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白薔薇の檻  作者: 雨宮 巴
外伝
28/29

炎の令嬢、故郷に帰る

馬車の窓に映る王都の尖塔が遠ざかるにつれ、ミアは胸の奥の炎が別の温度を取り戻していくのを感じていた。戦の影を払ったばかりの街は、まだところどころ焦げ跡の匂いを残し、人々の笑顔には安堵と疲労が半分ずつ混じっていた。姉リヴィアと肩を並べて王城の回廊を歩いた夜から、わずか数日しか経っていない。それでも、王都で鳴り止まなかった楽団の音も、取り巻きのさざめきも、いまは車輪のきしみと蹄の乾いた音に吸い込まれていく。彼女は膝の上で封蝋の解かれた書状をもう一度ひっくり返した。銀糸の筆致――姉の手に間違いない。


《無理をしないで。あなたの炎は、燃やすだけでなく、灯すこともできるのだから。王都が少し窮屈なら、空の広い場所で息を整えなさい。戻る場所はこちらにある。けれど、あなたが「ここ」と決めた場所なら、そこがあなたの王都になる》


読み返すたび、胸の奥が熱くなる。ミアは唇を引き結び、書状を胸元に押し当てた。炎は、燃やすだけでなく灯すことができる――姉のその言葉は、火の心臓に静かな律動を与える呪文みたいだった。


夕刻、故郷ラグナの丘陵が視界に入ると、空が低くなった。褐色の畑がうねり、葡萄棚の影が長く伸びる。見張り台から吹かれる角笛がひときわ高く、門の前には村の子らが列をなし、花輪を掲げて跳ねている。馬車が止まるやいなや、駆け寄ってきた執事バルドゥスが深々と頭を下げた。「お帰りなさいませ、ミア様。領民一同、心よりお待ちしておりました。王都でのご活躍、皆が噂にしております」


「ただいま。みんな、元気だった?」ミアは飛び降りるように馬車を降り、花輪を受け取り、子どもたちの頭を撫でた。小麦色の額に触れると、柔らかな汗の匂いがした。門の内側で控えていた農夫が言った。「王都のミア様だ。リヴィア様みたいに賢くはならんでも、ここいらの火事は、ミア様が一息で消しちまうだろうさ」笑い交じりの声。褒め言葉だとわかっていても、ミアは心のどこかに小さなしこりを覚えた。リヴィアの名が出るたび、胸のうちで何かが波打つ。誇らしい、悔しい、温かい、少しだけ苦い。全部正しくて、全部間違っていない。


館は昔のままだったが、よく見れば塗り直しの手が回っていない柱があちこちにあり、庭の噴水は水の勢いが弱っていた。玄関の上り框に父アルノーと母イザベルが並んでいる。父は相変わらず高い鼻梁を保っていたが、目の下の隈は濃く、指先には落ち着かない癖が見えた。母のドレスは質素で、袖口のレースは去年の流行をそのまま留めている。「ミア」と母が微笑んだ。「王都では、よくやったそうね。あなたの――その、炎も役に立ったと聞いたわ」


「ただいま戻りました、お父さま、お母さま」ミアは一礼した。父は視線を逸らしながらも頷き、「うむ」と短く言ったきりである。かつての居丈高な響きは鳴りを潜め、言葉は空気を切らずに沈んだ。ラグナの風はときどき冷たく、ミアは袖を押さえた。ずっと憧れていた凱旋の場面は、想像よりも色が薄かった。


数日のうちに、彼女は市場へ、酒場へ、葡萄畑へと足を運び、人々の話に耳を傾けた。年老いた葡萄農家が言う。「今年は雨が少なくてな、丘の向こうで火事が出たら、あっという間に棚がやられちまう」パン屋の女主人は肩をすくめる。「王都から来る塩の値が上がったのよ。塩で生地を締められないと、どうにも味がぼやけてね」鍛冶屋は鉄槌を持ち上げながら、「村の緊急鐘楼の縄が擦り切れてる。いざという時、鳴らせないのは困る」と眉をひそめた。ミアは聞き、頷き、即席で火を細く編んで縄の繊維を炙り、ほつれを修繕する。子どもが歓声を上げた。「ミア様の火、あったかい!」ミアは笑い、「熱すぎない火にしてるの。パンを焦がさない火加減と同じだよ」と説明した。


