第十章 “美月”
昼下がりのオフィス。
窓の外には夏の陽射しが白く滲み、冷房の低い唸りが室内を満たしている。
元児はモニターの前で、送信寸前のメールを見つめていた。
──〈お世話になっております。出演編成についてご連絡です。
ギター2本編成で出演します。ボーカルは私が担当します。よろしくお願いいたします。〉
文章を見直し、ため息まじりに送信ボタンを押す。
すぐに、高梨からの返信が届いた。
──〈ありがとうございます!フライヤー、今日の夕方にはPDFでお送りしますね!〉
いつもながら軽やかで丁寧な文面だ。
お調子者に見えて、礼節の感覚は意外とまともかもしれない。
元児はコーヒー片手に、休憩スペースへと向かった。
テーブルの端、美月がひとりで座っていた。
紙カップのコーヒーを両手で包みながら、スマホを見つめている。
「おつかれ」と声をかけると、彼女はふわりと顔を上げ、控えめに笑った。
高梨への連絡は済んだかと尋ねられ、「さっきした」と答える。
夕方にはフライヤーが届くはずだと彼女は言い、「すごい出来ですよ」と意味ありげに付け加える。
「……すごいって、良い意味?」と訊くと、口元だけで笑い、「見てから判断してください」と、少し悪戯めいた表情を見せた。
元児はこれから公開されるはずのフライヤーのデザインを、美月が先に知っていることを突いてやりたい衝動に駆られたが、藪蛇になると思いあえてそこには触れなかった。
そして話題は、彼女自身の出演に移る。
大学時代のジャズ研の同期と組むことになったらしい。
中高は軽音でギターを弾いていたが、上達せず、大学で初めてコントラバスを抱いたとき、その重みと低音が不思議なほど肌に馴染んだという。
「……それは初耳だね」
「ですよね。別に隠してたわけじゃないんですけど」
「まあ、話す機会もなかったしね」
「ですね……木場さん、意外とちゃんと聞いてくれるんですね」
氷が音もなく溶けるように、以前の硬さは消えていた。
美月は「じゃ、戻ります」と席を立ち、細い影を残して去っていった。
入れ替わるように先輩社員が現れ、元児を見るなり、ニヤニヤした顔で言う。
「おー、木場。最近あれだな、西原ちゃんと仲良いじゃん?」
「……違いますよ。仕事の話してただけです」
「へぇ〜。ま、いいじゃん別に。高梨さんより俺はお前を推すよ?社内恋愛、歓迎派だから」
(……死ね。クソ豚)
心の中で、そんな事を思いながらも
「本当にそういうのじゃないですから。やめてくださいね。」
と苦笑いしながらその場を去り、紙コップをゴミ箱に捨て、自席に戻った。
夕方、高梨からメールが届いた。
件名にはやたらと明るい感嘆符が並び、添付ファイルのサイズがずしりと目に入る。
──〈お待たせしました! イベントフライヤーのPDFです。初稿ですが、確認お願いします!〉
マウスを動かし、添付を開く。
画面いっぱいに飛び込んできたのは、筆記体のロゴ。背景にはギターの写真。ありきたりなテンプレの組み合わせ。
イベントタイトルは〈YOTSUYA MUSIC LOVERS〉
──ダセぇ……
下にスクロールすると、出演者一覧。
──〈木場元児バンド〉
勝手に名付けられていた。
もちろん、バンド名なんて出していなかったが……せめてもうひと工夫あってもよかったのではないか。
そして──もっとも目を引いたのは、開催場所。
──〈四ツ谷 Wild Horse〉
画面を閉じると同時に、こめかみを押さえた。
あそこは、哲太の店だ。
mocbaの解散後、哲太はバックバンドのサポート業を続けながら、ライブハウスのスタッフとして現場経験を積み、二年前──四ツ谷に「Wild Horse」をオープンさせた。
もちろん、元児も陽介もそのことは知っていた。
本意ではないにせよ、自分の出演が間接的に哲太へ伝わるのは、どうにも気が重い。
何かとてつもない不義理をしているような感覚だ。
元児はスマホを掴み屋上の喫煙所に向かった。
哲太の番号を呼び出すと、呼び出し音が数回、間を置いて鳴ったのち――
「おお、元児!? 懐かしいのう。何年ぶりじゃ?」
「あ、ああ……えっとさ……」
「言わんでも分かるわ。イベントのことじゃろ?」
