第34話:虚の楽園
目の前に広がるのはのどかな街。
緑の牧場があって、丘の上には教会があって、可愛らしい家が立ち並ぶ。
剣士の町と似ているが、少し雰囲気が違っていた。
どこか空気がふわふわとしているというか。
道行く人々は皆幸福そうに笑っている。
(……これがあのばあさんの創った『楽園』?)
アシュアは周りを窺いつつ歩き出す。
(ったくあの馬鹿、見つけたらぶん殴ってやる)
そう思いつつ歩き続けるが、彼女は少しだけ後悔していた。
(……簡単に幻に惑わされやがって……。あいつはもっと強い奴だと思ってた)
その後悔は自らの剣士の弱さを思ってのことではなく、自分がそのことを見誤っていたことから来るものだった。
先ほどの仙女を名乗る老女には偉そうなことを言ったが、実際、彼女だってもう少し前にこの霧に取り込まれていたら、簡単に堕ちたかもしれない。
彼と出逢う前、彼女はいつも心に穴を感じていた。
祖父を亡くしてからだろうか。欠落を感じ始めたのは。
……認めたくはなかったが、その欠落はやはり孤独から来るものだったのだろう。
(あいつと契約してから、アッシュと再会して、他にも色々出会いがあって……)
知らぬうちに穴を感じなくなった。
手の届くところに、いつも彼がいたせいか。
(ああ、だからこんなに怒ってるんだ)
今は振り向いても誰もいない。
今はアッシュも肩に乗っていない。
(…………)
アシュアが唇を噛んだ、その時。
前方に、金色の髪が見えた。
「!」
思わず彼女はそれを目で追った。
意識せぬまま身体も動いていた。
金髪の少年の背中が見える。
少年は軽やかに細い路地を駆けていく。
自分より一回りは小さく見えるその幼い身体。
しかし彼女の勘は告げていた。
「……クオっ!!」
彼女がそう呼ぶと、その少年はふと立ち止まり、振り返った。
「…………?」
不思議そうに見開く碧の眼。
その眼には何にも染まらない、透明さがあった。
「クオ……だな」
アシュアは戸惑いつつも、少年の顔を見て納得した。
「……お姉ちゃん、誰?」
クオと思しき少年も、どこか戸惑いがちに尋ねてきた。
しかしどうにもその上目遣いがアシュアの癇に障る。
(こいつ、やっぱりすっかり騙されてるな……!)
「主人を忘れるとはいい度胸だ! とっとと思い出せ馬鹿クオ!」
と、ついアシュアが怒鳴ると
「…………ぇ?」
急に怒鳴られて怖がったのか、少年は見る見る瞳に涙を溜める。
「は!? おい、ちょ、泣くなよ!」
予想外の展開にアシュアは慌てる。
が、1度泣きかけた子供をあやす術など彼女は持っていなかった。
甲高い声を上げて少年は泣き始める。狭い路地だったのでそれが木霊してさらにひどい音になった。
(あああもう! なんだってんだよ!)
アシュアは目が回りそうだった。
結局アシュアは路地を抜けたところにあった空樽の上に少年を座らせて、とりあえず目の前で売っていたオレンジジュースを買い与えた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
そう言いつつ少年は嬉しそうにジュースを飲んだ。
(……何やってんだ、私は)
げんなりしつつ彼女もジュースを口に運ぶ。
その間ちらりと横目で窺ってみても、やはり少年はただの幼い少年にしか見えない。
「……ほんとに覚えてないんだな」
彼女がそう呟くと、少年は不思議そうな顔をして
「? お姉ちゃんは何で俺のこと知ってるの? 前に会ったことある?」
と、素直に尋ねてきた。
あまりにもそれは素直すぎて、アシュアはなかなか返す言葉が見つからなかった。
「おかしーなー。お姉ちゃんみたいな綺麗な人と会ってたら、覚えてるはずなんだけどなー」
ぶはっ!
思わずアシュアは口に含んでいたジュースを吹いていた。
「何言ってんだこのマセガキ!」
せっせとコートの袖で口を拭いつつ、アシュアは赤面して後ろに退いていた。
「ませ……がき? 何それ?」
と、きょとんと少年は見つめてくる。
(〜〜〜〜こいつの天然は昔からか! ああそうか!)
