失墜した公爵夫妻
王都の朝はいつもと変わらぬ鐘の音で始まったが、その日、ヴァルシュタイン邸の門扉に打ち付けられた封書だけは、どの朝とも違っていた。王家の封蝋は、二度と戻らぬ権威の色をしていた。通りを行く馬車は減速し、御者はちらりと視線を投げる。門番はまだ習慣で背筋を伸ばすが、その胸元からは家の紋章を飾る飾緒が外されていた。通りの向かいで露店を営む女が囁く。「終いだよ、あの家も」。囁きは噂となって石畳を這い、午后の陽のにおいと一緒に、広場の隅まで運ばれていく。
書斎で封を切ったアルノー・ヴァルシュタインは、文字を一行ごとに飲み下すように目で追い、最後まで読んでも、しばらくは何も言わなかった。指先の節は硬く、紙縁を掴んだまま白くなっている。イザベルは向かいの椅子で膝に手を重ね、夫の顔色を読む術を思い出そうとしていた。若さと華やぎが盾になっていた時代は遠く、鏡の前で完璧に引いたはずの口紅が、いまは少しだけ外に滲む。やがて、アルノーは封書を机に置いた。音は意外に軽かった。「正式だ」と、彼は言った。「社交界からの除名。王城への出入りと謁見の権利、剥奪。邸宅の一部は押収、領都の町家は競売に回される」
イザベルは口元に手を当てた。「そんな、だって私たちは――この家を、王国を思って」アルノーは首を横に振る。「理は通じん。勝者は理を持つ」言葉は乾いた。乾いた言葉の背後には、十年前の朝が黒く立ち上る。覚醒試験の日。白い石の大広間、整列した魔法陣。あの時、魔法陣が沈黙した瞬間、誰よりも深く恐れたのは、ほかならぬ家の主であった。沈黙は失敗のしるしのはずなのに、沈黙の底から吹き上がる冷気は、誰かが大河に蓋をしたせいで生じた圧のようだった。あれが「凡庸」だと? 嘘だ、と彼は思った。王家の聖紋をも凌駕しかねない力が、幼い娘のなかに膨れあがっている、と。もしそれが外へ溢れ出したとき、疑いの視線は誰に向くだろう。家に、彼に、すべてに。だから彼は蓋をした。彼がしたのではない、と何度も言い聞かせながら、黙って見ていた。イザベルは別の仕方で同じ恐れを抱いた。鏡の中の自分の姿――完璧に整えられた夫人の面差しの裏で、娘の青い瞳がじっと動かず、こちらを見ていた日。あの透明さは、社交界のどんな微笑みよりも残酷だった。
書斎の扉が、控えめに叩かれた。老執事グレゴールが、手紙の束を捧げ持って立っている。「旦那様、奥様。今朝の郵便でございます」彼の声はいつも通り落ち着いていたが、その手の甲には細い震えが走っている。アルノーはひと束を手に取り、封蝋の色で差出人を分類する癖を、無意識に繰り返した。前宰相派の紋、王妃派の紋、舞踏会の主催者の紋――どれもが、今朝は見当たらない。代わりに、見慣れぬ商人の印、借財の催促、証書の履行を求める文が、分厚く積み重なっていく。グレゴールは、もうひと束を差し出した。「召使いたちからの退職願でございます」イザベルは首を振った。「ひとりでいいから、残りなさいと言って」グレゴールは目を伏せた。「申し訳ございません。皆、次の雇い先はすでに決まっていると……」
台所では、コックのルネが鍋の蓋を閉め、白い帽子を脱いでいた。「奥様にはずいぶんお世話になりました」彼は言い、目を赤くした。「ですが、材料の仕入れも難しくなり、この家の帳場の方からも……」言葉は続かなかった。イザベルは、いつもなら叱責のために張る背筋を、張れないまま立ち尽くした。「せめて、今夜のスープだけは、あなたの味を」ルネは頷き、最後のスープを火にかけた。香草の匂いが、奇妙に寂しく広がる。庭では庭師の老人が、手入れの途絶えた薔薇の枝を、最後の愛情のようにさすっていた。「土は待ってくれるが、人は待ってくれない」と、彼は小さく呟いた。
