第11話:その眼は阿修羅のごとく
キルトの母はすでに亡くなっており、父は長いこと出稼ぎに行っていてたまにしかここへ帰ってきていないらしい。実質、キルトとその祖父・ハインド老人の2人の男所帯なのであった。
クオは2人の料理の無駄のない分担作業を感心しながら眺めつつ、サラダのためのレタスをちぎっていた。
「ほう、アシュアのことが知りたい、と?」
クオの申し出を老人は可笑しそうに聞き入れていた。
「うん。俺、あいつと契約してるわりには全然あいつのこと知らないんだ。すごく強くて、でもたまに俺でもしないような無茶をやらかすってのは分かってるんだけど」
「ふぉふぉふぉ……それだけわかっとれば十分じゃと思うがの。その無茶なところを君が手綱を引いてくれればいいんじゃから」
と一層声を出して笑うハインド氏。
「じいちゃん、笑いすぎ。アシュアが聞いたら怒るぞ。『馬にたとえるな馬に!』って」
と、それでもそんな彼女が怒るところを想像してしまったのか笑いをこらえつつキルトが諌める。
「ふぉふぉ……ふむ。まあ、クオ君が訊きたいのはあれかの、あの子の過去かな?」
と、老人が笑いをやめて心もち真剣な声色で話しかけてきた。
「え……と。そういうことに、なるのかな……」
彼女の過去。赤髪の魔女と呼ばれる彼女のルーツ。こんな穏やかな街で育ったというのに、どうして彼女は自ら戦いに出たのか。
「ふむ。実際あの子がここにいたのは2年だけじゃからの。詳しいことはよく知らん。が、あいつの引き取り手だった奴に話を聞いた限りでは……あんまり他人から見て幸せな境遇とは言えんよ」
キルトもこの話は初めて聞くのだろうか。少し驚いたように、顔が強張っている。
クオは聞くべきか悩んだが、それでも知りたいと思った。
(たった一人の主なんだ。知れることなら、彼女のことは知っておきたい)
「知ってる範囲だけでいい。教えてくれないか」
彼の声色から、単なる好奇心だけではないと悟ったのだろうか。ハインド老人は頷いて話し始めた。
大陸の真ん中を走るイデ山脈を基準にして、東地方に分類される地域にある小さな町外れの家に、彼女は生まれた。古くから、東の地にはある言い伝えがあった。
『人が愚行を働いたとき、神は怒り、嘆き、その血の涙で海を赤く染めるだろう』。
そんな伝説と過剰な信仰で、東地方の人々は極端に『赤色』を嫌う。
彼女の両親はもともと東地方の出身ではなかったので、赤い髪を持った子供が生まれても、『誰に似たのか』くらいしか思わなかった。
しかし町の住民はそう穏やかではなかった。
「そんな縁起の悪い赤子など、どこか違うところへやってしまいなさいな」
「街の中へ連れてくるな、本当なら粉ミルクだって売りたくないんだ」
生まれた時からひどい言われようだった。だが、まだこの程度なら良かった。父親が仕事中に不慮の事故で命を落としてからは、『やはり不吉』と、さらに風当たりがきつくなってしまったのだ。
物心ついたころから彼女は病弱な母親と二人で、自給自足に近い生活を送っていた。本来なら遊び盛りの年頃の少女は、一度も街に出た記憶がなかった。
母親が、街に出ればいじめられるから、と言っていた。
赤い髪のせいらしい。
本当に、誰に似たのだろう。彼女の母の家系に赤い髪の者はいなかったし、父のほうもそうだ。
しかし彼女は別に街へ行けずとも、母親と一緒にいられればいいと思っていた。そう、こんな町に、いつまでもいるつもりはなかったのだ。
「アシュアーっ、危ないから降りてらっしゃーい」
母親が下から呼んでいる。
「大丈夫、大丈夫。慣れてるから」
庭に、大きな樹があった。大概彼女は、午後はこの木に登って日向ぼっこをしていた。日当たりが良く、気持ちいいのだ。
「もう、ボールで遊んでないときはいつもここに登ってたのね。まったく、男の子みたいなんだか……」
突然母親が激しく咳き込み出した。
「お母さん!」
『降りる』なんてまだるっこしいことはしない。6歳の少女は軽く、なんともない様子で、樹から飛び降りた。
