魔王軍襲来の夜、近衛兵の俺は婚約者と最期を迎えた
王都の夜は、どこか優しかった。
石畳に並ぶ街灯が、淡い橙色の光を落とし、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。遠くで誰かの笑い声が響き、風は春の匂いを含んでいた。
「……こうして歩くのも、最後かもしれないな」
ユリウスがぽつりと呟く。
隣を歩くエナは、少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「また大げさなこと言ってる」
「大げさか?」
「うん。だって帰ってくるかもしれないじゃない。観光とかで」
「元近衛兵がのこのこか?」
「いいじゃない、それくらい」
軽口を交わす。昔から変わらないやり取りだった。
二人の歩幅は自然と揃っている。どちらかが合わせているわけではない。ただ、気づけばいつも同じ速さで歩いていた。
明日、二人は近衛兵を退団する。
長く続いた日々に、ようやく終わりが来る。
「……ねえ、ユリウス」
「ん?」
エナの声が、ほんの少しだけ真剣だった。
「本当に、いいの?辞めちゃって」
ユリウスは一度だけ前を見て、それから軽く息を吐いた。
「いいさ。もう十分やった」
「でも、ユリウスはまだ――」
「まだ戦える、か?」
言葉を遮ると、エナは黙り込む。
その通りだった。彼はまだ若く、腕も立つ。近衛兵としてはこれからが本番と言ってもいい。
「だからだよ」
ユリウスは静かに言った。
「これ以上やったら、多分、戻れなくなる」
「……戻れなくなる?」
「戦うことが当たり前になって、それ以外を選べなくなる」
少しだけ笑う。
「そんなの、つまらないだろ」
エナはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「……そっか」
「それに」
ユリウスは言葉を続ける。
「これからは、守るものが違う」
一瞬、エナの動きが止まった。
それから、じわじわと頬が赤くなる。
「……それ、わざと言ってる?」
「何がだ」
「そういうこと、平然と言うの、ずるい」
「だから何がだよ」
ユリウスがとぼけると、エナは少しむくれた。
だが、すぐに表情を緩める。
「ねえ」
「ん?」
「帰ったらさ、ちゃんと式、挙げようね」
「ああ」
「小さくていいから」
「いや、どうせなら盛大にやろう」
「え、そんなお金あるの?」
「なんとかする。これまでの給金、貯めてただろ」
「……少しはね」
「足りなきゃ働くさ」
「引退したのに?」
「式のためなら別だ」
エナはくすっと笑った。
「変なの」
少しの沈黙。
風が吹き抜ける。
「楽しみだね」
その一言は、未来そのものだった。
詰所に入った瞬間、空気が変わった。
「来たぞ主役!」
「遅えぞ!」
怒号と笑い声、酒の匂い。
一斉に視線が集まる。
「逃げるかと思ったぜ、結婚怖くてな」
「誰がだ」
ユリウスが返すと、どっと笑いが起きた。
エナはすぐに捕まり、女兵たちに囲まれる。
「ねえ指輪は!?」「いつ式!?」「子どもは何人!?」
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
完全に遊ばれていた。
ユリウスはその様子を見て、思わず笑う。
酒が回り、夜は深まる。
誰かが歌い出し、誰かが転び、誰かが泣く。
くだらない話が、やけに愛おしかった。
「覚えてるか?初任務で迷子になったやつ」
「お前だろそれ」
「違う、お前だ」
「俺じゃねえ」
そんなやり取りすら、もう終わる。
「……お前らがいなくなると、寂しくなるな」
不意に、誰かが言った。
酔っているはずなのに、その声だけは妙に真っ直ぐだった。
ユリウスは肩をすくめる。
「少しは平和になるんじゃないか」
「違えよ。寂しいって言ってんだ」
軽く殴られる。
また笑いが起きる。
その中で、ユリウスはふと気づく。
この時間が、どれほど貴重だったのかを。
喧騒から離れ、二人は外に出た。
夜風が、火照った体を冷ます。
「……なんかさ」
エナが空を見上げる。
