1 人生が変わってしまう時
レストラン『クローシュ』は、冬や雪が降り積もり川には氷が張るような山の中の、小さなペンションの一角にあった。
小鳥のさえずりがどこまでも響き、車通りもほとんどない。だからこそ――――ゴンッ――――という衝撃音は辺りによく響き渡っただろう。
朝。
レストラン、そのバックヤード。
部屋の入り口に頭を向けて、人がうつ伏せで倒れていた。50代ぐらいの男だった。
「や、やってしまった……」
そう溢したのは、バックヤードの入り口。
外開きのドアの前でへたり込み、頭を抱えている男だった。
壁に向かって置かれた小さな机の上に並んだ書類には、頭を抱えている男の顔写真の横に『足立』と書かれていた。
「どうすれば……」
足立は、ハッとしてスマホを取り出す。
倒れている人間を目にして救急車を呼ぼうとするのは、良識ある人間ならば当然の反応と言えた。――――が、足立はスマホを開いたところでぴたりと動きを止め、逡巡する。
その時、足立の背後から、誰かの足音が聞こえてくる。
足立は、その足音のほうを振り返る中で、走馬灯のように今日までの出来事を思い出していた。
(どうして、こんなことになったんだろう。今朝、家を出る時、人生が変わることを望んでいた。だが、こんなことではなかったはずだ――――)
▼ ▼ ▼ ▼
事件の1週間前。昼。
冬の乾いた風の冷たさから逃げ込むように、店の扉が開かれる。
そこは足立の住む町にある、個人経営の定食屋『たからから』だった。
15の座席に、3人ほどの客。給仕は、お婆さん1人。
そして、厨房には店主のお爺さんと――――38歳にしてアルバイトの足立の姿があった。
「さあ、やってまいりました! ここ、東京の銀座に新しくできたフレンチレストランです~。すごいですね、もうこの時間は満席です」
テレビから、華やかな料理の並ぶフレンチ特集が寂れた店内に流れてくる。足立は、それを手持無沙汰でぼーっと眺めていた。
そこへ、お婆さんが、
「ハラス1、すき焼き1」
と、声をかける。
「あいよー」
足立とお爺さんは慣れたように揃ってそう返すと、すぐさま調理に取り掛かった。しかし、そんな足立の表情はどこか退屈そうだった。
それから時間は進み、夜。時刻は、23時20分。
たからからは、定食屋から居酒屋に姿を変えていた。
最後の客が店を出ると、お婆さんが暖簾を下ろす。
店内はしんと静まり、机の上に残された空になった瓶ビールやレモンの切れ端、食い荒らされたつまみたちを、足立が回収して回っていた。
一方、厨房ではお爺さんが片付けをしていた。
そこへ、足立が回収した食器類を持ってくる。と、足立はそのままお爺さんに話しかけた。
「……あの、そういえば新作の話なんですけど」
爺さんはよく聞こえなかったのか、
「あぁ?」
と、聞き返す。すると、足立は尻のポケットからメモを取り出して、
「新作! なんか新しいものが欲しいって言ってたでしょ!」
と、掲げてみせた。
「おう、うちも飽きられねえようにな。どれどれ……」
そう答えて足立のメモを手に取る、お爺さん。しかし、次の瞬間、
「鮭のムニエル……?」
と、ため息を吐くと、
「駄目駄目! なんだ、それ! うちは、そんなお高いもん置かねえよ!」
と、メモを突き返した。
「お高くなんか……! ミニトマトは、千切りの横につけるのを使えばいいし、レモンもレモンサワーのを使えば!」
「あのなぁ、どのサラリーマンが、汗だくで外回ってきた後に、定食屋で鮭のムニエル食おうと思うんだ!? えぇ!? うちの人気メニュー言ってみろ!?」
足立は小さな声で、
「……かつ丼」
と、答える。すると、お爺さんは不満足そうに、
「そういう分かりやすいもん持って来いってんだ! ったく、いくつだ、おめえは……」
と、そっぽを向いて掃除に戻ってしまった。
足立はやるせなくて、メモ用紙を握り潰す。すると、足立の代わりに残った食器を回収してきたお婆さんが、
「さぼんじゃないよ」
足立の横に食器を置いて、そう言った。
▼ ▼ ▼ ▼
閑散としている一室。
そこへ、足立が紙袋を持って入ってくる。ここは、足立の住むマンションだった。
足立は帰るなり、リビングの電気をつけて机の上に紙袋を置く。と、目の端に映ったのは、女ものの雑誌や生理用品やぬいぐるみがまとめられたダンボールだった。
「……」
足立はため息を吐きながら上着を脱いで、冷蔵庫へ向かう。――――が、扉を開けても、中には缶ビールしか入っていなかった。
足立はその中の1つを手に取ると、躊躇わず一気に流し込む。そして、缶を握り潰した。
――――駄目駄目! なんだ、それ! うちは、そんなお高いもん置かねえよ!
