硫黄島への赤紙
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1944年冬、東京の下町に住む青年、藤井徹は、戦争にまつわるどこか現実味のない話を聞きながら、父の小さな工場で働いていた。21歳の彼は、戦争という言葉を頭の片隅で認識してはいたが、それが自分の生活にどう関わるのか深く考えたことはなかった。
毎日、機械の油にまみれながら「戦争なんて上の人たちが勝手にやってることだ」と口癖のように言っていた。街には防空壕や避難訓練が増え、国防色に塗られた看板が目に入っても、徹にはそれが現実離れしているように思えた。
しかし、1944年末、徹のもとに「赤紙」が届いた。招集令状は一枚の紙だったが、それが人生のすべてを覆すことになるとは徹も思っていなかった。
「どうして俺なんだ?」
両親に向かって叫ぶ徹の声は、工場の壁に虚しく反響するだけだった。父は「これも国のためだ」と静かに言ったが、母はその場で泣き崩れた。
徹はどこか腹立たしさを抱えながらも、反抗するすべを持たず、上野の駅で出発する列車に乗ることになった。集まった若者たちの顔には不安が浮かび、徹もその中に紛れ込んだ。
徹が送り込まれたのは九州の田舎町にある訓練所だった。到着してすぐ、彼らは軍服を渡され、厳しい訓練に投げ込まれた。銃の扱い方から行軍、そして敵を「刺し殺す」ための白兵戦術まで、上官たちの指導は容赦なかった。
「お前らは天皇陛下のために命を捧げるんだ!」
教官の怒声が飛び交う中、徹は心の中で反発を繰り返した。
(陛下のため?そんなものに命を捧げてどうなる?俺たちが苦しむ間に、偉い人たちは楽をしてるだけじゃないか。)
徹のこうした態度は、周りの仲間たちにも知られていたが、誰も特に咎めなかった。彼と同じように赤紙一枚で戦場に送られた青年たちには、徹の言葉が共感を呼ぶこともあったのだ。
「俺たちがこんな泥まみれになる理由なんてどこにもないさ」と徹が笑うと、誰かが「そうだな」と笑い返す。ただ、それが唯一の慰めだった。
1945年2月、徹は硫黄島へと送られることが決まった。防衛のための最後の拠点として、この小さな島を守ることが命じられた。
船で硫黄島に到着すると、そこはすでに戦場の準備が整えられていた。洞窟を掘り抜いて作られた防衛陣地が広がり、そこに潜り込むようにして徹たちは配属された。
島の空気は重苦しく、海風が吹き込んでいても生温かい。徹は砲弾の音を聞きながら呟いた。
「ここにいても、どうせ死ぬだけだな。」
同じ部隊の兵士たちは、徹のその言葉に何も答えなかったが、誰も反論しなかった。
3月になると、アメリカ軍は本格的な上陸を開始した。海からの砲撃、空からの爆撃、そして続く上陸部隊の侵攻が硫黄島を揺るがした。徹の部隊は地下陣地から機関銃で応戦したが、敵の物量と火力には抗えなかった。
「これが本当に戦争なのか……」
徹は体を震わせながら銃を握っていた。仲間たちが次々と倒れる中、彼もまたいつ死ぬか分からない恐怖に苛まれていた。それでも、敵が目の前に現れれば、撃たざるを得なかった。
そんな中、徹はわずかな休息時間に、日本に残してきた家族への手紙を書き始めた。
「お父さん、お母さん。どうして俺がここにいるのか、未だに分かりません。国のため、陛下のためと言われても、それが本当に正しいことなのか、答えを見つけることができませんでした。ただ、こうして戦場にいる以上、生き延びるしかないんだと思っています。
硫黄島は恐ろしいところです。弾が飛び交い、仲間が次々に倒れていく。俺だって、次はどうなるか分かりません。だけど、家族のことを思えば、少しは頑張ろうと思えます。俺が帰ったときには、また昔みたいに……」
そのとき、洞窟内に敵の手榴弾が投げ込まれた。
「危ない!」
仲間の声が響いた瞬間、爆発音が洞窟を震わせ、徹の体は衝撃で吹き飛ばされた。
徹の書きかけの手紙は、彼の体から流れ出た血で赤く染まっていった。
戦場の喧騒の中、彼が書き残した言葉は無音の中で朽ち果てていく。
そして、硫黄島の戦いは、日本軍の壊滅的な敗北とともに幕を閉じた。徹の手紙は誰にも届くことはなかったが、彼が最後に残した言葉は、静かにその場に留まり続けた。
この手紙が届く日が来るのだろうか……