夜、書斎のランプの下でミアは羽根ペンを走らせた。王都へ、姉へ、そして王国の新しい救援庫の担当役へ。火災に備えた水壺の増設、丘の斜面に沿った防火帯の整備、鐘楼の改修に必要な鉄材の輸送。返事は驚くほど早かった。姉からは簡潔な助言と、必要資材の割り振り票。宰相府からの許可証には彼女の名――「ミア・ヴァルシュタイン」の印影が添えられていた。紙の上を指が滑り、ミアはほっと息をついた。王都を遠く離れても、姉の氷の筆致は炎の明かりのそばにあった。


やがて、風の向きが変わった。夏のはしりの熱気が斜面に滞留し、乾いた松針が足音で鳴るような日。昼下がり、丘の上の見張り台から狼煙が上がった。「東の松林、火!」鐘楼の縄が引かれ、鋼の舌が喉を叩く。市場のざわめきが一瞬で静まり、次いで逃げ惑う声、桶を抱えて走る音があたりを満たした。ミアは踵を返し、スカートの裾をひるがえして坂を駆ける。肩越しにバルドゥスの叫びが飛ぶ。「ミア様、危険にございます!」しかし彼女は手を振って振り切った。胸の底で、炎が静かに形を変える。


松林の端に着いたとき、火はすでに低い草むらを舐め、風に煽られて舌を伸ばしていた。焦げた樹皮から立つ煙が目に刺さる。ミアは両手を広げ、吸い込む息で炎の呼吸を合わせた。燃えるものと燃えざるもの、風の渦、斜面の傾き――ひとつずつ数え上げ、炎に名前を与えていく。彼女の掌から薄い焔が生まれ、広がる火の縁に沿って踊った。人々がごくりと唾を飲む。ミアは声を張った。「水は右から! 風下に回らないで、煙を吸わないように! 小さな火を叩かないで、逃げ道を作って!」


炎は言葉を知らないが、手綱は覚える。ミアは火の足首に赤い紐をかけるみたいに、細い焔の環をいくつも置き、行き先を狭めた。「燃えたいならここで燃えなさい」囁く。火は頷くように揺れ、燃料の多い方向へ行くのをよした。彼女は次に土を掴み、熱で乾いた地面に指で線を描いた。そこに焔を通すと、土が焼きしまって灰が細かく崩れ、即席の防火帯ができる。水桶隊がその帯の向こう側に水を撒く。トン、トン、バシャ。鍛冶屋が持ってきた鉄の角材で、小さな倒木を動かす。炎はきゅうと鳴いて後退した。


松の上の方から、ぱち、と火の粉が跳ね、衣の裾に落ちた。「ひっ」と娘が叫ぶ。ミアは振り返り、指先の火でそっと摘むようにそれを消した。「大丈夫。火は怖がると跳ねるの。深呼吸して、目を閉じて。ほら、ほっぺたに手を当てて。あったかいでしょう?」娘は頷き、涙を拭った。「ミア様の火、痛くない」ミアは微笑んだ。「痛くする必要はないもの」


風が一瞬、別の方向から吹いた。炎の尾がくるりと丸まり、逃げ道を探した。ミアは捉えるように片手を前に差し出す。彼女の足元から薄い赤い幕が上がり、空気を柔らかく撫でる。酸素の流れが変わり、火の勢いが鈍る。「いま!」彼女は叫び、水桶隊が狙いを定めて水を投げた。白い蒸気が上がり、林の端に残っていた炎が一つ、二つ、息を引き取るみたいに消えた。


静けさが戻ったとき、ミアは膝に手をつき、肩で息をした。頬に煤がつき、髪に松針が絡んでいる。誰かが歓声を上げ、次々に声が重なっていった。「ミア様だ!」「助かった!」「火が、言うことをきいてた!」バルドゥスが駆け寄り、彼女の肩に外套をかける。「お怪我は」ミアは首を振った。「平気」


そのとき、焦げた斜面の上から、別の気配が降りてきた。鼻を刺す異臭。樹皮に塗られた油。ミアは目を細めた。焼け跡の奥、岩陰に、黒い壺がいくつか転がっている。蓋は焦げ、縁には固まった黒い滲み。彼女は手を伸ばして壺を傾け、わずかな残り香を嗅いだ。松脂だけではない。獣の油、松脂、割れた葡萄籠――火を速く走らせるための混合物。故意に、火は仕掛けられていたのだ。


