第8話:傷の男
気配を感じなかったことに、ここまで恐怖を感じたのは初めてだった。クオは反射的に後ろへ飛びずさっていた。見ると、アシュアも同じだった。が、彼女の顔は明らかに、彼より青くなっている。そして視界を広げる。そこには、纏う衣服は全て黒色の、顔に傷のある男が立っていた。
「久しぶり、というべきか? アシュア・アイデンバイト。いや、今は赤髪の魔女と呼ばれていたか」
男の目は鋭い光を放っている。どこか、この世のものではない雰囲気をかもし出している。そう、カタストロファーのような、不吉な空気を纏った男だ。
「戯言を。お前だろう、最近頻繁に刺客を送り込んでいたのは」
アシュアはこの男を知っているようだ。ひどい嫌悪の目で彼を見ている。肩に乗るアッシュでさえ牙をむいて威嚇していた。
「頻繁? タバンナの街の連中はそうだが、あとは知らんぞ。恨むならその異名を恨め」
舌打ちをしたアシュアは冷静に、いや冷静を装って黒い男に言う。
「まあいい。底石を返してもらうぞ、レイドリーグ」
男は余裕の表情で答えた。
「ならこちらは本石を奪おう」
クオは空気で読み取る。今から戦うつもりらしい。
(……なんだかよくは分からないが俺はアシュアの援護をすればいいんだな?)
「クオ、奴が持っているメリクリウスの石の一部を取り戻す。奴はあれでもカタストロファーだ」
こちらの心中を察したのかアシュアが言った。
「人型?」
人の形をしたカタストロファーがいるとは知らなかった。なんかやりづらいな、くそ。
と、そんなことを思っている間に、いつの間にか奴の手に黒い剣が握られていた。実体があるのかないのかよく分からないほど、ゆらゆらと揺れる黒い炎のような剣。(剣相手なら)
そう思ってクオは剣を抜く。
「ほう、お前は生粋の剣士のようだが。物好きだな、こうも戦に身を置く女と契約するとは。命が惜しくはないのか?」
男は見かけより饒舌だった。しかしいちいち棘がある。
「戦いあっての剣だ。俺はこの剣をなまくらにしたくはないね」
クオはきっぱりと答える。
彼とてもちろん、命が惜しくないのかと問われると、肯定するのは難しい。
(けど)
男が剣を振るう。あれは一種の魔法剣のようだ。黒い風が吹き荒れた。
「っ……!?」
彼の視界が一気に真っ暗になる。幻影かなんだかよく分からないが、燃えるような熱さが四肢をじりじりと焼いていく。
「っぃ……ぁ!!」
自分が言葉を、叫びを発しているのかどうかも分からなくなってくる。
体の外から、中から、頭が溶けそうなほどの業火が蔓延する。
(熱い、暑い、熱い、熱い、あつい、アツイ、アツイゾ、クソ!!!)