アシュアは子供相手に赤くなっている自分を情けなく思いつつ咳払いをして気を取り直した。
「と、とりあえずだな、お前、思い出せよ! 色々と!」
「……思い出すって?」
「ああもう! お前は私の剣士で! 太陽の楽園に行って、世界を救うんだろ!?」
アシュアはついつい熱くなっていた。
しかし少年はぽかんとしている。
「……けんし? らくえん?」
「ああ! このままじゃ影の国に……って分からんか、とりあえず悪い奴らに世界が乗っ取られるんだ!」
「悪い奴ら? そんなことないよー」
少年は朗らかに笑う。
「母さんが言ってたもん。ここはずーっと平和で、だからずーっと一緒に暮らせるんだって。皆仲が良くて、喧嘩なんてしないんだ。悪い奴らなんてここにはいないよ?」
少年は真っ直ぐにそう言った。
疑いのない笑顔で。
「…………!」
ずっと平和で、ずっとお母さんと一緒に暮らせる。
皆仲が良くて、喧嘩なんてしない。
仲間はずれなんてしない。
悪い奴らなんていない。
「あ、もう日が暮れちゃうや! 俺そろそろ帰らないと母さんが心配するんだ! またね、お姉ちゃん!」
金髪の少年はそう言って樽から飛び降りて、元の路地を駆けていった。
アシュアはその背中を見送るだけで、追えなかった。
足が、動かなかった。
「……楽園……」
彼女の唇は、そう呟いていた。
真っ暗な林を、それこそ死に物狂いで走ったベインとソラの2人は、ようやくギリアート家の屋敷に戻ってきた。
「あけ、開けてくれ!!」
息も絶え絶えにベインはギリアート家の門のインターフォンに向かって叫ぶ。
『どこほっつき歩いてたんですか貴方達は! 全くこの油断も隙もないときに門を開けるのがどれほど危険なことかわか……ぐえっ』
とヒステリックな執事、ジョージの奇声がしたかと思うと
『馬鹿ジョージ! 何やってますの!? 今すぐ開けさせますわね!』
メリアの声に切り替わって、早速門が開き始めた。
「ありがてえ」
ベインはソラを背負ってまた玄関までの長い道を走り、何とか屋敷の中に入ることが出来た。
2人は力尽きてその場にへたり込む。
「ベインさん、ソラさん、無事でしたのね! 良かったですわ!」
メイドたち数人とメリアが早速2人を出迎えた。
「ふーっ、実際まじで危なかったんだけどな……」
ベインは汗を拭いつつ、あの危険な雰囲気を纏った人型カタストロファーのことを思い出す。
「ねえベイン、あの、逃がしてくれた人さ、ソリッドで吸血鳥退治のアドバイスくれた人じゃない?」
ソラがそう言うので、ベインは少し記憶を辿る。
「……ああ、そういえばそうかもなあ……。誰かは知らんが、無事だといいが……」
「ね、ちょっと待って、アシュアちゃんたちは?」
ソラがはっと気付いたようにメリアに問う。
メリアは気まずそうに俯いて
「まだお戻りになっていないのですわ……」
そう言った。
「マジかよ、そりゃやべえな……」
「探しにいく?」
ベインとソラが再び立ち上がるが、メリアは2人の腕を掴んで止めた。
「もう外は危険ですわ! さっきお父様から知らせが届いたのですけど、黒い雲に覆われているのはこのあたりだけじゃないそうなのです……もう大陸のほとんどがこの大きな黒い雲に覆われてるって……!」
メリアは泣きそうな顔でそう言った。
「……大陸の、ほとんどが?」
ベインは目を見開く。
「嘘……。世界は影じゃなくて、この黒い雲に飲まれるっていうの……?」
ソラは手に持っていたライア石を取り落とした。
少年は大好きな母親の手料理をたらふく食べ、ソファーに寝転がっていた。
そのうち満腹感からか眠気が襲ってきて、うとうとしていると
「クオ、眠いんだったらもう部屋で寝たらどうだ?」
傍らで本を読んでいた父親がそう言った。
少年は目をこすりながら頷く。
「歯はちゃんと磨くのよー」
洗い物をしている母親が優しく声をかけた。
寝ぼけ気味のままに歯を磨いて、少年は階段を登る。
「おやすみなさい」
踊り場で下の階にいる母親と父親にそう言ってから、少年は自室のベッドに直行した。
ぱたりと彼はベッドに倒れこむ。
下のほうでくしゃくしゃになっているタオルケットをごそごそと手で探して、適当に羽織る。
天井を見上げ、そして窓の外に目を移すと、紺碧の空に、銀色の満月が浮かんでいた。
(……綺麗な月だなあ……)
少年はそう思いながら、瞼を閉じた。
すると自然に、今日会ったあの赤髪の少女が思い浮かんだ。
(……そういえばあのお姉ちゃん、誰だったんだろう……。母さんの知り合いかな……? どこかで、やっぱり会ったような気もする……)
少年の意識が、段々眠りの底へと近づいていく。
(ううん、やっぱり会ったことない……)
考えることがまだるっこしくなってくる。
頭が、身体が、早く眠れと言っているようだ。
(眠りたい……)
そう願っているのに、このまま眠ってはいけないともどこかが叫んでいるようだった。
「…………ん」
段々頭が混乱してくる。
目を閉じるとなぜか瞼に思い浮かぶ、赤髪の少女。
それが寂しそうな顔だったり、苦しそうな顔だったり、見ているとなぜかほっとする穏やかな顔だったり、なぜか今日見ただけでは知り得ぬ情報が頭の中に浮かぶのだ。
(なんで……知ってるんだろう……)
思い起こせば、声すらすぐに蘇る。
『それでも私の剣士か!』
(……けん、し……って……なんだ……?)