「誰が」バルドゥスが低く唸った。ミアは深く息を吸い、燻る灰の中に深い足跡を見つけた。「見張り台の方へ。軽い革靴。背は高くない。走り慣れてる」彼女は足跡を辿り、石垣の陰で肩を縮める影を見つけた。十五かそこらの若者。手には油の染みた布。目が合うと、若者は逃げ出した。ミアは追わなかった。手のひらに焔をひとつ灯し、夜に呼びかけるように掲げた。「止まりなさい。あなたは、誰に命じられたの」


若者はしばらく揺れ、やがて膝から崩れた。「……領主代理の……セドリック様に」セドリック。父の留守を預かったことのある古い家臣だ。ミアの背中にひやりとした風が走る。若者は続けた。「『王都帰りの姫さんは派手好きだから、火事でもあれば目立つだろう』って……。火消しに失敗すれば、それもまた、都落ちの姫の恥だって」言葉は震えていた。彼の頬には煤と涙。ミアは火を消し、そっと彼の手から布を取り上げた。


「あなたの名は」

「エディ」

「エディ、あなたは炎を見たことはあった? 近くで、長く」

「……ない、です」

「なら今、見たわね。火は人を焼きもするし、照らしもする。あなたはどちらにしようとしたの」

エディは唇を噛み、「……照らしたかった」と呟いた。ミアは頷いた。「照らすように命じた人のために?」

「……はい」

「なら、照らす相手を間違えないで。闇に目が慣れていない人は、強い光で目を潰すの」


ミアはバルドゥスに命じ、エディを粗縄で縛るかわりに、村の広場へ連れていかせた。そこで彼女は人々を集め、焼け跡の黒い壺を見せた。「これは誰かが仕掛けた火です」と静かに告げる。ざわめきが広がる。「誰が」「なぜ」ミアはエディの肩に手を置き、「彼は話してくれた」とだけ言った。名指しはしない。証拠はある。けれど、裁きは明日の朝、王都の監察官が到着してから――ミアは宰相府に飛脚を出し、王国の法の下でことを運ぶ段取りを瞬く間に整えた。怒りに燃える農夫が前に出かけた時、ミアは一歩でその前に立った。「復讐の火は、家を焼くの。あなたの家を、ね」彼女の声はやわらかいのに、火傷の跡のように強く残った。


夜になれば、松林の黒は星の粉でまぶされた。ミアは館のバルコニーで葡萄酒の入った小杯を両手で包み、姉へ手紙を書いた。「火は消した。ここには、灯すべき火がたくさんある」返事は翌々日に届いた。「よくやったわ。防火帯の設計図を同封する。村ごとに火の見回りを作るなら、役人の印が要る。書式は三枚目。――それから、あなたが人を守ったという噂は王都にも届いた。誇りに思う」銀糸の文字がランプの光を跳ね返し、ミアの胸に明かりを増やした。


それからの日々、彼女は炎の使い方を村ごとに教えて歩いた。パン窯で焦げつかせない火加減、夜番の焚き火の組み方、炉の煤払いに火を走らせる方法。子どもたちは真似をして小さな火を手のひらに浮かべ、消す練習をする。大人たちは笑いながら眉をひそめた。「火はおっかないもんだ」「でも、ミア様の火はおっかなくないや」笑い声に、ミアは耳を澄ませた。火が人の言葉を学んでいくみたいに、村が火の言葉を学ぶ。防火帯は斜面に白い傷のように延び、鐘楼の縄は新しく撚り直され、各家の軒先には水の入った壺がひっそり常備された。


父は最初、彼女の活動を遠巻きに見ていた。王都での栄光の影で、彼自身の名が廊下で薄くなるのを恐れ、言葉少なに食卓を囲む。ある夜、父は葡萄酒を傾けながら、ぽつりと言った。「……王都の噂は耳に入っている。お前の姉は、王に近いところで重きをなしているそうだな」ミアは頷いた。「お姉さまは、氷よりも静かな人。氷は静かに、でも深く流れるの。王都は彼女にちょうど良いわ」父は杯の縁を見つめ、「お前は」と問う。「わたしは――」ミアは微笑んだ。「ここが好き。火の匂いがするもの」父はしばらく黙り、やがて視線を逸らした。彼の肩は少しだけ落ち、威厳の置き場所を探しているようだった。ミアは気づかないふりをして、葡萄の皿を差し出した。