そんなお爺さんの言葉が頭を過る。と、足立は雑に手に持っていた缶を置いて、2缶目を手に机に戻った。
ぐでっと椅子に背中を預けると、足立は紙袋から“月刊スペシャリテ”と表紙に書かれた雑誌を取り出し、徐に読み始める。
記事には、中華、和食、イタリアン、スイーツ、各界を代表するシェフとその新作料理が並んでいた。
そんな中、足立の手がフレンチのページで手が止まる。
そこには、『また、一緒に働ける仲間も探しているんです。綺麗な空気の中で働くのは最高ですよ』というインタビュー記事と共に――――島シェフと書かれた紹介文、さらにペンション『クローシュ』の写真と島の料理の写真が掲載されていた。
足立は、そのページをじっと見つめた後、何かを決心したように立ち上がって、雑誌を持ったまま自室に戻る。そして、電気をつけた。
闇の中から浮かび上がってきたのは、机の上に置かれた先端が輪っかになっているロープだった。
その大きさは――――ちょうど、人ひとり分の頭が通るサイズだった。
「……どうせなら」
それを見つめて、足立は呟く。
机の横の棚には、自身の料理学校時代の写真や、月刊スペシャリテの切り抜きをまとめたファイルが並んでいた。
▼ ▼ ▼ ▼
「夢だったんです。フレンチシェフになるのが」
1週間後。朝。
2階建てのペンション、『クローシュ』。
まだ従業員も集まっていないレストランのバックヤードに、そんな足立の声が響き渡る。駐車場にだって、銀のバンが1台止まっているだけだった。
バックヤードは、壁に向かって小さな机と中央に大きな机があり、壁際にはロッカーが4つ、奥から『島』と『西尾』、そして名前のないものが2つ並んでいるだけのこじんまりとした一室だった。
その小さな机を挟んで足立は今、記事にインタビューが乗っていたシェフ――――島本人と向かい合っていた。
「38……。なんで、今更?」
足立の履歴書を机に置いて無愛想に聞くと、島はそれからティッシュを手に取って鼻をかむ。
風邪なのだろうか、机の上には書類やノートパソコンの他にも、風邪薬が置かれていた。
「卒業してすぐの時に挑戦したんですがその時は失敗ばかりで、理想と現実のギャップに1度は料理を作るのが嫌になってしまって……。でも、料理の研究を怠ったことはありません! 今も、いくつか自分でレシピを開発して……」
足立はそう言って、バックから定食屋でお爺さんに出したメモを取り出す。
しかし、メモには昨日握りつぶした時についたクシャっとした跡が残っていた。島はそれを受け取らず、蔑むような目でそのメモのシワを無言で見つめ続けると、足立は間に耐え切れずメモをしまった。
その様子を見て、島は項垂れる。そして、眉間に手を当てると、
「……正直言うとね。意味ないのよ、君」
と、島は貧乏ゆすりを始めた。それに合わせて、島の左耳についている黒いピアスも揺れる。
「え?」
「うちが求めてるのは、若い人なの。君、38だっけ?」
「ちょ、ちょっと待ってください! 年齢が原因なんですか!?」
「それだけじゃないよ。誰がフレンチシェフ募集して、聞いたことない定食屋のバイトを起用するんだ。夢を追ってきたのか再起のチャンスなのか知らないけど、少しは相手の気持ちも考えなさい。今日だってアポなしで、記事を見てきましたって……」
足立はだらだらと続く島の説教に何も言えなくなって俯き、左手の薬指の指輪の痕を撫でる。すると、さらに島は、
「それにねえ、いま来られても。うち、3日後に閉めるから」
と、言った。
「え? 倒産とか……」
「な訳あるか。失礼だな」
「すみません」
「あのね、冬のこんな時期に、こんな山奥に来る物好きなんかほとんどいないの。今いるお客さんが帰ったら、うちはスタッフも全員帰して、ペンション自体を閉める。で、そこからは1週間も空くの。ね、いま来られてもロクに教えられないし……」
それは、経験則と時期や環境を考慮したロジカルな説明だった。足立も、納得できる。――――しかし、次に来た、
「……君みたいな人間、どうせ物覚え悪いでしょ」
その言葉は、偏見に塗れたただの中傷だった。
足立は、机の下でそれをぐっとこらえながら拳を握る。ここで反論しては、さらに厄介な人間だと思われると思ったからだった。
しかし、その甲斐虚しく、島は、
「さ、もう帰って」
と、履歴書を返してきた。
足立は何も言えずにそれを受け取り、顔写真を眺める。そして、その経歴を――――アルバイトの文字を目で追うと、肩に力を込め、
「……そ、そうですよね。確かに、こんな場末のレストランに私は似合いませんね」
と、言った。
それが、足立の精一杯の強がりだった。言われっぱなしでは、いられなかった。
「なんだと……!?」
その言葉に驚き、動揺する島を無視して、足立は立ち上がってドアに手をかける。そして、ドアを外に向かって押そうとした時だった。
「……ちょっと待ちなさい」
島が、その足を呼び止める。
「さっきの。ほら、レシピだっけ」
振り返った足立に、手を出す島。足立はカバンからメモを取り出すと、その手の上にそっと乗せた。
島が、それをじっと見つめる。
すると、待っている足立の心には、仄かな期待が生まれ始めた。