「大丈夫!?」
「え、ええ。大丈夫よ。それよりあなた、さっき飛び降りた?」
「気のせい、気のせい」
少女はわざとらしく明るく笑って言った。これ以上母に心配そうな顔をさせるわけにはいかないのだ。
「……もう。そうやってはぐらかすところはお父さんに似てるのね」
よく見せる、少女の大好きな優しい笑顔を、母は浮かべた。
この家が建つ丘からは、街全体が見えた。母子は並んでその様子を見る。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「私がもう少し大きくなったら、一緒にこの町、出ようね」
少女はまっすぐ母の顔を見る。
「ええ、そうね。一緒に出ましょう」
母が笑って言うと、少女は満足そうに頷いた。
「あなたが大きくなるまでに、私ももっと体を丈夫にしなくちゃね」
「うん」
さわやかな風が吹く中での、たった一つの約束だった。
「ソフィア」
しわがれた声が背後から聞こえた。よく聞きなれた声だった。
「まあ町長さん」
少女の母、ソフィアはととと、と老人に近づいた。
すらりとした、とりわけ特徴があるというわけでもない平凡な老人だった。
ただ、さすが町の長というか、どこか威厳を感じさせる人だった。
彼はソフィアに袋を手渡す。お米とか卵とか、お肉が入っているのだ。
少女は先に述べた理由で街には行けず、母の体の具合も実は結構悪く、街に出られる状態ではない。よって、自家栽培しにくい野菜、動物性食品やお米はこの町長が届けにきてくれていた。
「いつもありがとうございます。すみませんわざわざ」
「いや、これくらいのことなら私にも出来るからね。礼には及ばないよ」
ふと、町長と少女の目が合った。かすかに町長は笑った。軽い挨拶のつもりだろう。それでも少女は笑えなかった。別にこの老人が嫌いなわけではなく、むしろ感謝しているのだが、幼いながらもどこか矛盾というか皮肉というか、そんなものを感じていたからだろう。
どうして、私を完全に拒絶する町の長が、一番親切にしてくれるのか、と。
「それではな」
「本当にありがとうございました」
老人は用を済ませると、すぐさま帰っていく。確かに、このことが町の人に知れたら、色々と都合が悪いのは事実だった。
ソフィアがベッドから出られなくなってしまったのは、それから少し経ったころだった。顔色は日に日に悪くなる一方で、町長が訪れた際、医者を呼ぼうとしたのだが
「いいんです、町長さん」
はっきりと、彼女はそう言った。その表情を見て、何を悟ったのか町長は
「……そうか」
と頷いただけだった。
ただ、彼が部屋を出るとき
「ソフィア。手紙は、出しておいたよ」
そう言った。その言葉を聞くと、彼女は安心したように静かに笑った。
(手紙?)
少女にはわけが分からなかった。
しかしそんなことはどうでもいい。
医者が来たら彼女は元気になるのではないのか。それなのになぜ彼女は、そんなにきっぱりと断ったのか。
そんな疑問と戸惑いが少女の脳裏を巡った。
「お母さん……」
泣きそうな声で少女はベッドの傍らに膝をつく。
「ねえ、アシュア……。私、あなたとの約束、守れそうにないの」
ソフィアは、静かにそう言った。
「……嘘だ。お母さんが約束破ったことなんて、ないもん」
震える声で少女は訴える。
「ふふ、そうね。そうだったわ。でもね、今回だけは……私の力じゃ、無理なの。……怒っていいのよ? 約束を、守れる人になって、って言ったの、私なのにね」
しゃべるのも辛くなってきたのか、彼女の言葉は途切れ途切れになっている。
「……アシュアは、お母さんのこと、嫌いになっちゃうかなあ?」
少女の目から大粒の涙がぽたぽたとこぼれる。
「嫌いじゃ、ない、よぅっ。世界で一番っ、お母さんが……っ……好きっ……」
しゃくりあげながらも、少女は必死に言葉をつむいだ。
「ふふ……ありがとう、アシュア……。私は、幸せね。こんなに、お母さん思いの娘を持てて」