母は時折、彼女の髪のほこりを払う。「日焼けするわよ」と苦笑し、「でも、あなた、王都にいた頃よりよく食べるようになった」と目を細めた。ミアは頷き、「ここではパンがよく膨らむの。火が知ってるから」と答える。母はふと庭の噴水を見やり、「あの水圧がね、最近弱くって」と呟く。ミアは翌朝、噴水の配管を確認し、管の曲がりに詰まった石灰を火で温めて剥がし、流れを良くした。水は勢いを取り戻し、陽の光を光の欠片に砕いた。母は小さく手を打った。「まあ」その声に、ミアの胸の奥が温かくひらいた。


やがて、王都から監察官が到着し、セドリックは取り調べを受け、領内の権限を剥奪された。彼は最後まで自らの正しさを主張したが、エディの証言と黒い壺、松脂の買い付け記録が静かに彼を追い詰めた。「姫のためを思ってやった」と叫ぶ声に、村人たちは眉をひそめる。「だれのためでもない」「俺たちの畑が焼けるところだった」と鍛冶屋は言った。ミアは群衆の間から一歩出て、監察官に向かって言った。「罰は法に。再発防止はわたしたちに」監察官は頷き、判決文に署名をした。彼の瞳は、若い炎を映していた。


季節は少し進み、葡萄の葉は濃く、風は熱を重ねた。ミアは「赤焔隊」と刺繍した布を掲げ、小さな消防団を作った。村ごとに合図の笛を配り、夜番の駆け足の順番表を描き、子どもの班長を任命した。彼女の炎は訓練の合図として夜空に小さな円を描き、遠く離れた畑からも見える印となった。赤焔隊の初めての集合訓練の日、父は遠くからそれを見ていた。バルドゥスがそっと言った。「旦那様、あの子は、ここで『領主』をやっております」父は一瞬唇を結び、やがて肩を落とした。その顔は、敗者ではなく、誰かに後れを取った者の悔しさと、同時にどこか安堵の色を帯びていた。


ある夜、村の広場に人々が集い、「灯火の夜」を催すことになった。焼け跡の松林の端に灯籠が並び、子どもたちが用意した紙の星が糸で吊るされる。パン屋は甘い菓子を並べ、葡萄農家は薄く冷やした若い葡萄酒を振る舞った。ミアは広場の中央に立ち、掌を上に向けた。誰もが息を潜める。彼女の手のひらに小さな焔が生まれ、やさしい光が顔を照らす。ミアはそれを一つ、人の輪の中に放る。焔は小鳥のようにひらひら降り、灯籠の芯に触れて燃え移った。次の焔を放る。輪が大きくなり、広場の全ての灯籠に火が入る。「見て、星が降りてきたみたいだ」子どもが囁く。ミアは笑い、「星は火の兄弟なの」と言った。


そのとき、広場の片隅で母の姿が見えた。母は手に小さな灯籠を持ち、そっとそれを掲げた。父は一歩遅れて現れ、言葉に詰まりながらも灯籠の取っ手を支えた。二人の灯籠の灯りが重なり、少し揺れ、やがて落ち着いた。ミアはそれを見て、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。過去は消えない。けれど、灯りは重なれる。火は、寄り添えば燃え方を変える。


夜が更け、灯籠がひとつずつ息を細くしていく頃、遠くから早馬が駆けてきた。王都からの飛脚だ。封蝋の刻印は王家の紋章と、見慣れた筆致を併せ持つ。ミアは封を切り、目を走らせた。姉からだった。《王都に、あなたの灯が見えた気がした。こちらの空にも、同じ光が瞬いたわ。防火帯の整備が見事だと報告を受けた。あなたのやり方は正しい。民が火を学ぶなら、国は強くなる。――もう一つ。王都の孤児院に、あなたの名で新しい窯を。パンを焼く火は、心も膨らませるから》ミアは笑い、ほろりと涙をこぼした。炎の涙。指先で受け止めると、熱は痛くなかった。