すると誰かの声が言う。
『剣士っていうのはね、命に代えてまで守りたい主人に仕える騎士なんだよ』
(……守る……? 主人を……?)
少年の脳裏に、温和そうな顔をした青年の姿が思い浮かぶ。
そのまま、少年の記憶は跳んだ。
少年は『剣士の優等生』として育った。彼は別にそのことを苦には感じていなかった。『立派な剣士』になるのは当たり前だと思っていたし、むしろ彼にはそれしかなかった。
朝、彼がいつものように教会の中庭で素振りの練習をしていると
「やあクオ。精が出るね」
ひょっこりと、背の高い青年が現れた。
「お兄ちゃん」
クオはこの青年、リヴィウス・ラレゴリーをこう呼んでいた。
「今日はお勤め?」
「ああ。キャシーが久しぶりに外出するんでね」
嬉しそうにリヴィウスは剣を肩に担いだ。
契約を済ませた者しか持てないその魔法剣をクオは羨ましげに見つめつつ、
「ふうん。デートかあ」
冷やかしを込めてそう言った。
「な! こら! 誰もそんなこと言ってないだろ!?」
リヴィウスは顔を真っ赤にしてあたふたする。
「ははは! だってお兄ちゃんの顔、にやけてるよ! ははは!」
クオは腹を抱えて笑い出す。
「兄弟子をからかうとは……このマセガキめ」
リヴィウスはこほんと咳払いして
「じゃあ行ってくるからな」
背を向ける。が、くるりと振り返って
「お土産、待ってろよ」
と、優しい笑顔で可愛い弟分に言った。
「うん! お菓子がいいな!」
クオは太陽のような笑顔で返す。クオはリヴィウスのこういった細かい気遣いや優しいところが大好きだった。
リヴィウスは、最近の剣士としては異色だった。彼は長老が契約相手を選ぶ前に、自分で主を選んだのだ。彼が選んだのは貴族の令嬢だった。身分としては申し分なかったのだが、ただひとつ、問題があった。契約相手のキャサリン嬢は、大変体が弱かったのである。
主の体が弱いと、剣士の体にも影響が出る。そのことで随分長老達ともめたそうなのだが、結局リヴィウスは押し切ってキャサリン嬢と契約してしまった。
「どうしてキャサリンさんと契約したの?」
と、クオはリヴィウスに尋ねたことがある。
彼は笑ってこう言った。
「花が、見えたんだよ」
「へ?」
「彼女に最初に逢ったとき、僕の中の砂時計に、花が咲いたんだ。そのとき僕はなんとなく分かったんだ。彼女が、僕の本当の主人だっていうことがね」
リヴィウスは優しい目をしていた。
「本当の、主人?」
クオはいまいち理解出来ずに問い返す。
「うん。昔は剣士だって自分で主を選んでいただろう? 多分、分かるようになってるんだと思う。君も、出会えれば分かるよ。砂時計が教えてくれる」
「……メリアと逢ったときは別に何にもなかった……」
クオは真剣に考え込む。
「はあ、そうか。うん、まあいいんじゃないかな。結局さ、主を決めるのは自分自身なんだし」
ぽん、とリヴィウスはクオの肩を叩いた。
「……自分で……?」
「そ。剣士っていうのはね、命に代えてまで守りたい主人に仕える騎士なんだよ。だから、それぐらい守りたいって思える人と契約しないとね」
そう言いつつリヴィウスはなぜかはにかんでいた。きっとキャサリン嬢のことを考えていたのだろう。
しかしクオは
「……俺、死ぬの怖いなあ……」
正直なところをぼやいた。
リヴィウスは苦笑する。
「僕だって死ぬのは怖いし、嫌だよ。特に契約前は砂時計で残り時間が見えるから余計だろ?」
クオはこくりと頷いた。
剣士は成人する前に契約しないと死ぬという運命を背負わされている。そのせいか生まれたときから成人までの残り時間を示す砂時計が意識すると見えるようになっているのだ。
「でも、そうだな。きっと思えるときが来ると思うんだ。大事な人のためならって……」
リヴィウスはそう言って笑っていた。
その時クオはどことなく不安を覚えていた。
心優しいこの兄弟子ならば、本当にやりかねない、と。
そしてそれが現実となる日が来てしまった。
キャサリン嬢の持病が悪化して、危篤に陥ったのだ。
主人の体調がひどく悪化すると、剣士のほうも体調が悪くなる。教会の病室で寝ていたリヴィウスは相当青い顔をしながらも、昏睡状態に陥ったというキャサリン嬢が寝込んでいる屋敷へと向かおうとしていた。
