遥かな空に
今が西暦の何年なのか誰も知らない。それは歴史が途切れたせいだった。今、生き残っている人たちが知っていることは、未曽有の大災害だったということと、人類は一度滅んだということだけだった。
(ま、あたしには関係ない話だわ)
くいは、大地を耕す。ぐちゃぐちゃになる前の世界がどんなだったか記憶している彼女は、この現在という地点で自分のできることをひたすら、行う日々だった。
不思議なことに、あの災厄の日。くいは一人生き残った。それから、食事をとらなくても、水さえ飲んでいれば生きていられる体になっていた。そして、歳も取らない。ずっと二十歳のままだ。彼女は病気で入院中にそれは起きた。大きな地震だった。人類が経験した中でもあれほどのモノはないだろうと思わせるほどの地震。それが世界規模で起こったのである。その日、くいは鎮静剤のせいでベッドから起き上がることもできなかった。
(ああ、ここで死ぬんだわ)
それも悪くないとぼんやりとした頭で考えているうちに、くいは眠ってしまった。目を覚ましたときには、病院の近くにある神社の境内だった。
よろよろと立ちあがり、なぜ自分がこんなところで目覚めたのかわからないなりに、病院にもどろうと林道を抜けて目の当たりにしたのは、崩壊した病院だった。病院は高台にあったから、そこから街を見下ろすことができた。街も崩壊していた。丁度、昔見た関東大震災の写真のように何もない。いや、あれよりは、瓦礫があるように思えた。だから、生きているのは自分だけじゃないだろうと思ったのだ。
(実際、ほぼ壊滅だったのよね)
くいは土を耕しながら、物思いにふける。最初は病院の瓦礫の周りで、誰かいませんかと一日中叫んだ。けれど、返事は何一つ返ってこなかった。瓦礫の隙間から手が出ていたから、生きているかもしれないと触れた途端、ごろりと腕だけが転げ落ちてきた。それを見た瞬間、くいはここに生存者はいないと悟ったのだ。けれど世界にただ一人残されたとは思わなかった。きっとどこかに生きている人間がいるはずだという奇妙な確信があった。
(そういえば、どうしてだかちゃんと服も靴も身につけてたのよね)
春先のできごととはいえ、寝間着ではどうにも動けなかっただろう。第一、靴を履いて眠ったわけがない。どうして服も靴も身につけていたのか、考えても仕方がなかったから、瓦礫の中からザックを見つけた。誰のモノかわからないが、緊急事態だからごめんなさいと言って中身をぶちまける。敷地内の売店があった場所に行った。瓦礫を押しのけて日持ちするような食べ物を探した。近くにあった自販機も倒れて中身が散乱していたから、そこから水やスポーツドリンクの入ったペットボトルを四本だけしっけいした。
あとはただひたすら歩いて家までもどった。その間に、誰かの声が聞こえないかと思ったが、風が吹く音や鳥の声しか聞こえなかった。
(全滅したのかな……)
そう思いながら、それでも諦めきれなくて耳はずっと誰かの声を探していたのだろう。どこからか、女の子のしゃくりあげるような泣き声とそれを懸命に励ます声が聞こえた。声のする方へ走っていくと小学四年生くらいの女の子と男の子が瓦礫の側にじっとしていた。
「ねぇ、生きてる!」
(今思えば、間抜けな言葉だったわ。生きてるから泣いてたのに)
二人の子供は自分の名前を覚えていなかったし、名前が書いてあるようなものも持っていない。ただ、二人でいたとそう答えた。だから、くいが最初にしたことは名づけだった。女の子には希、男の子には望。二人でいれば希望を失わないですむように。そうやって最終的に家につくまでに十人の男女のペアと出会って名づけをした。高校生くらい男の子と中学生くらいの女の子、男の子に元気、女の子には勇気。幼稚園の制服を着ていた二人には剛 と 優、勇気より幼い感じだが、中学生だとわかる制服の少年少女には、夏と春。最後に見つけた大学生風の男女には冬と秋と名付けた。そして全員を引き連れて、くいは自分の家に帰った。
幸いなのか、天の配剤なのか、くいの家は多少崩れていたものの雨露しのげる状態だった。書庫として立てたプレハブも無事だった。おかげで、わからないことは本で調べることがある程度できた。
あれから何年たったかわからないけれど、いつの間にか家族が増えることになった。秋と優が同じ時期に妊娠したのだ。もうすぐ、臨月。
(そろそろ、準備が必要ね)
くいは畑仕事を終えて、書庫となっているプレハブで出産に関する書物を探した。偶然出産シーンをえがいた漫画を見つけたおかげで、剛と冬をつれて必要なものを探して役所の瓦礫から災害時の物品を失敬してきた。無事に出産させることができるかどうか、不安がなかったわけじゃない。とにかく、産気づいたらどうするかよくよく全員で勉強した。
そして、とうとう二人同時に破水し、出産が始まった。てんやわんやしながら、なんとか赤ん坊が生まれた。勇気は男の子を、秋は女の子を生んだ。後産を終えた後、清潔な布団に二人を移動させ、暖かい布でくるんだそれぞれの赤ん坊をだかせて、初乳を与えさせた。二人ともうまく初乳が出たおかげで、新しい命は元気に育っていった。勇気の息子には未来となずけ、秋の娘には明日香となづけた。その子供たちも、もう三つにはなったようで、一人前の口をきくようになる。
(たくさん苦労した。悩んだし、どうなるかもわからなかった。ただ、二人の子供がうまれたときはっきりとわかったことがあるわ)
くいは空を見上げた。この遥かな空に思いを馳せて日々をすごした。きっと自分と同じようにこの空の下で新しい命を守るための特別な力を得た人間がいるだろうと。
そして、その命がある程度育てば、自分の役割が終わることも……。
この遥かな空にいだかれて、新しい人類史がはじまるのだ。それと同時に自分の役目が終わる。旧世界の記憶を持ち、変化のない体で生きたくいは、確信ししていた。
だから、その日の夜。美しい満月の下を歩き、家族にさよならも言わずに家を出た。くいの最期の目的地は海だ。生命の誕生したあの海に沈むことを決めたのだった。
【終わり】