3-05 闇より暗黒
(退魔してもらわねば……)
「安寿利休、このあたりに陰陽師はいないだろうか」
璃王練皇子がさりげなくそう尋ねると、安寿利休はコテンと首を傾げた。
「陰陽師? さあ?」
「近場に神社や寺はあるだろうか」
「うーん、探せばあるかもしれないけどぉ……」
安寿利休の金色の瞳が、璃王練皇子の顔を覗き込んだ。
「陰陽師や神社やお寺に、何の用?」
「田舎は物の怪が多いと聞く。その道の者たちに挨拶をしておこうかとな……」
「物の怪なんか怖くないわ。もし物の怪が出たら、私がやっつけてあげる」
安寿利休は無邪気な笑顔でそう言うと、璃王練皇子にじゃれつくように体を寄せた。
そのとき。
――ビシッ!
璃王練皇子の胸元で、何かが弾けた音がした。
「……!」
璃王練皇子には、それが何の音なのか直感的に解った。
胸元から聞こえたその音は、胸元に入れている懸守から聞こえたのだ。
(魔除けの玉が……割れた……?)
背筋にぞっと悪寒が走った。
(もしや……? いや、そんな馬鹿な……)
安寿利休が身を寄せて来たら、魔除けの玉が割れた。
そんな気がして、璃王練皇子は急に安寿利休が恐ろしくなった。
愛する乙女であるのに。
(……)
心の蔵が早鐘を打ち始める。
「璃王練、どうしたの?」
「べ、別に……?」
「……ねえ、璃王練、もしかして……」
安寿利休が璃王練皇子の顔を覗き込み、じいーっと凝視した。
「気付いてしまったの?」
安寿利休の金色の瞳がギラリと輝いた。
「……っ!」
「あーあ、気付いてしまったのねぇ。でもどうして解ったの? 祭祀の血筋ってあなどれないわねぇ……」
獣のように爛々と輝く金色の瞳で安寿利休はそう言うと、甘えるようにして璃王練皇子の腕に物凄い力でしがみついた。
(ひぃっ!)
璃王練皇子の全身に怖気が走った。
「璃王練に気付かれないように、少しずつやろうと思ったのだけれど。バレちゃったなら、もう、一気にやっちゃっても良いかしら。ちまちまやるのは面倒なのよね」
「……?!」
(これは安寿利休の妖気か?!)
異様な気配が満ち満ちているのを璃王練皇子は感じた。
それは怖気立つ禍々しき気配で、泥のようにねっとりとして、空気のように辺りに満ちている。
「何って、決まっているじゃない。私たちが幸せに暮らすためよ」
安寿利休は三日月のように微笑むと、その忌まわしき呪文を唱えた。
「闇より暗黒」
真っ黒な暗闇が弾けた。
――丁寧降江の地。
都から遠く離れたそこは貴人の流刑地だが、そこに生きる人々もいる。
海に面しているため漁業が盛んで、平野では農業も行われている。
「な、なんだあれは?!」
「お屋敷のあたりだ!」
丁寧降江の民たちは、異様な光景に驚きの声を上げた。
さる高貴な人が住まうと噂の屋敷の辺りが、まるで大火事でも起こったかのように黒雲を吹き上げていたからだ。
その黒雲は上空にまで届き、まるでそこに地獄の門が開いたかのように渦を巻いていた。
「も、物の怪じゃ!」
「ひいっ!」
黒雲が破裂した。
真っ黒が濁流となり押し寄せる。
丁寧降江の素朴な村々は、すべて深淵の闇に沈んだ。
「……っ!」
璃王練皇子は、畳に横たわっている体勢で目を覚ました。
(麿は、一体……)
ぼんやりした頭で事態を把握しようとしながら、璃王練皇子は半身を起こそうとした。
「あら、璃王練、気付いたのね」
安寿利休が鈴のような声でそう言い、璃王練皇子を覗き込んだ。
「……っ!」
(も、物の怪!)
