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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

シングルファーザー

作者: くけここま

 離婚して息子を引き取ったまでは良かった。

 しかし思っていた以上に育児が過酷なものであることに男は気づいた。

 見通しが甘かった。そう言わざるを得ない。

 深夜、夜泣きに叩き起こされながら浅い眠りを繰り返し、朝の五時に起床。風呂に入り、自分の朝食と子供の離乳食を作る。身支度を整えて朝食を済まし、ぐずる子供を起こして食べさせる。

 家を出る頃には八時を回っているのが常だ。それから子供を託児所に預けて、ようやく職場に向かえる。朝だけでこれだ。

 これまで続けてきた仕事に加えて、朝夕の重労働、夜中の夜泣き、削られていく睡眠時間。これではいつ休めと言うのか。

 まだ一歳に満たない子供を見下ろして男は途方に暮れる。

 あと二、三年もすればもう少し楽になるのかもしれない。まったくというわけではないが、少なくとも今よりは手がかからなくなるだろう。

 しかしそれまで自分の体が、なにより精神がもつとは思えなかった。

 家政婦を雇える金があれば話は変わるだろう。だが生憎それほどには稼ぎがなく、かといって手を抜けるほどには仕事も楽ではない。思い切って転職をするのも手ではあるが、貯金が足りなかった。今までコツコツと貯めてきたのを離婚の際に根こそぎ持っていかれたのだ。

 刻一刻と時間は流れていき、そうして日々を重ねるごとに心が摩耗していく。八方塞がりだった。

 このままでは自分が潰れる。確実に訪れる未来に立ち止まることも許されず、ただ為すすべもなく歩き続ける毎日。これでは死ぬために生きているも同然ではないか。

 行き場のない憤りにストレスばかりが溜まっていく。

 そうしたある日、男は一つの決断をした。

 近場にある格安の事故物件を借りるのだ。大家が歳のために耄碌しているのも調査済みである。建物の築年数はかなりのもので、住人が少ないのも決めた理由の一つだった。

「よろしいのですか? 冗談でも何でもなく、ここの部屋本当に出るって噂なんですよ?」

「問題ないよ。ここに住むわけじゃないからね」

 周囲をしきりに見回しながら何度も確認してくる若いセールスマンに頷いて見せる。相手には表向き別荘として使うと説明したが、実際は子供を置き去りにするために借りる部屋だ。幽霊が出ようがまったく問題ない。

 幸い彼もそれで納得したのか、思いのほかすんなりと借りられた。

 連れてきた子供の手足を縛り、泣き声が漏れないように布団で簀巻きにする。外から見て不審に思われないようにカーテンだけは取り付けた。

 やや立てつけの悪い玄関扉を押し開けて部屋を後にする。

 どれぐらいで子供が死に、腐敗臭が漏れだすだろうか。そんなことを考えながら帰路に着いた。


 二週間後の深夜、様子を見に訪れた男は絶句した。

 どういうわけか、明かりのついた部屋で息子がすやすやと寝ていたのだ。

 それどころか部屋の隅には離乳食や替えのオムツまで置かれている。明らかに誰かが出入りしている様子だった。

 息をのみ、混乱する頭でなんとか状況を把握する。

 とにかく子供を連れて帰ろうと抱え上げたその時、玄関から

 カチャンッ

 と硬質な音がした。

「ッ……」

 誰かが帰ってきた音だ。幸い、自分は玄関から見えない位置に立っている。だが、数秒とせず発見されるだろう。

 男は瞬時に周囲を見渡す。家具のまったくない殺風景な部屋に人が隠れられそうな場所は一つだけだった。玄関扉が閉まる音に急かされながら、すり足で押入れに飛び込む。老朽化したフローリングがキシッキシッと鳴るのに合わせてふすまを閉めていった。

