回出産したら避妊するし、雄猫も四歳くらいになったら去勢するんだよ。そして病気は看ない。怪我は治療するけどね」
「病気は看ないの?」
「ああ、あいつらはそれが寿命だからね。ペットじゃなくて野良だから。それが自然なことだってのも、区長の意見さ」
「へぇ、そうなんですか。あれ?でも猫の年齢とかここに勝手に捨てちゃう人とか、そういうのはどうしてるんです?」
「うん、猫たちにゃ悪いが耳にタグをつけさせてもらってるんだよ。まあ、人間で言うピアスみたいなもんでな。なんとかチップっていうんだよな。四郎」
「そうICチップ。生後一年の子猫につけてるんだ。まあ、チップがなくても新参者だと猫たちがいじめるから怪我だらけで猫課に保護されるの。だから、基金が安定しなくても必要経費は避妊と去勢とチップ代ぐらいだからね」
「じゃあ、エサは?」
「昔ながらの猫まんまさ。あとは漁でとれた雑魚だな」
なるほどとあたしはうなずいた。面白い町だ。今回のぶらり旅は当たりだなとあたしは思った。そして一晩、【民宿ちよ】でお世話になった。
「ごめんねぇ。お客さんなのに朝ごはん用意させちゃって。」
布団に横になっているちよさんこと、里中ちよりは横になったまま、あたしにそういう。
「別にかまいません。あまり料理は得意じゃないけど、ごはんとお味噌汁と卵焼きくらいはできますから」
「俺ができればよかったんだけど……」
あたしの隣で申し訳なさそうに四郎がいう。彼は手先は器用なのだが、刃物が苦手らしく、お漬物のカブを切るのさえ、変に力がはいってとても厚切りになってしまった。だから、お味噌汁と卵焼きの味見だけしてもらったのだ。
「じゃあ、一宿一飯ってことで御代はいらないから、よかったらまた遊びにきてちょうだい」
あたしは素直にその行為に甘えた。というのも、現金の持ち合わせがなかったのだ。宿をでるときに四郎に尋ねる。
「猫基金ってどこで受け取ってもらえるの?」
「ああ、区役所に募金箱があるよ。猫、気に入った?」
「猫もよ。できれば、もう一泊したいけど、着替えもないし、現金も少ないから。切符は降車の時にカードあるから、どうとでもなるからね」
四郎はそうかとなんだかうれしそうだった。そして区役所の募金箱まで案内してくれたあと、駅まで見送りに立ってくれた。
「ねぇ、笛吹さん」
「ん?」
「また、来る?」
「そうだね。うん。なんか気に入った。今度はちゃんとお泊りせっともって来るわ」
「それ、いつごろになりそう?」
四郎がそういうので、次の週末かその次くらいと言ったら、さらりと言う。
「じゃあ、ちよさんところで待ってるよ」
あたしは、何それとくすりと笑う。四郎はちょっと不機嫌な、拗ねたような顔で言った。
「ちよさんが、またおいでって言ってたから……他の民宿の方がいい?」
あたしはなんだかくすぐったいような感覚を覚え、くすくすわらいながらちよさんとこにお世話になる約束をした。そして心の片隅でこの町が終の棲家になるような予感を覚えた。
【おわり】
本日五月十六日は「旅の日」ということで書きました。