璃王練皇子は、気を失う直前のことを思い出した。
安寿利休の金色の瞳が、獣のように輝き、凄まじい妖気のようなものが辺りに満ちたのだ。
そして安寿利久が、何やら異国語らしき謎の言葉唱えると、目の前が墨のような真っ黒に覆われた。
覚えているのはそこまでだ。
「あ、安寿利休、そなた……」
璃王練皇子は恐ろしいものを見るようにして安寿利休を見た。
「やっぱり璃王練には私の力が効いていないのね」
安寿利休は憧れてでもいるように熱っぽい眼差しで璃王練を見つめて言った。
「さすがは天津神の末裔、祭祀の血筋だわ。神人の血筋で、珍しい白髪紅目で、絶世の美貌で、本当に璃王練って特別に高貴な皇子様ね」
「そなたは麿をどうする気だ……?」
璃王練皇子が震える声でそう尋ねると、安寿利休ははにかむようにモジモジとしながら、喜びをにじませた微笑みを浮かべた。
「どうって決まっているじゃない。私は璃王練の妻だもの」
安寿利休は照れているかのように俯いて、しかし、ちらりちらりと璃王練皇子に視線を向けて言った。
「私はここで璃王練と一緒に幸せに暮らすの。璃王練だって私のこと愛しているでしょう?」
「そ……」
(これを否定したら、とって食われるかもしれん。ここは恭順を示そう)
「そ、それは、もちろんのこと。麿は安寿利休を愛している」
「私たち相思相愛ね」
「……そ、そうとも。麿たちは相思相愛でおじゃる」
(隙を見て、ここから逃げるしかない……)
「おい、馬を引け」
璃王練皇子は小者にそう命じた。
安寿利休の隙を伺い、璃王練皇子は身一つで逃げることにした。
皇子の嗜みとして乗馬は習ったので、璃王練皇子はそこそこだが馬に乗れる。
「何をしている。早く馬を引け」
「それは叶いませぬ」
小者は璃王練皇子の命令を拒否した。
「……?」
帝の第一皇子として皆に傅かれて育った璃王練皇子は、小者が命令をきかぬという事態が理解できず、首を傾げた。
すると小者が口を開いた。
「璃王練皇子をここから出してはならぬと、安寿利休様のご命令です」
「麿は皇子でおじゃるぞ」
「存じております」
「麿と安寿利休とどちらの身分が上か、そなたには解らぬのか?」
璃王練皇子が小者と押し問答を始めた、そのとき。
「璃王練、逃げようとしても無駄よ!」
風のような素早さで、安寿利休が現れた。
「あ、安寿利休! いや、違うのだ、これは……」
璃王練皇子は慌てて取り繕ったが、安寿利休は獲物に狙いを定めた獣のようなギラギラした目で微笑んだ。
「この屋敷の者たちは私の命令しか聞かないの。外の村人たちもよ。璃王練は逃げることも、外と連絡を取ることも出来ないわ。私がみんなにそう命令しているから」
「そ、そんな……」
(あのときの、あの強大な暗闇は、人の心を惑わす妖術だったのか?!)
「璃王練はここで私と一緒に暮らすの。誰にも邪魔させないわ」
安寿利休は幸福な夢を見ているかのように、うっとりとした表情で言った。
「私、気付いたの。幸せになるためには富も権力もいらないのよ。愛する人がいればそれで幸せなの」
蕩けるような眼差しで、安寿利休は璃王練皇子に身を寄せてその腕にしがみついた。
(ひぅっ!)
不気味な物の怪である安寿利休に密着され、璃王練皇子は全身に怖気が走った。
安寿利休は熱に浮かされたような潤んだ眼差しで凄惨に微笑むと、璃王練皇子に暗黒の未来を語った。
「璃王練は、相思相愛の私と一緒に、ずっとここで幸せに暮らすの。ずっと、ずっと、永遠に……!」