母親の目にも涙が浮かんでいるようだった。少女の視界はもう涙でふやけて、よく見えない。
「あなたは、私の、大切な娘。心は、あなたと、ずっと、一緒にいるわ……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
瞼は、閉じたまま。静かに、息を引き取った。
少女はしばらく唇を必死に結んでいたが、それでも耐えられず、部屋の外で座っていた町長に聞こえるくらい、大声で泣き始めてしまった。
町長は、後のこともよくしてくれた。父親の墓の隣に母のものも作ってもらった。ただ、このことによって町長の、町の人々に知られると都合の悪いことが公になってしまった。
母親が逝ってからも、アシュアは家に居続けた。町長は、変わらず食料を運んでくれた。一人で旅ができるようになったら、ここも出なければならないと思っていた。
しかし、思い出が詰まった丘の上の家との別れは、突然だった。
空が黒い雲に覆われた、ある夕方。
激しく家のドアを叩かれた。そろそろと戸を開けると、この町のシンボルマークが入った帽子をかぶった男達が、威圧するように少女を見下ろした。
男達は皆彼女の赤い髪を見て一通り不愉快な態度を見せた後、
「お前を今からハデシュ島へ連れて行く」
と言った。
「ハデシュ・・!?」
母親から聞いたことがあった。なんでも身寄りのない子供達を集めて強制的に働かせているという工場がある孤島だ。しかも、給料は子供達には支払われず、彼らを送り出した村や町に支払われるという。
ぎり、と少女は歯を食いしばる。
「私を、売ったんだな」
「物分かりがいいな。前の町長はお前ら親子によくしてやってたみたいだが、新しく選ばれたモンデリア町長はこの町の伝統をよく分かっていらっしゃる方だ。お前のその赤髪、いずれこの町に災いをもたらす。だったら、せいぜい外で働いて町のための金を作ってもらおうということだ」
(……町長が、変わった?)
だからこんな下衆なやつらが来たようだ。
(町長は大丈夫だろうか……?)
「ほら、ついて来い」
男が少女の腕を引っ張る。すかさず、彼女はその手をはじく。
「な」
少女は走り出した。数人の男の間をすり抜け、丘を下る。
(今しか、逃げられない)
「追え!くそ、あのガキ」
男達がわらわらと追ってくる。
町の出口を彼女は知っていた。いつも樹の上から眺めていた方角だ。
振り向かずに走る。一目散に走る。丘を下り終えて、石畳の道を走っている間に雨が降り出した。それでもかまわず走る。街に入って、男達をまくために細い路地を駆けた。行き止まりになったら塀も登った。
その際作った脚の擦り傷や、休むことのない肺が痛かったが、もっと痛かったのは心だった。街で出くわす人は皆、少女を見ると顔を青くして『悪魔』だの『化け物』だのと叫んで逃げていった。少女はその度水溜りに映る自分の顔を見た。別にいつもと変わらない。何が悪魔だ。バシャリと水溜りを蹴散らして、また走る。
雨がひどくなったせいか街に出る人が少なくなった。こことぞとばかりに少女は大通りを駆ける。まっすぐ抜ければ町から出られる。そこまでは奴らも追っては来ないだろう。
(私がこの町からいなくなるのには変わりないのだから)
雨で視界が曇っていたせいもあるし、疲労で顔が俯いていたせいもある。雨音が強くなっていて聴覚も麻痺していた。
そんな要因から、少女は前方から猛スピードで走ってくる馬車に気付くのが遅れてしまった。
「!」
目を見開いたときには漆黒の馬の脚と、木製の車輪しか見えなかった。
馬の足か車輪か分からないがどちらかに弾き飛ばされて、少女は道端に転がった。
「ぅああ! 化け物!!」
彼女を轢いた御者は、そう叫んで走り去った。
「うぐ、……っ」
右腕が痛い。とっさに避けたもののやはり完全には避けきれなかった。
(また、化け物って言われた・・・)
少女は仰向けになって、針のように雨が降る曇天を見つめた。
小さな心臓が、もう限界だと告げている。右腕からは、熱く感じるほど血が流れていた。
