氷が撒いた静かな布石
学院の石畳は、昨夜の雨でまだしっとりと濡れていた。
朝の空気は冷たく澄み、吐く息が白く揺れる。
リヴィアは一人、人気のない裏庭を歩いていた。表通りは既に賑わい始めているが、この場所は生徒の足があまり向かない。
「来たな」
古びた温室の影から、レオンが姿を現した。
彼の手には封のされた羊皮紙がある。
「例の資料だ。学院の魔力測定記録、十年前のものだ」
「……わたくしの覚醒試験の記録も?」
レオンはうなずき、封を切って中身を広げた。そこには「魔力値測定不能」「魔法陣破損」と記された簡素な記録が残っていた。
「これは……」
「明らかに異常な数値が出たはずなのに、報告書は意図的に簡略化されている。誰かが隠した」
「隠したのは、恐らく……家族」
リヴィアの声は低く、冷え切っていた。
「これをどうするつもりだ?」
「まだ使いませんわ。今は証拠を揃える段階。けれど……この紙切れひとつで、わたくしを軽んじた者たちの土台は揺らぎます」
その瞳は静かだが、底に潜む野心は隠しきれない。
彼女はこの記録を直接武器にするつもりはなかった。
むしろ、この事実を必要な人物の耳にだけ落とし、時間をかけて腐食させる――そのための布石。
昼休み、学院の中庭はまたもミアを中心に人だかりができていた。
「この前の演習、本当にお見事でしたわ!」
「ミア様、今度の舞踏会もぜひご一緒に!」
笑顔と賛辞の嵐。ミアはまるで女王のようにそれを受け止めていた。
だが、その輪の外でリヴィアは静かに観察していた。
「……あなた、最近妙な噂を聞かない?」
ミアの取り巻きの一人が、別の生徒にそう囁いたのが耳に届く。
「何の噂?」
「ほら……十年前の覚醒試験、何か隠されてたとか…」
「まさか。そんなの、誰が信じるの?」
「でも、もし本当なら――」
リヴィアは視線を外し、微笑んだ。
自分の手は汚さず、言葉だけを置いていく。それはゆっくりと広がる冷気のように、確実に相手を包み込む。
夕方、学院の鐘が鳴る頃、ミアは温室で花の手入れをしていた。
そこに現れたのは、情報好きで知られる上級生だった。
「ミア様、失礼ながら……お姉様のこと、何かご存知で?」
「まあ、どういう意味かしら?」
問い返すその声は穏やかだが、指先は花弁を軽く千切っていた。
「いえ、ただ……昔の記録のことで」
ミアはしばらく黙り、そして柔らかく笑った。
「昔話に興味を持つのは結構ですけれど……お気をつけあそばせ。中には触れてはならない花もありますの」
その言葉は忠告か、脅しのように響いた。
だが、彼女の背後には、もう小さな波が広がり始めている。
リヴィアは夜、自室の机で新たな地図を広げた。
学院内の交友関係、情報の流れ、影響力のある生徒の名前――。
一本一本、細い線で結ばれたその図は、まるで蜘蛛の巣のようだった。
「次は……こちらから糸を引く番ですわ」
月光に照らされた銀の髪が揺れ、氷の檻の中にいた令嬢は、静かに外へと歩み出そうとしていた。