翌朝、ミアは父の書斎に入り、机の上に数枚の紙を置いた。「領税の見直し案、です」父は目を瞬かせ、紙を手に取った。数字が並び、季節ごとの収穫と照らし合わせた率の調整、非常時のための共同備蓄、火事で被害を受けた家への免税の条件――彼女の字は丸くとも、内容は揺るがなかった。父は紙から目を上げ、「誰が、これを」と問う。「わたし」とミアは答えた。「でも、考え方はお姉さまから教わったの。氷の上に薪を置くみたいに、冷たい計算の上で火を焚くの」父は長く息を吐いた。「……お前たちは、わしの知らぬ場所へ行ってしまったのだな」ミアは首を振った。「違うよ。お父さまがこの場所を守っていたから、わたしたちは行ける場所が増えたの。ありがとう」その言葉に、父の喉がひくついた。彼はそっと、紙の端を撫でた。そして印章を取り出し、案の一枚目に押した。乾いた蝋が音を立てて固まる。彼の頬が少しだけ軽くなったように見えた。


季節は巡る。赤焔隊の訓練は村の祭りみたいに定着し、子どもの成長と一緒に笛の音が高くなった。火の見張りの番小屋には、子どもがこっそり描いた「ミア様の火」の絵が貼られている。大きな丸に小さな笑顔。絵の端には、ぎこちない字が並ぶ。「いたくないひ」。ミアはそれを見るたび、胸の奥に柔らかな火床を増やした。


ある午後、王都からの貴族の使いがやって来た。新しい舞踏会の招待状だ。ミアはそれを受け取り、封を開けずに机の引き出しにそっとしまった。バルドゥスが「お返事はいかがいたしましょう」と問う。ミアは窓の外の丘を見た。葡萄の葉が揺れ、遠くの防火帯が白く横たわる。「お姉さまに伝えて。王都の火は、あなたに任せるって。わたしは――」彼女は手のひらに小さな火を灯した。「ここを灯す」


その夜、丘の上で風が鳴った。ミアはひとりで松林へ歩いた。焼け跡は新しい芽を吹き、黒い土の間から明るい緑が顔を出している。彼女は膝をつき、土に手を当てた。冷たく湿った感触。火で焼かれた場所は、時が経てば、草が生え、花が咲く。火は破壊だけではない。焔は、種の殻を割って、新しい芽を起こすこともある。ミアは掌の火を土に近づけ、そっと吹き消した。煙が細く上がり、空に溶けた。


翌日、村の小学校で授業をした。「火の授業」だ。ミアは子どもたちに言った。「火は、こわい。だから、友だちになろう。友だちの好きなことと嫌いなことを知るの」子どもたちが目を輝かせる。「火は何が好き?」「空気!」「木!」「お肉!」笑い声が弾ける。「じゃあ、火が嫌いなものは?」「水!」「土!」「ミア様の『やめなさい』!」また笑い。ミアは笑いながら頷く。「そう。火は『やめなさい』って言われるのが嫌い。でも、友だちなら、やめてもらえるの」彼女は小さな火を浮かべ、子どもたちに順番に消してもらった。指先で、息で、手のひらで。消えるたび、拍手が起きる。火は、怖さを減らしていった。


夕暮れ、葡萄棚の下で母がミアの髪に葡萄の葉かんむりを載せた。「よく似合うわ」ミアは照れて、少し俯いた。「お母さま、王都からの招待状、来てた」母の手が一瞬止まり、「行きたい?」と問う。ミアは首を横に振った。「今は、ここが好き。お姉さまとは手紙で話せるし、いつでも会いに行ける。ここでは、わたしの火が『誰かの晩ご飯』になってるの。王都では『誰かの拍手』になるの。どっちも嬉しいけど、今は晩ご飯のほうがいいの」母は笑って、彼女の頬に口づけた。「あなたは、強くなったのね」ミアは肩をすくめた。「強いのは、火だよ。わたしは火の友だち」


その夜更け、机に向かったミアは、姉への手紙の最後に小さな焔の絵を描いた。丸い輪に、三本の短い線。「わたしの近くにいてね」という合図。翌朝届いた返事には、氷の結晶の絵が描かれていた。六つの角がきちんと揃い、中心がふんわり白い。「もちろん」という印。二つの絵は並べて貼られ、机の上で朝の光を受けた。


時間は、火のようにときに早く、ときにゆっくり流れた。秋が来る。葡萄の匂いは甘く深くなり、パンの窯は忙しくなり、夜の焚き火の周りから歌が生まれた。ミアは焚き火の前で膝を抱え、火が吐く小さな言葉を聞いた。火は言う。「わたしは君を焼かない。君がわたしを信じるなら」ミアは答えた。「わたしはあなたを信じる。あなたはわたしを照らして」火は喜んだ。ぱち、と小さく跳ねて、星のような火花をひとつ空に送った。