夕刻、アルノーは黒い礼服に袖を通した。イザベルも古いが品のあるドレスに着替える。二人は鏡の前に立つと、同時に数拍呼吸を止めた。鏡は残酷だ。しわの刻み方、瞼の重み、裾の糸のほつれ――どれもが、昨日まで見なかったふりをしていた。イザベルは口紅を塗り直し、少しだけ笑みの角度を変えた。今夜、小さなサロンが開催される。かつて彼らが開けば、席はあっという間に埋まった。今夜は、招かれる側だ。招待主は新興の商家出身の貴婦人で、最近は王都の噂の中心を賑わせている。彼女のサロンに顔を出せば、誰かが彼らに声をかけるかもしれない。復権の糸口は、いつだって人の間にある。二人はそう思いたかった。
サロンの灯りは眩しく、笑い声はよく響いた。扉口に現れた二人に、視線が一斉に向く――そして、すぐに逸れた。主催の貴婦人は、会釈を返すと、そのまま別の男に腕を絡めた。円卓の周りには、議会の若手、王城の小役人、詩人、噂好きな令嬢たち。イザベルが昔馴染みの子爵夫人に近づくと、彼女は優美に扇を打ち鳴らし、「まあ、奥様、先日は……」と言いかけて、扇の影に微笑を隠した。「失礼、今夜は話題が多くて」。アルノーは別の輪で、王国財務院の書記官に声をかけた。「君の上司に伝えてくれ。わたしは誤解されているだけだ。家を守るためにしたことだ、と」書記官は微笑した。「旦那様、今は書類が時代を決めるのです」紙の時代、という言葉は軽く、しかし残酷に彼の胸に落ちた。
帰路は静かだった。車輪の音がひどく耳についた。邸に戻ると、玄関には無言の荷車が並び、目録を手にした男たちが、家財の査定を進めていた。暖炉上の古いタペストリー、銀器、書見台、遠い祖先の肖像画――「これは持ち出し禁止」「こちらは競売へ」と、淡々とした声が空間を区切っていく。イザベルは思わず前へ出た。「その肖像画は、祖父が――」査定人は礼儀正しく頭を下げ、「王室からの命です」と言った。その瞬間、イザベルの足元で何かが砕けたように思えた。長年自分を支えてきた「言葉」が、初めて効力を失った。
翌日から、家は実務に追い立てられる。帳場では商人が書類を広げ、貸付の期限と利息を読み上げる。アルノーは昔と同じように、指で机を叩きながら数字を追ったが、思考はときどき空白に落ちた。十年前、彼が恐れて見ないふりをした冷気は、いまは数字の列の間からも立ち上る。「わたしは守ったのだ」と、彼は自分に言い聞かせる。「あの子を、家を、王家を。誰も血を流さなかった。誰も――」そのたび、記憶の中の青い瞳が、黙ってこちらを見た。
イザベルは衣裳部屋の前に立ち尽くした。薄紙に包んだドレス、二度と袖を通すことのない舞踏会の靴、香りの抜けた香水瓶。彼女は引き出しの奥から、一通の手紙を取り出した。十六歳のミアが、初めて王都の夜会に出た日の翌朝、彼女の枕元に置いていったもの。「お母さまへ。わたし、見ました。お母さまの踊るときの横顔が好き。わたしのドレスの裾を直してくれてありがとう。今度は、わたしがだれかの裾を直せる人になりたいです」イザベルは紙を広げたまま、しばらく動けなかった。文字は真っ直ぐで、ところどころはねていて、温かい。彼女はそっと紙を胸に当て、鏡を見た。鏡の中の女は、長い間、誰かの裾を踏んでいたのだ、と突然、思った。彼女は椅子に腰を下ろし、指先で目の下を拭った。拭っても拭っても、滲みは消えない。
やがて、都市の邸は手放され、二人は郊外の小さな狩猟小屋へ移った。かつては秋の数週間だけ使っていた小屋だ。家具は少なく、暖炉は古び、窓枠から風が漏れる。初めての夜、暖炉に火を起こす役を買って出たアルノーは、薪の組み方がぎこちなく、火はうまく噛み合わなかった。イザベルがしゃがみこみ、小枝を交互に組み、風の通り道を作る。火はようやく形になり、オレンジの舌が黒い空気を舐めた。「覚えていて?」と彼女は言った。「火は、息をしないと死ぬのよ」アルノーは黙って頷いた。彼は暖炉の前に腰を下ろし、長い時間、火を見ていた。火は人を責めない。燃えるか、消えるか、ただそれだけだ。