「クオ!」
そんなアシュアの声が聞こえるが、彼には彼女がどこにいるのか分からない。
「……しぶといな。見上げた根性だ。なあ赤髪の魔女?あの老人はこれでくたばったって知ってたか?」
「っ……! 貴様!!」
アシュアの声がこれ以上ないほど憎しみの篭ったものになる。クオには見えなかったが、彼女が奴に何か仕掛けたのは分かった。
実際彼女はレイドリーグに殴りかかった。奴には銃弾さえ効かない。実際物理攻撃を仕掛けたほうがまだダメージを与えられるのだ。が、軽くあしらわれた上に何が起こったかわからないうちに、彼女の身体は宙を舞っていた。
「かはっ……!」
ぶつかった先の脆い壁が崩れる。男は倒れたアシュアの襟元を掴んで言う。
「お前には少し期待していたんだがな。だが俺の見当違いだったようだ。なぜもっと憎しみでその石を汚さなかった? お前になら出来たはずだ」
アッシュが男に向かって飛び出す。が、何かの力ではじかれて、横に投げ出された。
「アッシュ……!」
アシュアは男を睨みつける。真紅の瞳は憎悪の炎で揺れている。
「そう、その眼だ。お前はあの日もそんな眼で俺を見た」
レイドリーグは懐かしそうに目を細める。
「その石を守り手のお前が汚してしまえばこんな手間をかけることはなかったんだがな」
レイドリーグが手を伸ばすと、アシュアのポケットに入っていた石は引き付けられるように浮かんで、彼の手中に収まった。
「っ返せ!!」
とっさに振るった拳が空振りする。レイドリーグは素早く影に溶けて、後退していた。
「光り続けるこの石は影の国の脅威となる。この石は俺の手で汚させてもらうぞ」
レイドリーグが石を強く握ると、青白い光が薄くなっていった。アシュアには石が死んでしまうかのように見えた。それで全て終わってしまうかのように思った。
「やめろ!!!」
脳裏をよぎったのはたったひとつの約束。
それだけのために生きてきた。
他には何もない。他には何もいらない。
何も――――……
アシュアの心の声が、なぜかクオの耳に、いや頭の中に流れ込んできた。
(何もない? そんなことはない。俺がいるってこと、あいつに教えてやるんだ。だから、こんなところで。
格好悪く死ぬわけにはいかないんだ!!)
「石を返せ、レイドリーグ!! 俺の主をいじめてんじゃねえ!!!」
暗黒が掻き消えるような一声。それは少年の声。絶対に逃れられない煉獄の炎に焼かれて苦しんでいるはずの彼の周りには、もう黒い炎は残っていなかった。
「な。あれを破っただと!?」
男は本当に驚いているようだった。彼の余裕の表情が一瞬だけ消えたのだ。
しかし、それ以上に驚いていたのはアシュアだった。
「……クオ……」
その時気付いた。
結局、求めようが求めまいがいつも助けに来てくれる者が1人いたということに。
『何もない』なんて嘘だった。
偶然でも、不本意でも、私はあの剣士と契約を結んでいる。
失くすのが怖いから、他に『大切なもの』を作らないことにしていた。人と関わるのも極力避けてきた。
でも結んでしまったものはしようがない。だったら彼を失くしたくはない。これ以上失くすものなど、あってたまるか。
アシュアは少年の元に駆け寄った。まだ彼は周りがはっきり見えていないようだ。
「クオ」
アシュアはその手を握る。クオはそれで彼女を認識した。
「アシュア。お前、何もないなんて思うなよ。俺はお前だけの剣士なんだ」
珍しく、そう真剣な顔で言った彼は、それでも少し拗ねているようだった。それを見てアシュアは少し笑う。
それを察してさらにクオは拗ねる。
「アシュア? なんだよ。こんなときに笑うなよ」
(笑うならもっと、普通なときに。普通に笑ってほしいんだけど)
「分かったよ。アルフォードに言われたとおり、お前のことは大事にしてやる」
アシュアはそう言った。
「え?」
思わずクオはそう聞き返してしまった。
「2度も言わせるな。お前は私だけの剣士なんだろう?」
恐らく、なかなか心を許してくれないと思っていた彼女が、そう言ってくれたことにどれだけの感慨を少年は覚えたか。
今ならなんでも出来そうな気がした。空を飛べって言われても、火の輪をくぐれといわれても、あの男を倒せと言われても。
「ああ。やっぱり俺、お前のこと好きだ!」
と彼が素直に思ったことを口に出したら
「っ! そういう誤解を招くような発言は控えろ馬鹿!」
と、クオのぼんやりした視界でも分かるくらい、アシュアは顔を赤くして叫んだ。
「……仲が良いようだが? あの世でも仲良くやっていけそうだな、お前たちは」
クオの視界が次第にはっきりする。レイドリーグが平静に戻ったあの余裕の表情で立っていた。