 果たしてどちらが早かったのか。祈るような気持ちで目を閉じ、薄いふすま一枚隔てた向こうの様子を探った。

「………………」

 沈黙が耳に痛い。確実にそこにいるはずなのに、不思議なことに物音一つしなかった。胸の内で焦燥感がじわじわと膨らみ、胃を押し上げていく。

 じわりと汗が首筋を伝っていった。息苦しい。まるでコールタールのように粘性を持って、空気がまとわりついてくる。口を開けて確かに肺を膨らませているはずなのに、うまく呼吸ができなかった。

 知らず力の入っていた腕の中で、もぞりと何かが動いた。全神経をリビングに向けていた男ははっとする。そして自分の間抜けさに絶望した。

 なんで息子を抱えたまま隠れてしまったのだろう。ふすまの向こうが動かないのも当然だ。息子はまだ歩けないのだから、隠れるとすれば部屋の中しかありえない。だから耳をすませてどこにいるのか探っているのだ。

 四肢をばたつかせてぐずりだす息子に強烈な殺意がわく。よりによってこのタイミングで泣かれでもしたら自分は破滅だ。

 その恐ろしい未来にカタカタと震える手をか細い首にかけた。緊張で力の入らない指を諦め、手の平で全体重をかけて気道を押し潰す。

 できるだけ静かに。ただそのことだけが思考の大半を占めていた。自分の子供を手にかける罪悪感もこの時ばかりは微塵も感じなかった。保身のためならばどこまでも冷酷になれた。

 やがてくてっと音もなく垂れ下がった腕を見つめて、ようやくほっと息をつく。久しぶりにまともに呼吸ができたような気がした。その空虚な安堵を暗闇に差し込んだ明かりが粉々にする。

 男が振り返ると、いつの間にか背中側のふすまが開いていた。

「……ミツケタ」

 ぬぅっと白い女の顔が押入れを覗き込んでくる。血の通わない蒼白な顔面にのっぺりとした無表情が張り付いていた。まるで死人のようだ。しかし両の眼だけは確かに自分をとらえて、ほの暗く爛々と輝いていた。

「ひっ……」

 悲鳴とも呼気ともつかない音が喉からもれる。背筋に走った怖気に体が固まり、金縛りにあったかのように動けなくなった。

「カエシテ……、ワタシノ……、ワ……シノ……」

 だらしなく伸びた髪の毛の隙間から、折れそうなほど細く青白い腕が伸びてくる。男の頬を撫でて足元に転がった死体に触れる。あり得ないほど伸びた腕は明らかに人のそれではなかった。

 恐怖で頭の中が真っ白になる。少しでも距離を取りたくて、押入れの隅でガタガタと震えた。

 白い女はそっと赤子の亡骸を抱え上げると、愛おしそうに頬ずりする。リビングの蛍光灯の光に照らされた赤子は女とは対照的にどす黒い肌をしていた。所々白い何かが赤子の肌を這い回り蠢く。それが何かを理解した瞬間、冷たい汗がどっとあふれた。

「ひっ、うわっ、あ、ああああ、ああああああっ!」

 悲鳴を上げ、ふすまに体当たりする。一刻も早くここから出たかった。

 何度か繰り返すうちにふすまが外れ、大きな音を立てて倒れる。不器用に四肢を動かし、玄関に向けて無我夢中で這った。歩いてたった数歩の距離が途方もなく遠く、自分が本当に進んでいるのかすらも曖昧だ。それでも逃れるためには手足を動かし続けるしかない。

 だが、そんな男の足をひやりとした手が掴んだ。

「い、いやだ、たすけて……」

 温かい液体が男の股間を濡らしていく。バタバタと足を痙攣させ、フローリングに爪を立てる姿はさながら瀕死の虫のようだった。無常にも男はずりずりと押入れへ引きずり込まれていく。

「いやだたすけてやだたすけてたすけてたすっ」

 涙混じりの懇願は誰に向けたものなのか。

 誰一人として生きている者などいないというのに。


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