プロローグ
ラックの片隅に置かれた三枚のCD。
──それが、彼の人生のすべてだった。
東京都足立区梅島。都心から程よく離れた街に佇む、ワンルームアパートの一室。
ドアを開けて部屋に入った男の視線は、無意識のうちにそこへ向かう。
埃をかぶったプラスチックケースが三枚、わずかに傾きながらラックに並んでいる。
もう何年も聴いていない。聴く気にもなれない。
けれど、捨てる理由もなかった。
右手には、郵便受けから取り出したままの封筒。
テレビCMで見慣れた、消費者金融のロゴ。
宛名には「木場元児 様」。
死んだ目で笑う宇宙人のキャラクターを一瞥し、
「わかってるよ、うっせぇな……」
そう吐き捨てると、封も切らずにゴミ箱へ放り込む。
時計の針が、カチッと音を立てたのを合図に、今日が静かに終わった。
ソファへ向かい、重たい音を立てて腰を落とす。
引きちぎるようにネクタイを外し、床へ乱雑に放る。
スマートフォンのランダム再生が選んだのは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「ゲット・アップ・ルーシー」。
乾いたドラムが鳴り、歪んだギターが追いかけてくる。
イントロだけで、かつての残像が無遠慮に脳裏をかすめた。
ラッキーストライクに火を点け、深く吸い込み、天井に向かって煙を吐き出す。
平日という概念の上に、ただぼんやりと乗っかっているだけの空虚な時間。
ふと、何かを思い出したように、バッグからノートPCを取り出し、慌ただしくキーボードを叩き始める。
「大変遅くなり申し訳ございません。本日の打ち合わせ資料を添付致します。ご確認お願い致します。引き続き宜しくお願い致します。」
「〜致します。」の多さに、この男の程度が滲み出ている。
送信ボタン押し終えると、深いため息をひとつ吐き、シャットダウンの手順も踏まずに、電源ボタンを無造作に長押しした。
画面が暗転していくあいだ、その指先をぼんやりと見つめていた。
思えば、三十七年間──何かを「やってきた」と言えるようなことなんてあっただろうか。
九年前にすべてを投げ捨て、藁をも掴む思いでありついた今の生活。毒にも薬にもならない毎日。
残ったのは、持ち前の卑屈さと、目障りな自尊心。それから“負債”という名の遺物だけ。
傷付きたくなければ、“鈍感”でいればいい。
気付いてほしければ、“貪欲”でいなければならない。
その二者択一のあいだを、人はいつだって無自覚に右往左往している。
そのおぼつかない足元こそが、社会や日々を絶妙にやり過ごすために、必要なバランス感なのだ。
そして、どちらからも背を向けた人間は、誰かの“ありふれた日常”の中で、ひっそりと息をすることしかできない。
連鎖する思考の渦を断ち切るように、発泡酒のプルタブを引く。
プシュッという音が響き、一気に喉に流し込む。苦味だけが舌に残った。
二本目を取りに立ち上がろうとした、その刹那。
ランダム再生の音楽を遮るように、スマートフォンが着信音を鳴らした。
画面に浮かんだ『坂本陽介』という四文字に、元児は眉をひそめた。
あの頃、隣でギターを弾いていた男だ。
着信に応じると、相変わらずの明るい声が耳に飛び込んできた。
「元児? 遅くにごめんな。今、大丈夫?」
「……まあ、うん。なに? こんな時間に珍しいな」
最初の二、三分は、とくに当たり障りのない会話が続いた。鼻にかける様子はないが、聞けば今月からマネージメント職に就き、なにかとバタバタしているらしい。
「アパレルだっけ? お前も大変なんだな。早く寝ろよ」
「まあ、別に……自分で選んだし……心配してくれてありがとうな。」
してねぇよ──
この陽介という男は、本当にどこまでも嫌味がない上に、皮肉も通用しない。清廉無垢ともいえるが、ある意味“鈍感”でもある。
「で、本題なんだけどさ。日曜日、空いてる? 息子の誕生日なんだよ。五歳になるんだけどさ、ちょっとしたホームパーティーやるから、良かったら来てよ」
思わず口をつぐむ。
心のどこかで、「そうきたか」──と思っていた。
家族。子ども。ホームパーティー。
言葉のひとつひとつが、自分の暮らしとはかけ離れた世界の響きをしていた。
頭が痛い。
充実した生活を送る陽介と、さして浮き沈みもないまま、なんとなく毎日をやり過ごす自分。
その差をまざまざと見せつけられるようで、自らの薄っぺらさに辟易してしまうからだ。
もし相手が明確な悪意でも持ち合わせてくれていれば、冷たく断る理由にもなる。
だが陽介は、そうじゃない。昔から変わらず“いい奴”だった。
その言葉に、当てつけや計算といった類のものは一切感じられない。
だが、光が強ければ、影も濃くなる。
相手に悪気が無ければないほど、劣等感というのはむしろくっきりと、如実にその輪郭を浮かび上がらせる。
放っておいた煙草のフィルターがじりじりと焼けていた。
鼻をつく、焦げた紙の嫌なにおい。
元児はため息交じりに言った。
「……うん、行くよ。よろしくな……」
本心とも建前ともつかない声だった。
電話を切ると、音楽が再び再生され始めた。
だがもう、それは彼の耳には入ってこない。
プロローグ 完