郊外の市場では、彼らは「昔の誰か」として扱われた。最初のうちは差し出される施しに、イザベルは癇に障っていた。やがて彼女は、施しではないものを見分けるようになった。隣の小屋の未亡人が、パンを焼く日には端を一切れ多く置いていく。代わりに小屋の前の小道を掃いておくと、未亡人は何も言わずに頷いた。そんな小さな取引を繰り返し、冬が近づく。葡萄畑の枝は丸裸になり、畦道の霜は靴底に固く張り付く。アルノーは斧を持って森へ入り、初めて自分の力で薪を割った。斧は思ったよりも重く、節のある木はしぶとかった。掌にできた豆は痛んだが、火はよく燃えた。夜、暖炉の前で二人は寄り添い、昔の名を口にしない約束をしないまま、黙って火を見つめた。
噂は風と一緒に届く。王都の広場で唱われる新しい歌。氷と炎の姉妹が王国を救った話。灯火の夜に、子どもたちが手のひらに火を乗せて遊ぶ話。イザベルは最初、それを聞くと胸の奥に黒い火が灯るのを感じた。嫉妬は火に似ている。何もかもを焼き、あとには漂う灰しか残らない。だがある日、村の集会所で薪を配っていたとき、小さな女の子がひとひらの紙を差し出した。「ミア様のお話、描いたの」と、子どもは言った。丸い火に小さな笑顔、横に雪の結晶。紙は拙く、温かい。イザベルはその紙を受け取り、胸が痛むのを感じた。痛みは深かったが、黒い火ではなかった。彼女は紙をそっと返し、「素敵ね」と言った。子どもは笑い、走り去った。
ある午後、雨が上がると、遠くの丘で光が動いているのが見えた。灯籠の列だ。村の青年が言った。「王都の真似だって。灯火の夜だよ」夜になると、丘に小さな星が降りたみたいになった。イザベルは小屋の戸口に立ち、その光景を見た。アルノーも隣に立ち、腕を組んだ。二人は同時に息を呑み、同時に目を逸らした。「行こうか」とアルノーが言いかけ、言葉を飲み込んだ。イザベルは首を振った。「ここからで、いいの」彼らは小さな小屋の前に一つ灯りを置いた。ガラスの瓶に油を少し、古布を裂いて灯心にし、火をつける。瓶の口で炎が揺れ、風が頬を撫でる。向こうの丘の灯りと、手前の瓶の火が、同じ黄色で瞬いた。イザベルは瓶の灯りに手をかざし、囁いた。「あの子たちの灯りは、本当に人を照らすのね」アルノーは答えない。炎の中に、昔の青い瞳が映った気がして、彼は目を閉じた。閉じた目の裏で、娘の名を呼ぶ声が、胸の内側からかすかにした。声は外には出なかった。
その冬、王都から最後の通知が届いた。残っていた郊外の土地の権利が完全に失われ、最後の年金も打ち切られる。グレゴールからの手紙が添えられていた。老執事は、遠い親戚を頼って地方へ去るという。「旦那様、奥様。長らくお仕えできたこと、誇りに存じます。どうか、お体をお大事に。暖炉の灰は毎朝落とし、火打ち石は湿らせぬよう」端正な筆跡に、涙の跡が小さく滲んでいた。イザベルは手紙を折り、包み紙に包んで引き出しにしまった。彼女はときどき、それを取り出して触れた。人は、紙に触れて温まることがある。