もしかしたら、彼の盲点を突くような自分なりのレシピが出来上がっているのかもしれない。さっきの自分の発言で考えを改めて、経歴でなく中身で評価してくれるのではないか、と。
しかし、次の瞬間――――島は鼻で笑ってそれをくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱に捨てた。そして、足立に告げる。
「こういう夢もさ、見ないほうがいい。料理人としてね、君みたいな人間を見るとむかつくんだ」
足立はその光景にショックを受けて、すぐさまゴミ箱にメモを取りに行く。
「何するんですか!」
だが、そんな足立を島は止める。
「やめなさい! みっともない! 現実を見なさい!!」
「みっともなくても、これが私の全てなんです!」
足立はもみくちゃになった中でなんとかゴミ箱からメモを拾うと、そのままカバンを持って、ドアから逃げ出そうとする。
「待て!」
しかし、島もそれを意地になって追いかける。
「邪魔しないでください!」
足立は、必死になってドアの外に出る。もう一刻も、こんなところにはいたくなかった。
そして、目を瞑りながら勢いよくバックヤードのドアを閉め、押さえつけるようにその場にへたり込んだ。――――その時だった。
遅れて、ドアの向こうから――――ゴンッ――――と鈍い音が聞こえた。
「……? 島さん?」
足立は、ゆっくりとドアを開く。
すると、開いたドアの先には――――足立の方に向かってうつ伏せに倒れている島の姿があった。
「――――し、島さん!? 島さん!」
体を揺すって意識を確かめる。足立はすでにパニック状態だった。
「お、私が……。私がやったのか……? 追いかけてきた島さんの頭を、ドアでバンッて……。そんなバカなこと……」
返事のない島に、足立は尻もちをつき、頭を抱える。――――しかし、次の瞬間、足立はハッとしてスマホを取り出し、119を入力した。そして、自分に言い聞かせるように、
「事故だよ……。そう、事故……」
と、繰り返し、発信ボタンを押そうとした。
「でも、そうならなかったら……? 刑務所に入って、そしたら料理人にはもう……」
が、sの徳前で、そんな疑問が浮かんできて足立は一瞬それを躊躇ってしまう。
そこへ、足立の背後――――ペンションの受付のほうから誰かの足音がやって来た。
「……え?」
足立が振り返る。と、そこに立っていたのは、分厚いコートからシュッとした足を覗かせる女だった。
女と目が合うと、足立は振り返って島の顔を見る。すると、女は恐る恐る確かめるように、
「和樹さん……?」
と、島に尋ねた。
「……っ、違っ! これは、僕が来たら、もうこうなってて!」
足立は何とか誤魔化そうと、テンパりながら言い訳を重ねる。すると、
「そう、死んで……」
と、女はそこまで言って、ようやくハッとして、
「……し、死んで!? ひ、人殺し! いやぁっ!」
と、叫び始めた。
「そうじゃない!」
落ち着かせようとする、足立。――――しかし、女はパニックになって、騒ぎ立て話を聞かない。
足立は何かないかと、辺りを見回す。と、何かに気がつき、女の肩を掴んでこう叫んだ。
「――――不倫!」
しかし、女は動揺したまま、
「な、何!? やめて!!」
と、抵抗する。そこへ、足立はもう一発、
「ふ・り・ん!」
と、言ってみせた。
女は始め、その言葉をパニックで繰り返すだけだった。
「ふりん!? ふりん!? ふり――――」
しかし、段々とその言葉を理解してくると、それから女は、
「――――え?」
と、聞き返した。
「不倫してますよね! そこの島さんと。――――西尾さん!」
突然そんなことを言う足立に、女は、
「な、な、な、なんで、知って……」
と、動揺し、それからハッとして両手で口を塞いだ。しかし、もう遅かった。
「やっぱり! 島さんのことを、和樹さんって! 名前で呼んでましたもんね!」
足立は一気に明るい顔になると、それから島と女を交互に指さし、
「それに、ピアス! それ、ペアピアスですよね!! 島さんは左耳で、あなたは右耳。なのに、あなたは指輪をしていて、島さんはしていない。ロッカーにも、名札が2つしかなかった。1つは『島』で、1つは『西尾』。そして、あなたは従業員の格好をしていない。ということは、これから着替えるところだったってことだ! そうでしょう!?」
と、指摘した。
「やっぱりって……。カ、カマかけたの……!?」
そんな質問には答えず、足立は女の顔を指し、
「良いですか! このことをバラしたら、私はありとあらゆる手段を使って、それを広めますよ!」
と、畳みかける。
「……っ!! それだけは!」
女は困ることがあるのか、一気に弱気になる、すると、足立はその顔を見て確信を得たのか、
「分かってます! だから――――」
と、言い、それからその場で跳ねて、
「――――このペンションから誰もいなくなるまでの3日間でいい。僕に協力してください!」
と、誠心誠意の土下座をした。
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