ある晩、父が広場に現れた。彼はぎこちない歩幅で人々の輪に入り、焚き火の向こう側から娘を見た。バルドゥスが横にいた。「旦那様、ミア様は、ここで王女様をやっておいでです」父は鼻で笑うふりをして、目頭を指で押さえた。焚き火の光が彼の横顔を赤く染める。ミアは気づいたが、見ないふりをした。火は、人に恥をかかせない。


冬のはじめ、王都から改めて招請が来た。宮廷の大きな舞踏会。新しい政策の祝宴。ミアは封を切り、文面を読み、しばし考えた。彼女は返事を書いた。「ご招待に感謝いたします。わたしはこの冬、故郷の火と踊ります。春になったら、王都の火とも踊りましょう」宰相は笑ったに違いない。姉は微笑んだに違いない。バルドゥスは、執事らしく完璧な筆記で返送の手配を整えた。


雪のない冬の夜、ミアは防火帯を歩いた。白い帯は月光を反射し、丘を縫う銀の蛇のようだ。彼女は吐く息の白を見て、片手を差し出し、小さな火を灯した。火と月が並んで歩く。遠く王都の方向に、彼女は手を振った。氷の結晶が、きっと窓辺で頬杖をついている。火の丸が、きっと氷の角と重なって、見えないところで新しい形を作る。火は氷で囲えば暴れない。氷は火がそばにいれば孤独でない。姉と自分がそうであるように。


館に戻ると、母が暖炉の前で眠っていた。父は机に突っ伏し、手には判を押した新しい指示書。赤焔隊への補助金の承認、鐘楼の修理費の支払い、葡萄棚の防火設備の工事承認。彼の筆跡は固く、ところどころ震えているが、どれも確かな線を描いていた。ミアは毛布をそっと彼の背にかけ、暖炉に小さな薪を足した。火はふわりと膨らみ、木目の隙間から甘い匂いを吐いた。母の寝息は静かで、館は初めて本当に暖かかった。


ミアは窓辺に立ち、外の闇を見た。闇は、火があるから闇になる。光がなければ、闇はただの世界だ。火を灯して、初めて闇は輪郭を持つ。彼女は掌に火を呼び、「おはよう」と言った。火は「おやすみ」と返した。彼女は笑い、火を消した。


翌朝、子どもたちが広場で走り回り、「ミア様、きのうの月、見た?」と頬を真っ赤にして尋ねた。「見たよ。月は氷の姉、星は火の妹。二人はいつも空でいっしょ」ミアは膝をついて目線を合わせ、そう言った。子どもは目を丸くし、「けんかしない?」と聞く。「するよ。でも、仲直りするの。たまに手紙で」子どもは満足そうに頷いた。


王都の尖塔は、いまは見えない。けれど、ミアの胸にはいつも、銀の筆致の手紙の気配がある。火は風に揺れるけれど、消えない。消さない。消させない。彼女は今日も赤焔隊の笛の音で朝を始め、パン窯の火を見て回り、防火帯の白い道を歩く。たまに、丘の上で片手を高く上げ、見えない王都に向かって小さな円を描く。そこに、たしかに返事が来るのを、彼女は知っている。氷の光の、透明な返事が。


炎の令嬢は、燃え尽きることをやめた。灯ることを選んだ。灯りは移ろい、形を変え、誰かの晩ご飯を膨らませ、誰かの涙を乾かし、誰かの眠りを守る。王都に戻る日が来れば、彼女は戻るだろう。けれどその時には、彼女の手に、故郷の火がひとつ余分に灯っているはずだ。火は持ち運べる。心の中で。掌の中で。手紙の端に描いた小さな丸のように。


風がやみ、丘の葡萄棚の間を猫が走った。ミアは笑い、手を振った。猫は一瞬だけ立ち止まり、しっぽをぴんと立てた。小さな灯籠のように。空は低く、広い。焚き火の煙は薄く、まっすぐにのぼる。遠くで鐘が鳴り、近くで誰かがパンを切る音がする。ミアは歩き出した。火の友だちとして。故郷の守り手として。姉の妹として。そして、王国のどこででも灯せる炎として。

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