春になると、畦道に小さな白い花が咲く。イザベルは花の名を知らない。彼女は花に名前をつけなかった人間だ。名のない花は、名のない光のように、そこにあるだけだ。アルノーは森で小枝を集め、焚き付けにする。彼はときどき、遠くを見た。王都の尖塔はここからは見えないが、彼の目は尖塔の先端まで届こうとしているように見えた。「書くか」と、ある夜、彼は言った。「誰に」とイザベル。「娘に」と彼は答え、それきり黙った。机に向かい、紙を前にして、彼は長い時間、羽根ペンを握っていた。やがて、彼は最初の文字を書いた。「リヴィア」。名前は紙の上で静かに光り、彼は次の言葉を探した。謝罪という言葉は重く、口に出すよりも紙に書く方が難しい。彼は「おまえを守るために」と書きかけ、ペン先を止めた。守るために傷つける、という論理は、この紙には乗らない。彼は代わりに、「おまえが生きてくれて、よかった」と書いた。文字は震えていた。彼は手紙を封じず、机の引き出しに置いた。送り出す力が、まだどこにもなかった。
市場の片隅で、イザベルは縫い物を手伝うようになった。器用さだけは若い頃からの財産だった。自分のドレスはもう新しくならないが、誰かの裾をすくい、ほつれを見つける目は衰えない。ある日、若い母親が小さな子の袖のほつれを直そうとしていた。イザベルは針を受け取り、手早く縫い目を走らせた。母親は照れくさそうに礼を言った。「最近、王都の孤児院でパンがよく膨らむの。新しい窯ができたんだって。氷と炎の姉妹のおかげだって、皆が言うの」イザベルは針を指に刺しそうになった。「そう……」とだけ言い、微笑んだ。「よく膨らむパンは、人の心も膨らませるわね」母親は頷いた。「ええ」イザベルは、その夜、暖炉の火を見ながら呟いた。「パンは、膨らむために叩かれるのね」アルノーは彼女の横顔を見て、何も言わなかった。
夏が来る。ぶどうの葉は濃く、風は甘い。村の子が小屋の前を走り抜け、「ミア様が来るって!」と叫んだ。ミアの名は、風よりも軽く小屋の中へ入ってきた。イザベルは手を止め、アルノーを見た。二人は立ち上がったが、戸口に手をかけたところで、その手を下ろした。外へ出て、人混みの中で娘の名前を叫ぶ勇気と、娘の視線を受け止める覚悟のどちらも、まだ持てなかった。小屋の窓から見える通りを、遠く紅いドレスの裾が過ぎる。子どもが群がり、笑い声が上がる。「痛くない火だ!」ミアの笑い声が、夏の鈴のように響いた。イザベルは窓辺で手を握り、爪が掌に食い込む痛みで、今の自分の位置を確かめた。アルノーは椅子に座り、窓に背を向けた。背中は硬く、その硬さでしか自分を支えられなかった。
秋、王都から新しい噂が来る。姉の名は、もっと遠くまで届くようになった。彼女は王家の会議で静かに言葉を置き、紙に線を引き、国の形を少しずつ変えていく。イザベルは噂話を否定せず、肯定もせず、ただ焚き火の火を見守る。アルノーは夜、机の引き出しを開け、封じなかった手紙を取り出す。そこには、季節ごとに付け足された数行が、ばらばらの時間の断片のように重なっていた。「葡萄は今年、よく実った」「お前の好きだった庭の噴水は、直した」「わたしは斧を使えるようになった」「ミアの笑い声を聞いた」「……すまない」。最後の二文字は、紙の縁でにじんでいた。
冬至の夜、村の教会に灯りが並ぶ。誰かが余ったろうそくを配り、子どもが歌う。イザベルとアルノーも、戸口で小さなろうそくに火を移した。炎は震え、彼女の指先に温もりを置いた。風が吹けば、消えてしまいそうな小さな火。イザベルはその火を手で囲い、息を整えた。彼女は気づいていた。自分が長い間、囲いになれなかったことに。火を囲む代わりに、火を隠す箱になってしまったことに。箱の中の火は、いつか酸素を失い、ただ煙だけを残す。彼女の掌で、今は小さな火が呼吸をしている。「ごめんなさい」と、彼女は火に言った。火は答えない。けれど、少しだけ明るくなった。
