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世界がぼやけた日

作者: Uki
掲載日:2026/03/16

「あの日、私はあいつに『大事なもの』を盗まれたんだ」


彼女はそう言って話し始めた。


窓の外は昼過ぎの光で白くにじんでいた。

彼女はその光をまぶしそうに細めながら、コーヒーカップを両手で包む。


「最初は気づかなかったんだ」


ぽつりと続ける。


「でも、ある瞬間に分かった。ああ、やられたって」


声は落ち着いているのに、どこか諦めたような響きがあった。


「信じてたんだよ。ずっと一緒にいたし、まさかそんなことするやつだとは思ってなかった」


俺は相槌を打つ。


「それで?」


「ある瞬間、世界が変わった」


彼女はゆっくりと窓の外を見た。


「それまで当たり前に見えてたものが、急にぼやけたんだ」


沈黙が落ちる。


「遠くも、近くも、全部」


「……それはきついな」


「でしょ」


彼女は小さく笑った。


「本当に混乱したよ。どうしてこんなことになったのか分からなくてさ」


コーヒーを一口飲む。


「でも、よく考えたら前兆はあったんだ」


「前兆?」


「うん。やたら近くに寄ってきたり、じっとこっちを見てたり」


「それ、怪しいな」


「怪しいでしょ」


彼女は頷いた。


「でもさ、まさかそんなことするなんて思わないじゃん」


俺は腕を組んだ。


「それで、奪われたのか」


「うん」


「大事なものを」


彼女は少しだけ真面目な顔になった。


「本当に大事だったんだ」


「ないと困る?」


「かなり」


間が空く。


「取り返そうとは思わなかったのか?」


「思ったよ」


彼女は肩をすくめた。


「でもさ、あいつ、逃げ足だけは早くて」


「犯人は誰なんだ」


彼女は窓の外を指さした。


「多分、まだこの辺にいる」


俺もつられて外を見る。


アパートの前の電線に、雀が数羽とまっている。

向かいの屋根では猫が昼寝していた。


「特徴は?」


「小さくて」


彼女は指で大きさを示す。


「すばしっこくて、人の物に興味がある」


「……猫か?」


「多分」


彼女は立ち上がり、机の上を手探りし始めた。


雑誌をどけ、リモコンを動かし、コースターを指先で探る。


「本当に困るんだよ」


彼女は言った。


「ないと見えないから」


その瞬間、俺は違和感に気づいた。


「……待て」


彼女は顔をこちらに向ける。

だが、視線は微妙にずれている。


そして俺は机の端を見た。


そこに、小さな黒いフレームが転がっていた。


「おい」


俺はそれを拾い上げる。


「これじゃないのか」


彼女は顔を近づけて、目を細めた。


「あ、ほんとだ」


そして、何事もなかったかのようにそれを受け取る。


「よかった」


メガネをかけると、彼女の表情がぱっと明るくなった。


「世界、戻った」


俺は思わず机を叩いた。


「『大事なもの』ってメガネかよ! あの日って今朝のことかよ!」

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