「……ああ。ごめん。会場がお前の店って、さっき知って……」
「ええよええよ。あのダセぇフライヤー見たけぇ。まさか、おまえの名前見るとは思わんかった」
「会社の付き合いで出るだけなんだ。mocbaの曲はやらない。……陽介とは、一応約束があるから……一緒に出る事にしたよ」
「ふふっ。まあ、mocbaじゃないんはちぃと残念じゃけど……でも、おまえのステージがうちの店で見られるんは、めっちゃ嬉しいけえな」
岡山弁まじりの口調が懐かしくて、元児は少し笑った。
「……ありがと」
「なに言いよん。楽しみにしとるけえ、しっかり弾けよー」
電話を切ると、しばらく無言で天井を見上げた。時間の感覚が、ひどく揺れる。
夜。
元児は陽介の家を訪ねた。
たけしはすでに寝ていて、リビングには三人だけ。
「……哲太のとこだった。会場」
「マジ? Wild Horse? 楽しそうだな、それ」
陽介は、素直に嬉しそうに言った。
隣で早苗が瓶ビールを手に取り、静かにグラスへ注ぐ。
続けて、少し困ったように話を切り出す。
来週からしばらく出張続きで、当日は空けているが、リハの時間があまり取れそうにないという。
「そうか。こっちも仕事が詰まっててさ。……じゃ、リハなしでいこう」
そう元児が答えると、陽介は目を丸くして笑いながら言った。
「マジで? ぶっつけ本番?」
「曲は決まってるし、俺はコードじゃかじゃか弾くだけだしな。……なんかアレンジ、考えといてよ」
陽介は小さく笑い、瓶を傾けた。
「了解。十年もお前とやってきたんだ。そういうの慣れっこだよ」
乾杯の音もなく、三人の夜は静かに続いていった。
それから二日後のことだった。
元児が抱えていた案件で、トラブルが発生した。
取引先は中堅の製薬会社。
その企業が全国に配布している製品カタログに、致命的な誤表記が見つかったのだ。
印刷はすでに終わり、全国の営業所や代理店に出荷済み。
元児はクライアントと連絡を取り、すぐさま回収、修正、再印刷、再納品の段取りに追われた。
現場はてんやわんやの修羅場となり、会社が被る損害額は三百万を超えた。
もちろん、元児ひとりの責任ではない。
原稿チェックには先方の目も入っているし、社内でも校正・制作・進行と複数のチェックが通っている。
だが、それでも責任を免れることはできない。
とくに印刷物の現場には、長年に渡って人々の背筋を凍らせてきた、ある悪魔のような現象がある。
──“先祖返り”だ。
修正のやりとりが重なり、データが何世代にも渡って増殖していくうち、
誤って古いデータに修正を加えてしまうという事故。
つまり、せっかく一度正しく直したはずの箇所が、ふたたび誤った状態に戻ってしまうという、まるで呪いのような事態。
今回も、それが原因だった。
修正は正しく反映されていた。しかし、最終的に印刷されたのは、一部が修正前の古いデータだった。
最終PDFは確認している。先方も、社内も。
それでも──その言い分は、どこにも通らない。
この業界において、印刷ミスとは常に「落としどころのない犯人探し」だ。
どれだけ理屈を並べようと、最終的には「印刷を手配した側の責任」という結論に落ち着くのが常だった。
そもそも、元々支給された原稿は誤字だらけだった。
単位のミス、品番の誤記、表記揺れ。
本来なら製薬会社が社内でチェックするべきものを、こちらが根気強く拾い、修正し、体裁を整えた。
そこには、感謝の一言もない。
そんなのは「当然」であり、「プロならやって当たり前」だと言わんばかりの態度。
だが、こちらがたった一文字でも間違えれば──
そのときだけは、まるで鬼の首でも取ったかのように声を荒げ、メールが飛び交い、責任が押しつけられる。
そして、それは社内も同じだった。
普段は何の進捗共有も求めてこず、案件のフォローにも入らない上司たちが、
ひとたびトラブルが起きれば、「報告がなかったからこうなった」と、後出しで正論の皮をかぶった責任転嫁を始める。
元児は一人、沈黙のなかで顔をしかめた。
──勝手な事ばっか……どいつもこいつも、うるせえんだよ。
口には出さず、心の奥でつぶやく。
