表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/17

プロローグ

 ラックの片隅に置かれた三枚のCD。

──それが、彼の人生のすべてだった。


 東京都足立区梅島。都心から程よく離れた街に佇む、ワンルームアパートの一室。


 ドアを開けて部屋に入った男の視線は、無意識のうちにそこへ向かう。


 埃をかぶったプラスチックケースが三枚、わずかに傾きながらラックに並んでいる。


 もう何年も聴いていない。聴く気にもなれない。

 けれど、捨てる理由もなかった。


 右手には、郵便受けから取り出したままの封筒。

 テレビCMで見慣れた、消費者金融のロゴ。

 宛名には「木場元児きばがんじ 様」。


 死んだ目で笑う宇宙人のキャラクターを一瞥し、

「わかってるよ、うっせぇな……」

 そう吐き捨てると、封も切らずにゴミ箱へ放り込む。


 時計の針が、カチッと音を立てたのを合図に、今日が静かに終わった。


 ソファへ向かい、重たい音を立てて腰を落とす。

 引きちぎるようにネクタイを外し、床へ乱雑に放る。


 スマートフォンのランダム再生が選んだのは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「ゲット・アップ・ルーシー」。

 乾いたドラムが鳴り、歪んだギターが追いかけてくる。


 イントロだけで、かつての残像が無遠慮に脳裏をかすめた。


 ラッキーストライクに火を点け、深く吸い込み、天井に向かって煙を吐き出す。


 平日という概念の上に、ただぼんやりと乗っかっているだけの空虚な時間。


 ふと、何かを思い出したように、バッグからノートPCを取り出し、慌ただしくキーボードを叩き始める。


「大変遅くなり申し訳ございません。本日の打ち合わせ資料を添付致します。ご確認お願い致します。引き続き宜しくお願い致します。」


 「〜致します。」の多さに、この男の程度が滲み出ている。


 送信ボタン押し終えると、深いため息をひとつ吐き、シャットダウンの手順も踏まずに、電源ボタンを無造作に長押しした。

 画面が暗転していくあいだ、その指先をぼんやりと見つめていた。


 思えば、三十七年間──何かを「やってきた」と言えるようなことなんてあっただろうか。

 九年前にすべてを投げ捨て、藁をも掴む思いでありついた今の生活。毒にも薬にもならない毎日。


 残ったのは、持ち前の卑屈さと、目障りな自尊心。それから“負債”という名の遺物だけ。


 傷付きたくなければ、“鈍感”でいればいい。

 気付いてほしければ、“貪欲”でいなければならない。


 その二者択一のあいだを、人はいつだって無自覚に右往左往している。

 そのおぼつかない足元こそが、社会や日々を絶妙にやり過ごすために、必要なバランス感なのだ。


 そして、どちらからも背を向けた人間は、誰かの“ありふれた日常”の中で、ひっそりと息をすることしかできない。


 連鎖する思考の渦を断ち切るように、発泡酒のプルタブを引く。

 プシュッという音が響き、一気に喉に流し込む。苦味だけが舌に残った。


 二本目を取りに立ち上がろうとした、その刹那。

 ランダム再生の音楽を遮るように、スマートフォンが着信音を鳴らした。


 画面に浮かんだ『坂本陽介』という四文字に、元児は眉をひそめた。

 あの頃、隣でギターを弾いていた男だ。

 

 着信に応じると、相変わらずの明るい声が耳に飛び込んできた。


「元児? 遅くにごめんな。今、大丈夫?」


「……まあ、うん。なに? こんな時間に珍しいな」


 最初の二、三分は、とくに当たり障りのない会話が続いた。鼻にかける様子はないが、聞けば今月からマネージメント職に就き、なにかとバタバタしているらしい。


「アパレルだっけ? お前も大変なんだな。早く寝ろよ」


「まあ、別に……自分で選んだし……心配してくれてありがとうな。」


してねぇよ──


 この陽介という男は、本当にどこまでも嫌味がない上に、皮肉も通用しない。清廉無垢ともいえるが、ある意味“鈍感”でもある。


「で、本題なんだけどさ。日曜日、空いてる? 息子の誕生日なんだよ。五歳になるんだけどさ、ちょっとしたホームパーティーやるから、良かったら来てよ」


 思わず口をつぐむ。

 心のどこかで、「そうきたか」──と思っていた。


 家族。子ども。ホームパーティー。

 言葉のひとつひとつが、自分の暮らしとはかけ離れた世界の響きをしていた。


 頭が痛い。

 充実した生活を送る陽介と、さして浮き沈みもないまま、なんとなく毎日をやり過ごす自分。

 その差をまざまざと見せつけられるようで、自らの薄っぺらさに辟易してしまうからだ。


 もし相手が明確な悪意でも持ち合わせてくれていれば、冷たく断る理由にもなる。

 だが陽介は、そうじゃない。昔から変わらず“いい奴”だった。

 その言葉に、当てつけや計算といった類のものは一切感じられない。


 だが、光が強ければ、影も濃くなる。

 相手に悪気が無ければないほど、劣等感というのはむしろくっきりと、如実にその輪郭を浮かび上がらせる。


 放っておいた煙草のフィルターがじりじりと焼けていた。

 鼻をつく、焦げた紙の嫌なにおい。


 元児はため息交じりに言った。


「……うん、行くよ。よろしくな……」


 本心とも建前ともつかない声だった。


 電話を切ると、音楽が再び再生され始めた。

 だがもう、それは彼の耳には入ってこない。

プロローグ 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