(生きてるのに)
まだ鼓動は激しく鳴っている。血の流れも感じられる。
(私は、ここで生まれて、生きてきたのに)
誰も認めてくれない。人間として見てくれない。そんなにこの髪が醜いか。そんなに私が憎いのか。
不意に涙が出てきた。もう出る涙などないと思っていた。それでも目には溢れていた。冷酷にその体を打つ冷たい雨のしずくより、確かに温かいものが。
「う……づっ……」
私は全てを望んでいたわけじゃない。
『私がもう少し大きくなったら、一緒にこの町、出ようね』
それだけだった。それだけだった。それだけだったのに……
神様は、その願いさえも、叶えてくれなかった。
食いしばった歯が鳴る。
(神様なんていないのか。私にはいなかったのか)
……そう納得してしまうと、全てが憎く感じられた。自分を認めてくれなかった町の人、自分を取り巻く全ての環境。心の底から、濁水が湧き出るようだった。
「は、は……」
泣きが笑いに転じてくる。自分でも狂ってしまったのかと思った。
「いたぞ!あそこだ!倒れてやがる」
追っ手が来た。近づいてくる。
「怪我してるぞ」
「かまわん。連れて行け」
男の手が伸びる。その瞬間、少女は目覚めた。
『そんなに化け物にしたいのなら、望み通り、なってやる』
「ぐあっ!?」
男の悲鳴が上がるまで、他の者達は何が起きたのか分からなかった。
さっきまで倒れていた少女が立ち、立っていた男が倒れていた。
「な」
男達は少女を凝視する。
彼女の眼には、怒りに彩られた修羅がいた。
「くそぉ! 本性見せやがったな」
別の男が少女に跳びかかる。彼女は体勢を低くして男の足を蹴飛ばし、派手に転ばせた後、そのまま身を翻して走っていった。
もう少しで出られる。もう少しで自由になれる。
『心はあなたとずっと一緒に』
ずっと一緒。今も一緒。一緒に出ようって言ったから。もう、化け物でも何でもいい。
前方に門が見える。ただ、その真ん中にうっすらと人影が見えた。
「おい!そこの人!そのガキを捕まえてくれ!!」
後ろからあの汚らわしい男共の声が聞こえる。少女の目には、その門に立つ男が、最後の砦に見えた。
『一緒にこの町、出ようね』
『ええ、そうね。一緒に出ましょう』
一緒、一緒。出よう、この町を出よう。一緒に出よう。一緒、いっしょ、イッショ…………
『イッショニ、デヨウネ』
「あああああああああああああああああああぁっ」
この時少女が泣いていたのかは分からない。ただ、異様に胸が苦しくて、喉から何かがせり上がってきそうで、もう耐えられなかった。
門に立つ男は見知らぬ老人だった。それでも少女は跳躍し、その歳では考えられないほどの、見事な跳び蹴りを見せた。
「!」
老人は一瞬目を見張って、腕で防御する。
まさに、渾身の一撃だった。全てを使い果たした。それでも倒れぬ老人の肩から飛び降りて、少女は地に膝を着いた。
足のつま先は、門から出ていた。
(出た……よ)
そのまま少女の意識は飛んでしまった。
崩れそうになる彼女の体を抱きとめたのは、老人だった。
「いやあ、あんた旅の人かい? ありがとう。ハデシュ行きが決まってるのにそのガキが逃げるもんだから」
追っ手の男が苦笑しつつ少女を引き受けようと手を差し出す。
老人は少女の、泥だらけで傷だらけの姿を見て複雑な表情を見せた。それから
「この娘を、預かりに来た」
と言った。
「な、そんなこと聞いていないぞ。もう工場からは金をもらってるんだ。今更……」
「黙れ、モンデリアの人形共が」
今度は男達の背後からしわがれた声が聞こえた。
前の町長だった老人が、傘もささずに立っていた。
「あんたはもう命令できる立場じゃ……」
「ふん。その男には私が町長だった頃にその娘を引き取ってくれるよう頼んでいた。文句はあるまい」
威厳のこもった声で前町長は言い放った。
「く……」
これには男達も閉口するしかない。
「行くがよい。その娘は任せた」
少女を抱きかかえ、老人はこの町の長だった旧友に一礼し、門を出た。