三日三晩、案件の後処理と社内対応と報告書の作成に追われながら、ライブのことなど、頭の片隅にすら浮かばなかった。
営業もディレクターもデザイナーも、誰もいない。
フロアに残っていたのは、元児、ひとりだけだった。
照明の落ちたオフィスの隅で、PCの明かりに顔を照らしながら、
元児は沈むようにキーボードを打っていた。
ひとことも発さず、背中には諦めと疲労と、少しの怒りがこびりついていた。
そんなときだった。
カツン、とヒールの音がして、美月が現れた。
元児はその姿に気づいても、顔を上げなかった。
口をひらいたのは、彼女が隣の席に腰を下ろしたときだ。
「……なに?」
声に刺が混じっていた。
自分でもわかっていたが、抑えきれなかった。
「ああ、事故ったよ」
タイピングの手を止めずに言う。
「あんたの言う通りだって言いてぇんだろ。うん。やっぱ西原さん正しいよ。俺はこの程度のやつだよ」
美月は返事をせず、黙ってノートPCを開く。
画面が起動するまでの無音が、逆に元児の胸をざわつかせた。
「顛末書、私がまとめます。資料送ってください」
「……は?」
さすがに元児は顔を上げた。
「なんで? この案件、西原さんに関係ないじゃん」
「一緒に動いてる案件もありますし。一応ペアなので、お互いの案件の把握は当然です。この件、全く見れてなくて……すみませんでした」
その声は硬かったが、どこか申し訳なさそうでもあった。
元児は苦笑した。
「いや……俺だって、西原さんの単独案件なんか知らないし。……本当にいいよ。これは俺の責任だから。もう帰ってよ」
「……やらせてください」
声は低く、意志は固かった。
「いいって……」
「やります」
「いいって!」
元児の声が、オフィスの静けさを破った。彼は額を押さえながら吐き出した。
「あのさ……俺を気遣ってくれて、あんたはそれで満足かもしれないけど……頼んでねぇよ。行き過ぎた気遣いは、迷惑にしかなんねぇんだよ……」
「やらせてって言ってるでしょ!」
元児の言葉を遮って、美月が突然声を荒げる。
ヒステリックなまでに、まっすぐに、怒鳴るようなトーンだった。
「……はやく資料、送ってくださいよ……」
言い終わった彼女の目には、少しだけ涙が浮かんでいるようにも見えた。
それが何の感情によるものか──怒りか、悔しさか、あるいは別の何かか──元児にはわからなかった。
元児はゆっくりと視線を逸らし、ファイルを添付して送信ボタンを押した。
再び、キーボードの音だけが戻ってくる。
やがて、美月が小さく息を吐いて、ぽつりと呟いた。
「……ずっと、木場さんのこと軽蔑してたんです」
元児の指が止まる。
「過去から逃げて、全部捨てたふりして……
人のことも、社会のことも、ちょっと見下してるように見えたから」
元児は言葉もなく、ただ静かに聞いていた。
「でも最近、少しずつわかってきたんです。
木場さんと私じゃ、音楽に向き合ってきた時間も、熱量も、何もかも違うんだなって。……そこはちゃんと認めなきゃって」
美月は、握った自分の指先を見つめていた。
声は淡々としていたが、その奥には、確かな誠意があった。
「それでも……何も始めないから、何も終われない。
……私には、そう見えて……」
再び、元児は黙った。
「だから……あのイベント、声かけたんです。
一回、ちゃんとケジメつけたほうがいいんじゃないかって」
元児の心に、ひとつの記憶がよぎる。
──あいつも、同じようなことを言ってたな。
──いつかの陽介の声が、ふと耳の奥に浮かんだ。
「私はこれからも、この会社で木場さんと仕事したいです」
美月はまっすぐに、そう言った。
「だから……こんなことでまた、会社からも社会からも、背を向けてほしくないんです」
静かなフロア。
ふたりの間にはもう、言葉以上のものが流れていた。
わずかに風が抜けるような音が、空調から聞こえる。
元児は目を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。
けれど、やがて少しだけ口元を緩め、ぽつりと呟いた。
「……うん。……ありがとう」
それは、わずかに掠れた、でも確かな一言だった。
第十章 “美月” 完