「今日、終わらない気がする」
「またそれか」
「うん……なんとなく」
不安とも違う、奇妙な感覚だった。
ユリウスは少しだけ考え、それから笑う。
「ただの飲みすぎだ」
「もう」
エナは軽く肩を叩く。
「ちゃんと聞いてよ」
「大丈夫だよ」
ユリウスは言った。
「明日になれば、ちゃんと終わる」
そして、新しい日が始まる。
そう言いかけた、その瞬間――
鐘が鳴った。
低く、重く、何度も何度も。
空気を震わせる、不吉な音。
「……え?」
エナが目を見開く。
詰所の中の喧騒が、一瞬で止んだ。
誰もが理解する。
これは、ただ事ではない。
「警鐘だ……!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間、全員が動いた。
酒は捨てられ、笑いは消え、顔が変わる。
ユリウスは剣を掴み、エナの手を引いた。
「行くぞ!」
走る。
石畳を蹴る音が重なる。
胸騒ぎが、現実になっていく。
門に辿り着いた時――
すべては、すでに手遅れだった。
巨大な門は外側から破壊され、無残に倒れ込んでいる。
その向こうから、黒い波が押し寄せていた。
魔王軍。
誰かが、震える声で呟いた。
数が違いすぎる。
質も、何もかもが違う。
「構えろォ!!」
号令が飛ぶ。
だが次の瞬間、それは悲鳴に変わる。
衝突は一瞬だった。
剣が弾かれ、鎧が砕かれ、人が倒れる。
ユリウスは剣を振るう。
一体、斬る。
もう一体。
だが、終わらない。
減らない。
「エナ!」
「ここ!」
背中合わせに戦う。
呼吸は合っている。動きも完璧だった。
それでも、押される。
「下がれ!持たない!」
誰かが叫ぶ。
その声と同時に、前線が崩れた。
仲間が、倒れていく。
名前を呼ぶ暇もない。
ただ、命が消えていく。
「くそ……!」
その時――
エナの動きが、わずかに遅れた。
一瞬だった。
黒い刃が、彼女を貫く。
「……え」
時間が、止まった。
「エナ!!」
エナの呼吸が乱れていた。
胸が上下するたび、苦しそうに息が漏れる。
視線が合わない。
焦点が合っていない。
「……ねぇ、もう……いいよね」
エナは笑っていた。
いつもの、少し照れた笑顔。
でもその笑顔は、どこか遠くを見ていた。
「帰りたかったなぁ……二人で」
ユリウスは必死に抱き寄せた。
腕の中の温度が、少しずつ軽くなっていく。
力が抜けていくのが分かる。
「……帰ろう。まだ……」
「ううん、もういいの。
だって……あなたがいるから」
エナの指が、ユリウスの頬に触れた。
その指先は、驚くほど冷たかった。
周囲の音が変わった。
足音が増えた。
地面を踏みしめる重い音が、確実に近づいてくる。
ユリウスは悟った。
――もう、どうにもならない。
逃げても追いつかれる。
助けは来ない。
仲間の声はもう聞こえない。
ここで終わる。
「最後に……ちゃんと、触れたい」
エナの声はかすれていた。
でも、その言葉だけははっきり聞こえた。
ユリウスはエナの顔を両手で包んだ。
震えていたのは、自分のほうだった。
二人は顔を寄せた。
触れた瞬間、世界が静かになった。
戦いの音も、叫びも、すべて遠くへ消えていく。
エナの唇は温かかった。
その温度が、ユリウスの胸を締めつけた。
「……ありがとう。
あなたと一緒で……よかった」
ユリウスは答えられなかった。
声にしたら、終わってしまう気がした。
迫る足音が、もうすぐそこにあった。
影が伸びてくる。
風が乱れる。
それでも二人は離れなかった。
エナの呼吸が、静かに薄れていく。
腕の中の重さが、少しずつ変わっていく。
「エナ……」
ユリウスは震える声で呼んだ。
「エナ……」
エナは微笑んだ。
その笑顔は、もう返事をしなかった。
エナの温度だけを感じながら、
静かに息を吐いた。
――帰りたかったな。
二人で。
その想いだけが、最後まで胸に残った。
ユリウスはエナを抱いたまま、ゆっくりと顔を伏せた。
近づく足音が、もうすぐ耳元まで迫っている。
それでも彼は、ただ静かに目を閉じた。
夜風が止む。
影が落ちる。
――そして、王都の音はそこで途切れた。