クオが止めようとする前に、なぜか町の長老が現れて、彼の前に立ちはだかった。
「リヴィウス。お前、その体で主の下へ行って何をする気じゃ」
リヴィウスは息を荒くしつつ、笑って言った。
「主を助けに……行くんですよ。決まってるじゃないですか」
リヴィウスはそのまま長老の横を通り過ぎる。
「待て、リヴィウス。キャサリン嬢から伝言があるんじゃ」
リヴィウスは少しだけ足を止めたが、すぐにまた歩き出す。
「意識を失う前に『私のために死ぬことはしないでほしい。私が死んでもまた新しい主に仕えて生きてほしい』と言っておったそうじゃ!」
長老は声を張り上げる。
しかしリヴィウスは歩を止めない。
「お兄ちゃん……行かないでよ……!」
クオは兄弟子の服の袖を掴む。
直感で分かっていた。
彼は今から死にに行くのだと。
「クオ……。僕は、自分の決めたことをやり遂げたいだけだよ。クオだっていつも言ってるじゃないか、『立派な剣士になる』って。君が言う、『立派な剣士』って、どんな剣士なんだい?」
クオは答えに窮した。
『立派な剣士』。いつも彼が胸に抱いてきた言葉。皆そうなれと言うし、自分もそうなりたいと思ってきた。
しかし、一体どんな剣士が『立派』なのか、少年にはまだ分かっていなかった。
リヴィウスは蒼白い顔で優しく笑う。
「僕も僕なりに、今まで立派な剣士を目指してきたつもりだ。僕が思う立派な剣士っていうのはね、守りたいと思う人を絶対に守りきる剣士なんだ」
クオは認めたくなくても、彼の言っていることはよく理解できてしまった。
前からずっとリヴィウスが言っていたことだ。
これは彼の信念なのだろう。
「彼女なしの世界では、僕は剣士として生きられない」
その言葉に、クオは慄いた。
――本物の剣士、という言葉が、彼の脳裏に浮かんだほどだ。
そしてクオの手は自然とリヴィウスの袖から離れていた。
「クオ、君も自分が信じる通りの剣士になれ」
そう言って、リヴィウスは教会を出ていった。
――剣士は半ば神がかり的な存在である。
生まれたときから左耳にピアスをし、主と契約すれば独自の剣がどこからともなく生まれる。
剣士として生まれた者は剣士として生きねばならず、剣士とならずして成人を迎えた者には死が訪れる。
ただし、それなりの力も与えられている。
主が持つ契約のイヤリングを剣士が自ら剣で砕くことによって、剣士は主にその命を捧げることが出来るのだ。
……命を捧げられた主はいかなる不治の病であろうと完治するという。
リヴィウスは文字通り、主に命を捧げた。
死の間際、それでも彼は幸せそうだったという。
それからクオは考えるようになったのだ。
『立派な剣士』とはどんなものか。
このまま長老に決められた通りに、契約をしてしまっていいのかどうか。
――結果、彼は町を出た。
今までの『優等生』っぷりを全て捨てて。
長老達には散々恨み言を言われたが、それでも彼は後悔しなかった。
――ああ、今でも後悔していない。剣士の町を出たことを。
だって出逢えたんだから。かけがえのない主に。
選んだのは本当に、直感かもしれない。
砂時計が真紅の炎で燃えたんだ。
……けれど今はそんなこと、どうだっていい。
「――アシュア……!」
少年は起き上がり、窓を開け、外へ飛び出した。
2階だとか、そんなことは関係なくなっていた。
――所詮ここは幻の世界。
虚の楽園に、身体の痛みはないのだ。
・・・この話に入ったときはどうなることかと思いましたが・・・案外・・・書きたいことが詰め込めそうなので・・・よしとして(オイ)!
ちょっと悩んでたんですが書き始めるとなんだかスランプを抜けたような気がするのでこのままガガガーっとクライマックスまで走れそうな気がします!これも読んでくださっている方がいてくださるお陰です!ありがとうございます!
次回はアシュアサイドのモノローグ、こちらもそろそろ集大成で頑張ります!ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました!