世界がぼやけた日
「あの日、私はあいつに『大事なもの』を盗まれたんだ」
彼女はそう言って話し始めた。
窓の外は昼過ぎの光で白くにじんでいた。
彼女はその光をまぶしそうに細めながら、コーヒーカップを両手で包む。
「最初は気づかなかったんだ」
ぽつりと続ける。
「でも、ある瞬間に分かった。ああ、やられたって」
声は落ち着いているのに、どこか諦めたような響きがあった。
「信じてたんだよ。ずっと一緒にいたし、まさかそんなことするやつだとは思ってなかった」
俺は相槌を打つ。
「それで?」
「ある瞬間、世界が変わった」
彼女はゆっくりと窓の外を見た。
「それまで当たり前に見えてたものが、急にぼやけたんだ」
沈黙が落ちる。
「遠くも、近くも、全部」
「……それはきついな」
「でしょ」
彼女は小さく笑った。
「本当に混乱したよ。どうしてこんなことになったのか分からなくてさ」
コーヒーを一口飲む。
「でも、よく考えたら前兆はあったんだ」
「前兆?」
「うん。やたら近くに寄ってきたり、じっとこっちを見てたり」
「それ、怪しいな」
「怪しいでしょ」
彼女は頷いた。
「でもさ、まさかそんなことするなんて思わないじゃん」
俺は腕を組んだ。
「それで、奪われたのか」
「うん」
「大事なものを」
彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「本当に大事だったんだ」
「ないと困る?」
「かなり」
間が空く。
「取り返そうとは思わなかったのか?」
「思ったよ」
彼女は肩をすくめた。
「でもさ、あいつ、逃げ足だけは早くて」
「犯人は誰なんだ」
彼女は窓の外を指さした。
「多分、まだこの辺にいる」
俺もつられて外を見る。
アパートの前の電線に、雀が数羽とまっている。
向かいの屋根では猫が昼寝していた。
「特徴は?」
「小さくて」
彼女は指で大きさを示す。
「すばしっこくて、人の物に興味がある」
「……猫か?」
「多分」
彼女は立ち上がり、机の上を手探りし始めた。
雑誌をどけ、リモコンを動かし、コースターを指先で探る。
「本当に困るんだよ」
彼女は言った。
「ないと見えないから」
その瞬間、俺は違和感に気づいた。
「……待て」
彼女は顔をこちらに向ける。
だが、視線は微妙にずれている。
そして俺は机の端を見た。
そこに、小さな黒いフレームが転がっていた。
「おい」
俺はそれを拾い上げる。
「これじゃないのか」
彼女は顔を近づけて、目を細めた。
「あ、ほんとだ」
そして、何事もなかったかのようにそれを受け取る。
「よかった」
メガネをかけると、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「世界、戻った」
俺は思わず机を叩いた。
「『大事なもの』ってメガネかよ! あの日って今朝のことかよ!」