春がまた来る。二人は小屋の前に小さな花壇を作った。イザベルは土の粒を指で押し、種を置く。アルノーは水を汲み、やり方を覚えた動作でゆっくりと土を湿らせる。指先は昔よりも太く、節くれだったが、動きは確かだった。花壇の端に、彼は小さな木札を立て、「忘れな草」と拙い字で書いた。イザベルは笑った。「名前を知っていたのね」アルノーは照れくさそうに肩をすくめた。「書庫の古い図鑑にあった」イザベルは木札に手を触れ、「忘れないように、忘れな草」と繰り返した。二人は目を合わせ、ほんの少しだけ微笑んだ。
その年の夏、王都からの使いは来なかった。招待状も、催促状も、誰かの噂話も。小屋は静かで、風は葡萄の匂いでいっぱいだった。夕暮れ、丘の上ではまた灯火の夜が開かれる。イザベルとアルノーは小屋の前で瓶に火を灯し、遠い灯りを眺めた。二人の間に交わされる言葉は少ないが、沈黙は以前のように冷たくはなかった。沈黙は、火の前の沈黙に似ていた。見つめることで温まる沈黙。見つめることで、自分の呼吸を思い出す沈黙。
彼らはもう公爵ではない。誰も、道で彼らに帽子を取らない。市場では、値切る声に彼らは負ける。冬には薪が足りず、春には雨漏りがする。それでも、二人はまだ一緒にいる。愚かさは消えない。後悔は消えない。だが、人は生きているかぎり、火を囲む手になれる。イザベルは夜、ふと思う。あの青い瞳は、いまもどこかで、誰かの未来を見ているのだろう。ミアの炎は、誰かの晩ご飯をふくらませ、誰かの涙を乾かしているのだろう。彼女は頷く。頷けるようになった。それだけでも、昔の自分からすれば遠い地点だ。
秋の終わり、アルノーは机の引き出しから例の手紙を取り出し、封をした。封蝋は赤く、印章はもう家の紋ではなく、ただの丸だった。彼は町外れの郵便宿まで歩き、切手の代金を払った。宿の男が「宛先は王都」と確認し、手紙を束の中に差し込む。アルノーはしばらく、束の上に置かれた自分の封を見ていた。それはもう、彼の手のものではない。彼は帰り道、丘の上で立ち止まり、風を吸い込んだ。肺が痛いほど吸い込み、細く吐いた。吐く息は白く、空に消えた。
手紙が届いたかどうか、二人は決して知らない。返事は来ない。来ないが、来ないという事実が、二人の小屋の空気から消えることはない。夜、瓶の火を囲みながら、イザベルは小さく言う。「いつか、灯りの下で会えたらいいわね」アルノーは頷く。「灯りの下で」。二人は火を見た。火は燃え、息をし、彼らの輪郭を静かに照らした。
ある年の冬、村の子どもたちが小屋の前で歌った。灯火の夜の歌、氷と炎の姉妹の歌。子どもたちは小さな手を打ち、笑いながら走り去る。イザベルは戸口に立ち、歌の余韻を吸い込んだ。アルノーは椅子に座り、手を膝に置いた。二人は互いを見た。いくつもの季節と、いくつもの火の前の沈黙ののちに、初めて互いに向かって頷いた。「ごめん」と、アルノー。「ごめんなさい」と、イザベル。謝罪は誰にも届かないが、火はそれを聞いた。火は少しだけ明るくなり、瓶の中で静かに揺れた。
こうして、失墜した公爵夫妻は、名を失い、肩書きを失い、誰かの記憶からも次第に薄れていった。市場では、彼らは「丘の上の小屋の老夫婦」と呼ばれる。冬の朝、彼らは灰を落とし、火打ち石を乾かし、瓶に灯りを入れる。夏の夕暮れ、彼らは丘の灯りを眺め、葡萄の匂いを吸い込み、小さな花壇に水をやる。遠い王都の尖塔は見えないが、火の明かりは届く。灯りは名前を求めない。二人の手が、ようやく火を囲む手になった頃、世界は彼らなしでもよく回るようになっていた。
それでよいのだ、と、誰かが言うかもしれない。彼らもまた、いつかそう思うだろう。火が消えるそのときまで、瓶の灯りは、彼らの小屋の前で静かに揺れる。吹けば消えそうな火。それでも、消えないことを選び続ける火。失墜した公爵夫妻の物語は、そこで終わりではない。終わらせないという意志だけが、最後に残る。火は答えず、ただ、灯り続けた。




